月宮殿(げっきゅうでん)④
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「頼むよ。お前の助けが必要なんだ」
父親は唐突に切り出し、私が遺した服や化粧品を息子の前に投げ出した。
「時々でいい。あれの記憶が薄れないように……」
彼は私の面影を宿す息子を見つめては、仄かに浮かぶ血の痕跡を執拗になぞろうとしていた。慧は混乱する頭で必死に考えただろう。これは一時的な代役だ、他にふさわしい人が現れれば終わる役目に過ぎないのだ——と。嫌も応もなかった。慧はまだ子供で、父の庇護がなければ生きられないのだから。
要は、女装して少しばかり母親の仕草でも真似てやれば済むのだ、大して難しい話ではないと、腹を括ったのかどうか、慧は父に請われるたび、私に代わって妻の役を演じ始めた。父はまだ母の死によって受けた衝撃から立ち直れずにいるが、時間が経てばきっと元通りになるはずだと、考えていたのだろう。だが、期待以上に見事な変身を成し遂げる息子に満足した父親は、なかなか外の女性に目を向けようとしなかった。
演技するのは辛かったろう。だが、拒めば父との間に溝ができてしまう。日々の生活がぎこちなくなり、ぎくしゃくするのを恐れた慧は、苦にならないフリをして、望まれるまま差し出される服に着替える一方、友人たちの前では後ろ暗い想いを悟られぬよう、必要以上に明るく振る舞っていた。
気の進まない仕事は、いつ果てるとも知れず、秘かに続いていった。慧は同情からでなく、仮に相手が怒り出したら、何を仕出かすかわからないという恐怖感によって、父の機嫌を損ねないよう、自分を順応させようと努めたが、感情と行動の激しい齟齬に、しばしば吐き気さえ催す始末だった。いっそ苦悩を快楽に変換しつつ、積極的に受容するなら、まだしも救いがあるのでは——といった意味の独り言を零しもしていたが、生真面目な慧には難し過ぎたのだろう。苦渋は増すばかりだった。秘密の漏洩を恐れながら、メタモルフォーゼを繰り返すしかなかったのだ。
私は申し訳なく思いながら何もできずにいたが、慧が不憫でたまらず、そっと寄り添っていた。すると、あるとき慧は鏡の中に私を見つけたらしく、頬ずりせんばかりに身を乗り出してきた。冷たい鏡面に手を当てて瞼を閉じる寸前、慧は視界の隅に赤い満月を捉えていた。目が合った、というのは変だろうか。しかし、慧は床に倒れ、月光に痺れでもしたように全身を痙攣させて、気を失った。呪縛の始まりだった。私の、ではない。月に魅入られたとしか言いようがなかった。
慧は夜毎、鏡台に向かって化粧するようになった。パウダーをはたき、頬紅を載せて眉を整え、目にはシャドウとラインを入れる。私に似て元々反り返っている睫毛にビューラーは要らなかった。ブラシで丁寧にマスカラを塗るだけでよかった。少し下がってバランスを確認する。慧は自分の顔が徐々に陰翳を帯び、艶めいていくのを見るのが面白くてたまらないようだった。唇に紅を差し、指先でうなじに甘いオードトワレを滑らせる。仕上げに私と同じヘアスタイルのウィッグを被れば完璧だった。それはさすがに人目が気になったのか、散々デパートをうろうろしながら手ぶらで帰り、後日、通信販売で購入したものだった。
慧の中で、確たる自信が芽生えたようだった。私の服を着て化粧すると、嫌悪感に苛まれる本来の自分が鳴りを潜め、代わりに昼間は身体の奥で眠っている、私にまつわる記憶、イメージが立ち昇って、表に現れるような気がし始めたらしかった。鏡に見入ると同時にスイッチが入るかのようだった。鏡面に映り込む、妖しい
だが、
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