第35話 玲子
鯛子さんが来たその日の晩に、幽霊は帰って来た。鯛子さんのスマホに自動書記ならぬ自動入力したときに、俺が幽霊に戻って来て欲しいと思ってるんじゃないかと何食わぬ顔で話をしてくれたそうだ。
俺はと言えば、いつ幽霊が帰って来てもいいように、いろいろな食材を買って冷蔵庫にスタンバっておいた。
もちろんアイツが帰って来なければ自分で料理するけど、アイツは『何も作れないから買い物行こう』って何度も訴えていたから、これ見たら喜んで何か作ってくれるかもしれない。
いや、たまには俺が幽霊の為だけに作ってやるのもいいか、なんて考えていた。
結論から言うと、アイツが帰って来たのが嬉しくて、もうそんなこと忘れてた。嬉しいんだけどどう表現していいかわかんなくて、いつも通り「おかえり~」ってなんでもないように言ってみた。本当は抱きしめたいくらいだったんだけど。まあ、抱きしめたところでどうせすり抜けるしな。
幽霊の方はいきなり出て行ったのが気まずかったのか、なんかイマイチ勢いに欠けるというか、いつもの元気が無いような気がした。
『ちょっと散歩にしては遠くまで行きすぎちゃったかな』
「ああ、そうだな。北海道でも行ってきたか?」
『あ、うん、ええとそうかな』
んなわけないじゃん。鯛子さんのところで遊んでたこと知ってんだから。
俺が鯛子さんから全部聞いてることなんか、幽霊は知らないんだもんな。
『久しぶりだし、たまには夕飯作ろっかな。想ちゃん、何か食べたいものある?』
「あ~、そうねぇ。冷蔵庫にあるもので何かテキトーに作ってよ」
『うん。テキトーにね。貧乏飯ね』
ちょっとよそよそしさを残しつつも、冷蔵庫を開けて『うわ、いっぱい入ってるー!』って小声で嬉しそうに言うのが聞こえる。ヤバい、コイツマジ可愛いな。
午前中、鯛子さんと必死で部屋を片づけた疲れが体にたまっている筈なのに、コイツの姿見たら全部吹っ飛んでしまった。コイツが出て行く前は、この声を聞くだけでもどっと疲れたのに。
つまりコイツのせいじゃなかったんだよな。俺が勝手に疲れて、勝手にコイツにイラついてただけなんだ。なんか俺サイテーじゃん。八つ当たりしてただけじゃん。コイツの言う通り、ちゃんとしたもん食ってしっかり休んでいたら、あんな事にはならなかったのかもしれない。
「なあ」
『ん? なあに?』
「え、あ、ええとさ、その、来週はジャズストリートあるし、ちょっと精のつくもの食べたいんだけど、玲子に任せていいかな」
やべえ、幽霊が固まった。すっげー恥ずかしかったけど、頑張って呼び方変えたのに。イマイチだったか。
『想ちゃん、今、なんて言った?』
「いや、その。来週はジャズストリートがある」
『そのあと』
「精のつくもの食べたいかな」
『そのあと』
「任せていいかな?」
『誰に』
「あーええと、玲……子に?」
ってなんで疑問形! はっきり言えよ想一郎!
と思った瞬間、幽霊がこっちをくるっと振り返って俺の鼻先に顔を近づけて来た。
『毎日作る!』
「あ、はい、ありがとうございます」
俺は、この時から幽霊を『玲子』と呼ぶことに決めた。決めたからと言ってそう呼べるのかと言えば、また別問題ではあるが。
***
翌週、最古杵市五十周年音楽イベント第三弾、ジャズストリートが開催された。
俺は今週は『貧乏飯』ながらもそれなりにしっかりと動物性蛋白質を摂取したんで、かなり絶好調だった。
いや、絶好調な理由はそれだけじゃない、っていうかそっちじゃないのかもしれないけど。
当日の俺の担当は市民会館前ピロティのビッグバンドだ。なにしろ人数が多い。参加団体一チームあたり二十人前後だ、それが七チームも参加するのだ。百五十人の参加者を出演順に捌くのは、かなり体力を消耗する。
一方田島さんは、市役所前噴水広場の十人未満のバンドと、黄泉国図書館前広場の少人数チームだ。こっちは人数は少ないものの、バンドの数が多い。引っ越しを手伝ってくれた外庭さんに緊急招集をかけて手伝って貰うことにした。
そこに着ぐるみのサイちゃんとサイコキネンジャーショーが割り込む。田島さんと連絡を取り合いながら、彼らを会場に送迎するのは課長の仕事。今日は一体、何人が休日出勤してるんだろう。
俺は市民会館担当だったので、ビッグバンドの演奏をいろいろ聴くことができた。ビッグバンドは有名な曲が多いのか、俺でも聞いたことのある曲がいくつかあった。
なんて言ったかな、『茶色の小瓶』、『ムーンライトセレナーデ』も聴いたことがあったな、あと『テイクファイブ』。『シング・シング・シング』ってやつもどっかで聴いたことがある。『イン・ザ・ムード』も何かの映画にあったような気がするな。
なんだ、結構俺聴いたことあるじゃん!
とにかく三カ所で同時にイベントを進めるという無茶振りをしたおかげで、あっちへこっちへと走り回って、その日は足を棒にして帰宅した。もうどうやって帰ったか覚えてないくらい疲れ果ててた。
家に帰ってすぐにアイツが沸かしておいてくれた風呂に入り、そのまま湯船で爆睡し、なかなか出てこないと心配した彼女に頭から水ぶっかけられるというワイルドな起こし方をされ(これで溺れて死んだらお前のせいだ)、風呂上がりに彼女の作ってくれた美味しいご飯を眠気まなこで食べ(それでも超絶美味しかった!)、俺は完全燃焼&完全満足で眠りについた。
こんな充実感は久しぶりだった。
そして、翌日から俺を待っていたのは、翌月の最古杵市菊花展の準備だった。
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