月宮殿(げっきゅうでん)③
「……」
……絵描きは舗道に小さな椅子を置いて座っていた。日曜の午後、人通りは多いが、彼を気に留める者はいなかった。慧も素通りする気でいたはずだった。が、黙って道行く人を眺めていた絵描きは、慧が目の前に差しかかると、
(もしもし、坊ちゃん)
(坊ちゃん?)
(そう、あなたですよ。ちょっとこっちへいらっしゃいませんか)
普段なら無視して小走りに通り過ぎただろう。しかし、慧は女友達に約束を
(どうぞ、お座りください)
(はぁ)
(押し売りではありませんよ。どうにも坊ちゃんを描きたくなってしまいまして。ご迷惑でなければ、少しおつきあい願えませんかね)
(……構いませんけど)
通行人に対するデモンストレーションだろうか。慧もそう捉えたようで、もう一脚の椅子にそっと腰掛けた。絵描きがパステルを走らせても、立ち止まって注意を払う者はいなかったが、気に入ったモデルを捕まえてしまえば後は構わないらしく、彼は忙しく手を動かしながら慧に質問を浴びせ始めた。慧が一つ一つ率直に答えると、彼は都度、うんうんと頷いて微笑んだ。行きずりの相手に妙な好感を持たれるのは
(はい、お疲れさま。思ったとおりの出来栄えですよ)
絵描きは完成した作品をイーゼルから外して見せた。慧と、彼に知られず背後に佇んでいた私とは、その瞬間、息を飲んだ。画用紙に描き取られていたのは紛れもなく慧だったが、同時に過去の私でもあった。それは頭に
(おや、顔色が悪くなってきた。ずいぶん驚いてらっしゃるね。でも、私の目に坊ちゃんはこう映っているんですよ)
慧は膝の上で握った拳を細かく震わせていた。突然、赤の他人に秘密を看破されて、冷や汗を禁じ得ないといった面持ちだった。しかし、絵描きは何気なく話を逸らして、
(気分がよくなるまで休んでいらっしゃい。ほら、飲み物もありますから)
できれば即座に逃げ出したい心境だったろう。だが、慧はなぜか、この一風変わった絵描きの見えざる触手に搦め捕られてしまったようだった。心の中にぱっくり開いた傷口を撫で回されながら、不快感より心地好さを覚えて半ば恍惚としている風で、言われるまま椅子を下りてビニールシートにしゃがみ、差し出された水筒を受け取った。が、中身を一口含んでびっくりし、絵描きをまじまじと見つめた。
(命の水と申しましてね。気が滅入ったときには、これが一番)
絵描きの言う飲み物とは、冷酒だった。
(なるほどね)
慧は小さく頷いた。穏やかだが自信に満ちた絵描きの話しぶりに説得力を感じ、この場は抗わず、流されるまま過ごそうと決めたらしかった。二人は腰を据えて酒を酌み交わし始めた。
私は尋常でない眼力の持ち主が気になって、じっと観察していた。とぼけた装いは正体を欺くための眩惑なのかもしれない。まともに視線がぶつかると、彼はそこはかとなく悪意を感じさせる薄ら笑いを浮かべた。どうやら私が見えているらしい。慧は彼が誰もいない空間に向けて微笑したのを訝り、首を傾げていた。
彼は慧を女性化して作品を仕上げたが、後ろにいる私の姿まで重ねてみせたのかもしれない。彼はこれまでに何人ものモデルを同一の手法で紙の上に写し取ってきたか、もしくは慧と同じ、知らないまま私のような亡霊を従えた人間ばかりを選んで描いているに違いなかった。
「……」
また、聞き取りにくい呟きと共に長嘆する。慧は紫煙が目に沁みるのか、しきりにまばたきを繰り返していたが、いたずらにも飽きたようで、吸いさしを灰皿に押しつけて部屋を出た。
一階のレストランで朝食を取ると、慧は雑踏に紛れ込んだ。偽名が自分を覆い隠す神通力を本当に発揮しているのか、確かめるつもりでもなかったろうが、どこへ行くともなく、ふらふらと歩き回った。喉の渇きが休憩を促し、ファストフード店で一息つくと、そこで土産を買って再び人波に混じった。慧は絵描きのテリトリーを目指していた。
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