第19話 日常
超速でモモの元に駆け寄った七海は、彼女の座る椅子の足元でピッシリと正座する。
暖房がかかっているにも関わらず、彼は恐ろしい寒気を感じていた。
「ハルカさん、あの“し”は何の“し”でしょうか」
長い脚を組んだモモが問う。柔らかい言葉遣いとは裏腹に、その声は明らかに怒気を含んでいた。
「それは……、シュガーの“し”です」
「では、古くから伝わる、料理の“さしすせそ”とは何でしょうか。全て答えてください」
「何だクイズか……。そりゃあ、“砂糖”、“ショ糖”、“スクロース”……」
「ちょっと待ってください。“ショ糖”と“スクロース”は砂糖の成分の名前ですので、そのままでは“さしすせそ”の半分以上が砂糖ということになりますが……」
「そうなの? こんな僕も化学だけはあんまり好きになれなくてさ。モモ、結構物知りなんだな」
思いがけず七海に褒められたモモは、怒りの表情を薄めてもじもじしている。
「……化学というのは分かりませんが、お料理は結構勉強しましたから」
「実家暮らしだと、料理する機会もあんまりないんだ。だから家庭的な人って少し憧れるというか」
「ほ、本当ですか? それならやっぱり基本の“さしすせそ”から……、……ああ、危うく目的を見失うところでした」
和やかな会話も束の間、彼女の周囲が再び凍てつく。七海の背筋は文字通り凍った。
どうやら今度こそ本気で僕がお料理されそうです。
「……“し”はショ糖でもシュガーでもありません。どう考えても“塩”ですよね?」
手に持ったままの容器に書かれた文字をまじまじと見つめて、七海は考える。
彼は顎に手をやって思考を巡らせると、一つの結論を導いた。
「……塩はソルトだから、“し”じゃなくて“そ”でしょ? やっぱりモモが間違って――」
「――この鈍感ッ!!! いっぺん死んでる身なら、これでさっさと成仏してくださいっ!!!」
「んブッッッ!!!」
堪忍袋の緒が切れたモモは、七海の手元から塩を奪って一握りすると、それをフルスイングで彼の顔面に投げつけた。至近距離からの
――主人公置いてけぼり型異世界ファンタジーとしてやってきたこの作品も、流石にヒロインに死ねと言われては終わりだろう……。もぅマヂ無理。リスカしょ……。
ナイーブになってしまった彼に対して、椅子の上で腕を組んでふんぞり返っているモモが咳払いをする。
「んんっ。 いいですか、“さしすせそ”とは、“砂糖”、“
「はい……、心得ました……」
これでもかと叱責を浴びせたモモに促されると、七海は床に着いていた足を解いて元の椅子に座った。彼女は、波乱を巻き起こした塩の容器を持ったまま台所に向かう。
正座から解放され、痺れかけていた七海の脚にじんわりとむず痒い感触が伝わっていく。
それにしても優しくないか?
普通あんなに怒りながら、『ご飯作るから座って待っててっ(はーと)』なんて言えるだろうか、いや言えない。そんなこと出来るのも、有名な役者さんでもたった
やっぱりモモは、僕の天使で、女神で、絶対的ヒロインなんだなァ……。
そう恍惚に溺れる彼の向こうで、その心の声を拾った茶色の耳がピンと伸び、せかせかと何か準備を進めていく。
すると直ぐに、七海の鼻に、小麦を焼いたような香ばしい匂いが流れてきた。
「良い匂いだね。今日はパンなの?」
朝から無駄なカロリーを使って腹を空かせた彼が、調理場のモモに尋ねた。彼女はパンを焦がさないよう、じっとオーブンを覗いたままで七海に顔を合わせることはない。
「小麦粉は高いしあんまり使いたくないですが、今日は特別です。何てったって私はハルカさんの天使で女神でヒロイ――、じゃなくて、昨日のこともありますしね。……まぁ、起きたばっかりなのに
焼きあがるパンを見つめたままで、彼女はわたわたとしながらそう言った。
相変わらず七海はその表情は窺い知ることは出来なかった。顔が火照っているのは、オーブンの熱さのせいなのか、はたまたそれ以外の違う理由があるのかも。
それからしばし、七海が自分の淹れたコーヒーに舌鼓を打っていると、支度を終えたモモが一枚のトレイを持ってきて彼の前に置いた。
その上には、こんがりと狐色の焼き目がついた丸いパンとその横にひとかけのバター、深い器に大きめの肉と野菜がごろごろ入ったクリームシチューが並んでいた。
まだ七海が住んで数日だが、朝はいたってシンプルなトーストとハムエッグが基本だったこの家としてはとても豪勢だった。
目の前のそのご馳走に、彼の空腹はより掻き立てられる。
「おおー、本当に気合い入ってるな……。もう食べて良い?」
「はい、勿論です。シチューは特に熱いので気を付けてくださいね」
自分の分のトレイを持ってくるモモを待たず、七海はスプーンを手に取った。熱々の湯気をたてるシチューを掬い上げると、トロトロに煮込まれた芋と牛肉を一気に口の中に放り込む。
「ああああっふ! あふいけほふわい!」
七海は(熱すぎて)言葉にならない美味しさを、それを作ってくれたモモを讃える。
「喋るなら人間の言葉でお願いします。だから熱いって言ったじゃないですか……。」
そう冷ややかに言いながらも、小さくちぎったパンを口に運ぶ彼女は穏やかで、柔らかかった。
モモが運んだ│小さな幸せ《朝食》に、二人は温かな日常を取り戻した。
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