第28話 三十路

『想ちゃん、今日も遅いの?』

「うん、明日だからね、マーチングフェスティバル」

『最近いつも遅いし、せめてちゃんと水分摂ってね。塩レモン飴も持った?』

「うん、持ったから」

『お昼ごはんちゃんと食べるんだよ』

「わかったから、行ってきます」


 まだ何か言ってる幽霊の言葉を遮るようにドアを閉めた。

 わかってる。最近オーバーワークなのを心配してくれてるのは重々承知してる。だけど、自分でもわかってるから。そんなに何度も念を押さなくても、一人で仕事してるわけじゃないんだし、田島さんと一緒なんだから無茶はしない。


 幽霊が仕事のことに口を挟まなくなって数か月、今度は熱中症の心配だ。まあ、確かに疲れがたまっている時は代謝機能が下がるから、熱中症の危険性が上がるのは確かなんだが。


 でも俺、一人暮らししてるんじゃなかったっけ? あんなに心配されると、実家で親にごちゃごちゃ言われてるのと同じような感覚に陥る。

 まあ、心配してくれるだけありがたいと思わなきゃいけないんだろうけど。


***


 職場に着くと元気印の田島さんが今日もイチゴ・オ・レを飲みながら「おはようございまーす!」って分厚いファイルを準備して待っていた。


 今日は涼し気なノースリーブのブラウスにストライプのクロップドパンツだ。襟元のフリルがカチッとしたスタイルに甘さを添えて、田島さんらしさを演出している。

 幽霊ならきっとこのフリルの無いヤツを着るんだろう。ってなんで俺いちいち幽霊が着ている図を想像するかなー。


「明日の段取りの確認したいんですけどいいですか? え、ちょっと羽鷺さん大丈夫ですか? なんか顔色悪いですよ。ちゃんと寝てますか?」

「ああ、うん、疲れすぎてあんまりよく眠れなくて」

「明日は忙しくなりますから、今日は無理しないでくださいね。わたしがその分働きますから」

「いや、そうもいかないよ」

「わたし、羽鷺さんよりずっと若いですから。任せてください」


 ああ、俺、三十路に突入したんだもんなぁ。なんてぼんやりしてる間に、彼女はファイルを開いてこちらに向けた。

 

「えーと、これがタイムスケジュールです」

「あ、うん」

「市役所前広場と駐車場にマーチングパレード参加団体が朝九時に集合することになっています」


 蛍光マーカーでピンクに塗られた市役所前広場と駐車場の地図を指しながら、彼女は説明を始めた。

 あれ? なんか……花みたいないい匂いがする。フレグランス?


「朝九時交通規制が入ります。市役所からまっすぐ極楽通り商店街を抜けて鎖猪瓦さいのかわら公園体育館まで約一キロ。スタートは十時、それまでにボランティアの人たちがルートのゴミ拾いと危険物のチェックをしてくれることになっています」

「沿道からパレードに乱入できないように規制してるんだっけ?」

「コーンを立ててロープを張ります。スタート前にアナウンスもする予定です。実際、バトンを投げ上げたりするので、パレードに乱入すると自分がケガしますから。あとはボランティアさんが目を光らせてくれる予定です」


 なんだか人海戦術だな。


「ボランティアさんにプレゼントするグッズはどれにした?」

「サイちゃんハンドタオルです。実物はこれ」


 サラッと出てくるし。しかもサイちゃん可愛いし。俺も欲しいし!


「ボランティア名簿はこちらです。それぞれの担当エリアももう決まってます。それからパレード出演団体名簿はこちら。出演順になってます。トップバッターは我らが最古杵警察音楽隊!」


 そんなのがあったんかい。


「なんと最古杵カルチャーセンターのバトントワリング講座受講者によるバトントワリング隊が最古杵警察音楽隊とタッグを組んで、平均年齢最年長グループとしてトップを飾ります!」

「最年長が朝から出ずっぱりで大丈夫なの?」

「年寄りは朝が早いですから。涼しいうちにさっさとパレードを終わらせて、鎖猪瓦公園体育館で休んでいていただきます。その方がむしろ安全」


 確かに。


「因みに最年長バトントワラーは、講師の秋谷鶴江さん六十五歳。バトントワリング歴五十年の超ベテランです」

「え? 秋谷鶴江? 鶴亀不動産のおばちゃん!」

「あ、お知り合いですか」

「いつもどら焼きとか羊羹くれるんだ」


 ってどうでもいい情報を提供しちゃたよ。そっちじゃなくて、あの部屋の大家さんだって言うべきだろ、ここは。


「で、最後、しんがりを飾りますのはお隣の浄土じょうど市からの応援参加、浄土ビューグルバンド。こちらは本格的ですよ、総勢二十名のカラーガード隊と五十名のブラスバンドですから! ドラムメジャーが三人、あ、これは指揮者の事です。それとドラムバッテリーが十五人です。すごくないですか? もうわたし今からウハウハですよ!」


 どうしよう。もう俺にはサンスクリット語と大して変わらない領域に突入してる。日本語で喋って欲しいけど、そこはあまりツッコまずにサラッと流してもいいような気がするので、とりあえず流す。とにかくすごい事だけはよくわかった。そこがわかれば問題はない、多分。


「お昼前には全チームが鎖猪瓦公園体育館にゴールするので、浄土ビューグルバンド最後尾の通過とともに交通規制を解除していきます。午後の部は、体育館隣りの鎖猪瓦野球場で、パレード出演順と同じ順でマーチングドリルを披露していただくことになってます。パレードのみの参加団体は、ゴールしたところから解散となります」

「マーチングドリルは何グループ?」

「十二団体です。一団体当たり持ち時間は十分程度、十三時スタートで十五時半には全部終わる見通しです」

「わかった。よし、パレードのルートを下見して来るか」

「そう言うと思ってました。たったの一キロです。サクッとチェックして来ましょう」


 と、張り切って外に出たはずだったんだ。俺だってまだ三十になったばかりだし、体力には自信があった。だけど疲れの溜まった体には、たったの一キロとはいえ、真夏の炎天下がレベルMAXダンジョンのラスボスくらい破壊力があったのだ。

 市役所を出て僅か五分、俺はもうギブアップしていた。自覚も無く唐突にふらついて、あろうことか田島さんに支えられてしまった。なんたる不覚。男子にあるまじき失態。


「羽鷺さん大丈夫ですか。ちょっとそこの公園のベンチで休みましょう」なんて言われて支えられながら歩いていると、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。


「羽鷺さんじゃないですか」

「あ、お知り合いの方ですか? 羽鷺さんが急にふらつかれて」

「ベンチに寝かせて。足なんかはみ出していいわ。ネクタイ緩めて第二ボタンまで開けておいて。すぐに来るから」


 誰の声だっけな? 眼は開けてるんだけど、目の前が真っ暗でなんにも見えない。


「羽鷺さん、すみません、ネクタイ緩めますよ」

「田島さん、ごめんね。面倒かけて」

「いえ、それより気持ち悪くないですか?」

「うん、大丈夫」


 そこにさっきの声の主が戻って来た。


「ちょっと場所開けて。これで冷やしましょう」


 突然、首の辺りに冷たいものが当てられた。


「羽鷺さん、秋谷です。少し体を冷やしてスポーツドリンク飲めばすぐ良くなりますから。動けるようになったら一刻も早く職場に戻ってください。では、私はこれで」


 ああ、鯛子さんか。困った時の秋谷親子だ。


「あ。待って、鯛子さん」

「はい、なんですか?」

「ゆうれ……いや、玲子には言わないでください」


 少しの間があって「わかりました」と声が返って来た。


「ありがとう」

「もう行っちゃいましたよ、今の人」


 それから少しして俺は復活した。鯛子さんが首に当ててくれたのはキンキンに冷えたスポーツドリンクだったらしい。

 俺がそれを飲んでいると田島さんに聞かれた。


「さっきの人、どういう関係の人ですか?」

「あれが最年長バトントワラー秋谷鶴江さんの娘さんだよ」

「えっ、そうだったんですか。じゃあ、玲子さんって誰ですか?」


 え……それは……。

 うちに同居してる幽霊ですとは言えないし。

 返事にまごついていると、彼女は嬉しそうにニッと笑った。



「あ~そっか、ウサギのマグカップの人だ」


 だから! なんでこの人はこうも勘が鋭いんだよ!

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