一日だけの展覧会

佐野心眼

一日だけの展覧会

 キーンと冷えきった風のない12月24日のことでした。空は透き通った深い海の色になって、オリオンの星もくっきりと浮かんでいました。

『バタンッ!』とドアを閉めて、のびるはアパートの階段をダンダンダンとかけ下りました。左のほほに真っ赤な手形を付けたまま、涙を流しながら、ただひたすら彼は走りました。とくに何処どこへ行こうというあてはありませんでした。ただどうしても、家にいたくなかったのです。方々走り回りましたが、結局アパートの近くの公園にたどり着きました。

 公園のベンチに座ったまま少年が振り返ると、丘の上に自分のアパートが見えました。部屋の明かりはついたままです。

「お母さんは、僕のことなんて何も分かっちゃいないんだ。」

 アパートの明かりを見上げながら、少年はつぶやきました。

むかえに来たって、帰ってやるもんか。いや、きっとあのお母さんは僕を探しにすら出て来ないだろう。」

 悔しさなのか、悲しさなのか、情けなさなのか、寒さなのか、上着を忘れた少年はひざを抱えたまま心と体をふるわせていました。

「これから、どうしよう。………このままこごえ死ぬのかな。お母さんは、僕が死んだら悲しむのだろうか。それとも喜ぶのだろうか。」

 とりとめのない考えが幾重いくえにも黒いうずを作り出したので、少年はフウ〜っと白い息を吐きました。そこへ突然、一陣いちじんの風がサッと吹いたかと思うと、後ろから落ち葉を踏む音がガサッ、ガサッ、ガサッと聞こえてきました。少年はハッとして振り向きました。

 暗がりから近付いて来たのは、黒いベレー帽と黒いコートのせこけた老人でした。ベレー帽からはみ出した白髪は肩まで伸び、白いひげは胸元まで垂れ下がっていました。落ちくぼんだ目で少年を見つめ、髭をモゴモゴさせながら老人は尋ねました。

「坊や、夕飯は、済んだのかな?」

 思いもよらない質問に、少年は戸惑いながら答えました。

「知らない人とは話をするなって、お母さんや先生から言われているんだ。」

「そうか…、そうだな。知らない人とは、話をしない方がいい。お母さんや先生の言うことは、正しい。でも、最初は誰も皆、知らない人だよ。せめて、名前くらいは教えてくれないかな?」

 少年が困っている様子を見て、老人は続けました。

「私はね、又野三太郎またのさんたろうというんだ。若い頃には絵描きになりたくてね、来る日も来る日も、絵を練習したもんだ。ところが何枚絵を描いても、誰も私の絵には見向きもしなかった。それに親を早く亡くして貧乏だったから、とうとう絵の具さえも買えなくなってしまってね。その成れの果てが、今の私だよ。」

 老人はニッと笑みを浮かべ、髭の隙間すきまから茶色くなった歯をのぞかせました。よく見ると、老人の黒いコートはほこりだらけでした。黒い革靴は表面がりむけて、所々穴が空いていました。

 普段であれば少年は警戒したのですが、何故かこのときは少し気を許してしまいました。

「僕は、のびる延長えんちょうえんて書いて『のびる』っていうんだ。」

「延君か。いい名前だね。こんな夜更けに、一体どうしたんだい?」

 少年はうつむいたまま、しばらく黙っていました。話したくないのではありませんでした。むしろ誰かに聞いてもらいたいのでした。分かってもらいたいのでした。けれど、心がもやもやとして上手く言葉にできないのでした。そういう少年のもどかしさが、老人にはよく分かりました。

「話したくなければ、無理に話さなくていいよ。」

 老人がそう言い終わる前に、少年は話を切り出しました。

「お母さんに引っぱたかれたんだ。」

 少し間を置いて、老人はうんうんとうなずきました。

「顔に、手の跡が残っているね。よほどお母さんを怒らせたんだね。」

 少年は、自分が良くないことを心の奥底で分かっていました。でも、素直にそれを認めたくありませんでした。認めてしまうと自分の存在そのものが否定されてしまう、そんな気がしたのです。

 少年の目に再び涙があふれ出ました。涙を精一杯こらえても、勝手に噴き出してくるのでした。

「学校でいじめられて、家でもお母さんから責められたりなぐられたら、僕はどこに居場所があるっていうんだ!僕なんて、いなくなればいいんだ!そうすれば、お母さんも楽になるから…。僕は、もう死にたい!ううう…」

 老人はしばらく黙って、少年の激しくぶつかり合う心が静まるのを待ちました。そして、またうんうんとうなずきながら、ゆっくりと話しかけました。

「そう、急がなくてもいいよ。時間はたっぷりとある。色々と、話をしようじゃないか。お父さんはどうしてる?」

「4年前に離婚した。お父さんはお母さんや僕を毎日殴ったりったりするから、お母さんは僕を連れて出て行ったんだ。それからお父さんには会ってない。」

「…そうか。それからずっと、お母さんと二人暮らしか。お母さんは働いているのかい?」

「うん。」

「君は、何かお手伝いをしているかい?」

 手伝うどころか大変世話を焼かせてしまっていることを、少年は何となく分かっていました。今日も、部屋を散らかすだけ散らかして片付けていなかったから、お母さんに怒られたのでした。

「…あんまり、していない。」

「そうか。仕事と家事と育児で、さぞお母さんは忙しいんだろうなあ。君は君で、辛い状況にじっとえているんだね。きっと二人とも、心が死んでしまっているんだな。」

「心が…死ぬ?」

「そう、知らない間に憎しみがまって、心に余裕がなくなっているということだよ。」

「どうすればいいの?」

「そうだね、まず落ち着いて、それからお互いに、分かり合おうとすることかな?」

「でも、お母さんには僕の気持ちは分からないよ。」

「じゃあ、君には、お母さんの気持ちが、分かるのかい?」

「う〜ん、怒っているのはよく分かる。」

「どうして、怒るんだろうねえ?」

「どうして?それは…、きっと…、部屋を散らかすし、手伝いをしないし、遅刻するし、宿題忘れるし、勉強もできないし、人と上手く付き合えないし……。とにかく僕はすぐに人を怒らせてしまうダメ人間なんだ。」

 老人はゆっくりと二回首を横に振ってから、少年を見守るように言いました。

「延君、君はもしかしたら、特殊能力を持っているかもしれないよ。」

「それ、どういうこと?」

「他の人のできることが、君にはできないんだよ。きっとお母さんはそのことを知らないで、悩んだり怒ったりしているんだろうね。君が何を考えているのか、君が何をしたいのか、自分がどうすればいいのか、さっぱり分からないんだね。でもね、おそらく、君にしかできないこともあるはずだよ。何か特別な力を持っているというか、例えば…、そうだなあ…」

 老人は穴の空いた軍手を外し、コートの胸の内ポケットに手を突っ込みました。しばらくゴソゴソとまさぐって、古びた紙きれ一枚と短くなった鉛筆一本を取り出しました。老人は、大事そうにそれを少年に手渡しました。

「ここに、このプラタナスの落ち葉を描いてごらん。」

 少年は素直に紙と鉛筆を受け取りました。そして、寒さや嫌なことなどを忘れて、一心不乱に足元に落ちていたプラタナスの枯葉を描き上げました。少年が本気で何かに取り組んだのは、この時が初めてでした。できあがった絵を見て、老人はうんうんうんと三回うなずきました。

「素晴らしい絵だね。どうだい?色んな絵を、たくさん描いてみないか?」

 その言葉を聞いて、少年の表情はパッと明るくなりました。そして、冷え切った心がじんわりと温かくなるのを感じました。

「そうだね、明日はお母さんの誕生日だし、内緒で僕の描いた絵をプレゼントしようかな。」

「ああ、いい考えだね。お母さんはきっと喜ぶよ。それじゃあ私は、君とお母さんの幸せを祈って、このグラウンドいっぱいに、立派な夏の花を咲かせよう。それが私の、君達へのプレゼントだよ。」

「夏の花⁈今は冬だよ?できっこないよ。」

「ハッハッハ、何、できてからのお楽しみだよ。明日の朝8時になったら、アパートの窓を開けてごらん。きっと、見事な夏の花が、グラウンド一面に咲いているよ。お母さんには内緒でな。」

 老人はくぼんだ目でウィンクをして、ニッと茶色の歯を見せて微笑みました。

 そのとき、アパートのドアが『パタン』と閉まる音がかすかに聞こえました。そして、赤い防寒着に身を包んだ女の人が階段をコツコツコツと降りて来るのが見えました。

「あっ、お母さんだ!僕を探しに来てくれたんだ。ありがとう、もう帰らなきゃ。おじいさん、約束だよ!」

「ああ、約束だ。」

 少年は母のもとへかけ出しました。老人はベレー帽を取って少年に手を振りました。


 次の朝、空は雲一つないおだやかな日和ひよりでした。早い時間から家の外がガヤガヤとうるさくて、少年は目を覚ましました。少年が約束通り8時に窓を開けると、そこにいつもの光景はありませんでした。アパートから見下ろすグラウンドには、一輪の巨大な地上絵のヒマワリが、冬の朝の日差しを受けて輝くように咲きほこっていたのです。

 予想外の大輪を見て、少年は思わず大きな声を出しました。

「わあー、ヒマワリだ!お母さん、ヒマワリが咲いている‼︎」

「えっ⁈冬にヒマワリ?あらまあ…、なんて素敵なの!誰が描いたのかしら?」

「きっと、黒いサンタクロースだよ。」

「黒いサンタクロース⁈」

「あ、いや、何でもない。それよりこれ、僕からのプレゼント。」

「まあ、私の肖像画しょうぞうがじゃないの!ずいぶん上手に描いてくれたわね。そういえば、亡くなった私のお爺さんも、よく私の絵を描いてくれたのよ。あんたにこんな才能があったなんて、私…知らなかったわ。嬉しいわ…、ありがとう。」

 包み込むように絵をながめていると、お母さんはあふれ出る思いを押さえきれなくなりました。とうとうお母さんは、目を真っ赤にして、顔をくしゃくしゃにして、ボロボロと泣き出してしまいました。

「延、今まで…。私、あなたのこと……。」

 込み上げる感情で、お母さんはこれ以上言葉が出て来ませんでした。

 少年は、お母さんにかける言葉が見つかりませんでした。ただ、「グラウンドを見て来る。」と言い残して、急いで部屋を出ました。

 大勢の人達をかき分けて、少年はグラウンドへ降りて行きました。巨大なヒマワリは、イチョウやケヤキやモミジなどの落ち葉を集めて、色分けして作られていました。絵の具がなくても、こんなに素晴らしい絵が描けるのだと、少年は感心しました。そして、思いの丈の言葉を伝えたくて、少年はあの老人をあちこち探しました。その途中、人混みの中からは、色々な噂話うわさばなしが聞こえてきました。

「見事な大作だねえ。」

「物好きがやったいたずらかしら。」

「いやいや、これはきっと腕のある画家のパフォーマンスだよ。」

「こりゃ凄い傑作だ、記念に写真を撮っておこう。」

 午後になると、にわかに木枯らしがビュービューと吹き始めました。落ち葉はさらさらさらと風に吹き飛ばされ、巨大なヒマワリは少しづつくずれていきました。そして日が暮れる頃には、ヒマワリも人影も、跡形あとかたもなく散ってしまいました。

 少年は一日中何度もくまなく公園を探し回りましたが、とうとう老人の姿を見つけることはできませんでした。黄昏時たそがれどき一人佇たたずみながら、きっとあの老人も、木枯らしと共に去って行ったのだろうと少年は思いました。そしてきっと、遠いどこかで、また色々な絵を描いて人々を楽しませているに違いないと、少年は空想するのでした。

 それからの彼は、木枯らしが吹くたびに、今はもういない『風のサンタクロース』を感じずにはいられませんでした。

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