月宮殿(げっきゅうでん)⑤


 異様な不快感は下腹部に留まらず、偏頭痛などに変化してけいを苦しめた。あまりの辛さに、翌日は学校を休んだほどだった。しかし、三日もすると鎮静し、憑き物が落ちたように気分が晴れた。だが、下校途中、仲のよい同級生の少女が口にした思いがけない言葉に、慧は慄然とした。

「なんていうか、さ。時々、ちょっと変だよね」

「何が?」

「うまく言えないんだけど。あたしなんかより、よっぽど女っぽく見えるときがあるな……と思って」

 そう聞いた途端、慧は理解しがたい苦しみの原因を悟ったかに見えた。自分が持て余していたのは、あるはずのない子宮の痛み、月経困難症だったのだと。慧の脳は私を模倣するうちに、女性特有の器官まで、自身の体内に仮想現実として認知するに至っていたのだ。

 架空の月水げっすいを認識した慧は、想像上の、それでいて生々し過ぎる苦痛に耐えなければならなくなった。生前の私が毎月決まって体調を崩すのを知っていた慧は、私の表情や態度、口ぶりから、身体の中でどんな変化が起きるのか、漠然と想像を巡らせていたようだったが、とうとう実地に月のさわりの辛苦を体感してしまったのだ。しかも、期間中は気分が塞いで、平時以上に、じっと父の言いなりになるしかないのが腹立たしくて仕方ない様子だった。

 しかし、二年が過ぎ、父が若い女性に惹かれ始めて、慧は安堵した。口に出すと壊れてしまいそうな気がしたのだろう。慧が黙って胸の内で祈り続けたのを、私は察していた。念願叶って、父は交際相手を呼び寄せ、事実婚を開始した。

 最初は何もかもうまく運ぶかに見えた。だが、内妻が家にいるために親子の舞台の上演機会をなくした父は、徐々に苛立ちをあらわにし、彼女に辛く当たるようになった。彼は自分が妻という肩書きのパートナーを欲していたわけではないと、気づいてしまったのだ。必要なのは、あくまでであり、だった。あるいはと言ってもよかった。

 彼女にとって、幸福な日々は長く続かなかった。半年も経つと、彼の言動は支離滅裂になった。彼女の何気ない言葉尻を捕らえては、憤って罵詈雑言を浴びせたり、少しでも気に入らないことがあると癇癪を起こして、手近な食器などを床に叩きつけたりした。彼女が秘かにと呼んだ、それは、アルコールが入ると起きやすくなるらしかった。外で酒を飲んで帰った後が一番ひどかった。しかも、そんなときに限って、味方になってくれる優しい慧が、ちょっとした寄り道のために塾から戻るのが遅れて、二人きりになってしまっていた。慧が帰宅する頃は、例えば彼は入浴中、彼女は散らかった場所を片づけ終える間際といった具合で、慧が揉め事に気づくには、少し時間がかかった。彼はさすがに直接彼女に手を上げはせず、代わりに身の回りの物品に激情をぶつけていたので、彼女は慧に打ち明けず、じっと堪えていたのだ。だが、彼の機嫌のよい状態と悪い状態が交互に訪れる、その周期が短くなると、彼女の精神状態は不安定になっていった。様子がおかしいと悟った慧は、彼女から事情を聞き出すや否や、なぜそんな仕打ちをするのかと父親に掴みかかった。深夜、親子は殴り合いの喧嘩を始め、騒ぎを聞きつけた隣人に警察を呼ばれてしまい、マンションの内外は一時騒然とした。

 慧は、恋人を迎えてから混迷を深めていった父を冷ややかに見つめていたが、何も知らずに巻き添えを食わされる彼女を気の毒に思ううち、抑えていた鬱憤が溢れて、とうとう殴りかかってしまったのだ。いつの間にか相手を凌いでいた腕力に、自分で驚きながら。しかし、ほとぼりが冷めるに従って、慧は父の心情を察し始めたようだった。恋人とのリアルな生活感が母の残像を追い払ってしまうのが、父には辛く、耐えがたいのだと。

 結局、彼女が別れを切り出し、去っていった。一年足らずの同棲生活だった。慧の日常は、また、狂気の書割かきわりに戻った。

 父は待ちかねたように黒いワンピースを差し出した。私がクローゼットに収めた夏の喪服だった。慧は格別嫌がる素振りも見せず、滑らかな肌触りを楽しむように弄んでから、柔らかいシースルーの長袖に腕を通した。控えめな化粧を施してウィッグを被り、チュールの垂れたトーク帽を載せる。父は前々からの流儀を頑なに守って、慧には指一本触れようとしなかった。二人は並んでベッドに横たわった。仰臥した慧は、レースの手袋に包まれた指をそっと胸許むなもとで組んだ。非現実の葬儀が執行される。私か、彼か、それとも慧のだろうか。父のために添い寝する慧は、死者のように姿勢を崩さず、じっと天井を凝視して、一睡もせずに夜明けを迎えた。

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