月宮殿

深川夏眠

月宮殿(げっきゅうでん)①


■プロローグ、もしくはエピローグのイントロダクション


 惨劇は止める間もなく起き、すぐに終わった。私がほんの少しまばたきしているうちに。いや、最初から干渉する気はなかった。何もかも、なるようにしかならない。第一、私は割って入るべき身体からだを持ち合わせていない。私が傍で動静を窺っていたことなど、彼らは知るよしもなかったのだ。しかし、けいだけは気づいていたかもしれない。

 父親を刺した息子は掌の血糊を拭いもせず、どこかへ電話をかけようとした。親しい女友達のところだろう。興奮を鎮めるためか、あるいは、泣き言を聞いてほしかったのか。だが、時計を見やって切ってしまった。時刻は午前三時に近かった。胸に手を当てている。動悸がひどいらしい。顔を歪めて唇を噛んでいると手の中で着信音が響き始めた。相手がかけ直してくれたというのに、彼はうろたえ、扱いに窮して、けたたましく泣き喚く機械仕掛けの小さな生き物を放り投げた。そのまま身を翻し、一散に駆け出す。

 私は窓辺に仰臥する男を見下ろした。瞼はごく薄く持ち上がっているが、多分、何も見えていないだろう。反対に、口はぽかりと開き、ヒューヒュー音を立てて空気を出入りさせている。かつて惜しみなく愛情を注ぎ交わした夫の、なれの果て。昔の面影は深い皺に縫い込められて目に立たない。まだ充分若いはずなのに、死を目前に控えたせいか、急激に老い込んでしまっていた。枯れた指先が左胸に刺さったナイフを引き抜こうとして、わなないているが、もう力も出ないようだった。

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