友との縁(3)
「本当に大丈夫か」
「大丈夫じゃなかったことなんて一度もないでしょう?」
「それは、まあ……」
「じゃ、またね」
歩き出しても尚、まだこちらを見送っている籐馬の視線を背中越しに感じ、雫は少しげんなりした。
いつまで子ども扱いするつもりだろう。
あの調子だと、自分がおばあさんになっても家まで送りたがるに違いない。
できればその時は、籐馬の隣に自分ではない別の愛する人がいて、子どもがいて、孫がいてくれるといいのだけど。
家路を辿りながら、そんなことを考える。その時自分はどうなっているのか、ということもふと思ったが、あまり深く思考を巡らせるのはやめておいた。
丸い月は、今日も静かな光を与えてくれている。雫はこの光が好きだった。太陽のようにぬくもりは感じないが、それでも何故か心がほっと温かくなるのは、幼い頃に聞いた神話に月の優しさが描かれていたせいなのかもしれない。
種を蒔いたばかりの小麦畑に挟まれた小道を通り、飲川に架かった小さな橋を渡る。続く畑には豆が大きく育っており、すでに赤や白の鮮やかな花をつけていた。その華やかな様子は春の空気をひしひしと感じさせてくれ、雫はなんだかうきうきした心持ちになった。
籐馬に勝った。漉慈と久しぶりに話をした。
今日は、いい一日だ。
あとはこのまま家に帰って、また新たな日を迎えるだけ。
明日もまた良い日になることを期待しながら歩く。そして、そろそろ自宅が見え始めるかという辺りに差し掛かった時、道の向こうから誰かが走ってくるのが分かった。背丈からして子どものようだが、ここからは暗いせいでまだはっきり確認できない。
雫はその場に足を止め、その人物が誰なのかを確かめようと目を凝らした。
「雫姉さま!」
「
小さな影は、澪だった。澪は雫の元に駆け寄ると、思い切り地面を蹴り雫の胸に飛び込んだ。
「お帰りなさい、雫姉さま!」
「ただいま、じゃなくて……。こんなに暗いのに、外に出ちゃだめでしょう」
「ごめんなさい、でもあたし、雫姉さまに用事があって」
言いながら雫を見上げる澪の大きな耳が、ぴくぴくと揺れている。
澪は人狼族の血を引いており、身体の所々にその特徴が顕れていた。茶褐色の髪や
雫は、特にこの耳がとても愛らしくて好きだった。嬉しいことがあると、今のように元気に揺れ出し、悲しいことや辛いことがあるとしょんぼりと下がってしまう。時に表情や口よりも雄弁に感情を語るので、隠し事ができず本人は困っているらしい。
「それで、用事って?」
「うん、あのね。あっ、その前に聞いて! あたし、また背が伸びていたのよ」
「み、澪?」
「それで着物が小さくなったからって、
「澪、ほら、ちょっと落ち着い」
「それで、それで、」
「みーお!」
頬を両手で挟み、暴走を止める。
「用事があるんでしょう? しかもこんな暗い中わざわざ来たってことは、何か急ぎのことではないの?」
雫がそう言い聞かせるように言うと、澪は頬を挟まれたまま、はっとしたように目を丸くした。
「そ、そうだった。あの、
澪の耳がしゅんとうなだれる。
「村長が?
余りの可愛さに思わず抱きしめそうになるのをぐっと堪えて尋ねると、澪は黙ってうなずいた。
菫青御前というのは村で唯一の巫女だ。この大仰な名は巫女であることをあらわす『
葵は村長の一人娘で、両親がおらず村長に引き取られた雫や漉慈と一つ屋根の下で生活を共にしてきた。こと雫においては、同じ女同士ということもあり、特に仲が良かった。
菫青の名を襲名してから、葵は掟によりほとんど外出できず、また雫が村長の屋敷から独り立ちをしたこともあって、気軽に会うことができなくなってしまった。その為、住まいを同じくする澪に
そういうこともあり、澪が呼びに来たのは葵の手引きによるものだと思っていたのだ。しかし、今回の呼び出しは村長かららしい。こんな時刻に幼い澪を使いにやったということは、何か自分が屋敷を離れられない事情があるのだろうか。
先程まで弾んでいた雫の心の一端に、じわり、と黒い染みのようなものが滲みだした。
◇
「ですから、先刻から申しておる通りに……!」
「先刻から申しておるのはこちらとて同様。
「気まぐれなどではない! 殿は民の平和を守る手立てを見出さんと画策しておられるのだ!」
村長の屋敷の表門を潜ったところで、口々に騒ぐ男達の怒声と村長の落ち着いた声が雫の耳に届いた。急いで歩を進め、玄関口が見える場所まで来たところで足を止める。澪には庭の方から屋敷内に入るように言い含めてから、客人の背後にそっと近づいた。
村長を説得せんと白熱しているせいか、喚いている男二人はこちらには気付いていない。着ている物は村の宿に用意してある小袖のようだが、立ち居振る舞いからして時折ここに足を運ぶ行商人ではないようだ。
「ではその”画策”とやらの具体的な内容を、村の皆の前で分かり易くご説明下され」
「……殿のご意向ゆえ、仔細は村長以外には伝えられぬことになっておる!」
「話になりませぬな。何も分からぬ状況下で
「それは……」
「……」
「長」
喧騒がふと止んだ隙を見て、雫が声を掛ける。驚いて振り返る二人の向こう側に、村長である
「雫、この武家方を”お
「はい」
「なっ……! まだ話は終わっておらぬぞ!」
「当方がお話しできることはもう何もございませぬが?」
言葉自体はそれほどでもないが、柳仁の醸し出す雰囲気は非常に物々しい。見えぬ覇気に当てられ、二人は思わずたじろいで口をつぐんだ。
「夜も更けました。明日のご出立に備えてどうぞごゆるりとお休み下され」
その場を辞去する挨拶は、もちろん二人の使者に向けられたものだ。しかし、柳仁の視線は真っ直ぐ雫を捕らえており、その意を解したように雫も小さくうなずいた。それを確認した柳仁は背を向け、奥へと引き込む。引き留めようとした使者の動きを、雫は不自然なほどに大きな咳払いしてを遮った。
「こちらへどうぞ。ご案内致します」
二人は顔を見合わせ、何事か目配せをして確認し合っていたが、これ以上の話し合いは無理だと結論付けたのだろう。大人しく雫に追従した。
”お燕”というのは、正式には”
燕の背のように黒い屋根に、腹のような白い壁、夜分に灯る赤い灯は喉元の鮮やかな色を思わせることから付いた名である、などと村のご老体達は話すが、本当の由来は分かっていないらしい。
「いかが致そうか。今回も収穫がないとすると流石に……」
「しかし、これ以上の手立ては我らには……」
後ろを歩く二人がひそひそと話す声は、雫の耳にも入っている。しかし、雫はそれに気付いていない振りで燕楽屋敷への道を辿った。
ここにやってくる客人のほとんどは礼儀正しく、村の規則にも嫌な顔せずに従ってくれるが、たまに良からぬ下心を抱えている者が紛れていることがある。村長と彼ら二人の言い争いの中で聞こえた”岩佐”――
「幾ばくの間だけ、菫青御前を我らに預けるだけで良いと言うのに…」
零れ聞こえてきた会話に、やはり目的はそれか、と雫は思った。
この村は、各国のあちこちに点在する”聖域”と呼ばれる地域の一つに数えられている。聖域とは、神話に描かれている”初めの人”が木と共に生活をしていた場所とされており、人の支配を受けるべきではない神聖な地として崇められ、各国からの統治を一切受けずに独自の政を展開してきた。
近隣諸国とは同等の立場で、すなわち一つの国として何らかの協定や同盟を結んでいるが、その中で”争いごとには加担しない”というものがある。幾ら友好的な間柄であっても、神の息吹が根付く地に生きる者は、他所の土地を奪い人を傷つけるという穢れた行為には手を貸さないという姿勢を示しているのだが、時折この約束を忘れた素振りで、むしろ初めからなかったという体で、『兵を貸してほしい』、『菫青御前に
殊、岩佐においてはこうした申し入れが非常に多いこともあり、先ほど柳仁が使者の話を聞きもせずに拒絶したのは、何度頼まれてもこのような要求には端から応えるつもりがない、という強硬な意思表示をしたつもりだった。
「戦でも始まるのでございますか?」
決して振り返ることはなく、歩みも止めず、雫は後ろの使者たちに問い掛ける。途端に空気は色が変わり、背後の二人が自分に対して強い警戒心を抱くのを感じた。
「……何故、そのように思う?」
強張った声で、一人が尋ねる。雫はそこでようやく足を止めた。
「ここ最近、村にいらっしゃる諸侯の使いの方々の様子が何やら物騒なのでございます。長もはっきりとは申しませんが、何事か心労を抱えているようで」
雫の言っていることは嘘ではない。武人が物騒であるのはいつものことで、柳仁も村長として常に何かしら心労を抱えている。それをさも意味ありげに言ってみただけなのだが、使いの二人には充分な刺激を与えるに至ったようだ。
「女。今一度、柳仁殿に目通りさせてはくれまいか」
「それは致しかねます。月が南中を過ぎて以降、ご客人が村長と相対することは許されておりません」
「……ではこのように伝え置いてくれ。我らは戦の準備を進めているわけではない、と」
「え……」
雫はゆっくりと振り返った。思っていた返答内容でないことに驚いたのもあるが、その言葉が真実であるかどうかを、相手の表情で見極めようとしたのだ。
「どういう事でございますか? 菫青御前の力を欲する者は大抵が……」
「そなたも知っておろう。星々が消えゆく現象を」
雫の言葉を遮り、一人の使者がまるで関係のなさそうなことを問い掛ける。
「おい、それを話して良いのは村長のみであると……!」
「その村長が話も聞かぬ内から取り合ってくれぬのだ、致し方あるまい」
そう言ってもう一方の使者を制し、ゆっくりと雫に向き直る。
「殿の目的が諸侯の下賤なものと一線を画していることが伝われば、柳仁殿の頑なな心も溶かされるやもしれぬ」
探るような視線を向けても、少しの揺らぎも見せない相手の声色。雫はこれから語られる話が本当のことであると確信した。
「十数年ほど前からであろうか、夜空の標となる光がなくなり始めたのは」
その言葉に、雫も小さくうなずいて見せながら、幼馴染たちと共に不安を話し合った事を思い出した。
星の輝きは、大地に生命を与えた後に空へと帰っていった神々であると信じられている。しかし近年、その星は次から次へ輝きを失い、暗く広がる夜の闇にすっかり取り込まれてしまっているのだ。人々はその現象を”世界の終わり”の始まりだと噂し、底知れぬ恐怖を感じ続けてきた。
異常を正す術が一介の人間にあるはずもなく、それでも尚解決の糸口を探る動きは各国に広がっていたと言う。中でも熱心に活動していたのが、岩佐だった。
岩佐は纏わりのありそうな文献を読み漁ったり、各国に使者を派遣しては志を同じくする者から話を聞くなどして情報を集めた。時に敵対国にも自ら足を踏み入れて、首元に刃を当てられながらも共に真相を究明することを呼び掛け、文字通り命を掛けて事態の収拾を図っているらしい。その甲斐あってか、ある可能性に気付くことができたと言うのだ。
「”マナ”を、神々にお返しすれば、また星は輝きを取り戻す」
「……!」
「星は……神は消えたのではない、ただ今は力を著しく失っているだけのこと。ならばその昔、”初めの人”に分け与えられた力をお返しすれば、或いは……」
”マナ”というのは、普通の人間には存在しない不思議な力のことだ。それを使用すれば、例えば火勢を昂ぶらせる、あるいは風雲を疾める、水流を激化させる、土壌を隆起させるなど、特異な現象を起こす事ができる。そんな力と術を持つ人間を”マナ使い”と呼んでおり、聖域においてのみ、何らかの印を体に刻んで誕生するのだ。そしてそのマナ使いの一人として名を連ねるのが、菫青御前その人なのである。
雫は、岩佐の打ち立てた説が意外と理に適っていることに非常に驚いた。そして、だからこそと言うべきか、余計に不信感を募らせた。
そもそも岩佐という男は、民の為を思って動くような殊勝な人物ではない。自分本位でずる賢く、利にならないものは容赦なく切り捨てる。使者が言うように、星が消える現象をそれこそ”民の為に”必死になって抑えようとする姿など想像もつかないのだ。
この二人は今の話を真実だと捉えているようだが、実際はどうだろうか? 主君から偽られて伝えられた文言を、そのままこちらに横流ししているだけでは……?
そう思った雫は、更に深いところを突いてみることにした。
「力を返す、とは、一体どういった方法で行なうおつもりなのですか」
「それは……我々の理解を超えた面妖な手立てであるということしか」
「はっきり伺います。その手立てとは、マナ使いの命を絶つことではないですか?」
「違う!」
雫の問い掛けに、二人はまるで激昂したかのように間を置くことなく激しく否定した。
「これまで数人のマナ使いの力を神に返したが、全員傷一つなく聖域へ帰っておる!」
「その通り。某もこの目で然と確かめた故、間違いは無い。しかも、神にお返しするのはマナの一部で良いらしく、力も一時的には弱まるものの、これまでと変わらず使えるそうだ」
黙したままで見つめるが、二人に動揺は見られない。ここにも嘘はないと感じたが、ますます岩佐の目的が分からなくなってしまった。
雫は、聖域の象徴であるマナ使いを消すことによって混沌を招き、その隙をついて聖域を自分の支配下に置こうとしているのではないかと考えていたのだ。聖域には、他の地域にはない珍しい鉱石や動植物が数多く根付いている。それらを元手に金を集めるなり兵力を強化するなりし、いずれは国々を統括しようとしているのではないか、と睨んでいたのだ。
「しかし星々は未だ輝きを取り戻していないではございませんか。寧ろ、以前よりも数を減らしています。岩佐殿がそうやって尽力しておられるにも関わらず状況が悪化しているのは、一体なぜなのですか?」
「それは……我らはともかく、殿にも量りかねる事態のようだ。しかし、まだ力が足りておらぬのだろうという見解もある。全ての聖域のマナ使いから力を返さぬことには、元のようにはならぬではないかと」
「……」
雫からの問い掛けに対する返答には、淀みも矛盾もない。かと言って簡単に納得できない何かを感じていた雫は、視線を二人から外し、思案した。
「柳仁殿に、よくよく伝えてくれ。我が殿は世界の破滅を食い止めたいとお考えだ。その為には、菫青御前には力の一部を返してもらわねばならぬのだと」
「得体の知れぬ術を菫青御前に施すのだ、この村に大きな不安を与えることは承知しておる。殿はそれをも見越し、何某かの”礼”を用意する心算であると仰っておられる」
礼が何なのかは問わなかった。聞いたところで無意味であること、すなわち、礼の内容如何によって柳仁が対応を変えることなどないのは明白だからだ。
「私の案内はここまでです」
雫は、続く道の向こうを指差し、その先で薄く生え並ぶ竹の間から僅かに零れる光を示した。
「あの赤い灯が燕楽屋敷の明かりでございます。中の者がお二方のお世話を致しますゆえ」
そう言い置くと、挨拶もそこそこに2人の許を後にした。速足で向かう先はもちろん、柳仁の待つ屋敷だ。
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