あなたに逢えて、私は

ぴよこ

第1話

 あなたに逢えて、私は──




 おぼつかない両脚、音を忘れた喉、虚ろな視界。

 今ここは一体どこで、何時で、私は何をしたいのか。それさえも分からなくて途方に暮れる。

 たらりと頬を滑る汗は冷たくて、身体が小刻みに揺れた。


 死ぬのかな、なんて。

 死んでもいいけれど、私は。私には確か、そう。

 いるんだ、こんないつ死んでも構わないような、世間に見放された私にも、たった一人だけ。私が死んだら泣いてくれるような人が。

 いるんだ、いたんだ。




「綺麗なブロンドだね」

 かつては杜の都と謳われていたこの腐った街で、汚い私に視線を合わせた一人の青年。

 高級そうなスーツを身に纏った、少し背の高い人。

 歳は私とさほど変わらないだろうか。翡翠そのものが埋め込まれたようなその瞳は、真っ直ぐに私を捉えた。

 ここを歩く人間は、まるで汚物を見るかのような視線を私に浴びせかけるのに、いやそれはまだ良い方で、殆どは私など最初からそこにはいなかったかのように扱うばかりであるのに。

 この男は違う。

 ただの好奇心のような、ちょっとした暇潰しのような。そんな声色で私を呼び止めた。

 そんな雰囲気だった。


 どうせ物珍しさで声をかけたのだ、お金持ちの坊ちゃんなんて、きっと私のような者を見るのは初めてだろう。

 私は特に何も考えず、ただ何事もなかったかのようにじっとその場でだんまりを決め込んだ。

 自分は汚染された空気で、排気ガスで、人ではないのだ。だから言葉など持ってはいないし、応える義務もない。

 もう少し眠ろう。

 そう、目を閉じようとした刹那。


 肩を掴まれ、瞬時に薄汚れたフードを外され、顎を持ち上げられた。そこに、躊躇いは存在しなかった。


「うん、やっぱり綺麗だ」


 何なの、この人は一体どういうつもりなの。

 私は綺麗などという単語とは程遠い、遠い存在だ。

 もしかしたら存在などしてはいないものなのかもしれないのに。

 意味がわからない、何が面白くて、私のようなものをおちょくっているのだろう。

 不思議でたまらなかった。

 私に触れられることのできる人間なんて、いないと思っていたのに。


「もったいないよ。君はここにいるべきじゃない」


 何を言いたいの?何がしたいの。


「おいで、君は今から僕の友達だ。そうだ、名前はシェリー。シェリーにしよう」


 私をないものとして扱う人間とはまた別の、私の意志を必要としていないような、この人だけの世界。


 そうか、私は飼われるのか。

 理解した瞬間にもう何もかもどうでもよくなって、ただただ言われるがままに彼の手を取った。




 けれど、私は傷をつけられるどころか、真新しい服に着替えさせられ、一庶民が手もつけられないような豪華な食事を出され、立派な部屋を貰い、空いた時間は彼の部屋へ招かれて、ただただ話し相手になっただけ。

 おやすみの前は必ず私の頭を優しく撫で、最後は髪の毛へそっとキスを落とした。


 それ以上は何もない、ただ、そんな幸せに似た日々を過ごす。

 私は彼が何をしたいのか、分からなかった。




「シェリー、君がいてくれて良かった」


 ある日、そんな言葉を彼が吐いた。

 私には、一生かけられることのなかったはずの言葉だ。


「君だけは、お願いだから僕の傍を離れないで。ずっとここにいてほしい」


 逃げる意味など、私にはなかった。

 けれど、ここに残る意味も私にはなかった。


 私は、私は──




「いらないゴミ」


 どこか遠くで聞こえた人の声、引き戻される現実。そうだ。

 忘れかけていた、私は。


「ゴミなんかじゃない、シェリーは僕のたった一人の友達だ」


 ハッとして振り返った。

 ぼやけた視界でもわかる、新緑の瞳。

 視線が合った。そんな気がした。


「帰ろう、シェリー。二人の家へ」


 浮いた身体と、大きな温もり。

 そうだ、私は。




 あなたに逢えて、初めて帰る家ができたんだ。




 シャラン、と首元で光る鈴の音が愛しくて。


 私はにゃあ、と一言鳴いた。

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