月宮殿(げっきゅうでん)⑥


■2


 会うたび和やかに雑談を交わしながら、けいはまだ不安を禁じ得ないのだった。絵描きに内心を見透かされている気がして、怖いのだろう。それでいて、どうにも彼から離れられないようだ。

「家出!」

 差し入れを受け取った絵描きは一礼すると、わざと大げさに驚き、おどけた仕草で慧を笑わせた。

「結構、結構。たまには少し心配させておあげなさい」

「うん……」

「どうかしました?」

「いや、今更だけど、なんで声かけたのかなと思って」

「言ったでしょう、どうにも描きたくなってしまったんだって。理屈じゃない、直感ですよ、坊ちゃん」

 答えながら絵描きは忙しなくパステルを操っていた。脇から覗くと、そこにはまたしても女性としての慧——あるいは若かった頃の私——が描かれていた。

「今度の一件は、いいきっかけになったでしょう」

「きっかけ?」

 絵描きが仕上がった絵を見せる。慧は悲しげに目を伏せ、唇を噛んだ。

「潮時ですよ。坊ちゃん自身が鏡に映った像を受け入れるか、あるいは拒否して破壊するのか、決断する時機が来ているんじゃないでしょうかね」

 慧は恐る恐る、しかし、期待の入り混じった眼差しを向け、ゆっくり言葉を選んで、

「あなたは何を知ってるんですか。話してもいない僕の事情を、全部わかってるみたいに言うけど……」

「まさか、千里眼じゃあるまいし。まあ、勘と経験ですかね」

 その返事に、私が腕組みして「ふうん」と声なき声で呟くと、慧は微かな空気の揺らぎを感じたのか、パッと首を振り向けた。だが、息子の目に私は映らない。怪訝な面持ちで姿勢を戻す慧を見て、絵描きがニヤリと笑った。勘と経験——。彼は様々な人物を心眼というフィルターを通して絵画に結晶させるうち、特異な力を身に着けたものらしい。無論、本人の言うとおり超能力者ではないのだから、何から何まで、すべてを見通せはしないだろう。ただ、面と向かって瞳を覗くときだけ、そこに焼きついた画像や記憶を探り当てられるのかもしれない。

「半分は想像です。でも、それをこうして紙の上に定着させるとね、なんとも言えない喜びが湧いてくるんですよ」

 そう聞いた途端、私は絵描きの邪悪な内面を垣間見た気がした。だが、彼が直接、慧に危害を加えることはなさそうだった。彼はただ、思い当たる節のある者にだけ役立つ遠回しな示唆を与えて、機が熟すのを待っているのだ。なぜか。彼が本当に描きたがっている絵、脳裏に浮かぶ美しくも凄惨な情景は、どんなキャンバスにも収まりきらないからだ。彼は悪夢が夜陰に乗じて現実へ滲み出し、夢とうつつあわいで、例えば慧が演じる芝居を鑑賞しようと待ち構えているに違いなかった。そして、役者が走り去った後、彼は路上に膝を突き、月明かりを頼りに鉄の箆を握って、アスファルトに滴って凝った紅玉髄のような血の涙をこそげては、絵の具の瓶を赤く満たしていくのだろう。

 慧が危険を回避しようとするにせよ、絵描きの手の上で踊るにせよ、私には何もできない。黙って幕切れを見届けるしかない……。

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