月宮殿(げっきゅうでん)②


■1


 けいは春休みに入ってすぐ、父親と口論してマンションを飛び出した。受験の話をしていて揉めたせいだった。慧は父の希望に反して、遠方の大学に入って独り暮しをしたいと考え始めていたが、それが逆鱗に触れたのだ。留め立てする人間がいないので、互いに譲らず、がなり合いになったが、三十分もすると二人共くたびれて口を噤んだ。慧は父が浴室に籠った隙に、貴重品とわずかな着替えをバッグに詰めて家出した。前々から、いつか出ていってやると画策していただけあって、手際がよかった。

 風呂から上がった父は呆気に取られていた。腰にバスタオルを巻いた格好で一人息子を探し回ったが、状況を理解したのか、青筋を立ててリビングへ向かうと、半裸のままどっかりとソファに腰を下ろした。口を一文字に結び、眉間に皺を寄せている。身震いを禁じ得ないのは、せっかく温めた手足が冷えてしまったせいばかりではない。彼は濡れた頭を抱えて、ぶつぶつ呟き始めた。

「素行に問題はない。悪い仲間に引きずられたわけじゃないだろう。仲のいい女友達はいるはずだが、深刻な間柄とは思えない。行方を晦ました原因は、さっきの諍いだ。他には考えられない……」

 慧はしっかりした子だから私は心配していなかった。興奮の余熱が冷めれば戻るに違いない。本人も学業に差し支えない範囲でと考えているだろう。反抗は長くても春休みの終わりか、最悪の場合でも始業式の朝までだ。むしろ、父親が捜索願を出すなどして、本人の気が済まないうちに帰宅させてしまうのは、かわいそうだと思っていた。

 慧は途中で待ち合わせの約束をして夜の繁華街で同級の女生徒と合流した。彼女は大学生の姉と一緒だった。コーヒーショップに入って雑談を交わすうち、慧は父との喧嘩に触れた。頭に来たからん出てやったと、笑いながら足許あしもとのバッグを示すと、姉妹は拍手喝采した。

「おとなしい子だとばかり思ってたけど、なかなかやるじゃない」

「たまには息抜きも必要だしね」

 彼女らは明らかに面白がっていた。当事者の慧が鼻白んでしまうほど囃し立て、本気なら協力してやると言い出した。

「従弟が遊びに出てくるから、そいつを利用しよう」

 すぐさまビジネスホテルへ電話すると、実際には姉妹の家に泊まる従弟の住所氏名を騙って、慧は何食わぬ顔でチェックインした。宿泊票に本当のアドレスを記しては、近過ぎて不自然だからという、姉の入れ知恵だった。

「それぐらいがちょうどいいのかな」

 別れ際、慧は姉妹に向かって呟いた。最初から、遠くへ逃げるつもりはなかったのだ。家出といっても塾をサボる気はなく、大した所持金もない彼は、ターミナルに隣接したホテルに一時避難するくらいが妥当と思っていたのだろう。

 別人に成り済まして個室に転がり込むと、ドッと力が抜けたらしい。ベッドに大の字になり、朝までぐっすり眠ってしまった。目覚めてシャワーを浴びた慧は、狭い部屋の窓から足早に行き交う人々を見下ろした。そこには日常の営みがあった。だが、今は誰の干渉も束縛も受けない、自由の身だ。偽名を用いたせいで、解放感に拍車がかかっていたかもしれない。姿を隠す魔力を持った布で全身を覆ったかのように、世間の目から自分を隠蔽している気になったのだろう。何よりも肝心なのは、遂に謀反を起こしたこと——短い期間にせよ、父親の手を離れたということだった。

 慧はカーテンを閉めると、ベッドに腰を降ろして、ぼんやりと考え込んだ。その表情には、なぜこんな風になったんだろうという、素朴な疑問が浮かんでいた。

 発端は三年前。私が死んで二ヶ月ばかり経った頃だった。実直を絵に描いたような父がおかしくなったのだ。慧の父、つまり私の夫は、当人が言うのもどうかと思うが、妻である私を熱愛していた。日頃の言動に顕著に表れはしなかったが、彼の想いは私にも息子の慧にもよく伝わっていた。私が突然、病にたおれ、この世を去ると、彼はげっそりやつれ、生来の快活さを失ってしまった。しかし、悲しんでばかりもいられない。父と子は親類の支えを受け、のちには通いのヘルパーを雇って家事の面倒を見てもらい、生活のリズムを整えていった。だが、落ち着きを取り戻したはずの父の挙動に、不穏な影が見え隠れし始めた。他人には推し量りようのない、奇態な変化だった……。

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