空白のセト

よつま つき子

友との縁(1)




 木漏れ日が、右へ左へ、あるいは前後へと、不確かな動作でしずくの足元を揺れている。

 じり、と微かに土の削れる音。獣の皮で作られたくつが地面を浅く抉りながら、まるで軌道をなぞるかのようにゆっくりと動く。

 頬を伝って顎へと流れる汗は、これまでの攻防の激しさを示すかのようだ。

 どれだけの時間が経過したのだろう。何刻もこうしているような、まだ幾ばくも経っていないような。時間の感覚もそぞろになる程に、雫は目の前の相手に集中していた。

 雪解けで水量の増えたハルナキ滝が立てる轟音は、少し離れたこの場所にも届いている。

 木々が大きく揺れ、ざわめき出す。風に誘われた木の葉が空を舞い、2人の間をゆらりと通り過ぎようとした。

 その瞬間。

 地を蹴り前へ飛び出したのは、とうだ。その疾さは籐馬の体を通して刀身に乗り、右の肩上から一気に打ち下ろされた。

 がん、と大きく高い太刀音が響き、雫の両腕、掌には痺れるような衝撃が走る。

 重い。それに、強い。

 しかし、雫はその猛々しい一振りを受け切った。背中を後ろに反らして腕を引きつけ、その衝撃を大きく逃がしていたのだ。

 籐馬はこの一撃で決める心算だったのだろう。驚いたように大きく開く双眸、そこに動揺の色が揺らめく。


 ――今だ。


 雫はその一瞬を見逃さなかった。

 踏ん張っていた右足を軽く横に滑らせ身を翻しながら、刀身もその動きに合わせるように素早く振り下ろす。

 2人の刀の切っ先が地を向いた。

 押し切る相手をいきなり失った形の籐馬は咄嗟の動きに対応できず、身体がぐらりと前へと流れる。前のめりになりそのまま倒れるかという、寸でのところで何とか踏み止まる籐馬。

 が、刀を再び雫に向けることはできなかった。冷たい金属の感触が、籐馬の背後から首元を捕らえていたのである。


「勝負あり!」


 審判を務めていた籐馬の父、あやたけの声が響き、それを合図に雫は刀を下ろした。

 ぶん、と風切り音を立てて刀を振り、その背を滑らせて先を鞘の鯉口こいぐちにあてがう。

 籐馬はだらりと両腕を下げたまま、まだ動かない。雫はそんな籐馬の背を見つめながら、穏やかな所作で刀身を鞘に納めた。


「いつまでそうしてるつもりだ。さっさと挨拶せんか」


 綾竹にたしなめられ、ようやくこちらへ向き直る籐馬。その表情は普段と変わらぬ涼しげなものだ。雫は、この籐馬の切り替えの速さにいつも感心していた。


 私が負けた時は、あんな顔はできなかった。

 どうしても悔しい気持ちが先行して、心が乱れてしまって……。


 この一年程は、模擬戦闘において籐馬に遅れを取ることはなくなったが、あの冷静さだけは超えることはおろか、未だに真似すらできないでいるのだ。

 頭を下げ、お互いの健闘を讃える謝辞を述べる。それを合図に張りつめていた空気が柔らぎ、雫は大きく息を吐いた。





 岩に腰掛け、ハルナキ滝の滝壺に素足を浸す。火照った身体がゆっくりと冷えていき、思わずため息がこぼれる。


「完敗だ」


 隣に座った籐馬がぽつりと呟いた。

 実に四半刻(三十分)と少し、二人は戦っていた。前半の戦況を有利に進めていたのは籐馬の方だったが、次第に拮抗し始め、やがて雫に押される形になった。


「最後のあれで、体勢を崩した所を畳みかけるつもりだったのに」

「あの一振りはすごく重かったよ。危なかった」


 雫が苦笑いを浮かべながらそう言った。模擬戦用に刃挽きしてあるとは言え、あれをまともに食らっていたら恐らく負傷していたことだろう。それ程に鋭い一撃だった。

 籐馬は、雫を眉根を寄せて見下ろした。納得いかない、というような表情だ。


「どうして真正面から受けた? お前なら避けると踏んでいたんだがな」

「そう読まれてるだろうと思ったから、敢えて受けたの。それに」

「……?」

「籐馬の渾身の斬撃を私が受け切ったら、諦めてくれるかと思った」


 沈黙が横たわり、滝の水音だけが辺りに響いている。


「籐馬。私は多分、変わらないよ。これからもずっと」

「……関係ない。約束は約束だろう」

「だけど、それじゃ」

「一度言ったことは最後まで果たす。変えるつもりはない」


 雫の言葉を遮って、籐馬が強く言い放つ。水面に落としていた視線を籐馬に真っ直ぐ向けたが、籐馬の瞳にはいささかの揺れも見られない。

 雫は、深いため息を吐いた。


「……分かった。それなら私、籐馬には二度と負けないから」


 雫と籐馬は幼い頃からの友人で、家族のいない雫にとっては大切な兄弟でもあった。しかしいつからか、それとも初めからなのか、籐馬は雫を友ではなく恋慕の対象として見るようになっていた。雫はその思いを籐馬から打ち明けられるまでは気付かず、そして聞いた後も籐馬に対する思いは変わらなかった。

 受け入れられない旨は、既に伝えた。幾度も繰り返し、何とか気変わりしないかと試みたが、籐馬の一途な思いは動く気配を見せない。雫はどうしたらいいのか分からなかった。

 嫌っているわけではない、むしろ誰よりも大事に思っている。だからこそ、どうにか籐馬に、傷つかずに新しい道を見つけてもらいたいと考えていた。

 そこへきて、籐馬がある提案をした。


「一度でも俺に負けるようなことがあれば刀を置き、俺と一緒になれ」


 と。

 あまりに横暴だ、と思ったが、雫はその申し出を受け入れた。その時既に刀の腕前は雫の方が上回っていたということもあり、これで完膚なきまでに叩きのめせば、籐馬もすっぱり諦められるだろうと思ったのだ。

 約束を交わしてからおよそ十か月。二人が手合わせした回数は百を超えたが、雫が籐馬の刀に制されたことは、これまで一度もない。


「そろそろ戻るか」

「先、行ってて。もう少し休んでるから」

「分かった。あまり遅くなるなよ」


 籐馬は立ち上がり岩から飛び降りると、雫に背を向けて歩き出す。雫はそれを見送ることなく、ハルナキ滝を仰ぎ見た。

 高さ五間五尺(およそ10m)ほどのさして大きくもない瀑布だ。落ち口から滝壺までまっすぐ伸びる流身が美しく神聖であるところから、また、森の凶暴な獣がこの周辺には決して寄って来ないこともあり、”神龍宿りの滝”とも呼ばれている。

 雫は腰掛けていた岩に背中を預け、両手を組み枕にして目を閉じた。ナバの木が広げる枝葉の隙間から陽の光が差し込み、雫の瞼を優しく刺激する。


 今回も、駄目だった。籐馬の悔しがっている顔を見ることはできなかった。

 だけど、もし、あの無表情をどうにか変えることができたら。

 そうしたらきっと――。


 そんなことを考えながら、雫はゆっくりと眠りに落ちていった。





「……!」


 ふと何者かの気配を感じて、弾かれたように身体を起こす。起きたばかりで呆ける頭を振り、辺りを見渡した。

 そよ風が木々を優しくなでている。滝壺から細く続くせせらぎも、いつもと変わらない。が、雫はその傍らに並ぶスズナリザサの茂みを凝視した。


 ……何かいる。


 そこは、獣が入ることのない範囲の辛うじて外側の場所だ。雫が今いるこの辺りには近づくことはないだろうが、万が一ということもある。

 視線を外すことなくそのままの体勢で、側に置いていた刀を探る。刀柄に手が触れたところで気がついた。これは、先ほどの模擬戦で使用した、刃挽きして威力を抑えてある代物だ。


 もし、今感じているこの気配が”森の王”と呼ばれるコノハグマだとしたら……。


 しかし雫が今装備し、武器として使えるものはこれしかない。意を決して鞘から引き抜き、岩を降りた時。


「シラヌイオオカミ……?」


 茂みから飛び出してきたのは、赤褐色の美しい毛並に覆われた、やや小ぶりの狼だった。川の半ばにある大きな石に足を掛け、じっと雫の方を見つめている。

 雫は刀を鞘にしまい、その場にそっと置いた。戦意のないことを示し、無為な争いを避けるためだ。


「迷ったの?」


 小さく呟くと、シラヌイオオカミはぴくりと耳を動かした。声は届いているようだ。


「巣に帰りなさい。ここにいたら、”森の王”に叩き潰されるよ」


 シラヌイオオカミはしばらくそのまま動かずにいたが、やがて踵を反し茂みの奥へと姿を消した。もう気配は感じられない。

 雫は足元に置いた刀を拾い上げ、腰の革帯に差し込んだ。




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