友との縁(5)




 村長むらおさの屋敷は、玄関のそばにある対面室と廊下を挟んだところに、書院といくつかの部屋がある。そこを通り過ぎて渡り廊下の向こうに進むと、かつてはしずく漉慈ろくじが、今はみおが過ごす部屋があり、あおいの部屋もそこに並んでいる。

 そしてそのさらに奥に備えられているのは……。


「疲れた時はやっぱり、湯浴みに限るわね」


言いながら、ざぶんと音を立て湯を溢れさせる葵。


「あの……きんせいぜん、」

「ここに遊びに来た時は”葵”でいいと言っているでしょう」


 遊びに来たわけではない、と思いながらも、雫も葵に倣って体を湯に沈める。

 屋敷の奥の湯殿には、温泉が引き込まれている。ここに限らず、集落の殆どの家にささやかながらも湯殿が設えてあるが、村長の屋敷の湯舟は石造りの豪華なもので、大人が数人は一緒に浸かれる程の大きさがあった。


「ああ、心身共にほぐれていくわ」


 首を回し腕を伸ばし、心底寛いだ表情を見せながらしみじみ呟く葵。雫の方も、子どもの頃毎日のようにここでのぼせるまで遊んでいた贅沢な思い出が蘇り、また湯の優しいぬくもりも相まってか、自身の心と体もゆっくりと柔らかくたゆんでいくのを感じた。


「湯舟に浸かっている時くらいなのよね。ぼんやりと……何も考えないでいられるのは」

「ああ……、そうだよね」

「日々を充実させる為には貴重な時間なんだけど、最近はなかなかこんなことができるほどの暇もなくて」

「私も。こうして着物を脱いでゆっくりお湯に浸かるのも、随分久しぶりだもんなあ」

「ふふ、まるで普段は着たままで入っているみたいな口ぶりね」

「さすがにくつや革の上着は脱ぐけどね。でも、麻の胴着は着たままかな」

「えっ……」


葵に倣って大きく伸びをしながら雫が何となしに答えると、葵は驚いたように目を丸くして振り返った。


「で、でも、それじゃ……ゆっくりできないでしょう?落ち着かないと言うか……」

「もう慣れちゃった。そもそも、湯舟に浸かることがほとんどないから」

「そうなの?」

「うん、汚れと匂いを落とすためにかかり湯をするだけ。一応これでも護り役だし、何かあってもすぐに駆けつけられるようにしておかないとね」


 唖然、という表現がしっくりくる顔つきの葵をよそに、雫はさらりとそう言ってのけた。

 普通に生活を営む者にとっては驚くことかもしれないが、これは何も雫に限ったことではなく、護り役を担っている者の間では日常茶飯事なのだ。緊急事態というものは、時と場合を選んで起きてくれるわけではない。自分が休みの時でも最低限の装備は常に身に着けているし、寝る時でさえもゆっくり布団にもぐることはなく、体を締め付けない寝巻に着替えることもなければ沓も履きっぱなし。綾竹あやたけのように、自分の時間を自分の為だけに使っているのは逆に珍しいことなのだ。


「そう、だったの……」

「初めは安らげないことが辛かったけど、今となっては逆に無防備でいる方が落ち着かなくて」


 軽口のつもりでおかしげにそこまで話してから、雫はしまった、と口をつぐんだ。葵の紫色の瞳に、暗い影が落ちているように感じたからだ。

 実は、自分が護り役になってからは、こうして自身の日常を事細かに話した事はなかった。葵からの呼び出しはしばしばあったのだから、機会が無かったわけではない。だが、当初の辛い時期は少しでも泣き言を洩らせば立ち直れなくなるような気がしており、誰にも愚痴すらこぼさずに乗り切っていた。

 殊、葵においては、幼い頃から籐馬とうまとは違った視線で常に雫のことを気に掛けていたため、もし自分の現状が知れてしまえば余計な心労を重ねさせることになると考えていたのだ。初めは葵への気遣いで口をつぐんでいたのだが、その内こんな生活にも慣れてきたため、特に話題に上ることもなくなったというわけだ。


「ご、ごめん。こんな言い方したら、ゆっくりお湯に入るのが嫌だって言ってるみたいだよね」

「……」

「そんなことないからね? 今でもちゃんと好きだし、違う方法でならそれなりに息抜きもちゃんとしてるし、それに今日はこうして葵とのんびりできて本当に、」


 慌てて取り繕っていた雫だが、葵の異変に気付いて言葉を切った。初めは悲しげに俯いていた葵が、くつくつと肩を揺らして笑い始めたのだ。


「ええー、ちょっと、どうして笑うの?」

「ご、ごめん……。だって、雫ったらすごく必死で…」


 そこまで言うと愉快さが更に深まったのか、葵は喉の奥で堰止めていた笑い声を一気に解放した。初めは何が面白いのかが全く分からなかった雫だが、子どもの頃と変わらない、見た目には似つかわしくない豪快な笑い声につられて、自分も声を上げて笑い始めた。


「本当はね。私、知っていたのよ」


 ひとしきり笑い合った後、ぽつりと葵が呟いた。「何を」と雫が口を開きかけたところで、葵がゆっくりと振り返ってほほ笑む。


「雫が服を着たまま湯浴みをしているとか、そんなところまでは考えなかったから驚きはしたけど。それでもきっと毎日大変な思いをしているんだろうなって、ずっと感じていたわ」

「そっ……か」

「それなのにいつも楽しそうに話をしてくれていたのは、私に心配掛けたくないって思っていたから、よね?」


 言葉で返す代わりに、小さく肩をすくめて苦笑いを浮かべる。ゆったりと立ち昇り、流れる空気に合わせて揺れる湯気を見送りながら、雫はふう、と息を吐いた。


「葵は、何もかもお見通しだね」

「雫は色々と隠すのが下手なだけよ」


 全くその通りで、反論の言葉も思い付かない。雫はわざとらしく唇をキッ、と真一文字に結んで顔をそむけた。


「ねえ、雫」

「……何?」


そっぽを向いたまま、不機嫌さを装いながら応える。が、葵からは次の言葉は続かない。不審に思った雫は、水音を立てない程にゆっくりと振り返った。


「葵……?」


 葵の視線はどこか遠くへと注がれていた。何かを思い出しているのか、言葉を選んでいるのか。雫はそんな葵の様子を、黙って見つめた。


「覚えている?お婆様が亡くなった日のこと」

「えっ」


 突然の問い掛けに、思わず言葉を詰まらせる。


「確か、前の晩が”つきみ”だったのよね」

「そう、だったかな」


 言われてみるまで思い出せなかったかのように、曖昧にそう答える雫。

 月食みの日――月の光が届かなくなり、地上が闇に支配される夜。毎年訪れるわずか四半刻の現象だが、葵への装った返事の言葉とは裏腹に、雫があの年のあの夜のことを考えない日はなかった。

 葵の祖母であり、先代巫女でもある玉髄御前ぎょくずいごぜんが亡くなったのは、二年ほど前のことだ。歳なりに体力の衰えこそはあったものの、病を患っていたわけでもなく、夕刻に顔を合わせた時も普段と変わらない溌剌さを見せていた。死の匂いを感じさせる振る舞いなど一切無かったこともあり、家族を始め村人みなが驚き、深い悲しみに暮れたのだ。


「あんなに元気にしていたのに、突然亡くなるなんて……信じられなかった」

「……」


 葵のその言葉には、恐らく他意はないのだろう。何となしに目に入った昔の古傷を撫でるような、そんな感覚でこの話題を持ちかけたに違いない。そう頭では冷静な理解を示しながらも、雫の心はざわめき、動揺を隠しきれないでいた。

 葵にとっては”古傷”であろうはずのそれは、雫には今もなお生々しい痛みを与え続けているのだ。そのせいで、かすかな刺激だけでこれほどまでに鋭い反応をしてしまう。

 あの夜、玉髄御前の身に何が起きたのか。それは未だに分かっていない。ただ一人、雫だけがはっきりと確信していることが一つあったが、それを誰にも話せないでいた。


「、葵」

「あっ……ご、ごめんね。急にこんな話…」


 雫が口を開いたところで、突然なぜか葵はその言葉を遮り、慌てふためいた様子で視線をそらした。


「深い意味はないのよ。何と言うか……ああ、ほら、こうしていると昔のことを思い出してしまって。つい、ね」

「え……あの、」

「そろそろ上がりましょう。調子に乗って浸かり過ぎると、湯あたりしてしまうわ」


 葵はそのままくるりと身を翻して背を向けると、湯を大きく波立たせて立ち上がる。雫はその不自然な態度に違和感を覚え、湯舟から出ようとしている葵の腕を勢いよく掴んだ。

 反射的にこちらを振り返った葵の瞳が、雫の姿を真っ直ぐ捉える。湯気にけぶっていてもはっきりと分かるその紫色の瞳は、使い古しただんこうせきが放つ頼りない輝きを集め、不可思議に揺らめいていた。


「……あ、」

「雫……?どうしたの?」

「……ご、ごめん。何でも、ない」


 葵の白く細い手首からゆっくりと手を離す。葵は困ったようにほほ笑みながら、変な雫、とおどけた口調で言い残し、湯殿を後にした。

 雫は、何事か思案するかのように目を伏せ、揺れる湯の波紋を見つめていた。


「葵……、泣いてた……?」


 振り返った時の、瞳のきらめき。それはただ湯が反射する光をたくさん取り込んだだけで、偶然そう見えたのかもしれない。悲しげに寄せられた眉根も、ただ急に引き留められた驚きの感情が為したものとも言える。紅潮する額や鼻や頬も、湯に長く浸かったせいなのだろう。だが、その場面を何度頭の中で繰り返しても、雫にはあれは泣いている時の顔だとしか思えなかった。そしてそれは、ただ祖母の死を悼んでのものではなく、もっと何か別の思惑を抱えての涙のような気がしてならなかった。







 湯殿から出た雫はそのまま屋敷を辞去するつもりでいたが、葵に引き留められ、少しの時間だけ彼女の部屋で過ごすことにした。物音を聞きつけて顔を出したみおも交え、女三人でこっそりと夜のひと時を楽しんだ。


「これ、とてもいい香りだね」


 白い磁器の湯飲みに口を付けようとした雫は、うっとりとした表情でそう呟いた。透き通った薄い琥珀色の薬茶は、これまで感じたことのない芳しい湯気を立ち昇らせている。


「そうでしょう? その湯飲みや茶注もそうなんだけれど、ついこの間来た商人の方に分けて頂いたの。なんでも、遠い国の貴族が飲む高級なお茶だとかで」

「えっ……。いいのかな、私のような人間が飲んでしまっても」


 既に杯を空けておかわりをしようとしている澪を眼前にしながら、”貴族”や”高級”などという、自分には縁遠い単語の羅列に思わず尻ごみする雫。

 湯飲みと同じ色をした、少し縦長の変わった形をしている茶注に湯を足していた葵は、呆れたように溜息をついた。


「何を言っているの。お茶を楽しむのに、資格や身分なんて必要ないのよ?」

「だ、だけど」

「全く……。雫は、もう少し澪の無遠慮なところを見習いなさい」


 その言葉にうんうん、とうなずきながら次の一杯を待っている澪は、恐らく今の言葉が自分に対する皮肉だとは気付いていないのだろう。むしろ褒め言葉と受け取っているかもしれない、と思いつき、雫は密かに肩を揺らして笑いを堪えた。


「さあ、雫も飲んでみて。このお菓子に、本当によく合うのよ」


 そう言って葵が差し出したのは、籐かごに高く積まれたこがね色の焼き菓子だ。それは先ほどから雫たちの鼻孔を甘くくすぐっており、初めからその誘惑に抵抗する選択肢など無かった雫は、迷いなく手を伸ばそうとした。


「小麦と米の粉、あと卵で作ったの。多めの蜂蜜で甘く味付けをして、干したオオミカンの皮を練り込んでさわやかな風味に仕上げたのよ」

「まさか、葵が作ったの?」


 葵の説明を受けてすぐ、間髪入れずにそう尋ねた雫に、葵は顔つきを厳しくしてじろりと睨みつけた。


「……なあに、私に作れるはずがないって言いたいの?」

「えっ、あ、違うよ。ほら、葵は料理が嫌いだって言っていたから、こんなに手の込んでいそうなものを作るのは意外だと思って…」


 慌ててそう弁解するも、葵の傾いだ機嫌はすぐには戻らない。澪はくすくすと笑いをこぼしながら、その焼き菓子を一つつまんで口へと運んだ。


「菫青御前はね、お料理嫌いなのにとっても上手なんだよ。だから大丈夫、これも……うん、すごくおいしいから」

「澪……そんな言い方したら、私が『まずそうだ』って言ったみたいじゃない」

「あれ、違うの?」

「違うの!」

「……本当に?」


 疑うような視線を寄こしながらそう尋ねたのは、葵だ。雫はガシガシと頭を掻きながら、本当だってば、と弱弱しく呟いた。


「あ、そう言えば」


 二杯目の薬茶を飲み干してから、澪が思い出したように雫を振り返った。


「私、雫姉さまに怒っているんだった」

「ええっ? なっ、何、急にそんな」


 思いも寄らない言葉に、雫は驚いてゴホゴホと咳込んだ。


「今日のお仕事はお休みだったって、綾竹おじさんから聞いたよ。こないだ言ったじゃない、次のお休みには必ず屋敷に遊びに来てくれるって」

「あー……」


 不機嫌そうな顔つきでそう捲し立てられ、雫はその時初めて澪と約束していたことを思い出した。


「ごめんね、今日はちょっと別の用事ができちゃって」

「なんで雫姉さまは私とのお約束をすぐに忘れちゃうのかなあ? 私はいつも楽しみに待っているのに……」

「い、いや、忘れたわけじゃ」

「嘘、うそ! 今のは絶対、忘れてたって顔だった!」

「うっ」

「忘れるのもいけないことだけど、嘘をつくのはもっとだめなんだから!」

「……そう、そうだね。本当にごめんなさい」


 自分より十も年下の子供に説き伏せられ、雫は寛げていた足をきちんと折り畳んで座り直すと、小さくなりながら謝罪した。


「だめだめ、許してあげない。さっきも言ったけど、私今日はすごく怒っているのよ」

「ええー……」

「これからはもう、一緒に遊んであげないんだから」

「そんな……」


 がっくりと頭を垂れ、心底落ち込んだ様子を演出する雫。ちらりと視線を上げると、顔を背けてすっかり怒り心頭な澪の横で、葵が声を殺して笑っていた。


「……もうその辺にしてあげなさいな。雫だって、わざと忘れたわけではないのよ」


 雫のすがるような目に気付いた葵がそう宥めながら間に入ってくれたが、澪は今度は完全にこちらに背中を向けて「だめ!」と切り捨てた。


「今日だけのことなら許すよ。でも、しょっちゅう忘れちゃうんだもん」

「今後は気を付けてもらわないといけないわよね。だけど今日はこうして会いに来てくれたじゃないの」

「それは……村長のお呼び出しがあったっていうだけのことで」

「護り役の誰か、っていう言付けだったんでしょう?誰にするかは澪が独断で選んだのだから、今ここに雫がいるのは、澪のお誘いに応じてくれたってことではないかしら」

「……?」

「今夜雫が訪ねたのは、澪、あなたなの。村長のご用事なんて、もののついでだったのよ」


 曲解もいいところで、話に全く筋が通っていない。しかも村長から命ぜられたことを”もののついで”などと軽く一蹴してしまうなど、おふざけが過ぎる。

 いくら幼い澪相手だからと言ってさすがにそんな無茶苦茶な申し開きが通じるわけがなく、その証拠に澪はきょとんとした顔で葵を見つめ返していた。もう少しましな助言はできなかったものかと、呆れた視線を葵に向けた、その時。


「そっか!」


 パチン、と軽快な音を立て、澪はにこにこしながら両手を合わせた。


「そうだよね、雫姉さまをお呼びしたのは私だもの。私がお招きして、だから来てくれたんだよね!」

「……」


 驚いたことに、葵の破たんしているとしか評価しようのない言い訳は、澪の思考回路を見事に欺いてしまった。


「前にしたお約束は忘れてしまったけど、今夜の新しいお約束は守ってくれたから、許してあげる。ねっ、雫姉さま!」

「え……あ、」


 そうではない。本当はそうではないと言い聞かせてやりたかった雫だが、せっかくのお膳立てを台無しにすることもない。

 雫は澪に負けないくらいの笑顔で大きくうなずいて見せ、「ありがとう」と返した。そして、長い耳をピョコピョコと揺らしてすっかり上機嫌になった澪の無垢な横顔と、得意げに、かつ黒い腹の内を具現化したような笑みを浮かべる葵とを見比べて、雫は申し訳ないような情けないような気持ちでいっぱいになった。




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