月宮殿(げっきゅうでん)④


■0


「頼むよ。お前の助けが必要なんだ」

 父親は唐突に切り出し、私が遺した服や化粧品を息子の前に投げ出した。けいは父の強張った顔を茫然と眺めていた。

「時々でいい。の記憶が薄れないように……」

 彼は私の面影を宿す息子を見つめては、仄かに浮かぶ血の痕跡を執拗になぞろうとしていた。慧は混乱する頭で必死に考えただろう。これは一時的な代役だ、他にふさわしい人が現れれば終わる役目に過ぎないのだ——と。嫌も応もなかった。慧はまだ子供で、父の庇護がなければ生きられないのだから。

 要は、女装して少しばかり母親の仕草でも真似てやれば済むのだ、大して難しい話ではないと、腹を括ったのかどうか、慧は父に請われるたび、私に代わって妻の役を演じ始めた。父はまだ母の死によって受けた衝撃から立ち直れずにいるが、時間が経てばきっと元通りになるはずだと、考えていたのだろう。だが、期待以上に見事な変身を成し遂げる息子に満足した父親は、なかなか外の女性に目を向けようとしなかった。

 演技するのは辛かったろう。だが、拒めば父との間に溝ができてしまう。日々の生活がぎこちなくなり、ぎくしゃくするのを恐れた慧は、苦にならないフリをして、望まれるまま差し出される服に着替える一方、友人たちの前では後ろ暗い想いを悟られぬよう、必要以上に明るく振る舞っていた。

 気の進まない仕事は、いつ果てるとも知れず、秘かに続いていった。慧は同情からでなく、仮に相手が怒り出したら、何を仕出かすかわからないという恐怖感によって、父の機嫌を損ねないよう、自分を順応させようと努めたが、感情と行動の激しい齟齬に、しばしば吐き気さえ催す始末だった。いっそ苦悩を快楽に変換しつつ、積極的に受容するなら、まだしも救いがあるのでは——といった意味の独り言を零しもしていたが、生真面目な慧には難し過ぎたのだろう。苦渋は増すばかりだった。秘密の漏洩を恐れながら、を繰り返すしかなかったのだ。

 私は申し訳なく思いながら何もできずにいたが、慧が不憫でたまらず、そっと寄り添っていた。すると、あるとき慧は鏡の中に私を見つけたらしく、頬ずりせんばかりに身を乗り出してきた。冷たい鏡面に手を当てて瞼を閉じる寸前、慧は視界の隅に赤い満月を捉えていた。目が合った、というのは変だろうか。しかし、慧は床に倒れ、月光に痺れでもしたように全身を痙攣させて、気を失った。呪縛の始まりだった。私の、ではない。月に魅入られたとしか言いようがなかった。

 慧は夜毎、鏡台に向かって化粧するようになった。パウダーをはたき、頬紅を載せて眉を整え、目にはシャドウとラインを入れる。私に似て元々反り返っている睫毛にビューラーは要らなかった。ブラシで丁寧にマスカラを塗るだけでよかった。少し下がってバランスを確認する。慧は自分の顔が徐々に陰翳を帯び、艶めいていくのを見るのが面白くてたまらないようだった。唇に紅を差し、指先でうなじに甘いオードトワレを滑らせる。仕上げに私と同じヘアスタイルのウィッグを被れば完璧だった。それはさすがに人目が気になったのか、散々デパートをうろうろしながら手ぶらで帰り、後日、通信販売で購入したものだった。

 慧の中で、確たる自信が芽生えたようだった。私の服を着て化粧すると、嫌悪感に苛まれる本来の自分が鳴りを潜め、代わりに昼間は身体の奥で眠っている、私にまつわる記憶、イメージが立ち昇って、表に現れるような気がし始めたらしかった。鏡に見入ると同時にスイッチが入るかのようだった。鏡面に映り込む、妖しい月天子がってんしを認めた瞬間に——。

 だが、月影げつえいがもたらしたのは、絶望的な周期性の痛苦だった。慧は突然、未体験の激痛に襲われた。学校の廊下を歩いていた慧は、しゃがんで歯を食い縛った。何が起きたか、私にはすぐわかった。ただの腹痛ではない。下腹部がじりじりと、内側で異物が蠢くような違和感を伴って、もがいているのだ。腰にも鈍痛を感じ、手足は冷たく強張っていただろう。脂汗が額に滲む。友人たちの手を借りて保健室へ倒れ込んだが、胃や腸の痛みではないと説明しても、養護教諭は首を捻るばかりだった。ベッドに入り、背中を丸めて悪寒に震えながら考えたのは、これが奇妙な寸劇に没頭する父と自分への、何者かによる罰ではないかということだったろう。一時間ばかり休んだが回復せず、教室へ戻されても、授業など聴いていられなかった。ようやく放課後を迎え、帰宅した慧は、鎮痛剤を飲んで横になった。眠りに落ちる間際、鏡を通して母を黄泉から呼び戻そうと企てたのが祟ったかもしれないと、小さく呟いていた。

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