友との縁(4)
分かつ襖は取り払われ、普段は書院として使われているこの部屋は広々としている。
廊下と部屋との境できっちりと閉じられた障子戸の前には、全てを話し終えた
二人の間を阻むものは何もないが、両脇には村の政を担う”
一人ひとりの前には薬茶とナバ餡のふかし饅頭の載った
「あり得ん」
ぽつりとそう言ったのは大賢役の一人、
「マナの力の一部を返せば神々がまた輝き出すなど、そんなことはあり得んわい」
薬茶を静かに啜りながら、歳月を重ねた証である皺を更に深く刻み、苦り切った表情でそう呟く。
「そうですかな。元来マナは神が扱う力だったと言われておるし、俺はこの方法はあながち間違いでもないように感じるが」
「儂が言うておるのはそこではないわ。なぜ”一部”で良いのか、ということじゃ」
反論し掛けた賢役の一人に対し、源山はぴしゃりと言葉を返した。
「もしそのやり方が正しいとしても、人間如きの僅かなマナでは到底間に合うはずがない。お返しするというのなら、マナの全て――否、聖域そのものを捧げるべきじゃと思わんか?」
静寂が訪れる。
”聖域そのもの”という言葉の意味、そこには当然、自分たちの生命も含まれていることは皆が思い至っていた。しかし敢えて触れようとする者はおらず、源山の問い掛けに対する返答の声が上がる気配はなかった。
「実際、星が輝きを取り戻した様子はなかろうて。その理由として『返すべき力の数が足りん』など、苦し紛れの稚拙な言い訳をしておる。儂には、岩佐が斯様な大義を隠れ蓑にして、別の目的を果たそうとしておるようにしか見えんがの」
僅かな雑音も起こらない程に粛然とした中で、源山はそう言葉を続けた。
この会合において情報提供以外の発言を許されていない雫は、姿勢を正したまま身じろぎせずに成り行きを見守っていたが、その相貌には僅かながら安堵の色が滲んでいた。
使者から聞いた『マナ使いは皆無事に帰った』という言葉に
「雫。お前はどう感じた?」
低く重みのある声でそう問われ、慌てて顔を上げる。それまでまぶたを伏せて腕を組み、静かに話を聞いていた柳仁の視線は、いつの間にか雫の方へと注がれていた。
「どう、と申しますと……」
「この話をした使者の様子だ。こちらを騙そうとするような動きは、僅かでもなかったか」
柳仁の問い掛けに、雫は即座に首を横に振って否定をする。
「あのご武人方は、この方法が正しいものであると信じておられるようでした」
「ならば岩佐が二人を惑わせている可能性は?」
「……有り得ない、とは言い切れません」
「ふむ、そうか……」
自分の心情や考察はなるべく排除しながら、慎重に答える雫。
柳仁は一つ、二つうなずくと、煙草盆を静かに膝元に寄せた。もう齢四十と五つを越えたとは思えぬほどにがっしりした柳仁の体躯は、最盛期の頃なら村一番の豪傑だったであろうことをうかがわせる。しかし背筋はすらりと伸びており、些細な仕草なども決して粗野ではなく、どことなく気品さえ感じさせた。
「俺も
静謐さを漂わせる柳仁と相反するように、やや荒っぽい声を上げたのは綾竹だった。夕刻からの一人酒盛りがたたったせいで赤ら顔は治まりきってはいないが、きっぱりとした口調や揺れることのない黒目の動きからして、思考ははっきりしているようだ。
「岩佐は、星の喪失を食い止める、なんていう崇高な信念を持ち合わせるような人間じゃないからな。奴はきっと何か良からぬことを企んでいて、それを実行でき得る”力”を手にしたんだ」
そう言うと、綾竹は茶碗を手荒に掴み、中身を一気に飲み干した。
「力、ですか?」
賢役の若者、
「考えてもみろ、岩佐は石高も兵力もそれほどない小国の領主でしかないんだぞ。おまけに周辺諸国はおろか領民にすらも嫌われる鼻つまみ者だ。そんな奴が何の後ろ盾もなく、聖域に対してこんな大胆な行動に出るまいよ」
忌々しげに話す綾竹の瞳にはほのかな憎しみが宿っており、その感情は他の者も同じように抱いているものらしく、いささか剣呑な雰囲気が場に流れた。
村の者たちがこの岩佐
この村は岩佐家の領内の真ん中に存在しており、柳仁が生まれる前から隣国としてお互いに良い関係を築いてきたのだが、今の豊重の代に移ってからはその均衡があっさりと崩されてしまった。前当主の実子とは思えぬ不遜な態度も問題なのだが、他国とのつばぜり合いに、この村のもつ武力、もしくは
「岩佐を焚きつけたのは誰か、真の目的は何なのか……。その他諸々、不明瞭な点が多すぎるようじゃの」
「ええ。今の俺たちに必要なのは、確かな情報ですな」
源山に同調し、綾竹が言葉を続ける。二人の出した意見に大きく頷く者、腕を組み深慮する者、低く唸るような声を上げ天井を仰ぐ者、反応は様々ながらも異論は見られない。綾竹はその様子を一通り確認してから息を吐き、再び口を開いた。
「どう動くにせよ、何も分かっていない今のような状態で事を起こすのは危険すぎる。岩佐への返答は今回は曖昧なものに留めて時間を稼ぎ、その間に――」
「いっそのこと、話に乗ってみてはいかがでしょう」
当面の動向に目処が立った所で緩み始めていた空気が、一瞬にして冷たいものに変わる。綾竹の言葉を遮ったのは十郎からの思いも寄らない提案で、皆の視線は一挙に十郎に集中した。
「それは……菫青御前を岩佐に黙って差し出せということか?」
「争わず、そして早々にこの件が片付くのならそれも一つの手かと」
綾竹の問いに、事も無げに応える十郎。しかし彼の意図を正しく汲み取れた者は誰一人おらず、それぞれが訝しむように眉根を寄せていた。
「無論、手放しに先方に従うわけではありませんよ。あちらの要求を呑む代わりに、我々に有利かつ菫青御前の身の安全を最大限護れる条件を付けるのです。その上でお預けするということなら、問題は無いと思いますが」
にわかに室内がざわめき出す中、雫は静寂を守りながらも膝に置いていた手を強く握り締めていた。
雫は、この賢役の十郎を非常に苦手としていた。日の光のぬくもりなど忘れてしまったかのように青白い肌や、歳はそう変わらないはずなのにどこか老獪な色を湛えたきつい眼光、人を愚弄するかの如き高飛車な口ぶり。十郎という人物を形成する全ての要素が、雫の五感を逆なでするのだ。
そんな本能が全力で拒絶する人物であっても、時勢を正しく読み、村が外の世界と乖離しないようにと、ここ数年の政を動かしてきた中心人物でもある十郎の言葉はそれなりに重い。実際、部屋に充満する喧騒の中には十郎の意見に同調する声も見受けられ、雫はますます焦りの色を濃くしていった。
「十郎。お前が何の考えもなくそのようなことを口走るとは思えん。そのような見解に至った旨、皆に分かりやすく説明してくれ」
柳仁の一声によって室内は静まり返る。それに合わせるように、雫も目前にちらついていた苛立ちを抑えるべく、呼吸を深くして心を落ち着けた。
十郎は自分への注目が充分集まったことを確認してから、気取った様子で咳払いをした。
「まず、綾竹殿の仰った”力”が背後についたという説ですが、あれには同意しかねます」
「……何?」
綾竹が気色ばみ、それに倣うかのように護り役の面々が鋭い眼光で十郎を射抜く。これまで様々な死線をかいくぐって来た猛者たちが与える無言の重圧には、凄まじい威力がある。しかし、本来なら居心地の悪いはずのその空気の中、十郎は全く意に介さない様子で言葉を続けた。
「今までもそうだったでしょう? 『自分を怒らせると、懇意にしている大国が大挙して攻め入るぞ』と幾度となく脅されてきたではありませんか。そして、実際に攻め入られたことは一度としてなかったはずです」
「それは……」
「そもそも、岩佐殿がそんな後ろ盾を得るほどの器量を持ち合わせているとは到底思えない。これまで積み重ねてきた事実があるにも関わらず、勝手な想像で相手の大きさを見誤るのは非常に愚かしいことですよ」
綾竹は、酒によるものとは違う作用で顔を紅潮させていた。自分の意見を真っ向から否定されたという稚拙な怒りを滾らせているのではなく、十郎のあまりに尊大な態度に苛立っているのだ。そのことは誰の目にも明らかだったが、根源である十郎自身は平静そのもので、そういった人の機微を汲み取れていないようだった。
「だからと言って、何も問題が無いとは言い切れんのではないかの。巫女なるマナ使いと聖域は切っても切れぬ縁、お互いがお互いを拠り所にして成り立っておるようなもの。菫青御前がこの村を離れることの危険性は、お主も重々分かっておるはずじゃろうて」
殺伐とし始めた様子を見かねたのか、源山がゆったりとした口調で宥めるように十郎に問い掛ける。それが功を奏したのか、今にも飛びかからんばかりの勢いだった護り役の数人も、源山の口出しによりその強い敵意を各々収めていた。
「ですから、先ほど申し上げた通りです。そういった事情も鑑みて条件を付ければ良いのですよ」
「条件、のぅ。それを我々が事細かに定めたとして、果たして岩佐が守るかどうか……」
「守らなければその時点で御破算にすれば良いだけのこと。あくまで主導権はこちらにあるという体で進めていくのです」
皆の視線を一身に集めたまま、十郎の得意げな弁舌は続いた。
「この村は岩佐殿の領内にありながら、ここ最近はあまり良くない関係にある。……まあ、彼の人となりが招いた結果ですから、仕方ないと言えば仕方ないですが。とは言え、やはりそういった状態を続けることは好ましくないと私は思うのです」
「関係を緩和させる為に、菫青御前を使うのか」
「
「……何?」
綾竹の眼光が鋭く光る。それまでまんべんなく周囲を見渡していた十郎は、ゆっくりと綾竹に視線を移した。
「今やほとんど敵対状態にある相手に菫青御前をお預けするのは、無謀なように思えるかもしれません。しかし、国をも落とす力を持つと言われる護り役が総力を挙げて護衛につけばどうです?」
「……」
「たとえ岩佐殿に良からぬ下心があったとしても、そこまで厳重に護られていては下手な手出しはできないでしょう」
護り役の力量には絶対的な自信があるが故か、綾竹は反論できずにぐっと押し黙ってしまった。一旦、何事か考え込む様子を見せた後に口を開きかけはしたものの、結局そこから吐き出されたのは言葉ではなく深いため息のみだった。
「これは好機なんですよ。岩佐殿の戯れに付き合ってやることで僅かでも恩を売れば、関係改善の足がかりになる。そこから重ねて発展させることができれば、今後大きな問題が生じても友好的且つこちらに好都合な形で解決が望めるようになるかもしれないんです」
これでもう皆の心は陥落した、と言わんばかりに、十郎の視線はいつの間にか最上座の柳仁のみへと真っ直ぐ向けられていた。
「たとえどんなに下らない理不尽な要求をされたとしても、真っ向から拒絶して対立するばかりでは何も得る物はありません。更に溝を深めるよりも、我々に有益になるよう立ち回ることも必要ではないでしょうか」
急場しのぎではない、今後の村の在り様までも見据えた十郎の提案に、反論する者はいなかった。
ただ、一人を除いては。
「駄目です!」
突如上がった、その声。弾かれたように振り返った皆の視線の先には、末席で沈黙を守っていた雫が穏やかならざる形相を晒していた。
「駄目です。岩佐に渡せば、きっと……きっと
「”菫青御前”だ、雫」
綾竹に咎められた雫は一瞬言い淀んで唇を噛み、それでも尚続けた。
「っ、菫青御前はきっと無事では帰って来ない!」
叫びにも似た声音で訴える雫の言葉に、一同の表情に戸惑いと不審の色が浮かんだ。
「何を言っているんだ?」
幾ばくの間を空けることもなく、十郎の嘲りを含んだ指摘の言葉が飛ぶ。それは生温い霧のように纏わりつき、その陰鬱な感触に苛立ちを覚えた雫は強く十郎を睨みつけた。
「さっき岩佐殿の使者から聞いたんだろう。マナ使いたちは間違いなく、無傷でそれぞれの集落にお返ししたと」
「それは……そう、だけど」
「しかも嘘をついている様子はなかったとも言ったじゃないか」
「でも、全てを知っている風ではなくて……」
十郎を捉える眼光とは裏腹に言葉尻を弱くする雫。それもそのはず、雫の主張にはなんの裏打ちもないのだ。ただ漠然と胸に抱えていた違和感を、どうにか言葉にして吐き出しただけに過ぎない。そのようなぼんやりした申し立てが誰の心を動かすはずもなく、十郎は『話にならない』とばかりに頭を振り、一同も同じような心境であることを物語るように視線を落とした。
しかし、そんな冷たく垂れこめる空気を振り切るように、雫は膝をすりながら大きく前に出、上座で紫煙を燻らせている柳仁を真っ直ぐに見つめた。
「お願いです、村長。どうか、お聞き入れを」
「弁えよ。お前の発言は許されておらぬぞ」
柳仁の低く太い声が、雫の口を塞がんとして重く響く。
「重々弁えております、その上で申しております!」
「弁えているなら口を慎め!」
十郎の苛立った声が、床に手を付き背を丸めて懇願する雫に容赦なく突き立てられる。
「お前はそもそも、この部屋にいられる立場じゃないんだ。ただ状況を説明する為だけに呼ばれた癖に意見を通そうとするなどと――」
「菫青御前を……葵を、どうか……!」
「皆さま、夜更けによくお集まりで」
突如、細く高い朗らかな声が響いた。暗い曇天を割って一閃の光がぱっと差し込んだかのような情景を思わせるその声音。聴き馴染みのあるその声に、雫はゆっくりと頭を上げた。
「菫青。何しに参った」
「たまたま通りすがっただけですわ、村長」
柳仁の問いに答えながら優雅な面差しで室内を見渡すのは、菫青御前だった。
高い位置に馬の尾のように結い上げられた漆黒の髪は、朱色の飾り紐で固く縛られた先から肩を通り、胸の前に垂れながらつややかになびいている。上は赤褐色の大袖と白い
「お楽になさって下さい。私の名を呼ぶ声がしたので、覗いてみたまでですから」
そう言って、不思議に輝く紫色の瞳を真っ直ぐ雫へと向ける。
「部外者は出て行きなさい。今は重要案件の会合中だ」
「あら、つれないこと」
柳仁に窘められた菫青御前は無邪気に言いながら、ぷいと顔をそむける。露わになった真っ白な首筋に十郎が魅入っていることに気付き、雫はあからさまな不快感をその表情に浮かべた。
「では、邪魔者は退散します。――雫、あなたも一緒にいらっしゃい」
「え……、ですが」
「何か不都合でも?」
柳仁の答えを聞かずして席を離れるわけにはいかないと、雫は視線をちらりと柳仁の方に向ける。その
「いいわよね、父様?」
「何でも構わんから、とにかくここを去れ。お前がおっては話が進まぬ」
”お前”とは菫青御前のことなのか、はたまた自分のことなのか。
どちらにしろ、今自分がこの場にいることは好まれていないことを改めて感じ、何となく気の殺がれた雫は諦めて菫青御前の命に従うことにした。
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