友との縁(6)
女だけの密やかな宴を終え、
夜半はとうに過ぎていた。春が訪れたとはいえ、まだこの時間になるともう一枚羽織るものが必要だと感じながら、玄関の方へと向かう。
二の腕をこすって暖を求めながら、廊下を静かに歩く。久しぶりに友人との交流の時間を持てた充実感からだろうか、その足取りは軽く心も清涼そのものだ。
だが、気掛かりがないわけではなかった。
湯殿で葵が涙を見せた理由は、結局聞けなかった。聞き出せるような空気では無かったし、何より、葵の中でまだ消化しきれていないことのような気がしたからだ。それは単なる勘でしかない。しかし、同じような”もの”を己も抱えているからこそ感じ取れるのだと思った雫は、葵が自ら話し出してくれるまで待つことにした。まだ、時間が必要なのだ。葵にも、そして自分にも。
気掛かりと言えば、と、雫はふと思い出した。
先の会合で話し合っていた
そのはずだった。
「……」
足を止める。
会合は既に終わっていたようで、大広間の方から人の気配は感じられない。が、渡り廊下の向こう側に、行く先を阻むかのように立つ人影が見えていた。
「ずいぶん遅い時間までお楽しみだったんだな」
その言葉は自分に向けられたものであることは分かっていたが、雫は答えることをせず、再び歩き始めた。
「村長の屋敷に出入りできるのは夜半までと決まっているだろう。いつまでも家族気分で好き勝手なことをしていると、その内厳しく罰せられるぞ」
「ご忠告どうも。だけど、それはそっちにも言えることなんじゃないの?
お互いの表情がはっきりと確認できる距離で、雫は立ち止まる。十郎は口元に不快な笑みを浮かべ、勝ち誇ったかのような不遜な態度で雫を見下ろした。
「お前と一緒にするな。俺は、ついさっきまで村長や護衛団長と重要な機密事項を話し合っていたんだ」
「……機密、事項?」
「ああ、そうだ。あいにく、お前のような立場の者に聞かせてやれる内容ではないがな」
眉間にしわを寄せてさも残念そうな顔をして見せる十郎に、呆れて反論する気も起こらない、とばかりに、雫は大仰に溜息をついた。
先述の通り、雫は十郎のことを好くは思っていない。そしてそれはどうやら十郎も同じらしく、何かあるごとにこうして悪意ある言葉を向けてくる。それは、初めて顔を合わせた時――雫が初めて護り役の任務に就いた頃からそうだった。当初は、気付かぬ内に彼に対して何か礼を失した行為をしでかしたのか、と悩んだものだが、重箱の隅をつつくようなあてこすりを何度も受けている内に、これはただのいじめであると気付いたのだ。
生理的嫌悪だけなら、表面上友好的な付き合いもできただろうが、こうして訳もなく喧嘩腰で突っかかってくる相手を快く受け入れられるほどの器は持ち合わせていない。普段はなるべく接点を持たないようにしていたが、今夜のように関わりを避けられない事態になると、こうして諍いが始まってしまっていた。
「なら、いちいち話し掛けないでちょうだい。嫌いな相手に無理に関わることもないでしょうに」
雫はそう言うと、十郎の横をすり抜けてその場を立ち去ろうとした。
「俺の意見が通ったよ」
「え……」
唐突にそう言われ、何のことかと尋ねようとしたが、言葉は続かなかった。雫の思考が、先ほどの会合で十郎が見せた不愉快な弁舌に行きついたのだ。血の気が引き、背中を冷たい汗が流れるのを感じながら、雫はただ呆然と十郎を見上げるしかできなかった。
「村長はやはり聡明なお方だ。俺の提案をそのまま、何一つ訂正を加えることなく採用して下さったんだから」
「う、嘘。そんな……そんなはずは」
「……嘘、だと?」
やっとの思いで絞り出した言葉に反応し、感じの悪い笑みを湛えたままで雫を見下ろしていた十郎の顔が、突然表情のない冷たいものに変わる。
「なぜ嘘だと思う? まさか、自分の感情に任せた訴えで村長の心を動かせるとでも思ったか?」
「な……っ」
「馬鹿馬鹿しい!」
反論を許さないと言わんばかりに語気を強める十郎。雫は得体の知れない迫力に押され、思わず身を硬くした。
「俺の崇高で建設的な提案が、埒もないお前の感情論などで覆されるわけがないだろう。……これだから、女をああいった会合の場に立ち会わせるのは嫌なんだ」
「……何なの、それ。あんた一体どういうつもりで」
「男が築いてきた世界に女が首を突っ込むと碌なことがないって意味だよ。
ここで感情に走って手を出してしまえば、十郎に対して負い目を持つことになってしまう。それは重々分かっていたのに、雫は湧き上がる激情を抑えることができなかった。
「いい加減にして……!!」
十郎の胸倉を勢いよく掴んで引き寄せ、強く睨みつける雫。十郎はその無法な振る舞いに抵抗せず、それでも目を据え憎しみを込めた視線を返した。
「その”女”を使って村の政をいいように動かそうとしているのはどこの誰? 自分一人では何も解決できない癖に、自分以外の人間を愚弄するのはやめなさいよ!」
「……
「しきたりの話をしているわけじゃないことぐらい分かるでしょう!」
静かに、だが鋭く響く雫の声が、十郎を圧倒する。
「私にとって葵は昔からずっと変わらない友人で、大切な人なの。それは村長も同じはずなのよ。それなのに……!」
「村長も同じ、だと……?」
十郎が眉を顰める。理解しがたい、といったその表情に、雫は尚も苛立ちを募らせた。
「どうして葵を生贄として差し出すような真似をするの? どうして葵ばかりが我慢を強いられなければならないの? あの子に何かあったら、私、私……!」
十郎の眼光が、妖しく揺れた。月の青白い光が照らし出したその瞳は、なぜか赤い色を帯びているように見える。その不気味な色合いを見止めた雫は、はっとして、乱暴に握りしめていた襟元から手を離し、一歩後ろへと下がった。
「分からないな」
乱れた服を正しながら、十郎が呟くようにそう返す。
「生贄、というのはある意味その通りかもしれない。だが、そのことに何の問題がある? 岩佐のお遊びに少し付き合ってもらう、ただそれだけのことだろう」
「岩佐は大した人間ではないけれど、意味のないことをするほど愚かでもないでしょう。……誰も傷つくことなく、平穏無事に済むとは到底思えない」
「いいや、済むんだよ」
堂々と、そしてきっぱり言い切った十郎に、雫は動揺からか二の句を継げずに押し黙った。
「命を奪うなんてもってのほか、傷一つ付けられることもなく全て終わる。それは菫青御前だけに限ったことではなく、この村全体に言えることだ」
「何を……何を根拠にそんな」
「根拠なんかない、ただの”勘”だよ。……お前だって得意だろう、勘で物事を判断するのが」
小馬鹿にした口調でそう言われ、雫はぐっと唇をかみしめる。返す言葉を失い悔しそうに口を噤んだその様子を満足げに見つめてから、十郎は踵を返して雫に背を向けた。
「ああ、それから」
立ち去ろうとしていた足を止め、思い出したように言いながら十郎が振り返る。
「菫青御前の身辺警護にあたる人材として、お前を強く推薦しておいたよ」
「え……」
「せめてもの施しってやつだ。……さっきの不作法を許すことも含めて、感謝してほしいね」
そう言い残し、今度こそその場をあとにする。
そんな十郎の後ろ姿を一瞥してから、雫は軽く目を伏せた。心の中は苛立ちや怒りがくすぶっていたが、それとは裏腹に、頭は冷静な思考を展開していた。先ほどの十郎の発言に、わずかではあるが違和感を覚えたのだ。
「命は奪わない」などと、なぜあそこまではっきりと断言できたのだろう。
自分への嫌味のつもりで発言したように装っていたが、そうではないような気がする。
それに何より、村長が十郎の意見を時間を掛けて熟慮することなく、こうもあっさりと受け入れるとは思えない。
そこまで考えて、雫は顔を上げた。十郎の背中が、長く伸びる廊下の向こうで夜の闇に呑まれて行くのが見える。やがてそれが見えなくなり、気配が遠ざかったのを確認した雫は、息を一つついてから歩き出した。
すぐにでも確認しなければ、そう考えた雫が向かったのは屋敷の玄関ではなく、先ほどまで会合が行われていた大広間だった。
◇
「こんな深い時刻に、何用でここに来た」
文机の前に鎮座し、何事かを書きつける作業をしていた
会合を終えてすっかり片付けられた大広間は、今は襖で仕切られ、こじんまりとした元の書院の姿に戻っていた。
「……私は、どう動けば良いですか」
入室の挨拶もそこそこに
「何のことだ?」
「先ほど十郎から聞きました。彼の提案が採用された、と」
問い掛けた綾竹ではなく、柳仁を真っ直ぐ見つめたままでそう答える雫。
「……それがどうかしたか」
にべもない。柳仁のその様子は期待していた反応と違っており、雫は少しの焦りを覚えた。
「その……村長がこのような重要な案件に対して、早々に結論を出すとは思えないのです。彼の意見を取り上げたのには何か目論見があるのではないかと」
「目論見などない」
再び机上の帳面に視線を落としながら、柳仁は即座に短くそう答えた。
「使者は明日ここを発つ。早急に返事をする為にも、議論を長引かせるべきではないと判断したまでだ」
「そ、そんな……。それじゃ、葵は……!」
答えに納得できず、雫が尚も詰め寄ろうとしたところを、綾竹が手を翳して制した。
「村長の決めたことだ。そもそも、お前は意見できる立場じゃないだろう」
「だけど!」
「これ以上の私見は聞かぬ。お前は、与えられた仕事を抜かりなくこなせば良い」
その与えられた仕事というのは、葵の身辺警護のことだろう。十郎から施しで与えられた任務など、喜んで引き受けられるはずがない。雫は湧き上がった怒りに任せ、その役割を放棄するべく口を開きかけた。
「私見は聞かぬと言うておる。儂の命に従わぬという選択肢は、お前には無いはずだ」
厳しい口調で叱咤され、雫は黙って握りしめた拳を見下ろした。雫の心は、これまで信じてきた絆を否定された絶望と失望でいっぱいになっており、今にもその感情が瞳から溢れそうになっていた。
村長も、十郎と同じ考えなのだろうか。
”葵”のことなど忘れ、”菫青御前”としての価値しか見ていないのだろうか。
そして、私のことも……。
失意の中でそんなことが頭を駆け巡り始めた、その時。
「儂は、お前を信じておる」
「え……」
つと、顔を上げる。
独り言かと思うほどに低く小さな声で、もしかすれば空耳として聞き流したかもしれないような不明瞭さであったが、その言葉は確かに雫の耳に届いた。
真意を確かめようとした雫は、柳仁と、恐らく自分と同じように聞こえたであろう綾竹とに、視線を交互に送る。
柳仁は先ほどと変わらず、美しい姿勢を保ったまま筆を走らせている。隣に座る綾竹も素知らぬふりで薬茶の入った茶碗に口を付けているが、ちらりと視線を寄越しながら小さくうなずいた。
「任務の件は追って詳しく知らせる。今宵はもう遅い、早々にここを出るがよい」
「……はい」
わずかな沈黙を置いてから、雫は柳仁の指示に従うべくゆっくり立ち上がる。
柳仁が何を為そうとしているのかは分からない。だが、あのたった一言、それだけで雫は全てを納得した。その表情には先ほどのような絶望や失望などは残っておらず、ただ新たな務めを任された”護り役”としての強い気概が表れていた。
◇
屋敷から出る雫の様子を、物陰から凝視する存在があった。雲に覆われていた月がじわりと顔を出し、その相貌が照らし出される。
十郎だ。
ぎらついた、負の感情全てを凝縮したような凄まじい眼光であったが、醸し出す気配はそれに見合わないほどに静かなものだ。その静寂さは死人を思わせ、さしもの雫も、その息差しに勘づくことが出来ないようだった。
異変を感じて振り返ることもなく真っ直ぐ帰路へと着き、やがてその後ろ姿は小さく遠ざかって行く。
再び月が雲に隠れ、それと同時に十郎も闇に溶けるように消える。何事もなかったかのように、いつもの粛たる夜だけがその場に残っていた。
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