二、ギマンの森にオオカミ
旅の途中の黒いオオカミがヤマネコの白骨を見付けたのは、ギマンの森からしばらく南に下った大きな崖の下でした。乾いた土に半ば埋もれた白骨はバラバラに散らばっていて、春の満月が放つおぼろげな金色の光にほんのりと照らし出されていました。
「あの上から飛び降りたのかな?一体、何があったんだろう…」
オオカミはいぶかしく思いながらも、高揚する心を抑えきれず、そのまま旅を急ぎました。闇夜の静寂に咲く月が真南に差しかかった頃、ようやくオオカミはギマンの森にたどり着きました。
「ここがギマンの森か。」
遠くの峰々まで続く広大な森の前に立ち止まり、オオカミは感慨深く漆黒の木々を眺めていました。ふと、木の上から何かの気配を察したオオカミは、ハアハアとした荒い息使いを止めました。それからすぐに長い舌を引っ込めて口を閉じ、鼻をヒクヒクとさせ、三角の耳をピンと立てて、辺りの様子をうかがいました。気配が濃密に感じる方を、全感覚を集中してじっと見ていると、二つの光る目がありました。オオカミは、すぐにそれがフクロウであることを感じ取りました。
「ようこそ、ギマンの森へ。」
果たして、声の主はフクロウでした。まるで心の中を見透かすように、クリクリとした大きな眼差しで、フクロウは続けました。
「私はユリエルといいます。ここまで随分とご苦労なさったようですね。この森で、ゆっくりと過ごされるがよいでしょう。この森が今までのあなたにとって一番の楽園となることを願っております。」
「ありがとう、世話になるよ。オイラはロン・リーだ。」
「ここには、この森を取り仕切るクマがおります。朝になったら挨拶に行って、この森について色々と教えてもらうとよいでしょう。」
「ああ、そうするよ。」
ロン・リーは疲れていて面倒くさかったので、短くそう言い残して、さっさと今夜の寝床を探しに深い木立の闇に消えて行きました。
翌朝、木々の隙間から差し込む数十本の日の出の光がロン・リーの目蓋をくすぐりました。目覚めたロン・リーは、立ち上がって伸びをして、それからブルブルっと黒い毛並みを整えて、森の中心部へ向かって歩き始めました。
北へ五時間ほど歩いて行くと、急に森の一部が開けていました。どうやらここが、森の中心部のようです。森の中心部は大きな広場になっていました。川から拾い集めたのでしょうか、広場には丸い小石が敷き詰められていました。周囲を見回すと、広場の周辺の木々や、岩場の陰や、草むらに掘った穴や、小さな崖の下に出来た洞穴には、色々な動物達がそれぞれの住処を作っていました。
そして、広場の一番向こうには、丘にも木陰を作るほどの万年檜のご神木が一本大きくそびえ立っていました。高さはゆうに数百メートルを超えているでしょうか。それを支える幹の太さは直径数十メートルほどもありました。根元は波立ったように、いびつに広く大きくうねっていました。その地面に突き刺さった根と根の間には、洞穴がありました。
ロン・リーが中を覗くと、赤茶色の毛並みの巨大なクマがまったりと昼寝をしていました。ロン・リーは昼寝の邪魔をしては申し訳ないと思い、洞穴の前に座って、クマが起きるのを待っていました。
しばらくすると、オオカミの匂いを嗅ぎつけた他の動物達がオオカミに気付き、色めき立ち、周囲からは様々な声が発せられました。
「オオカミが来たぞ〜、オオカミが出たぞ〜!」
「おーい、気を付けろ!他所者のオオカミだ〜!」
イノシシなどは、「ブヒ〜ッ、ブヒ〜ッ」と鼻息を荒くして、今にも突進しそうな体勢でした。
ロン・リーは居心地の悪さを我慢しながら、クマが起きるのを今か今かと待っていました。
騒ぎが大きくなって、ようやくクマは目を覚ましました。ゆっくりと洞穴から巨体を出して、赤茶色の毛皮を四、五回ブルブルッと振るって、大あくびを一つして立ち上がり、目の前に座っている見慣れない黒いオオカミに目をやりました。
「ん?ここにオオカミが来るとは珍しいなぁ。わしはギマンの森の三長老の一人、ピグマリオじゃ。何かご用かな?」
他の小さな動物達は、物陰に隠れて二人の様子を伺っていました。オオカミは大きなクマを見上げて圧倒されましたが、クマの目をまっすぐ見つめて言いました。
「オイラはロン・リーだ。オイラ、この自然が豊かなギマンの森に住みたいんだ。」
「君は…肉食なんじゃないのかね?あちこちで人間や動物を襲って食べているという噂を聞いとるよ。」
「噂の全てが事実じゃないよ。よく言われるけど、赤い頭巾を被った女の子を食べたのは、オイラじゃない。この森の長老なのであれば、色眼鏡じゃなく、ご自分の心の目でオイラを見て、それから判断してもらいたいね。それに、確かに基本的には肉食だけど、果物や葉っぱも食べようと思えば食べられるよ。」
「言いたいことを言うやつだな。面白い。ふむ、いいだろう。このギマンの森には三つの掟があるのじゃ。
一つ、この森に住む鳥獣を殺さないこと。
二つ、この森の川や湖を汚さず大切にすること。
三つ、盗んだり騙したり独り占めしないこと。
これら三つの掟を必ず守るということを、ギマンの森のこのヒノキ神に誓えるかな?その誓いを一つでも破ったら、この森から追放になるが…」
万年檜を指差しながら、それまで優しかったピグマリオの目が、この時鋭くキラリと輝きました。それは厳しい大自然を生き抜いて来た証と、この森を長年守ってきたという誇りでもありました。
ロン・リーは少し気押されましたが、檜のご神木に手を合わせながら自信を持って応えました。
「もちろん誓うよ。」
「よろしい。掟を守るのであれば、来るものは拒まずじゃ。まずはこの森に慣れて、いずれこの森の役に立つ存在になってくれ。以前この森にはタナトスという名のヤマネコも住んでおって、随分と毒蛇を獲ってくれたもんじゃ。」
「ヤ、ヤマネコ⁈ヤマネコは完全な肉食じゃないか。蛇を殺してもいいのかい?」
「何、心配いらんよ。鳥獣を殺してはいけないが、魚や爬虫類や虫などは食べても構わんのじゃ。」
「そうなのか!それなら、オイラもここで暮らしていけそうだ。」
「うむ、ここから西へ一時間程行った所に、この森の命の源『マンダーラ川』というとても清らかで神聖な川が流れておる。北西の彼方に見える『プロビデンス山脈』に源流があるのじゃ。」
ロン・リーがピグマリオの指差した方を見ると、木々の間から山脈が見えました。一番高く尖った山には、まるでこの森を見守るかのように、目の形をした雪が山頂付近に残っていました。その目の形に残った雪は、ギマンの森に春の訪れを告げる目印なのでした。
「そしてこのマンダーラ川のほとりに『クリスタル湖』というのがある。透明に輝く湖じゃ。そこには『クリスタル会』という集まりがあってな、森の様々な動物達の孤児の面倒をみておる。カワウソとヤギとウシがクリスタル会を仕切っておって、カワウソが湖で魚や川エビなどの養殖をしておるのじゃ。わしも時々そこで魚を食べたり、清らかな水を飲みに出かけて行くわい。年に一度川を上って来る鮭などは、実に美味じゃて。」
「じゃあ、ヤマネコは毒蛇の他にもそういうのを食べているって訳なんだ。」
「ああ、しかしタナトスの姿は、もう何年も見ておらんよ。掟をきちんと守っておったのに、どこでどうしておるのやら。」
もしかして、あの崖下の白骨は…、とロン・リーは思ったのですが、ピグマリオが落胆するのではないかと心配して黙っていました。
「そうそう、それからもう一つ。これは掟ではないのじゃが、ギマンの森から遥か北東にあるあの六つに連なった火山は『ルシファー六連山』といってな、あそこを越えた所には別の世界があるらしいが、そこへは決して近付かん方がいい。」
「どうして?」
「あっちの方へ行って、戻って来た者は誰もおらんのじゃ。火山ガスにやられたのか、火口に落ちたのか、理由は分からんがね。もしかしたら、タナトスもそこへ行ったのかも知れん。」
ロン・リーが北東の方を見やると、鷹が翼を広げたような形の山々が六つ連なって、山頂にはどす黒い雲がかかっていました。
「分かった、気を付けるよ。」
「うむ、では誰かロン・リーにこの森を案内してやってくれ。」
そこへ、さっきまで戦闘態勢だったイノシシが、満面の笑みで近付いて来ました。イノシシは、普段はとても紳士的で、知識も多く、もう何年もこの森に貢献してきました。ですが非常に気が短く、怒ると人が変わったように暴れたり走り出したりするのでした。その度にピグマリオに諭され、許されてきました。
「これはこれはロン・リーさん、遠路遥々ご苦労様でした。私はこの森の三長老の一人、バナムです。今後ともよろしくお願いします。良かったらこの森を案内しますよ。さあ、どうぞこちらへ。」
バナムは森の中へ分け入って、栗の木や柿の木はどこにあるか、どこに山菜があるのか、どこに薬草があるのか、どこに毒草があるのか、どこに筍が生えるのか、自然薯はどこで多く採れるか、山葡萄はどこか、ヘビイチゴはどこか、アケビはどこか、キノコはどれが食べられてどれが毒キノコかなど、とても詳しく親切に教えてくれました。
しかし、どれもロン・リーの食指の動くものはありませんでした。ロン・リーは業を煮やして言いました。
「バナムさん、クリスタル湖ってどこにあるの?」
ロン・リーがお腹を空かしているのを分かっていたのですが、バナムは少しためらいながら言いました。
「クリスタル湖ですか…。もう少し向こうの方です。では、早速案内しましょう。
ところでロン・リーさん、クリスタル会に興味はありませんか?クリスタル会はこの森で重要な役割を果たしています。この森の次代を担う子供達を育み、私達の未来をつなげているのですから。もし興味があるのでしたら、手伝ってあげてください。」
「残念ながら、今のオイラの課題は湖の魚と水だね。この森では、別のことでお役に立てればと思っているよ。」
「それは何ですか?」
「さあ、今は来たばっかりだから、まだ分からないね。まあ、今のところはせいぜい番犬ならぬ番狼ってところかな。」
そんな話をしながら一時間ほど歩き、なだらかな丘と谷が続く木漏れ日の中を抜けると、いきなり上と下から痛い程の光がロン・リーの目を突き刺しました。彼の目の前に、眩く輝く湖が現れたのです。午後の陽射しが深い水底まで青く射し込むクリスタル湖でした。湖底には一面に若草色をしたアナカリスやマツモなどがゆらゆら揺れているのが見えました。それらの水草は、光合成によって出来た小さな酸素の泡粒を、まるで炭酸水のようにプクプクと水面に向かって放出していました。その水草の間を、大小様々な魚達が悠々と泳いでいました。その向こうには、雪解け水を含んで冷たく透き通ったマンダーラ川が、サラサラと音を立てながら、キラキラと川面を乱反射させていました。
クリスタル湖の岸辺では、淡い灰色のカワウソと、全身真っ白で長いあごひげと頭に立派な角のあるヤギと、白黒模様の乳のよく出る雌ウシが、子供達の世話をしていました。
そこへバナムが突然見知らぬオオカミを連れて来たものですから、ウシはビックリして乳に吸い付いていた子供達を振り落として跳び上がりました。ヤギは素早く近くの岩の上に跳び乗り、カワウソは慌てて水の中に潜って潜望鏡のように頭だけを水面から出しました。
ヤギは大きな角を振りかざして岩の上から怒鳴りました。
「やい、『おしゃべりバナム』。お前の後ろにいるやつは何だ!」
「これはこれは『早口ルサンチ』さん。何だと言われても、オオカミですよ。」
「それは分かっている。さてはオオカミを差し向けて、この俺を三長老から追い落とすつもりだな⁈」
「何ですと⁈ブヒヒーッ!私はそんな卑劣な真似はしませんよ!ロン・リーさんがこの森の住人になったんで、私はこの森を案内しているだけです。そこまで言うのなら、以前のようにブッ飛ばしてやる!さあ、その角と私の牙と、どちらが勝つか試してみますか?」
両者がにらみ合うこと数秒後、おっとりとした声が優しくそして強く響きました。
「バナムさん、ルサンチさん、あなた方は三長老じゃありませんか。みっともない喧嘩はおやめになさってくださる?子供達が見ていますよ。」
ウシにたしなめられて、バナムとルサンチはばつが悪そうでした。
バナムとルサンチには、以前こんなことがありました。
ある時、三長老が主催する会議がありました。この会議は、ギマンの森の動物達を広場に集めて、この森で何か問題はないか、困っている動物はいないか、今後この森をどう守るかなど、みんなで話し合うのでした。
ところがその会議で、バナムとルサンチは意見が対立して喧嘩となり、もみ合いの末、ルサンチはバナムの突進を受けて気を失ってしまいました。それ以来、バナムとルサンチは仲が悪くなってしまいました。
根に持ったルサンチは、得意の早口でバナムのひどい行いを出会った者達に話してまわりました。それは当然バナムの耳にも入りました。バナムはバナムで、「もう一度ルサンチをぶっ飛ばしてやる」などとあちこちに言いふらしました。
そんなことがあったので、身に危険を感じたルサンチは、森の広場の近くからクリスタル湖の近くに引っ越したのでした。そして、その二人を取りまとめているのが、人望のあるあの大きな赤茶色のクマのピグマリオでした。
ルサンチはしばらくバナムに対する怒りを抑えていましたが、今度は、ルサンチの矛先は新入りの黒いオオカミに向かいました。
「やい、オオカミ。この森に住むんだったら、三長老のこの俺に逆らうようなことはするなよ。もしそうなれば、お前の悪い噂をばら撒いて、ここに居られないようにしてやるからな。もしバナムじゃなくてオレに味方するのであれば、悪いようにはしない。」
(何だ、高圧的なヤギと短気なイノシシのくだらない権力闘争か。オイラは所詮一匹狼。権力争いに巻き込まれないように、この二人とは距離を置いた方が良さそうだ。それに、ピグマリオは知恵と人望を兼ね備えていて、人を見る目もありそうだ。彼がいれば、この森は安泰だな。)
ロン・リーはそう思いながらも、空腹には勝てず、横目で湖を見ながらニコッと笑って言いました。
「どうも、オイラはロン・リーだよ。これからお世話になるよ。ところで、湖の魚をご馳走になりたいんだけど…」
クリスタル会の会長であるカワウソが自分の出番とばかりに応えました。
「おらはバニティだな。ここで魚やエビや蟹の養殖をしているんだな。魚を獲るのはおらの仕事だな。ちょっくら待ってな。」
世話好きなバニティは、すぐに水に潜って魚の影を右に左に追い始めました。
ロン・リーが涎を垂らしながらバニティの泳ぎを眺めていると、優しい眼差しでウシが話しかけました。
「ロン・リーさん、私はアニーマ。去年、夫のアニムスが崖から落ちて亡くなったの。黒くて、大きくて、立派なウシだったわ。私達はこの森で出会ったのよ。だから、少しでもお役に立ちたくて、ここで森の子供達に乳をあげたり世話をして育てているのよ。」
「ふ〜ん、立派だね。そんなことより、オイラは目の前の魚が気になってしょうがない。」
ロン・リーの目は、縦横無尽に素早く逃げ回る魚の影に釘付けでした。
「ふふふ、よっぽどお腹を空かしているのね。よかったら、ミルクやチーズも召し上がる?」
そう言いかけたとき、バニティは大きな魚を捕らえて陸に上がりました。
「ほら、食べな。」
ロン・リーは待ってましたとばかりに魚に食らい付き、あっという間に平らげ、それから湖の水をガブガブと飲み込みました。
見慣れない黒いオオカミに興味津々のクリスタル会の子供達は、アニーマの陰からその様子をまん丸の黒い瞳で見ていました。しかし、ロン・リーのあまりの食べっぷりに、今度は自分達が食べられるのではないかと、子供達は少し怖くなりました。
「ふ〜、食った食った、ごちそうさま。バナムさん、そろそろ別の場所に案内してくれないかなぁ。」
「そうしましょう。では、皆さんいずれまた。」
背を向けて立ち去るロン・リーに、バニティは人懐っこい笑顔で声をかけました。
「いつでも、またおいでな。」
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