友との縁(2)




 珍しいこともあるものだ、と、村への道すがらしずくは思った。

 シラヌイオオカミは獣の中では一番古くからこの森に住んでいる種だ。何の武力も持たない者が襲われれば一溜まりもないだろうが、多少腕に覚えがある者であれば簡単に追い払うことができる。そもそもあまり人に危害を加えることもなく、他の獣の縄張りを荒らすこともない。穏やかで規律正しく、そして賢い生き物なのだ。

 そんなシラヌイオオカミが、コノハグマの縄張り辺りでうろつく姿など、今まで見たことがなかった。

 何か理由でもあるのだろうか、と、ふと思った。

 もしかしたら雫が知らないだけで、今までああして迷い込むこともあったのかもしれない。だが雫には、あの狼は自分の意思であそこに現れたような、そんな気がしてならなかった。

 村をぐるりと囲む、うずたかく積まれた石の防塁に突き当たる。それを東向きに沿って歩くと、村の入口が見えてくる。うずみもんをくぐり、次のやぐらもんを抜けようとしたところで、馴染み深い顔を見つけた。


ろく!」


 振り返り、雫の姿を見止めると、軽く右手を挙げて応える。

 漉慈は籐馬と同じく幼馴染で、彼もまた両親を幼い頃に亡くしている。雫と共に村長に育てられ、十五歳になった時に二人して独り立ちしたのだ。


「今帰りか」

「うん。漉慈も?」

「今日はもう獲れそうになかったから、早めに切り上げてきた」

「そうなんだ」

「いやー、ここんとこ調子悪くてさ。本当はシカを狙ってたのに、猟課これだけだぜ」


 そう言って、血抜きしたばかりのニジウサギ二羽を掲げて見せる。


「そうだ、雫。今晩、うちに飯食いに来いよ」

「えっ、お邪魔じゃないかな」

「大丈夫だって。嫁さんもチビも、会いたがってたから」


 漉慈は十七歳の時に結婚し、去年子どもが生まれた。まだ一歳になったばかりの子が、自分に会いたい、という意志表示などするのかと疑問に思ったが、漉慈の言葉に甘え、誘いを受けることにした。


「それでさぁ。こっちから誘っといて何なんだけど」

「?」

「こないだ、ほら、分けてくれたあの……。あれ、また食べたいなあ、なんて……」


 ごにょごにょと、誤魔化すようなはっきりしない口調で言いながら、漉慈は目をきょろきょろと泳がせる。雫は何の事か分からず首を傾げたが、漉慈の下げているウサギを見て、ようやく合点がいった。


「いいよ。じゃ、準備して持っていくから、そのウサギうちで潰してってよ」


 漉慈の瞳がきらきらと輝いて見えたのは、日の光を反射しただけではないはず、と雫は思った。





 畑で収穫したばかりのリッカニンニクを潰して刻み、蜂蜜酒と醤油を混ぜた液に落とす。ニジウサギの肝と心臓をざく切りにしたものを何度か塩水で洗った後、先ほど作った漬けだれに入れてよく揉み込む。下ごしらえは、これで完了だ。後は時間がうま味を引き出してくれる。

 しずくは村の周辺の警備に当たることがあるのだが、その際たまに襲い掛かってくるニジウサギを捕らえることがある。

 ウサギ、とは言っても、ヤマウサギのように小さく愛らしい生き物ではなく、凶暴で好戦的なのだ。前足の爪は鋭く、後ろ足を蹴り付けて押し上げた速度で跳び掛かられれば、恐らくひどい負傷は免れない。見かけた時はなるべく刺激しないように迂回したりするのだが、場合によってはニジウサギの方が先にこちらに気付くこともある。

 肉を食べたり毛皮や骨を採る為の狩りは、村の”やく”が全て行なうので、警備や護衛などを務めとしている”まもやく”の雫が進んで森の動物に武器を向けることはない。しかし、あちら側から攻撃を仕掛けてくれば応戦するのみ、というわけだ。

 普段は血抜きしただけのものを狩り役に渡すだけなのだが、その狩り役に捌いてもらい、内臓を分けてもらったことがある。肉は熟成させた方が旨くなるが、心臓と肝臓は新鮮な内に食べた方がいいとのこと。汁に入れて煮るよりも塩焼きで食べるのがおいしいと聞いたが、雫はふと思い立ち、以前護衛についた行商人から作り方を聞いた醤油だれに漬けてから、焼いてみたのだ。

 これがとてもおいしかった。臓腑独特のうま味は損なわれず、しかしいやな臭みはしっかり抑えられている。手慰み程度に耕している小さな畑で採れたトウガラシやニンニクを混ぜてみると、さらに風味が増した。

 以前、それを漉慈ろくじにおすそ分けしたことがある。漉慈は狩り役を任されており、肉の扱いや食べ方にはやはり詳しい。自分の発想がその道の者の舌に通じるか、判定してもらいたかったのだ。

 結果、漉慈の家族の胃袋を丸ごと掴むことになった。まだ歯の生えそろっていない子どもも、薄く味付けした柔らかい肝を喜んで食べたらしい。

 漉慈が「チビが会いたがっている」と言っていたのは、これを食べたがっていたのかもしれない、と思い至り、雫は一人苦笑した。

 村にはきちんとした工程で醸造された醤油がなく、味付けはだいたいが岩塩で賄われている。大量に買い付けできるほど村には財力もなく、かと言って質の良いものを作るには手間とこつ、時間が掛かり、なかなかそちらに人員を割けない。雫の手元にある醤油も、たれの作り方を教えてくれた行商人から譲ってもらったもので、さほどの量があるわけでもない。つまり村では高級な嗜好品というわけで、漉慈がこの料理を頼みにくそうにしていたのはそういう理由からだった。





「どこへ行くんだ」


 日の落ちかけた頃家の外に出ると、ちょうど籐馬とうまがこちらに向かってきているところに出くわした。


「ああ、今から漉慈の家に向かうとこだったんだ」


 そう言いながら、醤油漬けの入った大小の壺二つを掲げて見せる。


「模擬戦をした日は、うちに来る約束だろう」

「うん、だから今日は漉慈の家に集合って綾竹あやたけさんに……」

「……」

「もしかして、聞いてない?」

「親父なら、もう酔いつぶれて寝てる」


 雫は額に手をやり、かぶりを振った。

 綾竹は、籐馬と雫の刀術の師匠だ。村の護り役の中でも他に引けを取らぬ程2人を精鋭に育てただけあり、刀の腕は確かなのだが、何せ酒癖が悪い。仕事のない日は、昼間から一人宴会を始めることもあるそうだ。護り役として、何かあってもすぐに出動できない状態に陥ることはただでは済まされない愚行だが、酔っても尚強さや統率力、その他判断力などにぶれがない為、誰もその凶行を止めることができないでいるのだ。


「まあ、いいや。とりあえず今日は二人で反省会しよう」

「いいのか? 漉慈は親父も来るつもりで準備してるんじゃ」

「人数が減る分には困らないでしょ。それに、酔っぱらいなんて連れて行ったらそれこそ迷惑だよ」


 大人だけならまだしも、漉慈の家には小さな子もいる。酩酊状態でも有事の際には十二分に能力を発揮する護衛団長も、何もなければただの酔いどれ親父でしかない。

 籐馬は納得したように頷くと、雫と連れ立って歩き出した。





 肝と心臓の醤油漬けは大好評だった。酒を少量の蜂蜜に変え薄めのたれで作ったものも、子どもがすっかり平らげてしまった。


「本当にありがとう。高弥こうやは肉はあまり好きじゃないんだけど、雫ちゃんの醤油漬けは凄くよく食べてくれるのよ」


 そう言いながら、漉慈にけしかけられ籐馬にちょっかいを掛ける息子に目をやるのは、漉慈の妻の咲良さくらだ。


「気に入ってもらえて良かった。また、機会があれば持ってくるね」

「うん、待ってる!」


 屈託なく笑う顔が、高弥と瓜二つだと思う。それに最近、何だか漉慈のそれにも似寄ってきた気もする。夫婦はだんだん似てくると言うが、これがその現象か、と雫は感心した。


「あ、もう空だね。あわみず持ってこようか?」


 雫の杯を覗き込んだ咲良が問い掛けるが、雫は首を振った。

 泡水というのは、ギンイロマツの針葉から発生する独特の気体を水に溶かし込んだ飲み物だ。口に含むとぱちぱちとした刺激が広がり、飲み下せばその刺激は喉や胃袋にまで続く。酒とはまた違った清涼な口当たりで、舌に残る濃い肉の味をすっきり流してくれるのだ。

 この村では、出産経験がない、または出産から3年経っていない女性は、調味料として使われた場合を除き、酒を口にしてはならないという掟がある。泡水は、宴席でただの水や薬茶を飲むのは味気ないという理由から出来た代物だが、この飲み物は女性の間では大変好まれている。特に蜂蜜や果汁を混ぜた甘い味わいのものが人気で、雫もよく好んで飲んでいた。


「じゃあ、もうそろそろ片づけ始めちゃうね。高弥もねんねの準備させなきゃ」

「あ、なら私、水汲みに行って来る」

「いいの?」

「洗い物も手伝うからさ、先に高弥を寝床に連れてってあげなよ」

「ありがとうー、助かります!」


 雫は、手桶を二つぶら下げて外に出た。見上げれば、空には丸い月が浮かんでいる。


「そう言えば、もうすぐ月食みの日か……」


 独り言ちながら歩き出そうとした時。


「おれも手伝うわ」


 後を追うように家から出てきた漉慈がそう言いながら、雫の持っていた手桶を一つ取り上げる。恐らく、咲良に尻を叩かれたのだろう。雫はその様子を想像して、小さく笑みを浮かべた。


「何笑ってんの」

「あぁ……うん。籐馬が高弥にやり込められてるの、面白かったなあって」


 実際の理由は違うが、それも嘘ではない。漉慈も「そうだなー」と肯定しながらにやにやと頬を緩めている。この顔は、高弥の愛くるしい仕草を思い出している時のそれだ。子煩悩と言えば聞こえはいいが、このだらしない表情を見るにつけ、漉慈の場合はもう親ばかの域に達しているに違いない、と雫は常々思っていた。


「それにしてもおまえら、本当に戦闘ばかだなー。何で飯時にまで刀の話なんかするわけ?」


 山から下る川の流れの一部を人工的に村に引きこんだ、通称”飲川のみがわ”に向かいながら、漉慈が呆れたように言う。恐らく、先程の籐馬との反省会のことを言っているのだろう。

 その日の模擬戦での戦いぶりを振り返り、あの場面でのあのやり方はまずい、だの、ここではこの振り方がいい、だの、二人の会話はそんな内容ばかりだ。いつもはここに綾竹が加わって、有り難い忠告を頂いたり、一触即発の意見合戦が起きたりする。


「模擬戦やった後はああして反省会をしてるから、つい……あ、もしかして咲ちゃん、嫌がってた?」

「いや、そういうわけじゃないけど。何かおれ心配でさあ」


 その先は聞かなくても分かる。雫に嫁の貰い手がなくなる、とでも続くに違いない。


「最近、籐馬の奴もやたら気合い入ってるんだよな。絶対雫に勝つ、とかって」

「そりゃあ、そうでしょ。籐馬が勝てば私、護り役を引退しなきゃいけないんだもん」

「えっ」

「籐馬は昔から私が前線に立つの嫌がってたからなー」

「……」


 立ち止まる漉慈。雫はそれに気づいて振り返った。


「雫、もしかして、なんだけど」

「うん?」

「『俺が勝ったら結婚してくれ』、みたいな感じのこと言われたり……」

「なっ……漉慈、知ってたの!?」


 咄嗟に反応して、伏せていた事実を露呈してしまう。と同時に、雫の顔は湯気が出そうなほどに真っ赤に染まった。


「籐馬、漉慈に話したんだ……」

「いや、そういうわけじゃなくて」

「え、じゃあどうして?」

「ごめん、余計な入れ知恵したの、多分おれだわ」


 漉慈は、冗談のつもりだったらしい。なかなか進展しない籐馬と雫の関係を心配していたのは確かだが、自分がどうこうするべき問題でもない、とあまり首を突っ込むことはなかった。

 しかし以前、一緒に酒を飲んだ時に、籐馬がぽろっと零したらしいのだ。

「どうしたら自分の思いが遂げられるのか」と。

 もちろん、籐馬のその言葉は本懐ではない。折に触れて雫に思いを伝えては拒絶されてきた。それでも好きなものは好き、雫の気が変わらぬ限りそれ以上どうこうしようという気はない、というのが表立っての心情だ。

 だが心の片隅のどこかで常に抱えていた、籐馬にとっては後ろ暗い感情が、酒の力でちらりと顔を見せてしまった。軽く同調しておくだけで良かったものを、漉慈はそこを掬い上げ囃し立ててしまったのだ。


「最低。何考えてるの」

「ごごごごごめん! 結構前だしおれも何となくしか覚えてなくて。いや本当に何考えてたんでしょうね、あの時のおれ……」

「お陰で私、模擬戦の度に戦々恐々としてるんだからね」

「だってさあ! そんな馬鹿げたこと、普通実行しないだろ!?」


 確かに、それは漉慈の言うとおりだった。幾ら行き詰まりを感じていたとしても、堅物の籐馬が漉慈の下らない提案など受け入れるはずがないのだ。しかし実際、籐馬はその”下らない提案”に乗り、雫に約束を取り付けさせた。

 追い詰められて思わず愚行に走ったが、一度言い出した手前、引っ込みがつかなくなってしまったのか。それとも、何か別の思惑でもあるのだろうか。

 突然つまびらかにされた真実によって始まった考察は、雫の頭の中でごちゃごちゃと入り乱れ始めた。


「案外、籐馬もそんな気はないのかもしれないぞ。一回負けてみて、籐馬がどう出るか様子見するのも一つの手だと思うけど」

「そんな捨て身の賭け、やるわけないじゃない。漉慈は本当に考えが甘いっていうか……」

「じゃあさ、もうそういうの関係なく、いっそのこと一緒になっちまえよ」


 ぶん殴ってやろうか、と雫は思ったが、行動には移せなかった。意外にも漉慈は真剣な顔をしていて、今の言葉がいつもの軽口ではないと気付いたからだ。


「籐馬、いい奴だと思うよ」

「……知ってる」

「不器用だけど、優しいし」

「知ってるってば」

「じゃあ、何で?」


 雫は視線を足元に外し、しばらく思案した。


「一つ、聞くけど」

「おう」

「もし漉慈がまだ結婚してなくて、私が嫁にもらってほしいって言ったら、どうする?」

「おう……えっ?」


 意想外の問い掛けに動揺し、うろうろと視線を泳がせながら一歩後ろに下がる漉慈。


「ねえ、どうする?」

「えええ? いきなりそんな……そんなこと言われてもおれ」

「いいから答えて。どうするの?」


 頭を掻き、鼻をこすり、口元に手をやり。落ち着かない動作を一通りこなした後、漉慈はがばっと頭を下げた。


「ごめんなさい、おれには無理です!」

「私もそんな気持ちなの! 分かった?」

「えっ」


 どうやら漉慈には、雫が質問した意図が伝わっていなかったようだ。頭を上げ、混乱したように雫を見つめる。


「だから。私も籐馬に対しては、今の漉慈と同じ気持ち。不器用だけど優しくて、ぼんやりしてるけど冷静で。いい男なんだろうけど、私は籐馬のことを将来の夫として見るなんてできない」


 分かりやすいように噛み砕いて言うと、漉慈はようやく納得したように何度もうなずいた。


「よく分かった。すごく分かりやすかった。おれ、もう二度とばかな真似しないよ」

「宜しい」


 早く家に戻ろう、と促す雫。漉慈は黙って頷き、雫の後に付いて歩き出した。


「……なあ、雫」

「何?」

「本当に、本気じゃないよな?」

「何が……ああ。本気じゃないよ。私だって漉慈となんて無理」


ぴしゃりと言い返され、漉慈は何故か少しだけ残念な気持ちになった。





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