第2話 序章-後半
世間の賑わいとあまり関係のない煤けたアーケード街オリオン通り。その情け容赦ない十一月のうらぶれた空の下、気怠げな風がアーケード街を通り抜ける。本日休日につき朝寝を決め込み、遅めの昼食を取った後ゆっくりと店を開けた。冬の乾いた風を店内に取り込み埃をはたき落として、店の前を掃き清め一通りの開店準備を終わらせた。そうしてようやく人心地つくとカウンターの座椅子にによっこらせと深々と座り、足下の電気ヒーターをつけ、早朝まで読み続けていたヤン・ポトツキの『サラゴサ手稿』を読み終わらせるべくページをめくった。
この本もまた店で扱っている他の本同様、現在絶版でプレミアム価格のついている本ある。出版されているのは散逸した原作の更に抄訳だが、もうとっくに現存している分については完訳されているとのことであるのだが未だに出版されない。訳者もとっくに亡くなっているというのにもどかしいものだ。何にせよさっさと読み終わらせなければ、商品棚に戻すことも出来ない。どんなに好きな本でもいつかは手放さねばならないのが古書肆というものだ。
さて、客の入りは日によってまちまちで一人も入らず本を読んでいて気が付いていたら真っ暗になっていることもあれば、そこはかとなく忙しくなる事もあった。
オリオン・スクエアで何かしらのイベントがあるときは、暇げな学生何かがふらりと迷い込んで来ることもあったが、一見でこんな奥まった場所の開いているのか開いていないのか定かではない店に入って来る者はそれほど居ない。
春が近くなると数々の人の手を経て究極の一冊と化したという、伝説の参考書を求める入学したて、進級したての学生や、伝説のではなくとも卒業生が引越しの置き土産に売っていった教科書の類を生協で買うよりは安いだろうと漁っていく学生などが集まってくるが。季節のものなのでこういった特にイベントのない時期には学生などはそれほど見かけない。
別段学生しか寄る客がいないというわけでなく、また伝説の教科書等という得体の知れない秘宝だけが目的で来るわけでもないのである。あくまで割合の話だ。
教科書の話ばかりしてしまったが、そんなものは氷山の一角の一隅の更に一欠片に過ぎず、基本的にはその他の書籍の割合の方がもちろん多い。
昔はコミックスを戦後の貸本屋の如く高速回転させて、近所の子供達からなけなしの小遣いをトロール漁船のように巻き上げていたらしいが、チェーン展開している大手中古書店なんかの台頭でそういった小銭稼ぎは今や殆ど無くなってしまった。
しかしながら、毎月読み終わった本を処分にくる常連さんなどもおり、その客層は子供から老人まで老若男女様々である。
世間的には休日とはいえ、今日は暇な日だろうと思い、ちょっとお高い台湾のお茶を入れ「花林糖饅頭」など用意して本格的に読書へ没頭する事にした。予想通りほんのり暗くなっても誰も訪ねては来ず、小腹も空いてきたので夕飯の支度をするついでに今日はもう店仕舞いをしてしまおうと膝に抱えていた達磨を脇によけ、読書を中断し立ち上がりかけた。
テレビからはヴィヴァルディの『カズー笛協奏曲』が流れている。
立ち上がりざまに入口の方を見やると、影がふわりと舞い降りるようにガラス戸に映るのが見えた。なんとはなく客の予想は出来た。店のガラス戸ががらりと音を立てて開く。
「いらっしゃいませ」ゴルディアスの結び目の如くモジャモジャに髪の毛の絡まった頭をかき上げながら気怠げに声をかける。
「まだやっているかね」紐ネクタイに茶色いよれよれのスーツを着込んだ初老の紳士が入って来た。
「日光山先生じゃないですか、お久しぶりです」
「うむ、お前さんの爺様はいないのかね?」
「ええ、相変わらず世界のどこかで何かを探しています。もしかたら『アル・ムターシムを求めて』いるのでは無いでしょうか?」
「それは僥倖、世界のどこかを駆け巡るということは、元気なことに違いない。元気なことはとても良い事だ」
「ええ、ありがとうございます。祖父も先生がいらしてくれて喜んでいることでしょう。早速ですが今日も買い取りで?」
「うむ」この日光山雷電坊なる人物は肩にかけた鞄から一冊の古い和本を取り出した。
「おや、割と早い時代に書かれた『塵劫記』ですか」「うむ、いつも通り支払いは『書痴』で頼む」
カウンターの下から一升瓶を六本一ケースほど取り出す。「本数はこんなもんでいいですかね」
「うむ」
「書痴」とは祖父が名誉警紙総監を務める秘密組織「図書館警察」と言う謎の団体から定期的に送られてくるという幻の高級酒である。
その醸造元は、私の通う高校の生物工学科と食品加工科であるらしい。高根沢にある学校農場から刈り取られた最高級品の酒米「ひとごごち」を使い、日光の名水を用い、図書室に住む特殊な酵母から醸し出されるという。その研ぎ澄まされ軽やかでありながら深みのある飲み口は、仙人の食む霞のごとく五臓六腑にしみわたり程よい酔いをもたらし、呑む者を桃源郷へと誘うという逸品として伝えられている。
しかしながら、その出自については酒税法などに抵触するため謎の謎謎とされていて、詳らかなことは藪の向こうであり、断片的に伝わってくる怪しげな噂でしか分からないが、そんな不思議な来歴を持つ銘酒である。
送り主はこれをどこから手に入れてくるのか?宇都宮中に根を張る図書館警察からその重鎮らしい祖父へと折に触れて送られてくるものである。
大方、一番町にある目加田酒店辺りが元締めとして取り扱っているのであろう。
祖父は酒を嗜むが、あいにく前述の通り一年の大半を海外旅行に費やしているため飲む機会がほとんどなく、袖の下の如く送られてくる酒はたまっていく一方なのである。
そんな酒を届けてくる図書館警察もなんだかよく分からないが、それをこのどこか疲れた風なよくわからない初老の紳士である日光山先生の持ち寄る古書と交換で渡しているのであった。古書の価値はわかっていても酒の価値は飲まずにはわからないので大体相手が文句を言わないであろう本数を勘で渡していたが、今のところそれで外したことはないようである。
酒の話はわからないが幻の地酒として超がつくほどのプレミアムが付いているという話は祖父から聞いていた。
そもそも日光山先生とは何者なのか?それはわからないが私が小さいころからすでに初老の紳士で初めて会った十年以上前から外観が全く変わらないように思える。いつから先生と呼び始めたのかも定かではなかった。
ただ一つ言えることは、真偽の程は定かでは無いものの日光山先生が天狗を自称しているということである。
私が天狗に憧れるのも小さい頃からの先生の刷り込みによる物なのであろうと思う。
さて書痴の一升瓶を六本もどうやって持ち帰るのか見ものだったが、これまた毎度不思議なことに、それほど大きくも無い肩掛け鞄の中にするすると入れていき、鞄は膨れることなく重さも変わった様子もない。手品でも見せられているかのような不思議な光景である。まるで未来の世界の猫型ロボットのポケットがいつの間にか実用化されていたのかと思わされる。
「先生の鞄はいつ見ても不思議だ」
「なに、これは修験道を修め験力を極めた者のみが使える天狗の秘術である」
「前々から気になっていたのですが先生は本当に天狗なのですか?」
「なんだ、気づいておらなんだか。如何にもこの日光山雷電坊は徳川の東照宮建立以来日光を放逐された山伏共の頭目。今となっては日光のお山は人間のものとなり、鹿沼は古峯神社に住まう栃木唯一の雷を司る大天狗である。平出雷電神社の別雷之大神等と違い、栃木全域に雷を落としに落としている雷の権化である」
栞の中で長年疑問だった先生天狗説がはっきりと現実のものとなった。
不確定の話が真実として固着するのは存外こうしたあっさりとした事がきっかけなのかも知れない。
「それは凄い!」傍らに置いた達磨の頭を叩きながら興奮して叫んだ。鞄への収納など不思議なものを見せられていたせいか、そんな突拍子もないその話を素直に受け入れてしまった。
「達磨は好きではない。天狗の持ち物を何でも欲しがる」表情を変えずに日光山先生が呟く。
「先生は大天狗なのに鼻が長くないのですね」
「面相など幾らでも変えられる。それに私は鼻の長くない大天狗なのだ。日光山護法魔王尊とでも呼ぶがよろしい」天狗が鼻を鳴らす。
「私にも天狗の秘術を授けてください」必死で懇願する。
「お前さんには見どころがある。山岳を踏破し山伏の修業を積み修練を積めばきっと秘術が備わるだろう。そもそも山伏にとっては歩くと言う事自体が一種の呪いであり……」
「そのような事はどうでもよろしいのです!即時私に秘術を授けてくださいませ。苦しい修練の無く術の使える弟子にして欲しいと言うのですよ!」
「お前と言う奴はどうしようもない怠惰な女子だな。その齢で厳しい道を歩む事無く目的の秘術を授かろうと言うのか!」先生が呆れたように叫ぶ。
「現代っ子なのですよ、効率の良い方法があるのであればそれに越した事は無い。乙女の命は短いのです」
「何が乙女か!このたわけ!」
「無論只でとは申しませぬ。先生のお好きな書痴を御献上いたします」
「むぅ……」ここに来て大天狗の表情が変わる。私には分からない事であったが書痴とは天狗をも殺す魅惑の酒なのである。ここで大盤振る舞いしたとしてもそもそも口にする機会自体の少ない祖父が怒る事は無いであろう。
それに何と言っても天狗の秘術である。先ほど見せられた四次元ポケットの術(仮称)だけでも覚えておけば元など幾らでも取れるだろう。万引きに便利そうである。最も万引きは犯罪なので駄目絶対であるし、古書店にとっても大敵ではあるのだが。
話を戻すと恐らく先生の鞄は、持ち運びの出来る「ヒルベルトのホテル」とでも考えればよろしいのだろうか。
「まぁ弟子にしてやらんこともないか。ここまで生きてきて他に天狗となるべき人間もいなくなってしまった以上、誰かに業を引き継がなければ絶えてしまうものかもしれん」
難しげな表情をして考え込んでいるように見えるが、酒に釣られての事なのは明らかだった。
「今日はもう店は終いなのだろう?」
「ええ、日光山先生が来なければもう閉まっている所でした」
「うむ、良かろう。付いてきなさい」踵を返し鞄を肩にかけ直し、狭い店内を本を避けながらするすると出て行った。
「ああ、待ってください」これまたシャツやズボン等と同じく、祖父からのお下がりというヨレヨレだが作りの良いインバネスを慌てて引っ掴み、カウンターから這い出て行った。急いで店の明かりを落とし施錠すると、既にふらふらとアーケード街と反対方向に歩いて行く先生の後についていく。
十一月頭であり日は落ちるのが早い、既に辺りは真っ暗になっていた。街中とは言ってもアーケード街から離れた裏路地は暗く人気はない。
「ここら辺でよかろう」辺りに人がいないのを確認し日光山先生が立ち止まる。
「ここで何をすればよいのですか?」
日光山先生が私の頭に手を置く。
「これより修行など一切した事もなく、更には修行するような気もない我が弟子に宙を意のままに舞飛ぶ天狗の秘術を施すにあたって必要な法力をまずは授ける。要は車にガソリンを飲ませるようなものだ」
頭の先からじわりと暖かい何かが染みこんで来るのがわかった。何とも心地よくふわふわとした気持ちになり、どこからともなく活力が湧いてきた。
「おお、これが天狗の力!チャクラ!チャクラか!全身の憧孔が開いていくのが分かる……!」
「大げさだ、そんなに強力な力を与えているわけでは無い。それにこんなのは入り口に過ぎん。本来は心を無にし、忘我の境地で浮くものだが、お前には雑念が多すぎる。まずは心ここにあらずの境地で、地に足のつかない空想で頭を満たせ」
「濡れ手で粟、濡れ手で粟」地に足のつかないことを呟く。
「そうだ、いいぞその調子だ」本当にいいのか?
暗く狭い路地裏に十一月の冷たい風が吹き込んでくる。風は渦巻き、旋風となり周囲の枯れ葉を舞いあげ、上昇気流を作り上げる。
そうこうしているうちに体がふわりと風に乗り浮かび始める。
「地に足のつかない」足が完全に大地から離れふわりとした感覚が全身を包む。インバネスがばたばたとはためき風を可視化する。
「それでよい、それでよい」顎に手をやり満足げに日光山先生がつぶやく。
よいしょ。日光山先生が階段を昇るように足を上げる。するとそこには階段があるかのようによいしょ、よいしょと空中へ昇っていく。
「このように自在に空中を散歩してこそ天狗の秘術の術理の一つを修めたと言う事になろう」
ふわふわと地上五十センチほどのところを浮かびながら日光山先生を見上げた。
「よっし!」余計な考えを捨て心を虚ろにしてふわふわと浮き上がってゆく、地に足のつかないことで頭を満たすのに頭空っぽとはこれいかに?古代ギリシャの哲人たちは、この世の中に真空などというものはない。無や真空を考えた瞬間そこには思考が存在するからだと考えた。現在では究極の真空にはヒッグス粒子が充満しているというから古代ギリシャ人も先読みも甚だしい。スタニスワフ・レム『完全なる真空』という本もあったなあと、そんなフワフワしたことをボンヤリ頭の片隅で考えていたが、地に足をつけないのは得意だったので簡単に浮かび上がる。
「初めての浮遊術でその浮きっぷりは誠に見事だが呆れたた女子だ。どれだけ地に足のつかない生活をしているのだ」
「それが功を奏している訳なのですよ、僥倖僥倖」
日光山先生がぷかぷかと十一月の曇った空に向かってどんどん浮かび上がってゆく。私もそれまでの生活でいつも日常的に普通に飛んでいたかのごとくこの天狗を追いかけふわりふわりと空中を泳いでゆく。
「南米コロンビアには神の力を示すためにチョコレートを飲むだけで空中浮遊をする神父がいたと聞き及びます。日光山先生のお力添えがあればこのぐらい造作もないことといえるでしょう」
地に足のつかないまま、なんだかよくわからない理論を持ってして天狗の業を着々と己の物にしつつあった。
「実に愉快痛快奇々怪々、なんだかよくわからない理論で空を飛ぶのにはこう……。もやもやとしたよくわからない心持ちが必要なんでしょうね」
「もやもやとしたまま修験道の奥義を吸収されてゆくと言うのは天狗の沽券に関わる大問題である、遺憾であると言わねばなるまい」
「遺憾であろうとも不本意であろうとも、『書痴』を献上すれば術を授けてくれるというのがお約束のはずですよ。さぁもっともっと」
先生は何も言わず不機嫌そうな顔のままぷかりぷかりとさらに高いところに昇ってゆく。
「あまり低いところを飛んでいると人に見つかる。隠れ蓑術の使えないお前がいては不都合であろう」
上昇していく天狗を慌てて追いながら「フライング・ヒューマノイドとして新聞の一面を飾るのは困ります」等と喚く。
「月に腰掛けるには今日は曇り過ぎている。適当に浮遊術をものにしたらもう満足であろう。もうそろそろ下へと降りてゆくぞ」
宇都宮の大通り、駅の西口の方を見やれば明かりが煌々ときらめき、地方都市ならではの今ひとつ派手になりきれない輝きがあった。インバネス越しに透けて通ってくる十一月の冷たい風に身震いを一つする。宇都宮タワーが紫色にライトアップされているのが見えた。
「天狗礫や、風雨雷火を起こす術だとか隠れ蓑術は教えてくださらないのですか」
「お前という娘はどこまで欲深いのだ。浮遊術も本来ならば限りなく辛い修練の果てに到達できる神通力であるぞ。それに風雨雷火を起こすのは私の専売特許である。そう易々とは教えられん!そもそも今の時期はあまり雷を起こす季節ではない。気の向いたときにゴロゴロとするだけだ」日光山先生が面倒臭そうに答える。
「むぅ、一日で天狗の業をすべて習得するというのも無理な話ですかね。わかりました。店に戻って『書痴』をお渡しいたしましょう。しかし気持ちのいい眺めですね、この寒ささえなければ言う事なしなのですが」思わず唸る。
「私はさっさと住処に戻り『書痴』で一杯やるのだ。お前も年頃になったときに飲んでみるがいい。春先暖かくなった頃桜など愛でつつ月夜の晩にふわふわ浮きながら飲む『書痴』は贅沢の極みである」
私は素直に頷いた。酒の飲める年頃になるまでは飲むまいと決めていた。それは倫理観から来る物ではなく、飲酒する祖父両親が普段身の回りにいなかったため、飲酒に対する興味はあまりなかったからだ。我慢しているわけではなく純粋にあまり興味なかっただけでもあり、少しばかり持ち合わせていた興味も二十歳まで我慢するという縛りによって美味しくいただけるに違いないというぼんやりとした思いがあったからである。
「書痴や書痴、文字は読んでも飲まれるな」何となくつぶやく。
そんな我ながら意味不明な事を呟きながらゆっくりと下降していった。そのまま二人で明かりの落ちた店に戻ると書痴を渡した。
「先ほどいただいた天狗の神通力はいつまで持ちますかね、私はもう自由自在に飛行することが出来るのですか?」栞が尋ねる。
「わからん、まだ神通力は残っているが飛べるか飛べないかはわからん。まぁ飛べるだろうが途中で神通力が切れて落下するなどと言う事もないであろうから安心して飛ぶが良い。誰かに見つかっても知らんがな。歩け歩け、日光ではなくとも、そこに鎮座在したる厳しい山道を歩くような修行などお前にはとうてい出来はしまい。しかしながらこれである程度神通力をため込めるはずだ。山伏が歩くということはそれ自体が呪術的意味合いを持ち合わせているのだ」
「肝に銘じます」私は書痴の用意をしながら言った。
日光山先生は四次元ポケットの術(仮称)を用い鞄の中に書痴をどんどん詰めていく。あまりにも見事にするすると入っていくので、ひどく羨ましくなったがあまり欲張りすぎて術を教えて貰えなくなるのも困りものなので、じっと見つめるにとどめた。
日光山先生は酒を受け取ると、また近々来ると言い残し、店先まで見送ったところで一陣の風を巻き起こし、さっとかき消えてしまった。
一人ぽつねんと店先に取り残されたまま、霧の出てきた十一月の夜の寒気に、先ほどの興奮を冷まされ、今までのことが夢ではないかと現実と妄想がない交ぜの状態になった。
しかしながら夢のような話であるが夢ではないように思われもする。なぜなら先ほどのわくわく感を胸に地に足のつかないことを考えていると、どこからともなく旋風が起こり、ぷかぷかと浮かび出しそうになって困ったからだ。
なにか重りになるような『アメリカの鳥類』でも背負っていないといけないのでは無いかと思った。
天狗の業を我が物にした。内心欣喜雀躍である。これからは毎日学校帰りに二荒山神社に詣でよう。そうして神聖な力を浴びて精神的にマッスルになるのだ。精神的に向上心のない者は馬鹿だ、これからはマッスル栞として三島由紀夫の如くボディビルディングに勤しみ、いや体は鍛えないが、とりあえず黄金の精神でもって宇都宮市民羨望の的となり、その陰でふわふわと空の散歩を楽しみ、天狗の業を次々と獲得するのだ。
もちろん「ふるさと宮祭り」の際には浮かれポンチの市民のもとに容赦なく徹底的に風雨雷火をたたき込んでやるのも忘れてはならない。
そう考えながら店じまいを急いで行い、カウンターに置いた達磨を一撫でして、まだ微熱のこもった体を横たえることにした。
その日はふわついて仕方なかったので、腹の上に広辞苑を置き、そんな地に足のつかない浮ついた考えは一時捨て堅実に生きようと心にも思っていないことを考えながらゆっくりと寝た。
自分の考える堅実な生活とは何か?世の人には明らかならぬ事であるが、祖父の後を継ぎ第何代目になるのかは忘却の彼方へと消え去ってしまった店の主を立派に勤め上げることであった。
将来的には祖父のように世界中を股にかけ、母に頼みヒルベルトのホテルの技術を応用した無限の本棚を開発してもらいそれを埋め尽くす勢いで、ありとあらゆる書物を収集し尽くし、本だけでなくその他の印刷物などにも手を出し本と紙の帝國を築くことである。
国立国会図書館以上のコレクションを揃え、どんな客相手にも怖じ気づくことなく言葉の海を提供する。そして己自身もまた読書に浸った生活を続けることにこそ未来を見いだしていた。ゆくゆくはラテン語なども覚え揺籃期の本、インキュナブラの品数も豊富に取りそろえ、読破してやろうという魂胆である。
これが堅実なのかふわふわ生活なのかは客観的にみてどうなのか自分には判断のつけ難い所ではあったが、体はフワフワと浮き上がっていた。しかしながら古書店を守り宇都宮の片隅で一人神保町を作り上げ、大きく飛躍するという野望と夢を持っていた。
大脳新皮質の中で夢を弄び、夢を溢れさせては零していた。大脳神秘質といってもいいかもしれない。故にふわふわすることについても、得意だったのではなかろうかと推察される。女の子は何か甘い砂糖菓子のような物で出来ているのだ。
この日は夢の中で空を自由闊達に舞い飛び、本を追う旅を続けていた。
勿論、宇都宮第一の宮、二荒山神社に詣でて神通力を補充し、天狗礫などを自在に操る業を授かることも忘れてはいなかった。ではお休み、また明日まで。
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