月宮殿(げっきゅうでん)⑦
■3
父親は仕事の後、
予感が的中した。離反の甲斐あって、慧はガス抜きに成功していた。父の意を受けて慎重にメイクを施しながら、しきりに首を傾げている。慧は自分がまったく
父親が近づいてきて鏡に映った。白い箱を差し出す。私のウェディングドレスだった。頭痛のせいか、慧は眉間に皺を寄せていた。究極の仮装を、身体が拒んで抵抗しているに違いない。しかし、惰性なのか、黙って着替えを済ませると、慧は青褪めた顔をヴェールで覆い、静かに裾を引きずって、父の傍へ向かった。胡蝶蘭のキャスケードが揺れる。緊張を通り越して恐怖に包まれている証拠に、顫動のせいで付け爪がカチカチ音を立てていた。曲げた長手袋の肘にできた皺、小さな
明かりを消した部屋の窓辺に、燕尾服を着た父が、
「慧」
父親は確かに、そう言った。当たり前のように、息子の名を呼んだのだ。
「……今、なんて言った?」
「え?」
訊ねても、父には通じなかった。相手の鈍さに怒った慧は、声を荒らげた。
「何考えてんだ。あんた本当に頭おかしいんじゃないの?」
ブーケを床に叩きつけると、隠し持っていた細いナイフが
慧の怒気を察した父は、慌てて愚にもつかない詫び言を述べた。が、激情は慧自身をのぼせさせ、意識を曇らせているかのようだった。父が何を言っているのか、ほとんど聞き取れていない風だった。
慧は、鏡に呼びかけて私を連れ戻そうと躍起になった日々を悔やんでいるのだ。それは虚しい盲信に過ぎず、死はあくまで死でしかないと、死者は現存する肉体に宿って甦りはしないのだと痛感しているに違いなかった。そのとおりだ。私はここにいるけれども、慧に取り憑いて操れはしないし、彼らの仲裁も引き受けられない。ただ眺めていることしかできないのだから。
「だったら、意味ないだろ。どうしてこんな真似しなきゃなんないんだ」
慧は舞台衣裳のまま、劇の破綻に愕然としていた。倒錯した筋書きに従いながら、必死に普通であろうとした自分を、惨めに思っているのだろう。私は鏡像を受容するか拒絶するかという、絵描きのセリフを思い出した。が、慧の出した答えはどちらでもなかった。お仕着せのシナリオは要らない、父が憐れでも、
慧はナイフを振り下ろした。布地と共に太股の皮膚が斬れ、純白のドレスに深紅の亀裂が走った。肩で息をしながら、
「ハハハハハ」
慧は虚ろな、自嘲めいた笑い声を揚げ、呆然と佇立する父の胸を刺した。刃を突き立てられた父は仰向けに倒れ、微かに呻いた。血塗られた胡蝶蘭の
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