スタンフォードの牛

三崎伸太郎

第1話

スタンフォードの牛


三崎伸太郎



人間は、意外と残酷な生物だ。

ぼく達を殺して食べるという。 この事を聞いたのは、ぼくが生まれてまだ数ヶ月にもならないころ、母牛の豊かな乳房を鼻でつつき上げながら、乳を貪っていた時だ。

牛の一群がいなくなった事で、近くにいた雌牛の一頭が母に向かって言った。彼女は咀嚼のために口を動かしながら、

「クローバーの丘のグループねッ、どうやら人間のエサになったらしいわよッ」

雌牛のおばさんの口の端に、若草色の小さな茎が見えていた。

「そう……人間の……」母の大儀そうな、それでいて重みをおびた声を覚えている。

ぼくは牛だ。 名前をポールという。

現在スタノフォード大学の学生だ。牛の分際で学生とは、と思いになるかもしれない人間の為に付加えるなら、スタンフォード大学で勉強をしている牛とでも申し上げておこう。

そもそも、ぼくの名前のポールは、人間の学生達がつけた名前で、ぼくが生まれた時、ポール・アンカの曲が牛舎に流れていたからだと聞いた。

ぼくは自分の父親が誰だか知らない。牛は「種付け」と呼ばれる人間の行為で、動物の発情期において、人間の用意した雄牛の種を雌牛に受精させるからだ。

しかし、ぼくは自分の父親が身近にいることをうすうすとは知っている。丘の外れに立つ一本の木の下で、いつも遠くを見ているような雄牛、 牛の仲間に言わせれば一風変わった牛だという事だが、 どうやらその牛が父親らしい。

ぼくは一度、 母親に自分の父の事を聞いたことがある。

「ぼくの父親って誰だい? 母さん」

母親は少し驚いたようになり、地面のクローバーを食べていた口を止め、 フッと軽くぼくを見た。 そして又、 口を左右にゆっくり動かしながら顔を上げ、

「ポール、私たち牛は人間によって子どもを授かるの……だから、子牛はこの丘のみなのもので、大人の牛のすべてがあなたの父親であり母親なのよ……でも」

母親はここまで言って言葉をきった。そして、おおきなオシリをぼくの方にむけると、ついて来なさいと言った。シッポが左右にゆれ、その向こうに豊かで大きい乳房がゆれた。

ぼくは母の乳房が好きだった。温かくて優しく、乳首を含んで鼻で軽く二、三度押し上げると、 おいしい乳が一杯に出た。 丘の上を駆け抜ける風の運ぶ草のニオイ、そして母親の体の外れに見える青い空。 曇りの日だって嵐の日だって、 母の乳房に触れている時のぼくはいつも幸福を感じた。

母親は自分達の群れから離れ、ゆっくりと軽斜面を下りながら、 時々立ち止まっては僕を振り返って見又、歩いた。 もう一つの丘の向こうにはハイウエイがあり、 人間の車が高速で往来しているのが見える。 左手の斜面を上がってゆくと、片方の外れにスタンフォード大学の電波望遠鏡がハスの葉のような形で遠方を向いている。

母親は、少し歩調を強めた。

「シンディ」誰かが母親の名前を呼んだ。少数の群れの中の一頭がこちらを見ている。

「キャロル!」母親が言葉を返した。

「どこへ行くの?」相手のおばさん牛がカン高い声でたずねた。

「ちょっと、となりの丘の一本木のところまで」

「あら、詩人のところ? マッ! あの牛は退屈よ」

(詩人?)ぼくは、詩の後に人という字が来るこの言葉を変に思った。 ぼく達は牛だ。 人間ではない。

「退屈?」 そうね……少し退屈な牛ね」母親は、相手の言葉に同意しながら微笑をうかべた。 少し恥じらっているようにもみえた。

おかの斜面を、母親は大きな身体を軽々と運んで行く。 ぼくは少し離れてその後を追った。 斜面にそって吹いてくる軽い風は、初夏のニオイを含んでいた。

やがて丘の上に立つふるい古い大きな一本の木が見え始め、その下に一頭の牛がいるのが見えた。 その時、母親は歩みを止めて、少し離れて歩いていたぼくを振り返った。 ホルスタイン種の母親の白と黒の端正な顔が、ぼくの視覚の中に大きくあった。 近寄って母親の乳房の方に顔を近づけると、母親は少し身体をおりまげ、ぼくの顔のあちこちを力強い舌でなめた。 温かい舌がくすぐったかった。

一本の木の下に近寄って行くと、相手の牛はうずくまって咀嚼をしていた口を止め、ゆっくりと立ち上がってこちらを向いた。 やせた身体だったが整った柔和な顔は知性的で、深くしずんだような大きな濃紺の目は、時々鋭い光を放った。

母親は相手に近付くと鼻先を相手の牛の鼻先に軽く二、三度あてた。 そして、ぼくを振り返って見又、相手を見た。

雄牛は、ゆっくりとぼくの方に近寄ってきた。 ぼくは生れてはじめて雄牛を見た。僕たちは日頃、雌牛の集団の中で生活している。周囲のすべての牛は、大きな乳房を大きな身体に垂らし、草を食べ、咀嚼をし時々だるそうに場所を移動する雌牛だった。

相手の牛は、ぼくを見て何も言わなかった。ただ濃紺の大きな瞳がぼくの瞳の中一杯に広がった。

雄牛はぼくから離れると、頭を上げて遠くを見た。遠くにサンフランシスコ湾が見え

「どうなの? 人間の言葉は?」母親がその牛に声をかけた。

「ああ……」雄牛はゆっくりと母親の方に歩み寄るとチラリとぼくを見、

「似てるな……」と一言いった。

「人間の言葉は、うまく行っている。先達てボイル教授に文法を教わった」

「そう……」母親は一時言葉を止め、尾で背中にとまったハエを追った。

「あいかわらず勉強ばかりなのね」

「勉強というか、人間の研究材料というか、まァ、そのおかげで私は生きていられる」

「そうね……」

「私は体格がよくないから人間の食用にも適していないし又、種牛にも適していない。 雄牛は……」と言い、

「シンディ……その子は?」

「雄牛なの……」

「『雄』か……」

二頭の牛は互いに顔を見合わせて、振り返ってぼくを見た。

大きくなって知った事だが、ぼく達牛は人間によって荷役牛、肉牛、乳牛、少しの種牛に別れさせられている。荷役牛は、近代化が進にしたがってその役目を機械が取って代わり、最近その数は極端に少ない。乳牛は乳を人間に飲ませるために、肉牛はその肉を人間に食べさせるために、人間の手によって繁殖させられ育成させられている。ぼくは乳牛の方に属していて、特に乳牛としてすぐれているホルスタイン種という牛だそうだ。これはぼくの母親や群れの雌牛達の持つ大きく豊かな乳房と、母親の乳頭からほとばしるように出る甘くておいしい乳を考えると納得がいく。しかし、群れに雄牛はいない。

人間のように年中性行為のできるような単純なつくりに出来ていない我々動物は、神によって定められた季節に繁殖期を持つが、人間は利用価値のある動物にはこの掟まで破り、動物のホルモンのコントロールによって繁殖率を高くしている。

ある時期が来ると雌牛は牛舎のはずれの一室に連れて行かれ、人間の手により雄牛の種を受精させられる。

ステンレスの器具が雌牛の体内に挿入され、長く細いパイプ状の先にセットされた雄牛の精液が雌牛の卵子に向けて放出される。

「一方的だわ」

「誰の子どもなのかさえ分からないのよ」

「ほんとうのセックスを知りたいわ」とか、この生殖行為に関して、大人の雌牛達の言葉を時々耳にした。

しかし雌牛達は妊娠し、太い身体をより太くして子どもを産み、乳を与え一生懸命に育て上げる。

ただ雄牛を産んだとき、人間が子牛を親から引き離してどこかに連れてゆく。人間が食べるらしい。

(雄か――)

母親と話している雄牛の言葉がぼくの身体でゆれた。

母親がぼくの方に近寄ってきた。鼻先でぼくの身体を雄牛の方に押した。ぼくは何だか照れくさかったので、雄牛の方に行くのをためらったが、母親の頭で一、二度押されるとすぐ目の前に雄牛の顔があった。

雄牛は、じっとぼくを見た。ぼくはそむけていた顔をおずおずと上げて相手を見た。

突然雄牛は、ぼくに「A」と言ってみろ、と言った。

(A)何だろう? この言葉は――。

ぼくは心細くなって母親を見た。心配そうなまなざしの母親の顔が間近にあった。

「Aといってごらん」

雄牛は少し言葉のトーンを上げ、ぼくに再びさいそくした。

[Moou]ぼくの口から微かに発せられた言葉だった。

雄牛は、ぼくにこちらに来いと言って、一本木の反対側に連れて行った。海が見える。

「何が見える?」雄牛が言った。

「海……」ぼくはポツリと答えた。

「他に?」

「山……」

「他に?」

「人間の家」

「他に?」

「空」

「色々な物が一杯見えるだろう?」雄牛がぼくを見て言った。

「この世界を人間が支配している。私のような細い力のない牛よりも力の弱い人間が、なぜこの世界を支配出来るのか。 それは、彼達が考える事にすぐれているからだ」

「―――」

「生まれてきた以上、人間のように色々な事に疑問を持って、それについて考えてみたいと思わないかね?」

「―――」

「こちらの方に来て、向こうの丘を見てごらん」雄牛が言った。

「大柄な牛の群れが見えるだろう?」

フリーウエイをはさんだ向こうの丘は、なだらかな牧草地で、ところどころ木々の繁みがあり、その影に人家とか、何かの建物が見える。

「彼達は肉牛だ」

雄牛は少し間を置いた。

「やがて人間に食べられる」

ぼくには、その意味が理解できなかった。

(食べられる?)どういう事なのだろう。人間は草を食べないのだろうか?ぼく達牛は、草が大好きだ。地面にはえている草をゴシゴシと噛み切り食事をする。時には力強い舌先で草を集め、口に運び入れる。やわらかい草、かたい草。そして短い草や長い草。花のついている草。ぼくたち牛は美食家だと思う。食べる前に香りを楽しみ、好みに合わせて色々な草を口にする。食べた後も、胃にたくわえた草を、もう一度口に戻して味わったりする。

柵のなかの牛達は一応太っている。肉の付きすぎた体は、動くのに気だるいのか、皆足をおり地面に座している。彼達の周辺は時間さえもノロノロと動いているようだ。

「彼達は、自分達が人間に食べられる事を信じていない。牧草地の草より、人間の彼達に与える美味しい穀物は、自分達の特権だと考えている。人間達は、よりやわらかく美味しい肉をつくるために、彼達に極上の穀物を与えているわけだがね……」

雄牛は一時言葉を切り、少し顔をくもらせると、彼の背中にとまったハエを軽くシッポで追った。近くを飛んでいたチョウチョウが驚いたように方向を変えて飛んで行った。

「自然界の法則を人間は破っている」雄牛は言った。

「人間社会の構造については、この次、君に話してあげよう。それよりも今日は、牛だ。 あの肉牛達の周囲を見てごらん。 柵がめぐらしてあるだろう? 簡単なつくりの柵だ。 丸太を地面に立て、有刺鉄線でつないで囲っている。丸太など、もう何年も代えていないので、軽く押せば簡単にたおれるだろう」

確かに、一部の丸太はすでに腐蝕して傾いている。

「われわれ牛は、人間の何十倍もの大きさだ。 固い角もある。あの柵の囲いから逃げようと思えば逃げられる」

雄牛はぼくを見た。そして言った。

「でも、誰も逃げようとしない。 信じているんだよ。 人間を―――」

雄牛はゆっくりと足をおって座した。

「君もすわんなさい」

雄牛の言葉に、ぼくも、近くにいた母も、 短い牧草の上に体を下ろした。

「Aと言ってごらん」

突然の雄牛の言葉に、ぼくは、

「a」と言った。

「オッ! しゃべれるよ彼は」

雄牛は少し驚いたように、 母に向かって言った。


第2話


そして、 その日から数日経ったあと、母親は再びぼくを一本木の下の雄牛のところに連れて行った。

雄牛は、ぼくを連れて丘を下ると、スタンフォード大学のキャンパスの外れにある、遺伝子工学研究室に行った。

二、三の若い学生達が雄牛を見かけると近寄って来て、何か変な声を発し雄牛と会話をした。 学生達は、雄牛の頭や背中を軽くなでたりたたいたりした。

雄牛は気持ちよさそうに学生達の挨拶を受け、 ぼくを見て何か言葉をしゃべった。学生達はあらためてぼくを見、微笑をうかべてぼくに近寄って来た。ぼくは二本の足で立って動く人間という奇妙な生物に馴れていなかったので、すこし後に飛びのいた。

学生達は少し驚いたようだっが又、近寄ってくると、ぼくの首筋あたりに手を当ててなでた。不思議とぼくの気持ちがやわらいだ。

雄牛と学生達は、ぼくを見てしきりと何か話している。ぼくには彼達の言葉が分からなかった。ただ、人間は余り恐ろしくない生物のように思われた。身体は大きくないし、力だって強くなかった。ぼくが少しからだを動かすと、ぼくの首筋あたりに手を置いてまわしていた学生の一人は、軽々とバランスをくずした。

毛だって全身にはなく、頭の先の方に少しだけ申し訳ない程度には生えているだけだ。奇妙な事に、目の上に半月状の毛がある。あとはつるつるの皮膚があり、それはやわらかい皮状の物で覆われている。後で知った事だが、その皮状の物は繊維で出来た服と言う物だった。

人間の雄と雌の区別もなかなか難しいものだった。

雌は雄より外見が少しやわらかい。だいたい頭の毛が長い。乳は大きい。乳房は胸についている。最初、ぼくは人間の雌達の、太股の間を何度も見て、乳房がないのにとまどいを覚えた。少し人間に馴れてきたとき、ぼくは人間の雌の、脚の付け根の間に鼻ずらを持っていって乳房を調べようとしたが、人間の雌は「キャ!」と奇妙な声を出して少し後ろにさがり、そのあたりを両手でおさえてしゃがみ込み、顔をあかくした。

そこに乳房はなかった。しかし、少し目をずらして胸のあたりを見ると、そこに二つのふくらみが並んでついている事に気付いた。

それが人間の乳房だった。ぼくは思わず苦笑した。母や、ぼくの周囲にいる乳牛達の乳房と比べると、極端に小さい。

ぼくは、こういった人間達が、ぼく達牛を殺してその肉を食べるとは、どうしても思われなかった。

年を取った小柄な人間が雄牛に近寄ってきた。彼は雄牛の知人らしく、ずいぶんと親しそうに話した後、ぼくの方に近寄って来た。彼がボイル教授だった。

教授は最初、ぼくの頭を軽くなでた。そして、ぼくの首に片手をまわすと、もう一方の手をぼくの口に入れ、あちこちを触って手を出した。少ししょっぱい味がぼくの舌に残った。

教授はぼくの口を調べ、発生能力をチェックしたらしい。この事は後で知った。

ぼくは、雄牛のおかげでボイル教授に会え、研究用の牛として登録されたので命が助かった。

この事も後で知った事だが、乳牛の子どもの雄は普通、種牛として残す牛を除いて、すべて子牛の肉として人間の食用にされるらしい。ぼくのように余り体躯のよくない子牛は、間違いなく人間の食卓にのぼるという。

この事は、スタンフォード大学の学生になった今でも信じる事ができない。

周囲の学生達にそれとなく聞いても、彼達は皆一様に「さあ……」とか「どうだろう?」とかあいまいな言葉でしか答えてくれない。ぼく自身も、このか弱い人間達がぼくたち牛を殺し、その肉を好んで食べるとは想像出来なかった。

まあ、とにかくぼくはその日以来、毎日ボイル教授の研究室に行って人間の言葉を教わった。

アルファベットの母音の発音に関しては、たいして難しいとは思わなかったが、子音の発音を自分のものにするまでには、かなりの時間を要した。

ボイル教授も専門は大脳生理学で、言語学は専門外という事だったが、ぼくには教授の教える言葉に関してのいっさいがスムーズに理解出来た。

一、二年もすると、ぼくは人間の小学校二年程度の文法を理解し又、本も読める事が出来るようになった。

しかし文字を書く事はできない。ぼく達牛は、哺乳類の中の、有蹄類の偶蹄目という一目で、足は蹄であり、角質の爪が二分したような形をしている。したがってぼくの足は文字を書くのには適していない。

ぼくは文字を覚えるのに、頭を文字の線にそって動かし、感覚をつかんで記憶していった。アルファベットを覚えてからの文章の構成は、そう難しいものではなかった。ぼくの知識欲は旺盛で、特に読書の楽しみは自分が牛である事を忘れ、広大な知識の世界に身を置く幸福を覚えた。

しかし、大学のライブラリィは、ぼくに対する図書の貸し出しをしぶった。唾液で本が駄目になるというのである。

確かにぼくは、学生たちの作ってくれた特殊な台に本を置いて読むのだが、ページをめくるのは舌でするから、本のぺージが唾液でぬれる。そんな訳で、ぼくの読む本は学生達からのおさがりの本とか、大学の研究室で必要のなくなった論文集とかだったが、時々ライブラリィも必要のなくなった本を届けてくれた。

知識は努力によって身につく。おかげでぼくは、スタンフォード大学の学生になれた。


第3話


「ポール」

ぼくの背後から誰かが声をかけた。

振り返ってみると、日本という国から来たヨシダという客員教授だった。彼は日本の京都という都市にあるATR人間情報通信研究所というところから来ている。「複雑系の科学」を研究していると聞いた。彼の研究分野は「人工脳」だということだ。ヨシダ教授は痩身で眼鏡をかけており、年齢は六十を超えている。

「コンニチハ」ぼくは、最近彼に習った日本語で挨拶をした。

「やあ、今日は」彼は顔全体に微笑をうかべて言うと、

「これ、食べないか?」と白いカップ状のものを一つぼくの方に差し出した。

「カップ・ヌードルだ」と彼は言った。

「カップ・ヌードル?」

「そうだよ」とヨシダ教授は言い「どれ――」と、ぼくの食器の中にカップの中身を移した。

変なニオイだったがマズソウでもなかった。

ヨシダ教授は、近くの干し草の上にドッコイショという声とともに座ると、自分のカップ・ヌードルという白い器を目を細めて見、何か板状の物を口にして歯でくわえると、それを二つにした。

「何ですか、それは?」ぼくが興味を示したのに彼は軽く笑い、

「ハシ……割り箸といってね、我々日本人は、この二つの棒で食事をする。ほれ、このように――」

彼はカップの中に二つの棒、ハシという物を突っ込むと中の物を引き上げた。幽かな湯気が流れた。

それをうまそうに口に入れた。

「ポールも食べてごらん?」

ぼくは鼻先を食器のほうに近付いた。かなりニオイがきつい。

「きみのはベジタブルのカップ・ヌードル。オレのはシュリンプのカップ・ヌードルだ」とヨシダ教授は言い、ゆげで曇った眼鏡をはずすと白い研究着でぬぐった。

波打った黄色っぽい茎状のものと、細かくきざんだニンジン等の野菜、そしてグリンピースが混ざっている。ぼくは舌をのばして少し触ってみた。

「フム……」ぼくの鼻先から息がもれ、それは茎状の物の上にのっていたグリンピースを飛び散らした。

とにかく不味そうでもなかったので、くるりと舌でまくと口に運んだ。歯ごたえはあまりなかった。不味くはなかったが、茎がやわらかいので、小麦の茎の固さを思い起こした。

「どうだ、ポール。うまいか?」ヨシダ教授がたずねた。

「面白い食物ですね」ぼくはヨシダ教授を振り向いて答えた。

「なッ! 結構いけるだろう?」

彼は、ハシというものを二、三度ふって強調した。そしてカップに口を近付けると中のスープをゴクリと飲み、そのままぼくを少しみたが又、ゴクゴクと中のスープを飲みほすと「これに限る!」と声を上げ、近くの水道の蛇口まで歩くと水をジャージャーと出し、水の流れ落ちる途中あたりに口をつけて、水を飲んだ。

「それ、飲み水じゃありませんよ」とぼくが言うと、ヨシダ教授は「うん……」と言い、飲んだ後の一飲みを口にしたままそこを離れると、上を向きガラガラとうがいをして、それを又飲んだ。

「教授、病気になりますよ」

「なぁに、オレは脳が病気になる他は心配しないんだ」

「脳ですか……」

ぼくはある時、他の学生から忠告を受けた事がある。ヨシダ教授は人工脳の研究の為、お前の脳ミソを欲しがっているぞ、と。

「ポール、よだれがたれてるぞ」教授が言った。

「エッ? ぼ、ぼくは牛ですから、よだれが多いんです」

「おッ、そうか。こりゃ、すまん事を言った」

「いえ、牛ですから……」

「そう牛、牛と言うなポール。オレは別に君が牛だから特別扱いしている訳じゃあない」

ぼくは教授の言葉の少し止った時「教授は脳を研究しているのですか?」と口を入れた。

「エッ?」

ヨシダ教授は、ぼくの突然の質問に少し驚いたようだったがテレたように高笑いをし、

「そうなんだよ。脳の研究をしている訳だがね……」と言って、ぼくの頭の方を眼鏡越しに見た。

「ぼくの脳は小さいです……」多分、ぼくの声は小さくうわずっていたと思う。

「いや、大きい」教授は答えた。

「いや、小さいです。頭も悪いし……」と、ぼくは言った。

「いや、君は頭のよい牛だ。現に人間の言葉が話せるじゃないか」

「ぼ、ぼくの頭は固いですから、中は見られません」とぼくは答えた。

「ポールの頭のなか? 見てみたいものだね」

教授の視線が再びぼくの頭の方をとらえた。ぼくの口から涎がスーッと落ちた。

ヨシダ教授は、ぼくに近寄ってくると「フム」とぼくの頭を見、ポンンポンと軽くたたいた。

「脳ミソが一杯つまっているぞ、ポール」

ぼくは答えなかった。

「うらやましいな……」と教授は言い、両手を腰の後ろにまわして軽く合わせ、空を仰いだ。

「きれいな空だ……。何もない青い空をわれわれ人間は、美しいと思う。しかしオレは、青い空に浮かぶ白い雲こそ、美しいと思う。雲は絶えず躍動し、とどまることはない。複雑で予想しがたい現象だ。我々の脳も、雲のように自由に活動しやがる。オレは、自分が生きているうちに、何とかこの現象を感覚的なリズムに置き換えて定義付けしたいと研究しているのだが、なかなかうまくゆかんね。日本に帰って、屋台で一杯飲みながら考えた方がうまく行くかも知れん」

「自然現象にも秩序があり、法則性があると考えているのですか?」と、ぼくは聞いてみた。

「その通りだ、ポール。自然のすべてには方向性があり、そして秩序や構造が自然に生まれる」

「ぼく達牛の生存は、そういった人間の概念に左右されるのでしょうか?」

「ずいぶん難しい事を聞くね。しかし、残念ながらオレには分からん」

「何の為にぼく達牛は、人間に飼われているのでしょうか?」

教授は、ぼくを眼鏡越しにちょっと見た。そして、近くにあった干草の固まりの上に腰をおとすと、

「色々訳があるさ、ポール。人間って奴は、面倒な生き物でね。身勝手なんだ」

「教授。人間はぼく達牛の肉を食べるそうですが、本当ですか?」

「肉?」

「そうです」

「牛の肉か……」

「誰も答えてくれないのです。この事に関しては……」

「そりゃそうだろうな」

「どうしてでしょう?」

「そりゃ、モラルの問題だ。 オレも答える事ができないよ」とヨシダ教授は答え、ドッコイショと言いながら腰を上げた。

教授は、研究室に向かって歩きながら、二日前に食べた焼き肉の事を思い浮かべていた。

人間は、何の疑いも躊躇する事もなく、肉を食べる。マーケットには、血のしたたるような生肉がところ狭しと並んでいる。人間は、それを見ても異常とは考えない。

教授は歩きながら、自分の右手の肘あたりに顔を近付け、匂いをかいでみた。

オレの身体に、まだ、焼肉のニオイでも残っていたのだろうか? 教授は肉が大好物でもなかった。どちらかと言えば、菜食主義的だと思っている。しかし、三日前、身体が少し気だるかったので、焼肉でもと思い焼肉家で夕食を取った。焼肉は結構うまい味だった。食べながら牛の生命の事などは思いもつかなかったし又、人間のために屠殺され、食料となっている動物に対する憐憫の情けさえなかった。ただ、最新式の焼肉用コンロの上でジュー、ジュー音を立てて焼けている肉を、食べごろに焼けたかどうか、それだけに気を止めていたし、それを口にするとうまいと思った。

なぜ人間は、いや人間も肉を食べるのか。教授は今まで考えたこともなかったが、人間の言葉を話す牛の質問から、してはならない事をしたような罪の意識を覚えた。


第3話


牛のポールは、午後はクラスがなかったので、食事の後、母親達のグループのいる丘に戻った。最近ポールは、母親達のグループと行動を共にする事は少ない。母親に、あなたは雄牛だから、もうそろそろ一頭で行動しなさいと言われた事もあるが、彼は性格的に一頭でいるのが好きな牛だった。

丘の斜面をゆっくりと登り、中腹より少し上にある、やや平たんになった場所で身体を横たえた。ほとんどの牛は、しゃがみ込むだけで、あまり横たわることがない。しかしポールは、長々と青草の上に横たわるのが好きだ。四肢を思いっきりのばし、首をものばすと、心地よい開放感がある。

頭を乗せている青草の、ヒヤリとした感触や、密集する草の茎や葉によどむ空気は、緑々とした壮快な香りを含んでいた。

連立する草々の、茎の一部に舌をまきつけると、少しむしって口に運んでみる。若い草の茎からはパッと甘い味が走り、緑々とした葉からは、濃厚な味がにじみ出てきた。鼻孔をくすぐるような青いニオイが牧草から立ち昇る。

ポールは、日本という国から来たヨシダ教授に、昼食のときにもらったカップ・ヌードルの味を思い浮かべた。波打った黄色っぽい茎は、噛んでも歯ごたえがなかった。ヌードルから立ち昇る湯気は、薬品ぽいニオイがし、穀物の持つ本来の魅惑的な自然のニオイは消されていた。

人間とは不思議な生き物だ。自然の摂理に反する事を好む。まるで、自然を破壊する事により、人間社会を維持できると考えているようにも思われる。

ポールは牧草を咀嚼しながら、人間と牛との関係を相互に考えてみる。

人間は、ぼく達牛を人類のために利用している事は確かなようだ。雌牛達は、毎日定期的に乳を搾乳される。それを人間は飲んだり、チーズやバターといった製品にして食用にするらしい。

人間の雌の乳房は小さいので、乳を分け与えるのは仕方のない事かもしれない。乳頭など豆粒ほどの大きさだもの。それに、二つだけしかついていない。

ポールは母牛達の乳房を思い浮かべてみる。豊かな腰の下にさがる乳房は大きい。 触ると温かく、乳頭は筒状で四個あり、口にするとあふれるほどの乳が多量に出てくる。それは甘く、やわらかい母性の味で、子牛の飽きることのない食欲を満たすことが出来た。

ポールはふと、母牛が懐かしくなった。起き上がると、丘の斜面に沿ってふいてくる五月の風が下腹部をくすぐった。頭をふって、顔の周囲にまとわりついていたハエを追っ払った。

丘の斜面を横の方に移動しながら、母牛の群れをさがしてみた。

数頭から数十頭程の牛の群れが、あちこちにいて、のんびりと牧草を食べている。群れの中には子牛がいる。今年産まれたのだろう。 雌牛だったらそのまま牧場に残れる。雄牛だったら、人間に食べられる……。しかし、そのことが本当かどうか、実際のところぼくは知らない。子牛の肉は軟らかくておいしいと聞いたのは、ピクニックに来た人間からだった。

この丘のふもとからスタンフォード大学のパノラマ式電波望遠鏡のところまで小道がつづいていて、時々人間達が散歩をしたりピクニックにきて歩いている。牛の水飲場付近を歩いていた数人の男が、子牛を見て話をしていた。

彼達は、ぼくが人間の言葉を解することができるとは、夢にも思っていなかっただろう。ただ牛を見、下品な話をし、牛の肉の、どの部分の味はどうだとか又、子牛の丸焼きの話まで丁寧にしていた。

実際その男達をすり抜けた風が運んできたニオイには、牛のニオイが感じられた。

「オイ見ろよ」その中の一人がぼくを指差した。

「あの若い牛は雄だぜ」

「本当だ。オッパイがねえや」

「じゃ、あいつは種牛か」

「ラッキーな牛だ。この牧場の雌牛を全部自分のものに出来るからな」

男達は下品に笑い、ぼくの下腹部を指差しては、なにか卑猥な言葉をつづった。

「こっちを睨んだぞ」太った男が言った。

「人間の話がわかるもんか」

「しかしあの雄牛は、怒った面になっているぜ」

「オメイの、その赤い帽子がきにくわんのじゃないかい?」無精髭のやせた色の白い男が、隣の赤い帽子をかぶっている男を、あごでしゃくった。

「牛は色盲さ」赤帽の男が答えた。

「じゃ、なぜ闘牛で、 赤い布をヒラヒラさせて牛を怒らすんだい?」

「そのヒラヒラが、牛の神経を刺激させるのだと、よ」

「何だ。牛は色盲かい。なら、あのデッカイ目玉は、あまり役立たずか」

ぼくの怒りは、頂点にまで来ていた。実際、ぼく達牛は色盲だと、人間によって決め付けられている。しかし、ぼく達牛は色が分かる。雨の後に、空に大きく弧を画く虹を美しいと感じるし、自然界のすべての色に対して、人間以上に敏感だった。

人間は勝手すぎる。自然界のことを勝手に決めすぎる。

ぼくは、道と牧草地とを分けている柵の外にいる男達に向かって、突進して見せた。男達は、ワッ!と奇声を上げて柵から離れた。そして、罵詈雑言をはきながら、手や身体で変な動作をして、ポールに見せつけた。

ポールはその時、人間は二種類いると思った。よい人間と悪い人間だ。しかし、この二種類の人間のどちらとも、牛の肉を食べるらしい。

良い事と悪い事は、人間社会において、人間達が決めている勝手なルールだ。

ポールは歩いた。歩くたびに、牛と人間との相互間系に疑問が生じた。

ポールの足は、自然に丘の上の方に向かった。そこには人間の言葉を話す牛がいる。母牛に連れられて丘の上に行き、その雄牛と会って以来、ポールはたびたび彼に会いに行った。人間の言葉を習うためでもあったが、それ以上に、人間や牛の社会について話を聞く事を好んだ。

雄牛は、ポールの疑問や質問に、大きな濃紺の目で受け止めるかのようにポールを見返し、ゆっくりと明快な答えをだした。それは、ポールがボイル教授のもとで勉強をはじめると、哲学や心理学の見地からの意見が比較的多くなった。

ポールは時々雄牛が人間であるかのような錯覚を持った。雄牛の知識は人間のものだと思った。この疑問を心のどこかに持ったときから、ポールはしばらく雄牛に会っていなかった。

丸い、草の丘の一斜面に近づくと、一方の端の方に、次の丘の上に立つ木の枝の先端が見えてきた。木は、ポールの歩む速度に合わせて、次第にその輪郭を現して来た。木の下には雄牛がいるはずだ。彼は深い濃紺の目で遠くを見つめているだろう。

雄牛はいた。木の下に立っている。そして、その横に他の牛がいた。ポールは足を止めた。小さな丘の谷間一つを隔てた向こうの丘は、辺りの丘でも一番高く、スタンフォードの電波望遠鏡は、その丘から続くなだらかな峰のもう一方に立っている。ポールは電波望遠鏡を見た。ハスの花のように大きく開いた望遠鏡は、南の地平線上の、青い空と一直線上にある。ポールはため息をついた。丸い望遠鏡は、ただ彼の視覚の中だけにあり、思考は雄牛の横にいた牛にゆれていた。

間違いなく母だ。座っている尾がゆれ、背中を数度たたいた。

ポールは少しためらいを覚えた。彼達の前に自分が現れてよいものかどうか、不思議な思いが身体で交叉した。

ポールは足もとの短い草に鼻先を近づけた。空気が草の間で淀んでいた。鼻先で、小さな茎のまとまったあたりをつついてみる。草の香りが飛び散った。彼は頭をもどすと、もう一度、木のある丘の方に目を向けてみた。二頭の牛の、白と黒のまだら模様は、先程と同じ位置にみえる。

彼は一本木の方に向かって歩き始めた。少し歩くと、左の方にある丘の端に、サンフランシスコ・ベイの海の青がうすく見えてきた。ベイからのすずしい風が彼の身体をつつんだ。

一本木に近づくと、母牛がふり返ってポールを見た。咀嚼をしていた口を一時とめると「あら?」と小さく声を出した。

「学校は?」母牛が聞いた。

「午前中だけ……」

母牛はゆっくりと立ち上がった。はちきれそうな大きい乳房が腰の方でゆれた。腹についていた草の茎がポトリと下に落ちた。

母牛はポールの方に近づくと、彼の顔に軽く鼻先を近づけ、彼のほほを舌で一二度なめた。ポールは、雄牛の手前、少し気恥ずかしい思いもあったが母牛の舌の感覚は、彼に母性への愛着を認識させるのに十分だった。

母牛にはミルクのニオイがある。ホルスタイン種という、人間によって「乳牛」と呼ばれるほどの豊かな乳を出す牛達のなかにおいても、母牛は抜きんでた乳房を持っていた。

「ポール」雄牛の声がした。その方を見ると、濃紺の静かな目がこちらを見ていた。

「こんにちは……」ポールは、久し振りに雄牛に会ったことと、母牛に会ったことで少し心が動揺していて、挨拶がごこちなかった。

「久し振りだね」雄牛が言った。英語だった。

「お久し振りです」ポールも英語で答えた。

「ボイル教授は元気かい?」

「はい」

「今何を勉強している?」

「脳科学をやりはじめました」

「ボイル教授のクラスは取っているのかね?」

「大脳生理学のクラスは去年取りましたので、教授にすすめられて、脳科学をやりはじめたのです」

「脳科学か……難しそうだね」

「はい。でも、すべての事が脳のなせる業と考えれば、人間のつくりあげた文化のある程度が理解できると思います」

「フム……」雄牛は一二度口を左右に動かした。彼の唇の端の毛に、唾液の玉が一つ光って見えた。

「人間の脳の重さは1・4キログラム程だそうです」

「ホウ……」

「まだ勉強を始めたばかりなので、たいした知識はありませんが、ぼくはこの科目に興味をもっています。

雄牛は黙ってポールを見ていた。

「ぼくは、脳機能を理解し、人間を理解したい。そして牛の社会の……、つまり人間がつくった牛の、人間に利用される立場を、少しでも同等に近ずけたいと思うのです」

「人間にか……」

「牛や馬だって又、豚や鶏など多くの動物が人間の犠牲になっているらしいじゃありませんか」

「――――――」

「人間は、本当にわれわれ牛を食べるのでしょうか?」

近くにいた母牛がポールの方にゆっくりと近寄って来た。彼の首の辺りを二三度強くなめると、心配そうに雄牛の方に顔を向けた。

雄牛は何も答えなかった。

「時々、人間の身体からわれわれ牛のニオイがするのです。人間に、牛の肉を食べるかどうか聞いても、誰もぼくの質問に答えてくれません」

「君は神を信じるか?」雄牛が突然と言った。

「神?」

「そうだ。人間の作り出した最上のものだよ」

「信じません」ポールは言った。

「なぜだ?」

「ぼくが牛だからです」

「牛にも神がいる」

「牛にも神が?」

「牛に神がいても不自然ではないだろう」

「まさか――神は、人間の作ったものですよ。人間達は、自分達の能力の、限界のつじつまを合わすために神をXと置いて、いろいろな問題を解いてきたのです。神は、人間にとって必要なもので、ぼく達牛にとっては必要と思われません。したがって、牛の社会に神など存在しないはずです」

「必要か必要でないか、その価値は誰が決める?」

「――――――」

「人間か?」

「いえ……」

「君は脳科学の勉強を始めた。脳が我々をとりまく世界にどのように影響を与えているかが分かってくる。そして神をXと考える以上、当然答えが出てくるはずだが、その答えはさらに次のXに向かって質問をなげかけるだろう」

「次のXに向かって……」

「そうだ。限りない探求の不安感が生命を維持するために応じて来る。その不安感を減少させるためには、何かが必要だ」

「それが神というのですか?」

「我々牛にも、人間と同じように不安感が存在する。牛にも神が必要だという事だ」

「神が……」

「たとえ我々動物が人間の犠牲になっていたとしても、我々の肉が人間に食されようとも、神の存在がすべてを解決する」

「ぼく達牛の肉を人間が食べるとすると、神という人間の創った、能力の限界を暗示させるものの存在に、矛盾を感じます。なぜぼく達牛は、人間の生命を維持させる食物と化さなければならないのでしょうか? 牛は、大地の草を食べて生きているじゃないですか。不公平です」

雄牛は二、三歩ポールの方に歩み寄ると「ついて来なさい」と言った。

雄牛の歩く後には、低い雑草からはみだしている土の上に、微かにヒズメの跡がついた。ポールは頭を低くして、ゆっくりと歩む雄牛の後ろに従った。

丸みのある丘の頂上のはずれで、雄牛はポールを振り返った。

「よい天気だ」雄牛が言った。

「そうですね」ポールは牛の言葉で答えた。

「君は、我々の生命を何だと考える?」雄牛は咀嚼のための口を左右に動かしていた。

「生命?」

「そうだ。生命は肉体上のみに存在すると考えるか、それとも永久的なものとみるか」

「死んだら、おしまいです」ポールは少し語調を強くして答えた。

「そのとうりだ」雄牛は、いとも簡単にポールの答えを肯定した。

海からの風が、丘のすそ野にそって軽々と駆け上がって来る。

「気持ちのよい日だ」雄牛が言った。

「神が存在し、生命が永久的なものと感じたくなる、そんな日だ」雄牛は、両耳をパタパタと動かすと「潮騒の音が聞こえるね」と、ポールを見た。

ポールは耳を立てて海に向かった。音は丘を駆け上がる風のように思われた。時々、人間の街を走る車の音が聞こえた。潮騒の音は聞こえてこない。

「ぼくには、潮騒の音が聞こえません」

雄牛は濃紺の深い目でポールを見ると「聞こえると信じてみなさい」と言った。

ポールはもう一度海を見た。

人間の町の音がポールの耳をうった。

「心で聞きなさい」雄牛が言った。

ポールは耳と心を澄ました。

潮騒は、人間の町の、騒音のすきまをぬって、風とともに駆けてきた。

「あっ、聞こえます」

ポールは雄牛を振り返った。

「各器官の能力は、精神をそこに集中させることによって倍増する」

雄牛は、咀嚼をしていた口を止めるとペロリと舌で鼻をなめた。口端にあったよだれの小さな玉がキラキラと光って飛び散った。 尾が左右に大きくゆれ、雄牛の体がポールのほうに近ずいた。

「ポール。架空のものを信じ、恐れる事は大切な事だ。そのことが理性を発達させる」

「理性は、大脳皮質に制御されると聞きました。恐竜などは、脳に大脳皮質がないそうです。我々牛はどうなのでしょう? 十二分に理性を持つ大脳皮質があるんでしょうか。ぼくは、人間に負けたくありません」

雄牛はポールの質問には答えなかった。彼は、前足付近にあった少し緑の残っている短い草を、鼻先で押すと、舌を伸ばして巻き付けた。雄牛の灰色がかった舌が、草という大地に育つ物の間で、妙に動物めいた動きをした。舌がグッとちぢむと、引きちぎられたひとかたまりの草が、雄牛の口の中にきえた。

雄牛は、ゆっくりと頭を持ち上げポールを見た。

「君は、人間に負けたくないと言った」雄牛は口を左右に動かしながら、つぶやくように言葉を発した。

「我々牛が、人間の社会の中でどのように扱われているのか、君はそれを知りたいのか?」

雄牛の濃紺の目が一層の重みを持ってポールを射した。

「我々は、筋力のない人間の男に代わって彼達の田畑をすき、乳房の小さい人間の女に代わって乳を彼達の子どもに与え……ポール」雄牛は、ポールの方に少し近寄った。

「確かに、人間は我々の肉を食べる。肉と内臓は食用、骨は肥料として、皮は服や敷物又、バンド等として、我々牛の身体のすべてを人間のために使う」

「そうですか……やはり……」

「我々牛だけではない。豚、羊、馬、鶏等も人間の食料になっている」

「ひどいな……」

「ひどい? 人間が我々を殺すからかね?」

「もちろんです。ひどすぎます。どうして人間は、我々を殺して食料にしなければならないのですか。我々は人間に何の害も与えない。ただ、自然の中で大地に生えている草を食べて生きている動物です」

「私は――――――」と雄牛は言った。

「私は、生まれてすぐに母牛から離された。私が雄だったからだ。私は、小さな檻に入れられた。そして牛舎の外に運び出されてトラックの荷台に乗せられた。私には何がどうなっているのかさっぱり分からなかった。牛舎の遠くで母牛が『モ-』と一度だけないたのを覚えている」雄牛は、ゆっくりと足をおって地上に座した。

ポールも後を追って大地に座した。太陽に温められた草の一つ一つの温かさが、腹部のすべてに感じられた。

「私は、檻という限られた空間にいた」雄牛は遠くを見るようにして言った。

「私は、運が良かった。偶然にボイル教授が通りかかったのだ。彼は、大脳生理学の研究のために家畜を捜していた。そして、ちょっとした好奇心から、私の入っていた檻に近よって来ると、しばらく私を眺めていた。私も、顔に毛がなく頭の方にだけ毛のある、しかも二本の足で立っている人間が不思議で、眺めていた。やがて彼は『A』と、私を見て言った。『エー、エー、エー』私は答えた『エー』と。私にとってAは難しい発声音ではなかった。相手は驚いたように私を見かえすと『B』の音を繰り返して言った。私は『B』と答え返した。ボイル教授は、牛舎の小さなオフィスに走り込むと、係りの人間を連れてきて、私を檻から外にだした。私は普通の牛の子供より小さな身体で生まれていた。ボイル教授は、私を軽々とだきあげると、自分の研究室に私を連れて行った。おかげで命が助かり、ボイル教授に人間の言葉を教わって、人間の知識を身につける事が出来たという訳だ」

「だけど、ほとんどの雄の子牛は、人間の食用にされるのでしょう? ぼくは一度聞いた事があります。人間は、子牛を丸焼きにするらしいじゃありませんか」

ポールの言葉に雄牛は「モー」と低く鳴いた。その声に隣の丘にいた牛の集団の数頭が鳴声を上げた。

午後の太陽は、さえぎる雲のない大空一杯にあるようで、さわやかに丘を駆け上がって来る風のすずしさが心地よく感じられた。

「牛は、人間と共存していると、いえる」雄牛が言った。

「『共存』?それはともに繁栄することなんでしょう?」

「そう言うことに、なる、な」

「でも、ぼく達牛は人間の食料です」

「人間は、我々なしでは生存できない」

「でも――――」

「人間は弱い動物なんだよ」

「弱い動物だからといって、ぼく達の皮で作った服を着、バンドをしめ、バックを肩からつるして歩いている人間に、納得できません」

「人間の身体を見たまえ。身体を守る毛が少ししかない。頭の方だけだ。あとは皮膚がむき出しの状態になっている。したがって、牛や馬や豚の丈夫な革で身を包みたいのだろうと思う」

「だって、繊維でできた布の服を着ればいいでしょう」

「確かに。しかし、我々の皮で作った服ほど、いろいろな面ですぐれているからね。それに、人間には、強者に対するコンプレックスがあるようにも思われる。恐竜に対するあこがれなども、その一つだろうね」

ポールは立ち上がった。温められた下腹部を、風が被って涼しく感じられた。

「今日は、ありがとうございました。ぼくは、人間が牛の肉を食べる事を知りたかったのですが、確認できました」

「君は、今後も人間の大学で勉強をつづけるのか?」

「もちろんです」

「神を信じるか?」

「まだ分かりません。神の存在価値が理解できるまで、もう少し時間が必要です」

「いいだろう。気が向いたら又、話に来なさい」

ポールは雄牛の言葉にうなずくと、母牛の方に歩いた。


第4話


ポールは、母牛と一緒に雄牛の丘をくだって、露草の丘の方に向かった。前を行く母牛の大きなお尻が左右にゆれ、豊かな乳房が後足の間にゆれている。

空気が、幽かに母牛のミルクのニオイを残して行く。

母牛は、電波望遠鏡設備の近くを通ると、人間の造った小さな歩道に出た。歩道は、大きな丘を取り巻くようにして、次第に平地の方に下って行き、放牧場の水飲場付近で、車の通れる程の道に合流していた。

人間の造った道は、丘の斜面を歩くよりも心地よく、安定して歩くことができる。

道は途中からアスファルトになっていて、歩くと、蹄の音がたかくひびいた。

母牛は、それをうるさいと思ったのか又、歩道をそれて丘のゆるやかな斜面の中に入って行った。

三、四頭の牛がふもとの方から上がって来た。すべて雌牛だ。

「あら、シンディ。お久しぶり」その中の一頭が母の顔見知りらしく声をかけて来た。

「お久しぶりね、ジャネット」

黒色のホルスタインの雌牛は、太った身体を斜面に運んだためか、口の外れに涎が泡になってついている。母牛と二、三言葉を交わした後、頭を少し持ち上げて、初めて気がついたというようにポールを見た。

「あら?」

母牛はその言葉に答えて後ろの方を振り向くと、

「私の息子なの」 と言い「皆、ポールと呼んでいるわ」 と付け加えた。

「あら」と、相手の牛は再び言って「雄?」 と、さも驚いたように言った。

他の牛達が好奇心を持ったように一斉にポールの方を見た。

「オスなのお!」黒色の牛は頭を左右に振って言い「どうして無事なの?」と不思議そうに母牛を見た。

「運が良かったの……」

「フーン。種牛?」

「いえ……ちがうわ」

「そうだわよねえ……」と黒牛は言い、ポールを一瞥すると、

「体格だって良くないし……」と言葉を小さくし「シンディ。ラッキーだったわね」と、母牛を見て言った。

「ええ……そうなの。ただ研究用の牛なのよ」

「でもいいじゃない。雄牛で、こうして生きていられるのだもの」

「何の研究用の?」他の若い牛が言った。

「脳生理学の研究用の」母牛が答えた。

「脳生理学?」

「ええ。あまりくわしいことは知らないけれど、ボイル教授の研究室で使われているらしいわ」

「へえ……どんなことにかしら?」一頭の牛がさも感心したように頭をふってたずねた。

母牛はポールを振り返って「ポール、どんなことをしているの?」と聞いた。

ポールは雌牛達に取り囲まれるようにされていて、少々気恥ずかしい思いをしていたが母牛の言葉に「言葉ですよ、母さん」と、ぶっきらぼうに答え返した。

「言葉? あらあら、どんな言葉かしら?」他の一頭が聞いた。

「人間の言葉です」

「人間の?」

牛達は互いに顔を見合わしてうなずくと、尾を左右に振った。その尾がたがいにふれあって揺れが乱れた。

「人間の言葉って、牛がしゃべれるのかしら?」

「しゃべれます」とポールは答えた。

「まあ! 本当?」

「あまり難しくはない」

「あなた、ほんとうに人間の言葉がしゃべれるの?」

「しゃべれます」ポールは少しムッとして答え返した。雌牛達に囲まれて、自分が見世物になっているような感じを受けていた。

「あら? 失礼」と雌牛達は言い、お互いに顔を見合わせて笑った。

「――――――でも、でもね。どうして人間の言葉が必要なの?」黒い牛がたずねた。

「ぼくは人間の言葉を勉強して、人間を理解し、人間と同等になりたいと思います」

「人間と! 同等ですって?」

「まあ! 同等ですって?」

「驚いた事ねッ!」

雌牛達は、目を大きく開いて、さもあきれたように鼻孔をふくらますとフッーと、大きく息をはいた。

母牛は、雌牛達の言葉に一言も発しなかったが毅然とした態度は、ポールが信頼するに十二分のものだった。

母牛は「それでは――――」と言うと、ゆっくりと歩きはじめた。ポールもそれに続いた。前を行く母牛の尾の揺れが、なぜか頼もしげに感じられた。

「母さん」ポールは、前を行く母牛に小さく声をかけた。

母牛は大きな体をゆっくり止めると、前足の少し右側にかたまったように生えているクローバーの方に鼻先をのばし、舌でまるめた一束をむしって口に運んだ。

「母さん。ぼくが人間の知識を身につけることは、牛にとってよくないことなのだろうか?」

母牛はポールを見た。大きな濃紺の目がポールの目を射た。

「気にしなくていいのよ。牛達は人間を恐れているの。人間を神様だと思っている牛もいるのだもの。子供だって、人間のてによって産ませられるし……それに、私たち牛の生命は、人間によってコントロールされているようなものだから」

母牛はこう言うと「ポール。このクローバーとってもおいしいわよ」と言って、再び鼻先を先程のクローバーの一群に向け、ゴシゴシと噛み切って口に運んだ。

ポールは母牛の横まであゆむと、クローバーに視線をやった。人間の言葉が思い起こされた。「母さん。四つ葉のクローバーは、幸運を呼ぶって人間が言ってたよ」

「あら? そう?」と母牛は言って笑い、

「幸運ね――――確かに、そうかも知れないね。お前を産む前に、私はたくさんのクローバーを食べたから、その中には四つ葉のクローバーも混ざっていたことだろうしね。雄の子供が生れたときは少し心配したけれど……こうやって、お前は生きているのだもの、本当に幸運だったわ」

ポールも鼻先をクローバーの一群に近ずけた。甘い緑の香りがクローバーの葉と葉に充満していて、葉を支える茎に舌を伸ばすと、その香りまでが舌づたいに近寄ってきた。

ポールは、水飲場付近で母牛と別れた。

露草の丘には、母牛達の群れがいる。母牛は、一緒に来ないかと聞いたが、ポールは明日の授業の為に読んでおきたい本があるからと言って、母牛と別れた。彼は人間の歩道にそって設けてある柵ずたいに、丘のふもとの方に向かった。


第5話


「ポール」

乳牛達の牛舎の近くで、誰かが声をかけた。

日本人の吉田教授だった。

「どうした?」と、彼は言った。

「いえ……べつに……」と、ポールは答えた。

「そうか。しかし、いやにしょんぼりとした面だぞ、ポール」

「大丈夫です」

「そうか」と教授は再び言い、白い研究着のポケットから何かを引っ張り出した。

「飲むか?」と、彼は言った。

「何ですか、それ?」

「酒だよ」

「サケ……?」

「日本酒だ」

「ニホンシュウ?」

「ポールは、まだ未成年かな?」と教授は言い「これはな、アルコールだ。おれの大好物。研究に行きずまると、どうも、こいつなしでは駄目だね」と続けると、他のポケットから、別のものを取り出した。

「これは、どうだ? 日本からカミさんが送ってよこしたんだよ。これはスルメと言ってな、ポール。イカを干した物だ。酒のツマミには最高だね」

「干草のように見えますね」

「うん。見える」と吉田教授は言い、袋を破って、中の黄色く細長い物を一本取り出すと、ポールの方に差し出した。

「食べてみろよ。人間の食い物は滑稽だぞ。雑食だからね」

ポールは、鼻先をスルメの方に近ずけた。変な腐ったようなニオイがする。

「これ、変ですよ。変なニオイがすだ」

「そうかい?」と吉田教授は言い、ポールの鼻先に持っていったスルメを自分の鼻先の方に持ってくると、数度ニオイを嗅ぎ「正常、正常」と言うと、口の中にほうばった。

「うまい!」と彼は言い、青い小ビンのキャップを外すと、中身のサケという液体をキャップに注ぎ込み、クイと飲んだ。

「これ、これ」と吉田教授は、一本のスルメを二、三度ふると「さて、とポール。何か悩みごとがありそうだが―――」と言って、近くの干草のかたまりに腰を下した。

「ぼくの悩みですか?」

「そうだよ」吉田教授はポールを見ながら、再びスルメをほうばって酒をクイと飲んだ。

「ぼくが悩みを持っているなんて、どうして分かるのですか?」

「そりゃあ分かるさ、ポール。オレは脳を研究している。脳の働きは目で分かる」

「エッ? 本当ですか?」

「半分は冗談だが、君が元気のない事は確かだ」

「そうなんです……」とポールは言い、干草のかたまりから外にはねて出ていた茎に舌をからめて引き抜くと、口に運んだ。

吉田教授の手がポールの頭の角と角の間にのび、軽く触った。

「大きな頭だねえ」と、彼は感心したように言い、その手を自分の頭に持って行くとポンポンとたたいて「ポールの脳ほど大きい」と言って笑った。

「教授。クローン技術のことを知っていますか?」

「クローン?」吉田教授の目がポールの目を見返した。

「はい。我々動物を、コピーする技術らしいです」

「知ってるよ」と教授は言って、酒のボトルに口をつけるとゴクゴクと飲んだ。

「スタンフォードでも、クローンを研究しているのですか?」

「してる」と彼はぶっきらぼうに答えた。

「羊ですか?牛ですか? それとも、豚?」

「オレは、あまりクローン技術には関心がないんだ。いくら相手が動物、いや、君には失礼かもしれんが、動物だからといって、自然の摂理にさからった内容の技術を使う事には、抵抗を覚えるよ」

「自然の摂理? ぼくの知らない言葉ですけど……」

「すべてのコトは、神や精霊のような自然が上手にとりはからっていることさ」

「神? 今日、丘の上の一本木の下にいる雄牛に、神というものについて、少しはなしを聞きました」

「大した事じゃないんだが―――」吉田教授は、スルメの袋に手をのばして一本を引きぬいたが、数本つながってスルメが袋の外に出た。教授は、その一本をつまんでポールの方につき出すと、食ってみろよと言った。ポールは、それを舌にからめて口に運んだ。やわらかい茎の味が少しして喉を通った。

「どうだ?」

「まあまあ、です」

「人間は、こんな物も食べる。酒も飲む」

「人間と動物の違いは、なんでしょうか?」

「人間の行動や考え方には、一般的に言って、文化的社会的な価値観が加わって来る」と教授は言い、軽くコホンとせきばらいをした。

「―――簡単に言うと、人間は常に他人を意識しながら生きているわけだ。それを悪く言えば、人間は所詮他人を利用しないと、生きられない」教授は横目でチラリとポールを見た。

「そのために、人と人の間には、物というものが必要になって来る……」

吉田教授は、少し間を置いた。

「分かるかい? ポール。君たちの間では、物と物の交換はあるのだろうか? 交換とは、奪い合いじゃない。お互いに利益が生じることだ」

「物の交換ですか……。僕たちは、自然の恩恵の中だけでも生活できます。家畜というのは、人間が強制しているだけのことです。自分たちの、利益のために強制して作り上げたものです」

「うん」と教授は言った。

「ぼくは、牛が家畜だということに、少し怒りを感じます」

「そうかもしれないね。君は牛なのに、特 異な脳の発達によって人間の言葉を解し、知識を身につけている。人間の不条理な動物に対する態度や行為に、疑問や怒りを持って当然だろうね」

ヨシダ教授は、ボトルの酒を空けた。そして、ビンの口を片手の平にトントンと打ち付けると、その手の平をペロリとなめ「たらんな……」と、つぶやいた。

「ぼくは、父親も知りません 」

「父親?」

「はい……。母に聞いても教えてくれませんでした」

「知りたいのか?」

「もちろんですJ

「多分、君の父親には、何百頭の子供がいるかも知れないな」

「何百頭?」

「そうだよ。君、もう子供じゃあないので、話しても良 いとと思うが……大変申し訳ないのだがね、人間は 、優秀な雄牛の精子を多量に採って 、発情した雌牛に人工的に受精させるのだがね……いや、何、それは 、人間社会のいかがわしい行為のそれと違っ て、どちらかといううと潔白……潔白ぱ変かな? つまり、何て言ったらいいか、迷うね、こりゃ……。つ まり……機械的な行為だから 、これこそ変か? いかんね、人間は、いかん。ポールと話していると、人間の動物に対する行為が客観視できる。人間は、神を冒涜しているらしい」

「教授、何のことでしょう? ぼくは、あまり理解できません」

教授はポールの方に近寄って、 手でポールの頭を二、三度軽くたたき「 君は、人間のいう『種付け』ということを知っているかね?」 と聞いた。

「しりません」

「そりやあ、 そうだろうな」と教授は言い、ポールの青い大きな目をジッと見て、ニタリと笑い「スケベーなことだよ」と言うと「下品だね」と付け加えた。

「何がですか?」

「その、何だ。オレがこんなことを言うと、自分を下品に感じるのさ」

「悪い言葉なのですか、その、タネッケとか言う物は」

「物じやあない。行為だよ。 つまり……人間は悪いね、ポール。 つまり ……こんなことです。 つまり――」教授は、つまりつまりと連発し、少し気恥すかしそうに 、種付けとはつまり、家畜などの優良品種を繁殖 させるために、良種の牡(おす)を牝(めす)に交配すること――と、後でしらべた辞典の内容と同じことを言った。

「交配?」

「うん」

ポールは、自分の涎が前足の近く まで筋を引いて落ちるのを意識した。頭を振ると、その涎はプツリときれて左足の踵にひかかった。少し照れくさかったので、尾を左右に動かして自分の腹部をピタピタとたたいた。

「しかし――」と、教授は言い「優良種だ け、というのはいかんね」と腕組をした。

「モォ……」

「 公平じゃあない。自然の秩序をこわすものだ。優良種……」教授はチラリとポールを見た。

「あれ?」

教授は、ポールから数歩後ろにさがって、ポールをまじまじと見、 次にさらにさがって横の方から眺め「こりゃ変だ」と言った。

「――?」ポールは四本の足を動かさず、頭だけを動か して教授の動きを見ていたが、彼の言葉に思わず「モー」と鳴き「フー」と、鼻息を出した。

「ポール。君は……その、ずばりと言って体格、いや体躯が良くないねえ……小さい。変だね。その、家畜の優良種とは、体躯の優れたものがほとんどだから……君の場合は、やはり、その、何だ――」教授は言葉につまり、腕を組んだまま目をつむり、頭を上げて、少しの間そのままでいたが「突然変異かな?」と、確かめるようにポツリと言った。

「突然、変異…… 何でしょう?」ポールは、パズルのような教授の会話の言葉に、戸惑いを覚えていた。

「親 に似てないと言うことだよ。親の系統になかった新しい形質が突然、出現又は消失し、それが遺伝する現象だね 人間は、牛を人間の家畜とよんでいるのだが、ほら、牛は体躯のよい牛が、良いとされている だろう? だから、われわれ人間は、種 付けのために体躯の良い雄牛の精子を採ってそれを使う 」

「それで、ぼくは――」

「頭の良い天才的な牛さ」と教授は言った。

「ぼくは……」

「今日は、このくらいにしておこう。ポール、少しは元気が出たかね」

「ぼくには、分からないことが多すぎます。種付けとか、突然変異とか……」

「種付けといえば、何かこう変な感じだが、君が、われわれ人間が、動物をどのように取り扱っているかを知りたいのなら、隠すわけにもいかんだろう 。それに、君の年齢なら 、そろそろ知っておくべきことだろうからね。次の週の月曜日、朝の九時にこの場所に来な さい。オレが、君を種付けの現場に連れて行ってやるよ。見た程よい。それが一番分か りやすいからね」

教授はここまで話すと「またな、ポール」と言って、研究室の方に歩いて行った。 ポールは喉の渇きを覚えた。水を飲むために、近くの牛舎に入った 。

雌牛達が一斉にポールを振り返った。牛舎のなかは、真ん中に一本の通路があり、両側に乳牛達がならんでいる 。牛の首にはクリップのような形の、だ円形になった木の首輪が鎖でつながれており、それがカチャカチャと嗚った。

「あら?オス」

「オスよ」

「 オスねえ……」

「あらあ……」

「フーツ」 と鼻息も聞こえた。

「ぼうや、何しに来たの?」一番近くにいた乳牛がたずねた。

「ぼうや?ぼ、ぼくは『ぼうや』では、ありません」ポールは、相手の目をさけるよう にして、牛舎の床を見ながら言った。

「あら? あらあらあら……」その乳牛は、あきれたように首をゆっくりと左右に動かして、尾をピシャピシャと背中にあてた。

「じゃ、何?」他の乳牛が言った。

「ぼ、ぼくはスタンフォードの学生です」

ポールが答えたとたん、あたりが急にさわがしくなってモー、モーと鳴き声があちこちで上がった。

「ぼ くは、水が飲みたくて……」と、ポールは近くの乳牛に向って言った。

「水?あら、これは失礼。どうぞ。こちらにあるわよ」乳牛は、牛用の蛇口の位置を頭で示した。

ポールは、ゆっくりとその方に歩んだ。数十頭の乳牛の目を気にしながら、水を飲んだ。

「かわいそうに……」どこかで、そんな声がした。

「多分、ノイローゼなのだわ」

「自分を人間と考えているなんて 、一休どうしたんでしょう」

「――でも、私達と同じホルスタインよ」

「モー」「モー」

いろいろな会話があちこちでしていた。

「ぼくは正常な牛です」ポールは蛇口から顔を上げると、牛逹に聞こえるように言った。

「でも、学生だなんて……変だわ?」少し離れたところの、黒っぽい部分の多い牛が言った。

「どうしてです?」

「だって……あなた、牛でしょう?」と、その牛は大きく目をむいて、ポールを見ならがさとすように言った。

「牛ですよ」

「 だからよ」腰を振った黒っぽい牛の乳房がプルンとゆれた。

「ぼくは、人間の言葉が分かります」ポールは小さくつぶやくように言って、前足で一、二度足踏みをした。 コンクリートの床がコッコツと嗚って牛舎に響いた。

「人間の?」

「ことば?」

近くの牛が言葉を発すると、牛舎には連鎖的に「人間の言葉」と言う言葉が、乳牛達の口から口に発せられた。

片方のラインの乳牛がポールを振り返って尾を動かした時、ポールの目に、尾の下にあ る乳牛の雌の性器が飛び込んできた。今まで教えられたことのない雌牛の部位に、禁断の実の罪を犯すような感覚が、一瞬ポールの身体に起こり、彼は思わず牛舎をかけ出して外に出た。そのまま牧草地に続くなだらかな丘をかけて、急斜面の手前で立ち止まり、もと来た道をふりかえると、乳牛達の牛舎は丘のかげに半ばかくれて見えた。

ポールの耳には、自分の心臓の鼓動が大きく聞こえ、下腹部の方には重みのある感覚が あった。ペニスの勃起はたびたび経験していたが、それは今まで自然に起こったことであって、雌牛の性器を見ておうじたことに、なにかしら羞恥心を覚えた。

「冗談じゃあない……」ポールは言葉を出してつぶやいた。ぼくは本当に人間の言葉が分かるんだ。自分を納得させるように考えた。思考の一部に、雌牛の性器の不思議な魅惑が息づいている。

「モー!」彼は怒ったように鳴いた。その声に、数箇所の牛が鳴き声でこたえた。先程の 雌牛達の牛舎からも牛の鳴き声があがり、雌牛が「オホホホホ……」とポールを笑っているようにも又、雄牛を求める雌牛の声のようにも取れた。

ポールは、こういった動物の持つ野生の本能を確認する経験が少なかった。彼は、子牛の時からあまりにも人間の近くにいたために「雌」という彼とまったく違った機能を持つ牛に関心を示す機会がなかった。

ポールはふと、再び一本木の雄牛のところに行ってみようかと思っ た。しかし、すでに辺りは夕方ちかくになっている。彼は一本木の方向に向けていた頭をもどすと、足もとの短い草に鼻面をもっていった。乾いた匂いがする。鼻からの息に 、丘の匂いが飛び散った。

ポールは、尾で体の左右をピシャビシャたたくと、丘の反対斜面を自分の牛舎に向かって歩き出した。


第6話


次の日、目ざめたのが少し遅かった。

牛舎の外に出ると、既に五月の太陽は建物の影をつくらない高さにあった。少し離れた場所にある駐車場に、一台の車が入って来るのが見えた。多分、ボイル教授と学生達だろうと思った。今日は身体検査の日だ。

車から降りたのは三、四人の学生だけだった。彼達は数個のカバンをかかえて、ポール の牛舎に続く小さな道をゆっくりと歩いて来る。

「やあ、ポール」学生の一人が牛舎の手前でポールの姿をみつけると声をかけた 。背後には一人の男子学生と、二人の女子学生がいた。ポールの知らない学生達だった。

「ボイル教授は?」

「ロス・アンゼルスだよ」

「ロス?」

「学会さ」

「――で、この人達は?」

「日本から来た、短期留学生だ。今、君に紹介しょうと思っていたんだよ」

日本と言う国から来た学生達は皆一様に微笑し、ポールの方に向かっておじぎをした 。

「 本当に、牛がしゃべるわ!」女子学生の一人が言った。

「少しだけです。ヨシダ教授を知っていますか?」

「吉田教授?」日本の学生達は、互いに顔を見合わせた。

「日本からの客員教授でね。人工脳の研究者だよ 。少し変わった人物だけど 優れているのは確かだ」アメリカ人の学生が英語で説明した。

日本の学生達は、まだあまり英語に慣れていないようだったが、動物の扱いかたには慣 れていて、ポールの身体検査をテキパキとこなした。

「ミチコ。コワベ牛は、いつ着くのだろうか?」アメリカ人の学生が日本の学生にたずねた。

「私達が日本を出発する前に船積みされたから、多分、動物検査をパスしてスタンフォードに着くのは二、三週間後だと思うわ」

「コウベ、ギャ?」とポールが口にすると、他の学生が「コウベ、ギュウ」と、訂正した。

「なんですか?それ」

「牛だよ。日本の牛」

「ウシ?」

「う ん、とても肉の味が……」と学生は言って、戸惑ったように言葉をきった。人間は、人種は違っても牛の肉は食べるのだと、ポールは内心で思った。

ポールの身体検査がおわると、学生達は再び小道を下って、車の停めてあるパーキング 場に向かった。

学生達は帰る前に、神戸牛がスタンフォードに着いた ら、知らせてあげるので見に来るようにと言った。 ポールは「はい」と答えたが「神戸牛」という肉牛、つまり人間に食される牛を思うと、自分の全身の血が波打って熱っぽくなった。

その牛は、自分が食べられることを知っているのだろうか。自分の生命に対して、いや 自分の存在に、何かしらの疑問を持っているのだろうか。さまざまな思いが彼を揺さぶった。そして、不安な気持ちのまま歩き始めるとポールの思考は、空腹と いう現象に妨げられた。巨大な牛の胃袋が、食物を要求した。

彼は、牛舎の小道の横手にあるクローバーが小さく群生している場所に歩むと、一群の クローバーを舌でまき取って口に運んだ 。甘い草の汁が歯の間からわきでて、喉に流れ込んで来る。幸福なときだ。

草のジュース……と思った時、小さな誰かの足音にフッと丘の斜面の方に顔を向けた。四頭の牛が、斜面をまわって小道を横切るところだった。

四頭の牛の全身は黄金色に見え、真上にある太陽の光をうけてキラキラと光っている。 見かけない群れだ。多分ジャージ一種だ。 しかし、この牧場にジャージ一種はいなかったはずなのにボ……ポールは口を動かし、噛みかけのクローバーを徐々に口の中に運びながら思った。

中の一頭が立ち止まってポールを見た。他の牛達もそれに習った。二頭は親牛だ。 他は子牛だなとポールは思った。

四頭の牛は、方向を変えてポールの方に歩み始めた。

ポールはそれを目で確かめて、再び足元のクローバーに鼻先を近づけるとゴシゴシとむしつて口に運んだ。クローバーの味に、自分の神経を集中させようとしたが、思考は黄金色の牛達の方に向いていて、彼達が自分との距離をどの程度ちぢめているか気になった。 群れは、蛇行している小道にそってなだらかな丘を下って来ると、ポールと少し離れた場所で歩みを止めた。

中の一頭だけが群れを離れて近づいて来ると、声をかけた。

「やあ……」体格のよいハンサムな牛だった 。

ポールは、クローバーを噛んで、左右に動かしていた口を止めると「どうも……」と、小さく答えた。気持ちが高ぶっていた。

「わたしは、デュークだ」

「ぼくは、ポールです」

「君はホルスタイン種だね」

「はい」

デュークという牛は、振 り返って後方にいた牛達に声をかけた。三頭の牛が近寄ってきた。

「 私の家族だ」デュークが言った。

ポールは、軽く頭を下げて牛達を見た。

「家内のダイアナ。長女のマーシャ。 そして、次女のローリーだ」デュークは、彼の家族をポールに紹介した。

「君の群れは?」

「エッ? ぼ、ぼくの群れですか? 」突然の問いかけにポ ールはとまどって、頭を軽く左右に振ると「いません……」と、答えた。

「いない?」

「はい。ぼくは雄牛ですから、もちろん母牛はい るのですが、ぼくは一頑で行動しているのです」

「なるほど……」デュークは少し間を置いて「言い忘れていたが、私 達はイギリスから来たんだ」と言った。

「イギリス? 」

l「私達は、実験牛だ。イギリスでクローンの研究用につかわれる予定だったが、私に言葉の才がすこしあって、私の家族は他の牛達より違った生活をすることになった」

「実験牛? ぼくもです」

「君もか?」

「はい やはり言葉の方です。 現在スタンフォード大学で勉強しています」

「ああ、君か。聞いた。 こちらで人間の言葉を話せる牛が二頭いると。その一頭が君なのか」とデュークは言い、英語にきりかえた。 流暢な英語だった。

「この丘の外れの道をのぼって行くと、スタンフォードのパノラマ電波望遠鏡があるのですが、その丘にも人間の言葉を話せる牛がいます 。ぼくは最初、彼から人間の言菓を習ったのです。

「ほ う……」デュークは、その方向を見上げるようにしてうなずいた。

「ぼくの牛舎は、ここです」ポールは自分の背後の方にある建物を、頭を振 って示し「あなた達の牛舎は?」と聞いた。

「私達の牛舎は、素粒子加速実験場の近くにある。ちょうど、この背後の丘の斜面を下ったあたりだよ。いつか遊びに来たまえ 」とデュークぱ言い「ポール、では又会おう」と牛語にきりかえて続けると、彼の家族を伴ってゆっくりと他の丘の方に向けて歩きはじめた。ポールは、しばらくの間デュークの群れを目で追いかけていたが、踵を返すと自分の牛舎に向かった。

机の上においてある図鑑をめくると、 J の項で「ジャージー」の言葉をさがして 「ジャージ一種」をさがし当てた。

イギリスのジャージー島原産 。乳牛は脂肪が濃く、バター製造に適する、とある 。

それにしても、彼達は美しい毛並みをしていた 。ポールは、マーシャを思い起こした。彼女の全身は、やわらかそうな黄金色に近い毛で被われていた。若々しさと理知さ、そして可憐さがあった。

ポールは机を離れると 、窓に近い壁にかけてあるカガミの前に立った。白と黒の毛で被われた自分の姿が映った。

「白と黒か……」思わずつぶやいていた。

ホルスタイン種の雄は使い物にならないと人間が話していたことを思い出した。 確かにそうかもしれない。ミルクを産むのは雌牛だし、力仕事にだって不向きだし、それに 、ぼくは体格のよくない牛だし……フッーと鼻から息を出すと、目の前のカガミの一部が曇った。

部屋の片隅に干し草の固まりが積んである 。ポールはそこに歩むと、角で一つを突き上げた。頭を持ち上げると、干し草の固まりがくずれて、頭と背にパサパサと落ちてひかかった。彼は頭と体をふるってそれらを床に落とすと、その上に寝転がった。


第7話


翌朝、ポールは牛舎近くの低い丘の上にいた。

連なる小山の二三向こうの、さらに高い丘の傾斜面に、黒い物が点々と見える。まるで 菓子にたかるアリのようだが、牛だ。皆、大地の草を口でちぎって食べている。

君たちは何を考えている? ポールは心の中で牛達にかたりかける。牛達はフッとポールの言葉にふりむく。草はまだ口 の中に残っており、数本の茎が口端から外にでている。牛の口の横あたりには唾液の泡がついている。牛は再び頭を大地の草の方に戻すと、少し動 いて草をむしりはじめる。

彼達は何も考えていないと、ポールは思う。一本木の下の雄牛のように、遠くを見つめる余裕を持っていない。ただ草を食べ咀嚼をし、人間のためのミルクと肉と力をつけるだけだ。

午後、ポールは環境学のクラスに出席した。それが終わると、昨日出会ったジャージ — 種のデュークが住んでいると言った丘の方に向かった。

ヒューレット・パッカー社の研究所のある方から、クーリクが蛇行して、丘の低地から 低地に連なっている。小川をはさんで潅木が立ち並んでいて、それは一つの帯のように見える。周囲には馬の放牧場があり、数頭の馬がすごい速さで駆けているのが見えた。

ポールは足を止めて、馬達の動きを目で追った。すらりとした体躯を持つ馬達は、まるで速さを競い合っているかのようだ。彼達のたてがみは後方に流れ、尾は空中に浮遊している。

ポールは少し駆けてみたで体が重く、スピードがでない。前足を大きく踏み出して駆けようとしたが、前足と後足のバランスが上手にとれず、転びそうになった。彼は、ゆっくり走った。

デューク達の牛舎は、素粒子加速実験場の近くだと聞いたc 実験場の建物は、フリーウエイ 2 8 0 号線を斜めに横切って、真っ直ぐ一本にのびた建物だ。近くに乗馬場がある 。ポールが乗馬場の柵にそって歩いていると「モー」と、牛の声が聞こえた。牛舎の前に、デュークだけがのんびりと立っている のが見えた。「モオー」ポールもかる< 鳴いて答えた。

デュークが頭を振った。

「今日は……」ポールは、デュークに近づいて挨拶をした。

「ヤァ! よく来たね。今日は、私一頭だけなんだ」

「他の牛は?」

「かみさんも子供たちも、実験室だ。クローンの研究に使われることになってしまった」

「クローンですか……」

「そうなんだ。人間は身勝手だからね。彼達は、自分達の利益しか考えない」

「――」

「ところで、君。 君は、新聞を読んでいるかね?」

「ええ、時々ですけど」

「私の牛舎に今日のサンホセ・マーキュリー紙があるのだが、読むかね?クローン牛の 記事がある」

「クローン牛ですか……」

「そうだし クローン牛が誕生したらしい」

デュークは、ポールを自分の牛舎に連れて行くと、干し草の上に新聞を広げた。

「――遺伝子を導入した体細胞クローンの雄牛を、三頭誕生させることに成功したと、書いてある」とデュークは言い、自分の尾で体をパチン! とたたいた。

「ポール。人間は、動物工場を稼動させるつもりだ」

「人間は、本当にわれわれ動物を、物のように扱うようになるのでしょうか?」

「扱う。間違いない。君、この新聞をみたまえ」

デュークは、少し古くなった見なれない新聞を、他の干し草の上に広げた。

「これは、イギリスの新聞だ。この右端の下をみてごらん」

ポールは、一歩まえに体を動かすと、新聞をのぞき込んだ。ニ三の記事の見出しに目を移した後、牛の記事の見出しを見つけた。

「狂牛病」と言う文字が目に入った。

「何でしょうか? この狂牛病という病気は?」ポールは、デュークを見上げた。

デュークの目が強い光を放って、ポールを見ていた。

「君は、この病気をどう思う? 」

「病気ですか?」

「そうだ」

「ぼくは、この病気について、何も知りません」

「そりやあ、そうだろう。 原因が分かっていないからね。いや、人間には、分かっていないと言った方がよいだろう」

「……?」

「この病気が発生した後、牛の肉の需要は、極端におちた。人間達は、自分達の身に危険を感じたのだ」

「狂牛病は、人間にもうつるのですか?」

「いや、牛だけだ。このことを人間は知らない――と 言うより、まだ解明されていない」

「それがどうしてデュークさんに分かるのです?」

「この病気は、私がつくったからだ」

「エッ?あなたが?」

「そうだ」

「ま、また、どうしてですか?牛が死んでしまうじゃないですか」

「心配ない。一時的なものだ」

「でも……」

「革命には、少 しの犠牲はつきものじやあないかね? そうでなくても、我々は人間によって殺され、この肉は彼達の食料となる」

「それで、デュークさんは、その狂牛病をアメリカにも持って来たのですか?」

「難しい質間だ。私が持ってきたと言えば、君は私を恐れるかもしれない 」デュークの端正な顔の目がするどく光ってポールを見た。

「ぼくは……物事を恐れる前に知識を得よ、と一本木の牛に教わりました。ぼくは、狂牛病について何も知りません。出来れば教えて下さい」

ポールの言葉に、デュークはフッと息を軽く鼻から吹き出すと一、二度前足を上下にうごかした。

「知識か……恐怖に勝る知識とは、哲学思考だね。君は、私の真の目的を知りたいと思うかね」

「できれば、知りたいです」

「ほう…… 又 、どうしてだ」デュークの声は低かった。

「ぼくは、我々牛が人間ともっと仲良く、平和にやっていけることを願っているからです」

「人間と? 仲良く、か……」

「人間には、二種類のタイプがあるようです。良い人間と、悪い人間です」

デュークは軽く笑ったが「面白い発想だ」と言って、再び尾で体をパチンとたたいた。

「モー」ポールの背後で牛の声がした。

振り向くと、デュークの奥さんのダイアナと、マーシャとローリーが立っていた。

「お久し振り」と、ダイアナはポールに言って、「ただいま」とデュークに言った。

「今、ポール君にイギリスの話をしてたんだよ」

「難しい話は禁物よ、あなた」

デュークは、ポールを見て軽く微笑し「イギリスは、よい国だと話していたところさ」と言った。

「今日は」マーシャがポールに言った。

「やあ……」ポールは胸の高鳴りを覚えた。

「マーシャ。ポール君に、この付近を案内してあげなさい」と デュークが言った。ポールは、マーシャの後について牛舎の外に出た。

太陽の光の中に立つと、マーシャの体は金色に輝いた。前を歩く若い牛の丸い臀部が

左右に動いて行く。それがポールにはまぶしく感じられ、彼は少し速く歩いてマーシャの横に並んだ。

「パパと何を話したの?」マーシャがポールに聞いた。

「イギリスについて、少し……」

「イギリス?」

「そう ……それだけ?」マーシャが歩みを止めてポールに言った。

「そうですよ。それだけ。何か?」

「何でもないわ」マーシャが答えた。

二頭の若い牛は、デュークの牛舎から乗馬場の前を通り、小高い丘の方に向かった。時々マーシャは、丘の斜面にある草の一部を立ち止まっては口にした。ポールもそれに習った。

マーシャの体のにおいは、母牛のにおいと違っている。母牛には常にミルクのにおいと、太陽の光を一杯に受けてピンと張った白と黒の毛のにおいが交錯していた。

ポールの鼻腔をくすぐるマーシャのにおいは、今までポールが自然界で経験したことのない魅惑的なにおいだ。

ポールは、鼻先を草々の間に置いている間も、空気の中に潜むマーシャのにおいと草々のにおいとを選り分けた。

[ポール」マーシャの声にポールは振り向いた。

「ねェ、あなたクローバーは好き?」

「クローバー?」

「そうよ。あなたの前にある、草」

「もちろん……」変な質問だと思った。

「フフッ」と、マーシャは軽く笑って「でも、あなた口にしなかったわ」と言った。

「ああ……これ、ね。マーシャ、ぼくはクローバーのニオイを楽んしでいたんだ」

「においを?」

「そうだよ?」

「あなたって、ロマンチストね」

「そうかなあ……」

「 他の牛って 、皆ただ草を食べるだけじゃない? 草のニオイを楽しむだなんて、詩的ですばらしいわ」

「詩的?」ポールは、ふと一本木の雄牛を思った。雄牛は詩人だ、と母牛に聞いた記憶がある。

「私、アポリネールの詩が好きなの」マーシャが言った。

「アポリネール?」

「人間で、フランスの昔の詩人。私達フランスにも住んでいたのよ 。アメリカに来る半年ほども前かしら。パパが詩集を買ってくれたわ」

「君は、人間の字が読めるのか?」

「ええ……少しね 。でも、英語とフランス語しか知らないわ」

「君、ニヶ国語が出来るのか」ポールは驚いた。自分以外に人間の言葉を話せる牛がいて、 しかもニヶ国語を知っている。彼の口もとから涎が尾を引いて落ちた。涎はクローバーのまるい葉にあたり、葉が二三度上下にゆれた。

マーシャが歩き始めた。蹄の音が短い草の間に起こった。ポールの視覚に 、マーシャのまだ固くしまっている乳房が入って来た。母牛やホルスタイン種の豊かな乳房を見慣れたポールにとって、マーシャの乳房はより新鮮で若々しく見える。

「マーシャ」ポールはマーシャの乳房に自分の視点をあてた照れ臭さから、彼女に声をかけた。

マーシャが立ち止まってポールを振り返った。

「マーシャ。詩ってのは、面白い小説のようなものなのだろうか?」

「小説?違うわ、ポール」

「実は、ぼくは、詩について何も知識がないんだ」

「詩は、小説と違って、短い文章よ。リズムがあるの」

「リズム……」

「 そう」とマーシャは答え、短い言葉をそらんじた。

ポールの聴覚に入ってきた言葉は、心地よく彼の身体に充満した。 一本木の下の雄牛は、彼に人間の言葉と常識的な人間社会についての知識を与えてくれた 。詩は? 雄牛は、一度だって詩について、ポールに語ったことがない 。彼は、ポールのどのような質間にも根気よく答え、さまざまな解釈をもって答えを見出してくれた。しかし、詩人といわれる彼の分野の一片さえもポールの記憶になかった。

ポールは空を見上げた。一本木の雄牛が自分の身体に潜んでいるような本能の予感に不思議な驚きを覚えた。



第8話


マーシャやデューク達と別れた後、彼は真っ直ぐ自分の牛舎に帰った 。うすく干し草がまかれた床にうずくまると、先程マーシャと一緒に食べた草々の一部を胃から口に戻し、咀嚼しながら牛としての自分を考えてみた。

確かに自分は人間の言葉を解し、人間社会の 一部の知識を得てはいるが、相対的に見て能力は人間に劣っている。しかし、動物の本能と呼ばれる部分、自然に対しての直感とか予知能力、人間の科学力では解明できない分野においては、どうだ。 すこしは、人間に優っているのではないか。言い換えれば、我々牛の脳は人間の十分の一程度に満たない大きさにすぎないが、人間に優る能力もいくらかはあると言うことだ。では、なぜ、我々牛は人間に服従しているのか。

人間の科学・技術の進歩は加速している。 特に最近、生命科学と言われる分野においては、生命の元である遺伝子や細胞、胚を人間が操作できるようになって来た。それは、人間が畜産とよぶ人間社会の一分野をより活発化させ.われわれ動物、特に家畜となってい る動物が人間の科学技術によって、生物から物質的な「物」へと移行させられている。デュー クは言った。「神はどこだ。人間が、神に取って代わろうとしている。われわれ動物には革命が必要だ」と。

ポールは深いため息をついた。自分は、人間の手によって生命を受けた牛なのだろうか。子牛の時に、雄牛という理由だけで殺されるのを、一本木の雄牛とボイル教授によって救われ、研究用の牛として生きている。

デュークや一本木の雄牛は、神という観念的な人間の産物を、彼達の思想の根底においているが、神を信じて人間社会を考察すると、矛盾がおうじるのではないか……。

彼は床から立ち上がった。腹の部分の毛とからみあって付いている干草の数本を、尾で はたいて落とした。口の端についていた涎を前足の甲に顔を近づけてぬぐった。顔をゴシゴシと甲にこすりつけた。


第9話


月曜日の朝、ポールは乳牛達の牛舎の前でヨシダ教授を待っていた。

今日は、牛の種付けの現場に行くこ とになっている。まだ朝の早い時間だったが 、牛舎からつづくなだらかな丘は、夏に向かう丈の短い牧草の変化にいろどられていて 、ところどころのまだ緑々とした部分は、クローバーの群生している場所だった。

数羽のカモメが、牛舎の屋根に止まっては飛びあがった。太陽は丁度、パノラマ 電波望遠鏡のある丘の少し上あたりまで昇っていた。

教授は自転車で来た。

「ポール、行くか?」彼は短く言った。

「はし」

「大丈夫か?」

「もちろんです」

「ふむ……オレは人間だから、正直言って、君達動物の種付けを見ることに抵抗はない。しかし、君は自分と同じ同属の雌牛が、人間の手によって生殖の行為をされるのに戸惑わないかねえ……」

「教授。少しは動揺していますよ。しかし、花が蝶々や蜂などを媒介にして受精を行うのと同じように、牛も人間を媒介して受精するのだと考えれば、納得できます」

「そうか……見て、そして又、考える。それしかない」

教授は自転車で、ポールは歩いて乳牛達の牛舎から少し離れた建物に向かった。 建物の事務所には二人の技術者がいた。

ヨシダ教授は、彼達にポールを紹介した。

「ポール。今日は二頭の雌牛におこなうのだが……ニ頭とも、見るかね?」技術者の一人 が言った。

「はい見ます」

「そう……でも、気を悪くしないでくれ。私達も、これは機械的にやっていることだ。君は牛だから、見たら気分を害するかもしれない」

「分かっています。大丈夫です」

「じゃ、そろそろ行くか?」他の一人が言った。

技術者達は箱のようなカバンを持ち、ポール達と事務所を出た。 コンクリートの歩道を少し歩いて、牛舎のような建物に入ると、 一人の農夫のような男が一頭の雌牛を狭く区 切られた場所に入れているところだった。

「ジャック。どうだ、準備は?」技術者がその男に声をかけた。

「いつでもオーケーだ。他のヤツから始めてくれ」

「分かった。雌牛の体温はどうだった? 」

「 取ったよ。そこの机の上に置いてある書類に書いてある」

技術者は、牛舎のかたすみに置いてある机に向かうと、両手を机において書類に目をやり「手頃だ、な」と、ジャックと呼ばれた男の方に声をかけた。

雌牛は身動きが取れないように、柵で区切られた中に臀部を手前に見せて入れられ ている。

ジャックがロープで雌牛の尾の先をしばって上に反転させ、牛の背の横でロープを丸太の横木にくくった。雌牛の陰部が露出した。

外陰部が少し赤味がかって腫れぼったい

「よし、よし」技術者が納得するように頭をふった。彼は、箱から金具でできた器具を外に出した。もう一人の技術者が自分の右手に肩まで届くような薄いゴムの手袋をはめると、雌牛のほうに歩んで、雌牛の肛門に手を入れた。手は肘ほどまでも雌牛の中に入った。技術者は何かを確認してから手を引きぬいた。手袋には、牛の糞があちこち付着している。

「O Kだ」彼は、相棒の技術者を振り返って言った。

「な、なにを、したのです?」ポールは少し吃ってたずねた。

[ ああ、これか」技術者は、糞の付いた手袋を振って「黄体のェチックだよ」と言った。

「黄体?」

「卵巣から卵が排出されたあとに、卵巣の卵胞が変化したもので、茸(きのこ)のような形をしているんだ」と、横にいたヨシダ教授が説明した。

「何のためにチェックするのです?」ポールは雌牛の秘密を知る、ある戦慄をおぼえていた。

「これを確認することによってだね、つまり、子宮が受胎可能な状態かどうか分かるんだよ」

「黄体と言うものを、ですか……」

「そう。この検査を『直腸検査』と言ってね、直腸の方から子宮にある黄体を確認する」ポールは黙った。雌牛の、子宮という部位の不思議さが脳裏をかけめぐっていた。

「ポール、普通この検査はしないよ。これは、まっ<た古いやりかたでね、最近は他の方法で確認する」技術者の一人が言った。

雌牛が少し腰を振った。外陰部が少しねじれて元に戻った。短い薄い毛に 、露のようなものが光っている。

ポールは、牛の言葉で雌牛に声をかけてみようと思ってためらった。雌牛がせつなそう に低い声を出したからだ。

技術者が箱から何か器具を取り出した。ラッパの筒のような物だが半分に別れている。

「何です?」ポールは側にいるヨシダ教授にたずねた。

「ああ、あれはね 。あれで子宮を開いて、中に精子を植える訳だよ」

ポールは、雌牛達の「本当の性が知りたい」と言う言葉を思い起こした。なるほど、 このことか。これが雄牛の代わりに雌牛の子宮に入る。一方的な、人間の牛に対する生殖活動と言うことだ。

技術者がそのステンレス製の器具に、何か透明なクリーム状のものを塗ると、その先を雌牛の外陰部にあて、少しずつ中の方に入れていった。そして、ラッパ状に開いた部位まで入れおわると、器具についているネジをくるくると回した。雌牛の子宮が次第に開いてきた。

雌牛が再び腰を左右に動かし、低くうなった。開いた器具の間に電球の光をあてると、ピンク色の子宮の壁が湿っぽくキラキラと光って見えた。

何と美しいのだろうとポールは思った。ピンクの肉の壁は潤っている。左右上下に交差するピンク状の不思議な物は、別世界の温かさをかもしており、時々ヒクヒク と動いた。

「ポール、どうだ? 子宮は」とヨシダ教授が聞いた。

「美しいと思 います。本当にきれいだ」

「美しい? なるほど……よい言葉だ」

技術者が棒状の器具を取り出した。手に持つ部分はピストルのような形だ。 次に近くに置いてあったクーラーを開けた。冷やされた空気が白くなって立ちのぼった。ドライ・アイスが入っているらしい。

他の技術者がピンセットで、中から一本の細くて白いものを 取り上げると、それを電気の器具に人れた。

「何です?」ポールは再びヨシダ教授に聞いた。

「精子だ。雄牛の精子があの中に入っている」

「精子……。誰の精子なんです?」

「さあねえ……分からん。多分どこかの種畜場で採取されたものだろうね」

「牛は、ぼく達牛は、父親が分からない訳だ」

「そう言うことになる 。人間社会の倫理観は、畜産動物の動物としての権利を無視 している傾向がある。ただ、肉や乳や労力を得るだけの目的で、動物達の繁殖を人間の手で人工 的に行っているのが、 この事だよ」

精子の入った棒が、ビストル状の握りのついた長い棒の先にセットされた。技術者は、 他の棒状の器具も子宮の中に入れ、精子のついた棒を、雌牛の子宮にゆっく りと挿入して行った。

ヨシダ教授とポールは、技術者達に礼を言って、建物の外に出た。

「どう思う?」教授が言った。

「何がですか?」

「あれだ、あの行為だよ」

「ああ……あれですか……どうっこてとないですよ」

「えっ? そう。ふむ、ふむ」と教授は口で言いながら頭をふった。

「――でも、雌牛は一生、本当の性を知らずにおわるのかと思うと、少し抵抗を覚えます」

「 本当の性?」

「ええ、セックスですよ」

「セックスか……」

「人間はどうです?」

「人間?」

「人間のセックスは、正直言って乱れているねえ」

「乱れている。やはり、それは技術者によって行われるのですか?」

「いや……」と教授は首を振って不定すると、建物の壁に立てかけていた自転車を起こした。

「人間のセックスは、オスとメスが直接に行う」と、教授は自転車に乗らず、押して歩きながら言った。

「では、牛は、損をしている訳ですね」とポールが言うと、教授はニタリと笑い「実は、 人間の雄も、このセックスで余り得をしているとは思えないよ、ポール」と 、答えた。

「教授、セックスってどんな味がするのですか?」

「味?」

「はい 甘いクローバーの味に近いとか……」

「いい言葉だね、それは 味か……フーン、味ねえ……」

「どんな味です?」

「そう、きつく聞くなよ、ポール。ほら、涎がたれてる」

「あ、ありがとうございます」ポールは、頭を右前足に近づけてゴシゴシと口の周囲をぬぐった。

「人間のセックスはなあ……」とヨシダ教授は言って、しばらく空を仰いでいたが「雪のようなものだ、な」と言った。

「雪?」

「 そう……雪、人間のセックスは雪のようです」

「白い、空から降って来る冷たいものですか?」

「そう……」

「雪 と……」と、ポールが考えていると、教授は歩みを止めて「無垢な空から降って来る白い 雪を、こうやって口を開けて、舌で受け止めるんだ」と、動作をつけて話した。

「一片の雪を舌で味わうと、次から次ぎと味わってみたくなる。淡い雪の一片は、直ぐ舌にとけるからね。やがて、雪は地上に積もり、それを手につかんで口に入れてみると、冷たいだけだ。そしてよく雪を見ると、小さな黒いホコリの一片が混ざっていたりする」

「人間のセックスは、雪の味がするのですか……」

「まあ、そんなものだ」

「冷たいんですね」

「いや、温かいけどね。人間の肉と肉が合わさるわけだから……いや、まて……」教授は歩みを止め「冷たい行為なのかも知れないな……冷たい……ウム……人間の男女の営みは、冷たい」と、自分を納得させるように言った。


第10話


ポールは、キャンパス・ドライブの近くでヨシダ教授と別れた。

午後の授業は一時から始まる。まだかなり時間があったので、彼は反対方向の小高い丘 に歩みをすすめた。

丘を斜めに走っている小径には 、人間が歩いている。年老いた男女が多い。ポールは人間をさけて、丘の斜面を被う短い草々の中を歩いた。

年老いた人間達は、何かブッブツと話したり、時々立ち止まっては遠くの最色をながめたりして又、歩いた。中には牛のポールをゆびさして「雄だ」と、驚いたように声を上げる人間もいた。そして皆、ポールの下腹部をゆびさして、乳がないと言った。

静かな丘には、人間の言葉をさえぎる雑音がなかった。彼達の話し声は、敏感なポール の耳にはっきりと届いた。

乳牛の雄は、人間にとってめずらしいのだろうか。人間は、自分達が恩恵をこうむっている雌牛の乳にだけ、注意を払っているようだ。

丘の頂上付近に来ると、馬が二頭いた。年老いた馬だった。一頭の馬がポールを見て、近寄って来 た。

「 やあ」と、馬は声をかけてポールを見ると「雄牛か……」と言い「君は、ポール?」と、聞いた、

「モ……」ポールは、見知らぬ馬に自分の名前を呼ばれたことで、少々とまどいを覚えた。

「フーン……」と、馬は鼻から息を吐き出すようにして「サムは、元気かい?」と言った。

「 サム? 」

「君の父親だよ」

「ぼくの?」

「 そう」馬は短く言うと、足をこきざみに動かした。

「ぼくは『サム』って、知りません。牛ですか?」

「そう」

「 ぼくの父親。サム、牛……」

「なあんだ。 君は知らないのか」と馬は、鼻先で脇の下をつついてポールを振りかえり 「似ているね」と言い「フッー」と、鼻から息をだした。

「誰にです?」

「君の父親」

「 牛は、種付けで産まれるんです。父親はいません」とポールが言うと、馬はニタリと笑って言った。

「とこ ろが、だ。君の母親のシンディは、強い牛だからね。簡単に、人間のいいなりにはならなかったと言う訳さ」

「勝手に恋愛をして、種付けを受ける前に子どもを孕んだ。それが、君さ。父親は、サム」

「サム?」

「一本木の丘にいる雄牛だ。彼は人間の言葉を話す能力を持っている」

「彼が、ぼくの父親……」

「そういうこと。君はよく似ているよ」

「信じられません」とポールが言うと、馬はヒヒンと嗚いて「驚いたね」と、言った。

馬はもう一度「驚いたね」と言って、近くにいた他の馬に 「この牛も、人間の言葉がしゃべれるぞ!」と、少し興奮気味に言った。

ポールは、自分の父親が一本木の雄牛だと言われて 、内心少し動揺を覚えていた。無意識に、人間の言葉で「信じられません」と、言ったようだ。

馬は、人の心を読み取ると聞いたことがある。我々動物にとって、人間の心理を彼達の表情や動作から読み取る事は、難しい事ではない。

しかし、人間社会は、人間の身近にいる猫とか犬、馬といった動物に好感を持っている。これらの動物は、識別能力に優れていて、人間との付き合いに好感がもたれかるらだそう だ。

これは、あくまでも一般的な、人間の一方的な動物に対する解釈である。人間の本心は、自分達の意向にそった動きをする動物を「良し」と考えてにい過るぎない。

他の馬がポールの方に近寄ってきて、蹄をコツコツ鳴らした。雌の馬だった。

「クローン牛かもね……」と馬は言った。

「クローン?」他の馬が答えた。

「サムによく似ているもの。それに、人間の言葉がしゃべれるし……ねえ、あなたはどこで人間の言葉を習ったの?」雌の馬がポールにたずねた。

「スタンフォード大学です」ポールが答えると「ほら、ね」と雌の馬は言って、雄の馬に念をおした。

「しかし、クローン牛だったら後一、二頭はいるだろう? 同じような牛が――彼は、間 違いなくサムとシンディのラブの子どもだよ」と雄の馬は言い、ヒヒンと軽く鳴いた。 その時、背後の方で人間の声がした。丘の斜面の小径に赤い帽子が見え始め、つづいて数人の人間の子どもが、一人の大人の女性と現れた。

「馬だ!」

「あっ、牛もいる!」

子供達はいっせいに声を上げた。馬達は敏感だった。ゆっくりと、人間達の来る方向から離れて行った。

ポールも馬達に習った。背後で、子供達の声が聞こえる。

「あの牛。オッパイがないや!」

「本当だ!」

「どうしてなの?」

「おかしいね。他の牛にはみなオッパイがあるのに」子供の問いに、大人が答えた。

「ボーイだからよ」

ポールは雄牛だ。しかし、種牛ではない。実験牛だ。

“種牛”と呼ばれる雄牛のように、決められた柵の中で飼われていなかった。ある程度自由にスタンフォードの丘を歩けた。彼の足は、自然にマーシャの家族のいる方向に進んでいた。

丘の西側斜面には、牛の群れがまばらにいた。短い草の群生する斜面は、なだらかな起伏でフリーウエイ 2 8 0 号線までのびている。フリーウエイを走る車の音が、のんびりとした牛の動作に比べて、速いテンポで響いている。

斜面の牛達は、そう言った人間社会の動きにまるで無関心の風だ。彼達は寝そべって反芻をしたり、立っていても歩かずに、頭だけを前後に動かしてゴシゴシと周囲の草を口に 連んでいる。人間社会に比べて、牛の社会では時間の進む速度が何十分のーではないかとさえ思われた。

ポールは、ふと歩みを止めた。金色の毛を持った牛が丘の頂上付近にいた。その牛は、牛の群れを見ていた。ただ見ている風に見えたが、威厳のある風体は冷酷な雰囲気を持っているようでもあった。

デュークだ、とポールは思った。牛がデュークであれば、近くに彼のファミリーがいるのではないかと思い、あちこちを目で捜したが同じ金色の毛を持つ牛は、丘のどこにも見当たらなかった。牛がデュークであることを確かめようと、ポールが歩み始めた時、相手も動き始めた。

ポールは歩みを止めた。その牛には、後を追ってはいけないような雰囲気があった。

牛は、間違いなくデュークと思われるが、少し様子が違って見える。ポールは足下の草に目をやった。草々と土の間に牛の蹄の跡がついている。その横にタンポポの花が咲いていた。タンポポの葉に舌をまきつけてちぎり取ると、口に運んだ微かな苦味に混ざって、緑の味 が舌の上に広がった。

頭を元に戻してみると、金色の毛の牛は、既に丘の斜面を下った場所の小さな丘の影に半身を隠していた。

ポールは、他の牛達の方に目を向けた。相変わらず斜面にへばりついたアリのように見える。彼は踵を返した。



第11話


数日、ポールは環境学のプロジェクトの準備に追われて、クラスと牛舎との行き帰りで過 ごした。二十枚程度の論文を仕上げてノンビリと牛舎の床に寝そべっていた時、日本人の学生達がたずねて来た。

「ポール。神戸牛が着いたよ」学生の一人が言った。胸につけた名札に「はススム」と書いてある。

「ああ、あの日本の牛ですか」?ポールが思い出したように言うと「そうよ。黒毛和種」ミ チコと言う女子学生が答えた。

ポールは咀嚼をしていた口の動きを止め、床から立ち上がった。尾を振って胴体の横をたたき、気をひきしめた。

「どこにいるんです?」

「少し離れた場所だけど、そうね、ここから歩いて三十分程かかるかしら。ペイジ・ミルの通りを少しあがって2 8 0 号線のフリー・ウエイを越えると、右側の方に牧場があるでしょう? そこの牛舎にいるわ」と、もう一人の女子学生のルミが言った。なかなか流暢な英語だった。彼女は、ポールに近づくと彼の頭を手でなでた。白いTー シャツの下のプラジャーが透けて見え、小さなまるい丘のかたまりが少しゆれた。

ポールは、フッと種付けの現場を思い出した。雌の不思議な器官が、ルミから発する微かなニオイと重なった。

「あの ……コウベ牛は、雌ですか?雄ですか?」彼は、雑念を払いのけるように質問した。

「雄、だよ」ススムが答えた。

「今日、会えますか?」

「多分ね 。天気もいいし、皆で行こうか?」とススムは言って、後二の人を見た。

「ええ、いいわよ」ミチコが言い、ルミはOK だと手で合図を作った。

ポールと日本人の学生達は牛舎を出た。

神戸牛は、牛舎の中につくられた特別な部屋にいた 。そこは他に比べて極端に暗くなっている。

ポール達が入って行くと、神戸牛は床に寝そべって咀嚼をしていたがチラリとポール達を一瞥しただけで、咀嚼のために動かしていた口を止めようともしなかっ た。

牛は大きかった。暗い場所に黒い毛の牛がいるためか、牛の目だけがいやに白ぽっく光って見える。

「コンニチハ」ポールは日本語で言ってみた。牛は何の返事もしなかった。

「ポール。多分この牛には、日本語は通じないよ。日本の牛が人間の言葉をしゃべるなんて、聞いたことがないからね」と、ススムが言った。

「やあ……」ポールは牛語で言ってみた。

神戸牛の口の動きが止まった。牛はフーと鼻から息を吹き出した。

「乳牛か……」と、その牛は言って、再び口を動かしはじめた。

「牛語ですね、彼は」ポールは、日本人の学生達に言い「今日は。ぼくはポールといいます」と、神戸牛に言った。

「そうかい」と相手は言い、再びフーと鼻から息をはいた。動作の一つ一つが緩慢に見えた。

「日本の牛だそうですね」とポールが聞くと、神戸牛はチラリとポールを見上げ「オレはエリートだ」と言った。

「エリート?」

「そうだ。オレは選ばれてアメリカまで来たのだ。他の牛とは違う」

「何のために、アメリカまで来たのですか?」

「何のために?」神戸牛は少し驚いたように言ってポールを見た。

「はい。勉強とか……」

「勉強? 」牛はフフンと鼻先で笑って「オレは神戸牛だぜ。食い物だって、他の牛とは違う」

「食物が、ちがう?」

「あたりまえだ。他の牛のように、固い野生の草なんか食べられるか」と牛は言い、立とう としたが、立てなかった。

「大丈夫ですか?」とポールが言うと、牛は「ああ、やだねアメリカは。すべて自分でしなけりやならん」

「立つこともですか?」

ポールの質問に、神戸牛はコホンと咳払いをして「エリートは筋力に乏しいのさ」と答えた。

「はあ……」とポールは答えたものの、この牛に何か戸惑いを覚えていた。

「アメリカの牛は小せえな」と、牛はポールを見て言い「ちょっと、こちらに来て」くとれ、 付け加えた。

「そちらに?」

「そう。背中がかゆい。かいてくれ」と牛は言った。

「背中がかゆいそうです」とポールはススムに言った。

「背中が?」

「 はい かいてくれと言うのですが――」

「分かった。ぼくがやろう」と、ススムは牛舎の壁に立てかけてあった長い柄のついたブラ シを取り上げ、神戸牛に近づくと、そのブラシで牛の背をゴシゴシとこすった。

「おい乳牛」神戸牛がポールに言った。

「何でしょう?」

「おまえは、人 間の言葉が分かるのか?」

「はい。少しですけど」

「ふん。大したものだ」牛は言いキョロキョロと周囲を見て「オレの秘書にしてやってもいい」と言った。

「秘書?」

「 何を話しているの?」ルミが 話の間に入って来た。

「この牛は、ぼくを秘書にしてやってもいいそうです」

「秘書?」

「 はい」

「牛の?」

「そういう事でしょう」

「驚いたわ。牛の間で、そう言った人間のような会話がされているんだなんて」

「人間社会の常識は、動物の社会を完全に把握できていませんから」

「ぼくは又、肉牛のことについて話しているんじやあないかとヒヤヒヤしたよ」ススムが言った。

「 肉牛ですか? 」

「そう。 でも、ポール。彼は、人間が牛の肉をおいしくするためにつくりあげている牛だ、なんて話さない方が良いと思うよ」

「もちろんです。この牛は自分をエリート牛だと思っていますから」

「エリートの牛?」

「選ばれた牛だと言っています」

「かわいそうに」ルミが言った。

「おい、乳牛」神戸牛が言った 。

「何でしょう?」

「何を話しているんだ?」

「大したことじゃあ有りません」フーンと牛は退屈そうに言って、

「おまえ、女を紹介できるか?」と言った。

「おんな? 」

「そう」

「 何です? それ。食物ですか?」

神戸牛はキョロキョロと周囲に目をやって、

「バカ。声が高い」と言った。

「すみません。飲み物ですか? コークとかセプン・アップとかのような」

「おまえ、なかなか冗談がうまい。オレはアメリカの雌牛に興味があるんだ 。分かるかい?」

「雌牛に……」

「そう」と牛は短く答え「日本じゃあ、もてたなあ。何しろオレはエリートだから」と言い、フーと鼻から息を出した。

「何?」ミチコがたずねた。

「この牛は、雌牛が欲しいそうです」ポールが学生達に言うと、

「まあ、何てことを!」とルミは言い、眼鏡に手を当てて位置を直し「最低だわ」、とほほをふくらませた。

「きっと寂しいんだろう」ススムが言った。

「自分はエリートとか思っている人間の男性は、最低のしかいないけど、牛も同じよ。きっと」ミチコが納得するように言った。

「こんな牛、はやく肉のパックになればいいわ」とルミが言って、あわててポールを見た。 ポールは神戸牛を見ていた。

「牛舎の外に出よう」ススムが言った。外に出ると、ルミがポールに謝った。

「ごめんなさい、ポール。私、つい……」

「 大丈夫ですよ。われわれ牛は、人間の役に立つようにできているのですから」

「でも、あの牛は自分の立場が分かっていないようよ」ミチコが言った。

「ああいったプライドの高い奴に、本当のことが分かった時、たいへんなことになるねと」ススムがポールに向かって言った。

「どうしてですか?」

「人間の社会ではよくあることだけど、エリート族の末路は、自分の能力の過信に気付いた時に起こるからね」

「能力の過信?」

「つまりね、学歴とかいうバックだけで高い地位を得て、下の人間を見下して身勝手なことをする人間がいるんだよ。もともと人間の能力に大した差はないのだから、まじめに努力していないと破滅するのは当たり前で、本人の能力の過信から来るトラブルは、最近特に多くなった。一つの現代病だね」

「学歴って、なんです?」

「他人に教えを請うたと、言う事。それだけのことだけど、どこで何年とか尾ひれがついてくる。人間はね、ポール。自分達を柵の中に閉じ込めているんだ。お互いに他の柵を非難しあっているような次第さ。 その点、動物は柵のなかにいるけど、もっと自由に……いや、自由でもないか。だけど、ぼくには、人間より平和のように見える」



第12話


三人の人間と一頭の牛は、ノロノロとスタンフォードの方に続くペイジ・ミル通りの歩道を歩いた。

「ヨシダ教授ですけどね。彼の考え方は面白い」

ポールが三人の学生に話しかけた。

「ヨシダ教授は自然を愛しています。いや、信仰されている。現代の人間社会の科学は、倫理から外れ、身勝手な欲求を満足させるために動いていると言っておられますよ」

「身勝手な欲求 ? j

「多分、人間社会の地位 、名誉とか金銭的なものが作り出す欲求のことでしょう」

「でも、現代の科学には、たくさんのお金が必要よ」

「そうね。お金がないと、研究が出来ない」

ポールがミチコとルミの会話に耳を傾けながら、ふと近くの丘にいる二頭の馬に目を止めた時、丘の外れのまばらにある木の影に、金色の毛をした牛を見たように思った。

(デューク……)ポールは足を止めた。

前を歩いていたススムが気付いてふりかえった。

「どうした? ポール」

「あの馬のいる丘に、顔見知りの牛がいたように思ったものですから……」

「どこ?」

「 あの年老いた馬の向こうに林がありますが、そのあたりに見たのです」

ススムや、ミチコもルミも立ち止まってポールの言ったあたりを見渡した。しかし、その牛の姿はどこにも見つけることができなかった。

「どういった牛なんだろう? 」

「金色の毛をした牛です」

「金色の?」

「ジャジ一種です」

「どこにも いないわねえ……」ミチコが少し背伸びをして、遠くの方を見ながら言った。

「イギリスから来た牛で、人間の言葉を流暢に話すことが出来る牛です」

「あなたの他に、まだ、人間の言葉を話せる牛がいるの?」

「もちろんです 。このスタンフォードには五頭、人間の言葉を話せる牛がいます」

「五頭も!」ルミが手の指を立てて言った。

「デュークという牛の家族は、 ニヶ国語を話します」

「すごいわねえ。私なんて、日本語と英語がやっとだわ」

「牛に、人間の言葉が解せるなんて、ポールに会うまで信じられなかったけど」

「ぼくはラッキーでした。実際、ぼくの身体は小さくて、しかも雄でしたので、生まれるとすぐ売られるところでしたが、ボイル教授に助けてもらったのです。ぼくに人間の言葉を解せる能力が少しあったからでした。本当にラッキーでした。そうでなかったら、人間に美味しく食べられていましたでしょうね。きっと……」

「考えてみる と、我々人間も結構野蛮ね。美味しい肉を食べたいが為に、先ほどの神戸牛のようにうす暗い部屋で飼育して、運動もさせない」

「人間は、自分達の野蛮さを隠すために、神を設けた 」と、ススムが言った。

「どうして?」

「自分達の欲望を満足させるためには、意思決定を動機つける、絶対的な力が必要となる。絶対的な力を持つ人間の姿をした架空の物、人間のダミー的存在物、つまり“神様”」

「じゃ、人間は悪魔かしら?」ルミが言った。

「そうかもしれない。人間は神様じやあないからね」

「それにしても、話が難しすぎるわ」

「言葉だけのことさ。 実際はモラルだよ。すべてにモラルがあれば、何とかなる」

「だけど、モラルを思考のベースに持って来ると、人間社会では優位にたてないわ。モラルは、社会の発展と反比例しているのかしら?」

「ああ……やだね 憂鬱になって来た。でも、パスカルは言っているよ『我々の品位は、思考の中にのみ存在する。正しく考えるように努めよう』ってね」とススムは言って、道端 にあった小石をひろって遠くに投げた。

五月の緑々とした丘は、来る夏に向かって少し黄色く色付きはじめていたが、さわやかな 風が牧草地の草々を微かにゆりうごかしている。それらは静止することのない自然本来の姿を感じさせる。

ポールと日人の学生達は、歩道をそれて牧草地の小径に入った。

「あら、アザミ」

ミチコが歩みを止めて指を指した方向に、紅色の小さな花が見える。

「日本のアザミと少し違う感じだわ」

「少し固いけど、美味しい草ですよ」と、ポールが言った。

「でも、トゲがあるでしょう?」

「トゲも、食べます」

「ポール……ススムがポールの背をたたいて「見ろよ」と、遠くをゆびさした 。

「どうしたんです? 又、アザミですか?」

「いや、牛だ」

「エッ?」ポールは進むの指差した方角に目をやった。金色の気を持つ牛の背が、丸い小山の影に見える。

「あの牛は、ポールの言っていたジャージー牛じやあないだろうか?」

「そうみたいです……」

「北にむかっているなあ……」

「モォ……」

「多分、あ のまま進と2 8 0 号のフリーウエイだから、神戸牛のいた牛舎の方にむかっているようだねえ……」

金色の毛の牛デュークは、ゆっくりとした歩みで小山の影にきえた。

「どこにゆくんだろう?」ポールの問いに、ルミが微笑して「神戸牛の秘書になりたくて、 そこに向かっているのじやあないの?」と言った。

「いえ。デュークは、プライドの高い牛です。それに教養もある」

「じやあ、単に散歩かしら ? 」

「 ええ……でも……」

「でも? どうしたの ? 」

「彼には、革命志向的なところがある」

「革命?」

「牛の権利、いや動物の権利を人間から勝ち取りたいと言ったものです」

「動物の権利か……」

「人間との共存ではなくて、動物の? 」

「動物です 。彼は、人間社会の科学の進歩に疑問を持っています」

「どうして? 」

「人間社会 が動物を物化扱いにする傾向にあるからです。われわれ家畜と呼ばれる動物は、自分達の生命を持って人間社会に二十分に貢献しているのですが、人間はそれに飽きたらず遺伝子組換によって、人間の身体を修復するための動物をつくりだそうとしてい。乳とか肉などでは我慢できなくなってきています 」

「なるほど……私達人間社会の科学は、間違った方向にすすんでいると言う訳ね」ルミが言った。

「ところで、皆さんは、キャッシュをもっていますか?」

ポールの突然の問いかけに、学生達は歩みを止めてポールを見た。

「キャッシュ? ああ、現金か。 少しだったら、持っているよ」ススムが答えた。

「どうしたの?おカネが何かに必要なの?ポール」ミチコが、ポールの顔をのぞき込むようにして聞いた。

「いえ……ただ、ぼくは、人間のスーパー・マーケットに行ったことがないものですから……」

「スーパー・マーケットに?」

「モーン」 ポールは頭をさげると、嗚き声をあげた。自分のひずめの先に小さな石がころがっている。フーと息を吐くと、小石の周りの砂混じりの土が低くまいあがった。

誰かの手がポールに背をかるくさわった。

「なにかほしいものがあるの?」ルミだった。

「見てみたいものがあるのです」

「見てみたいもの… …なにかしら?」

「実は……ぼくは……牛肉のパックを、見てみたいと思っているのですが……」

「エッ?」学生達は沈黙した。

「スーパー・マーケットで、牛の肉がパックにされて売られているって、どうして分かったの?」ミチコが不安そうに聞いた。

「サンド・ヒルにある人家近くの牧草地に、風で飛ばされてきたセーフ・ウエイと言うスー パー・マーケットの商品広告が落ちていました。何気なく見て、驚きました。私達牛や豚、ニワトリなどの肉が、小さなトレイにパックされて売られている。 " USDA CHOICE " と言う文字も気になりました。辞書で調べてみたら、われわれの肉には等級があるそうです。この文字のマークのある肉は、最上級とのことでした」

「――」三人の学生は、言葉をなくしていた。

ポールは、尾を軽く左右に振って「別に、ぼくはに気なりませんから」と言った。

「悪いねえ、ポール。 僕達人間は、雑食なんだ。普通は植物性のものを食べるけど、時々、その、なんだ……肉。つまり、動物の肉も食べてしまう」と、ススムが言い「別に悪気があるわけじゃないんだけど、自然に肉もたべている。正直言っておいしいと思うことも多い」と続けた。

「でも、こうやってポールと話していると、私達が肉を食べたり、動物を人間の犠牲にしていることに疑問を覚えるわ」と、ミチコがためいきまじりに言って道端の長い草を一本ちぎり取った。彼女の手にした草が、ピンと手の中で立っている。

「でも、ポール。君は間違いなく牛だから、牛の君がスーパー・マーケット の中に入って行くと、人間達はパニックになるよ」ススムが言った。

「そうでしょうか?」

「そうねえ。きっと 、ポリスの許可がいるわよねえ……」

「牛は、牧場だけで生活できるもの……でも、ポール 。私達が調べてあげるわよ。牛がスーパー・マーケットに行くためには、どんな許可が必要か、ね」


第13話


ポールは、日本人の学生達ヒとューレット・パッカー社の研究所近くで別れた。

馬の放牧場から少し離れてから牧草地の丘に上がると、自分の牛舎に帰ろうとしたが、ふとデ ュークのことが思い出された。最近、デーュクには会っていなかった。 彼は、足をデューク達の牛舎に向けた。

乗馬場の近くまで来た時、ポールの視覚にマーシャの姿が入った。牛舎の横に干し草のかたまりが五、六個無造作に稼み上げられている。その横にマーシャが立っていた。

「マーシャ」ポールは、近くまで言って声をかけた。

「ポール……」

「どうしたんだい?」

「エッ? 何?」

「いや、立ったままじっとしているので、どうかしたのかなと思って……」

「パパが、帰って来ないの……」

「帰って来ない?」

「もう、三日になるわ……」

「どうしたんだろう? 大学の方は、しらべてみたかい?」

「しらべたわ。でも、どこにもいなかった」

「おかしいねえ……」

「ママがね。クローンの実験牛になるらしいの。それで、怒って……」

「クローン……」

「ええ……」

「クローン……か。しかも、君のママが実験牛。そりや、怒るよね」

「パパにはプライドがあるの 。イギリスにいた時は、人間も私達を特別扱いにしたわ」

「当然だろうね。君の家族は、今までの牛とは違う。人間と同等の知識を持っているし又、 牛としての品格があるもの」

二頭の牛は並んで歩きはじめた。時々、微かに彼達の脇腹が接触した。ポールは身体でマーシャを感じた。

「パパがね……」マーシャが立ち止まって言った。

「何かあったら、ポールのところに行きなさいって……」

「ぼくのところに?」

「ええ……」

「デュークが……。マーシャ、とにかく急いで君のパパをさがそう。何なか様子が変だ。実は今日、日本人の学生達と一緒にいた時、君のパパを見たんだ。アルペン通りの近くを歩いていた」

「アルペン通り?」

「うん。北の方に行くと牛の放牧場があって、そこには日本という国から送られてきた牛がいる。コウベギュウと言って、黒毛和種だ。彼は、自分をエリートだと思っている」

「その牛と、パパと、何か?」

「エリートは、真実に弱い。自分の本当の実力を知った時、どんなことがが起こるか、だいたい察しがつく」

「じゃあ、ポールは、パパがその牛のところに行ったと言うの?」

「そう推測できる」

「でも……」

「 でも?」

「でも、どうしてパパは、その牛に用事があるのかしら?」

「それは、分からない」

二頭の牛は、近道をするためにハイウエイ2 8 0 号線にそってつくられている鉄条網にそって歩いた。

素粒子加速装置の建物が2 8 0 号線のハイウエイを斜めに横切ってー マイル程、真っ直ぐに伸びている。直線の長いものは、見る者にとって、時間的観念の記憶を 呼び起こすものらしい。 時間が遅く感じられる。ハイウエイを高速で走る車の音が周囲をとりまいていた。車は、人間によって操作され移動する。小さな身体の人間達は、筋力の不足分を機械で補う能力を持つ。我々牛と違うところだ。

「マーシャ」ポールの呼びかけにマーシャが振り向いた。

「マーシャ。君は人間をどう思う? 」

「" どう思う"って?」

「その、たとえば、だ。人間を好きかどうか」

「人間を?」

「う ん……」

二頭の牛は、早足でまっすぐアルペン通りの方に向かっていた。

「私は、人間に好感を持っていると思う」マーシャが言った。

「君は、その、何だ。人間の知識をかなり持っているから……多分、驚かないと思うけども、人間は我々牛の――」

「ええ、知っているわ」ポールが話しおわらないうちにマーシャが答えた。

「人間が私達牛の肉を食べることでしうょ?」

「知ってたの?」

「パパに教えられた……」

マーシャが突然と立ち止まった。

「ポール。狂牛病って知ってる?」

ポールは、マーシャから少し離れて立っていたがゆっくりと彼女の方に近寄って、マー シャの顔をのぞき込んだ。短い金色の毛を持つマーシャの若々しい顔の目は、濃い藍色をしていた。そこに牧草地の緑を反映している。

「知っている……」と、ポールは答 えた。

「君のパパに聞いた」

「パパが?」

「うん」

「じゃあ、狂牛病がどのようなものかも?」

「教わった」

「パパは最初、自分の持つ人間以上の能力を怨んでいた。何も知らなければ、平和に生活できると信じていたの」

「知識は罪だと考えることも必要だろうね」

「ええ……でも、パパは突然と人間との共存を嫌いはじめたの。私達は、イギリスのロスリン研究所の実験牛だったけど、研究所がクローン技術を研究し始めた頃から、パパはこの研究所と研究員に不満を持ちはじめた。そして、次第に人間とその社会のモラルに対して反感を持つようになったの」

「ロスリン研究所と言えば、クローン羊『 ドリー』を世界で初めて誕生させたところだね」

「そう……」マーシャは短く答えると、ゆっくりと歩きはじめた。ポールは彼女の横に並んで歩いた。

「パパは、この研究所にいたと時から人間の科学や技術の進展に疑問を持っていた。人間の科学や技術は、人間社会とその生活だけを豊かにするものであり、他の動物にとってはマイナスになる面が強いと言っていたわ……」

「うん。ぼくもクローン技術が動物、特に我々家畜と呼ばれている動物を物化扱いにする 傾向にあることに抵抗を覚えている。我々を、工場の製品と同一化する可能性があるからね」

「人間の臓器に近い内臓を持つ牛や豚をクローン化技術でつくり、そのーパツを人間に移植する……血、を……骨、を……内臓や筋肉を……ああ、いやだわ!」 マーシャが頭を左右に振って「モー」と鳴くと、遠くで車のホーンがした。

「マーシャ。人間には二つのタイプがあるんだ。良い人間と悪い人間。悪い人間の方だけを見ると、正直言って疲れるよ。我々牛は、生存権を人間にゆだねているからね」

「パパは、牛の権利を人間から勝ち取ろうとしたの。そのために狂牛病菌を作り出した」

「君のパパは、日本の牛に狂牛病菌を植え付けようとしているのだろうか?」

「分からない……でも、パパはもう少し理知的だと思っていたけど」

「しかし、どうしてコウベギュウに関心を持ったのだろうか?」

「ママが受けるクローン技術の実験で、日本の牛が使われるらしいの。多分、その牛の体細胞を取り出して使うのかもしれない」

「それで、君のママが代理母になるということか ……デュークが怒るのも、もっともだね」

「よりによって、ママが選ばれるなんて……」

「既にホルスタイン種での実験はおわっているからね。だから、今回はジャージ一種が選ばれた訳だろうけど、代理母が君のママになるなんて……人間達は、大失敗をしたことになる」

「どうしてクローン技術が必要なのかしら」

「クローンは、親の形質を忠実に受け継ぐと考えられている。良質な肉を持つ親牛を選んで、その『コピー』を大量生産すれば、おいしい肉をたくさん食べられると人間はかんがえているのだろうね、多分」

「馬鹿げているわ」

「人間は雑食動物、いや彼達は自分達を動物とは思っていないけど、植物性と動物性のものを合わせて食べる生き物だよ」

「変な生き物ね、人間って……」

「たまに肉を食べないと、力が出ないらしい」

「それで私達の肉を ? 」

「多分、ね」

牛の歩行速度は、思った以上に速い。

ポールとマーシャは、アルペン通りで2 8 0 号線の下をくぐり、道横の雑木林の中を歩いた。間もなく、灰色の平たい建物が小さな丘の端に見えて来た。周囲に低い木の柵で囲まれた運動場があるが、牛も人間の姿も見えない。

ポールとマーシャは、牛舎の中に入って見た。神戸牛はいなかった。

「いない。どこに行ったのだろう?」

「牧場の方かしら?」

「いや、彼は太っていて、立ち上がるのさえ大儀そうに見えた」

「じやあ、実験場の方に移されたのかも知れないわ」

「しかし、それにしても変だ……」と、ポ ールがマーシャに答えた時、牛舎の外に車が来て止まった。直ぐ二、三の男達が牛舎に入って来た。彼達は最初、ポールとマーシャを見て驚いたが、中の一人がポールを知っていたのでトラブルは起こらなかった。彼達が言うには、 神戸牛が昼間、突然と牛舎からいなくなったらしい。

男達は牛舎内を点検すると、再びあたふたと車で去って行った。

(おかしい)と、ポールは思った。

神戸牛は、怠惰な牛だった。歩くことを億劫がって、牛舎の外にも出ようとしなかった。それに変にプライドがあって、牧草地の草にも興味を示さなかった。一体、どこに行ったのだろう。

も し、デュークが神戸牛に狂牛病菌を植え付けるなら、この場所においても出来るはずだ。そのデュークもここにはいない。

「何か変だ……」

「パパ……」マーシャが小さく言った。

ポールは鼻先を床に当てて、デュークのにおいを探した。鼻の息が床の上にまばらに 落ちている干草を飛び散らかして、数本が彼の鼻梁の毛にひかかった。

「マーシャ。君のパパのにおいは、ここにはないようだ」

「パパ、どこに行ったのかしら……」

「外で鳴いてみようか。君のパパが近くにいれば、必ず返事をくれるはずだ」ポールとマーシャは、薄暗い神戸牛の牛舎から外に出た。

木の柵で囲まれた運動場の中で、二頭の牛は「モォーン、モォーン」と嗚いてみた。鳴いた後、耳を澄ましてしばらく待った。何の返事も聞こえてこない。ポールとマーシャの耳は、 微かな音でも聞き逃すまいと自然のあらゆる音に対しても向きを変え、耳を立てた。二、三度くりかえしてみた。

「返事がないね、マーシャ……」ポールは、遠くの方を見つめながら立っているマーシャに近づくと、低く言った。

マーシャの尾が左右にゆれ、彼女は体を返してポールを見た。

「ポール、帰りましよう」

「うん、そうしょう。見知らぬ人間がくると、面倒なことになるかも知れないから」

ポールとマーシャが神戸牛の牛舎を出て、雑木林の小径に入った時、遠くで牛の鳴き声がしたがデュークのものではなかった。二頭の牛はアルペン通りにそってしばらく歩き、2 80 号線の下をくぐると電波望遠鏡のある丘の方に足を向けた。

クローバーの丘まで来て、神戸牛のいた牛舎の方をふりかえって見ると、サン・タクルー ズ国定公園の山々が覆いかぶさるように、夜を秘めて近くにあった。

「マーシャ。君は自分の牛舎に戻った方がいいかもしれない」

マーシャは返事をしなかった。彼女は、軽く舌先をクローバーにまきつけてひきちぎると、 ロに運んだ。

「それとも、ぼくの牛舎周辺を探してみようか?」

返事をしないマーシャに、ふと口をついて出た言菓だった。マーシャがポールを振り返って軽くうなずいた。

二頭の牛は、鼻先を海の方に向けて歩き始めた。


第14話


ポールの牛舎は、スタンフーォド大学のキャンパスにかなり近い場所にある。ボイル教授 が大学とかけあって確保してくれた牛舎だ。

近道をするため、急斜面の丘を下って水飲場の近くに出た。右手の方にある小高い丘の上 に、太陽を親測するためのアンテナを取り付けた鉄塔が立っている。数羽の鳥がアンテナの上を通過した。海鳥達だ。

ポールは思わず海の方に目を向けた。サンフランシスコ湾の海が、薄暗いなかに白く光って見える。海をとりまく陸地にある会社や人家の建物に、電気の明かりが見え始めた。

「ポール」誰かの声がした。声は二度つづけてポールの名を呼んだ。

人間の声だ。ポールは早足で丘の斜面にある潅木の林を抜けると、小道の端に出た。

牛舎の前の道を、自転車に乗った人間が上って来る。

「ヨシダ教授だ」ポールはマーシャに声をかけた。

ポールは「モォーオ」 と鳴いて、教授に自分の位置を知らせた。自転車が止まった。

「モモオーン」と、教授は両手をラッパ状にして、ポールの方に声をかけた。牛語で「大変 だぞ」と言う意味だった。

ポールはヨシダ教授の方に走った。

「ポール! 大変だ!」と、ポールの姿を見た教授が言った。

「教授、コンニチワ」

「ああ、今日は。いや、今日はじゃないよ、ポール」と教授は言い、背後にいたマーシャを見て「彼女か?」と、聞いた。

「友達です」

「 ふむ……」と、ヨシダ教授はマーシャをちょっとながめていたが、再び「大変だよ、ポール」と言った。

「どうかしたんですか?」

「神戸牛が、スーパー・マーケットで殺された」

「殺された?」

「そうなんだ」

「人間のスーパー・マーケットで?」

「うん」

「また、どうして彼があんなところに行ったのでしょう?」

「その、何だ。オレにも理解できないんだが、スーパー・マーケットに突然と、黒い牛が入って来たらしい」

「太っていましたからねえ。歩くのさえ大儀そうでしたけど」

[そう言えば、ヨタヨタ歩いて入ってきたと、スーパーの従業員がいっていたなあ……」

「誰も、彼を追い出そうとしなかったのですか?」

「突然のことだったらしいからね。一部の人は、テレビ・コマーシャルの撮影かもしれない と思ったらしい。アメリカ人もノンキだよねえ。それが、だ。牛は突然とミート売り場で闘 牛のようになったらしい」

「闘牛 ? j

「肉のパックが並べてある棚に向かって、突進したと言うことだよ」

「牛の肉に向かって……」

「オレも後で行ってみたんだが、メチャメチャだった。棚もパックも。可哀相に黒い牛がその前で血を流して死んでいたよ」

「神戸牛が、どうしてスーパー・マーケットのミート売場を知ったのでしょうか?」

ポールの問いに、教授はチラリとマーシャを一瞥し「ジャージ一種の牛がね――」と話し、一呼吸置くと「ポール。君の友達もジャージ一種のようだが……」と念を押した。

「はい……」

「 その牛とは関係ないと思うけれども、同じジャージ一種の牛が、神戸牛を先導したらしい」

「ジャージ一種の牛が神戸牛を先導……ですか?」

「そうらしい。しかも、駆けつけたポリスに向かって突進して、ポリスが神戸牛の方に行くのをはばみ、銃で撃たれたと言うことだ。しかし、スーパー・マーケットにジャージ一 種の死体はなかった。なかなか勇敢な牛だ」

「デュークだ」

「その牛を、知っているのか?ポール」

「はい。ここにいるマーシャの父親です。彼達はイギリスから来た牛で、人間の言葉を話せます」

「そうか……あの牛がねえ……いや、何、オレも数日前に頭のよいジャージー種の牛がいることを開いたばかりなんだが……」

「本当にデュークはボリスに撃たれたのでしょうか?」

「多分、本当だろう 。店の外に血痕が点々とあった。それは途中で消えていたが、牛が生きているのか死んだのかは、まだ分かっていない」

「教授。デュークは有能な牛です。できれば助けて欲しい 」

ポールは背後のマーシャを見た。彼女は身動きもせず静かに立っていた。

「もちろんだ。我々の研究仲間を見殺しにはできんよ。オレは、とにかくボイル教授に会って、具体的な策を取るつもりだ。ポリスが見つけ出す前に何とかしなけりなゃらん」

ヨシダ教授は、再び自転車にまたがると、小道を大学の方に下って行った。

「マーシャ、聞いた通りだ。早く君のパパをさがそう」

ポールの言葉に、マーシャは黙ってポールを見返した。そして、

「パパは死んだわ……」と言った。

「何てことを言うんだ、マーシャ。君のパパは強い牛だ。そう簡単に死にはしない」

「私は知っていたの。三日前、パパは死ぬ気で牛舎をでたのを……人間社会の動物に対する常識を変えると、言ってた……」

「マーシャ。とにかく君のパパは、現場から逃れることが出来たんだ。怪我をしているらしい。一刻でも早く探して手当てをすべきだよ」

ポールは、マーシャを促して牧場の方に足を向けた。

スーパー・マーケットのある場所は調べてあった。いずれ肉のパックをこの目で見たいと思っていたからだが、意外なことで役にたった。

あの場所からデュークがポリスを逃れて来るなら、スタンフォードのゴルフ場の横にある池から、浅い谷にある潅木の林の中を通って、電波望遠鏡の方に登って来るだ ろうと推測できた。

近道をするために、牧草が数メートル幅程削りとられて、道のようになっている場所に出た。これは、ファイア・レーンと呼ばれ、牧場の火災の延焼を防ぐために作られたものだ。ファイア・レーンは、丘の斜面を真っ直ぐ頂上の方にのぼっている。

そこを人間が散策のために使っている。幅五メートル程の両側が人間によって踏み固められ、人間一人が歩く程度の小径が帯状についていた。夕方で、既に周囲が薄暗くなっているので、人間の姿はない。

ポールとマーシャは、小径を上に向かった。急勾配の道は、丘の斜面をはって登っている。四本の足の蹄をしっかり地面につけて歩かないと、うっかりすれば片足が滑りそうになる。バランスを取るためには、自分達の頭を前方に突き出すようにして登つていかなければならない。時々鼻から大きく吐き出す息で、土埃が軽くまいあがった。ファイア・レーンのむきだした土の表面は乾燥し、ひび割れている。雑草が人間に踏まれて成長したために、形をくずして生えていた。

ポールの視覚は、地上の色々なものを捕らえた。彼の視覚と思考は交差し又、多数の自然 の臭覚がそれらを包み込むようにして、彼を一方に導いた。正しい方向。本能かもしれない。正しいと認識して、その結果に向かって進むには、思考を正しくコントロールする能力が必要となる。品行と呼ばれる行いや、よい結果を得る手段は思考能力の活発な動きに左右される。

ポールは、立ち止まってマーシャを振り返った。彼女の背後から斜め下の方には、灰色がかった夕暮れの中に点々と灯のついた人家や、車のヘッド・ライトの明かりが見えている。

「マーシャ」

ポールの問いかけに、黙々と彼の後を追っていたマーシャが立ち止まつてポールを見上 げた。

「ほら、電波望遠鏡が見えてきた」

ビッグ・ディッシュ(大皿)と呼ばれる電波望遠鏡の丸い上半部が、丘の頂上に突き出て見える。

「多分、君のパパは、電波望遠鏡の近くに来ていると思う。あそこには、一般の人間は入れない区域があるからね。しばらく身を隠すにはよい場所だ」

「でも……パパは、ケガをしているのよ。こんな場所を登れるかしら……」

「彼は、この丘と別の丘のつくる小さな谷を登ったんだ。牛にとっては比較的歩きやすいけど、人間にとっては、歩くのが大変な地形になっている。ぼくは、君のパパは電 波望遠鏡付近に身を隠していると思うんだ」

二頭の牛は、急斜面を登りきった。

マーシャの体がポールの横に並んだ。彼女の胴部の膨らみがポールの脇腹に軽く触れた。彼達は、人間の散策のために、アスファルトで舗装された小路に出た。

小路を横切って少し下った場所が小さな窪地になっていた。そこに、浅<水のたまった池があった。池の水面は殆どが水草や雑草によってしめられていた。水の香りはしっとりとして、あたり一面の空気に含まれている。

二頭の牛は池に近づくと、頭を寄せて水を飲んだ。二頭とも喉が渇いていた。彼達が大き く水を飲み込むたびに、池の水面は乱れ、映していた闇の景色をゆがめた。

「ポール……」水を飲み終えたマーシャが、ポールの方を見て声をかけた。

ポールが水面から鼻頭をはなし、ゆっくりマーシャをふりかえると、彼女は遠くを見る ようにして「パパも、喉が渇いているかもしれないわ……」と、つぶやくように言った。

「うん。でも、君のパパがぼくの想像したようなコースをとったとすると、あそこには小さな小川があるから、心配ないよ。問題なのは、彼のケガの状態だ。人間のピストルと呼ばれ るもので撃たれたとすると、ダメージは大きい。できるだけ早く探し出して、ボイル教授や ヨシダ教授に助けを求めなければ、手遅れになるかもしれない」

二頭は池から離れ、再びアスファルトの小路に戻った。道は丘のカープにそって闇の中に消えている。彼達は真っ直ぐ歩き、足は再び雑草を踏んだ。

まろやかな空気の流れに混ざる自然のニオイは、闇の色と重なっているような錯覚がある。

歩くと、空気の流れが周囲の情報をもたらせた。

「パパを追いかけてポリスが来るかしら?」と、マーシャが言った。

「いや、ぼくたちは牛だ。他の危険な野生の動物とは違う。 ポリス達は、昼間だけの捜索にするはずだ」

「モオー ン」マーシャが闇に呼びかけた。

二頭の牛は、立ち止まって返事を待ったが何の返答もなかった。歩くと、蹄と土と草々との接触で作り出される音が単調に響いて来る。

彼達は、再び人間の散策する小路に出て、電波望遠鏡の方に向かった。この辺りから電波望遠鏡を見ると、見上げるような格好になる。赤や青の航空障害灯が光っている。

ポールとマーシャは、小路から離れると小山の中腹を斜めに横切り、なだらかな草地の方に出た。電波望遠鏡の近くにある古ぼけた建物から灯りが漏れている。しかし、人影はない。 鼻先を斜めに走る丘の方に向けた。しばらく歩くと、木で出来た小さな橋が水のかれた溝にかかっている。その手前を上の方に向かって歩いていくと、やがて再なびだらかな丘になっており、夜風が丘の反対方向から吹いていた。

二頭の牛は、サンタクルーズ方向の闇を目の前にした。黒い山の形が灰色の空を背景にしてうかんでいる。彼達は「フーツ」と大きく息を吐いた。その時、彼達の耳に身近な何かの物音が入った。立ち止まって頭を持ち上げると、全神経を聴覚に集中した。

動物の呼吸音がする。耳をその方向にヒ°タリと向けて確認した。間違いない。動物の呼吸音だ。

「モオーン」マーシャが低く声を放った。

少し間を置いた後で「モ……」と、牛の声が聞こえた。

「パパだわ!」マーシャがポールに問いただすように言った。

「碓かに、君のパパの声だ。この近くにいるんだ」

二頭の牛は、声の聞こえた方向に鼻先を向けると、慎重にすすんだ。前方に窪地のような場所があり、呼吸音は、そこから聞こえて来る。

マーシャが早足で窪地にかけ寄った。

「パパ!」

窪地に金色の毛の牛がたおれていた。

「マーシャ……」デュークは、少し頭を持ち上げると娘の名を呼び、再び頭を草の上に横たえた。

「デューク……」ポールの呼びかけに、金色の牛は「ポール……」と小さな声をかえした。

「このザマだ……しかし、なるようにして、なった」

「デューク。ぼくは今すぐスタンフォードに行って、医者をつれてきます」

「ありがとう。しかし、その必要はないだろう」と、デュークは牛語で言い「時間がない」と人間の言葉で付け加えた。

「でも――」

「い や、だいじょうぶだ。そこにいてくれ」と、デュークは言って、マーシャを呼んだ。

「マーシャ。お前は、パパの能力を受け継いでいる 。ポールと一緒になるんだ。そして牛、いや家畜となっている動物の、人間からの開放に尽くす子孫をつくってくれ……」と言い、

ポールの方を見て「ポール。聞いた通りだ。マーシャをよろしく頼む。人間がマーシャを使うまでに――」

「デューク、わかりました。心 配しないで下さい。それより、あまり無理をしないで下さい。今に、ボイル教授達が助けに来てくれます」

「いや、私はもうながくない 。神経がいやに落ち着いている。 ポール、私の右前足の踵を見てくれないか。その中にカプセルがある……」

ポールはデュークの言葉に、横にのびているデュークの右前足の方歩にみ、彼の踵に頭を近づけた。

「私の踵の横あたりに、突起物があるはずだ。見えるか?」

「はい。見えます」

「それを押してくれ……」

ポールは、前足の蹄の先で突起物を軽く押した。デュークの踵の下部がポンと開い。た

「中を、見てくれ」とデュークは言い、自分の足を少し動かした 」

カプセルがあった。彼が再び足を軽く動かすと、カプセルは踵から離れて草の上に落ちた。

「ポール……そのカプセルの中には・・・・・・牛の、狂牛病の病原体が入っている。前に話したよ うに、私がイギリスのロスリン研究所の実験牛だった時に、私がっ作た。ウイルスのようだが、ウイルスではない。バクテリアでもない。これは、ウイルスと科学物質の間の“物”と言ったたぐいだ……人間は、これを病原体プリオンと呼んでいる。異常タンパク質を連鎖的に作り上げて、脳細胞を破壊するものだ。私は……これを使って、人間の家畜に対する考え方を、問いただそうとしたのだが……人間は、しぶとい……。彼達は、悪魔にだって魂を売ることのできる生物だ。自分達の利益のためなら、神のご意志にす反ることも、平気でやる…… 」

「人間……神……」ポールの思考は、これらの言葉の上でゆれた。

「0 - 1 5 7 と呼ばれ、食中毒を起こすバクテリアも、私が作ったものだ。ずいぶん昔の話だ……。人間は、簡単に、このバクテリアを見つけた。牛の肉と糞を媒体として人間社会に広め、人間の食肉文化を考え改めらそうとしたのだが……大した効果はなかった。だから……私は、私も、神のご意志に反して狂牛病を作った。一部の牛を犠牲にして、人間に忠告 を与えるものだった……」

デュークの目は、闇の中に深く沈んでいるように見えた。

「ポール、狂牛病の病原体の作り方と培養の方法は、このカプセルの底にあるマイクロ・フィルムに記述してある。これを、君が預かってくれないか? 君は、私と違って、理想主義的な考えを持っている牛だ。過激な行動は好まないだろう。その点、マーシャを幸福にすることができる……」

「デューク。分かりました。ぼく蹄のの中に、隠しておきます」

デュークは「モォ……」と弱く喝き、力尽きたと言うように自分の頭を草の上に横たえて夜空を見上げた。

どこからか小さく車のエンジン音が開こえ始め、その音は次第に電波望遠鏡付近に近 づいて来て止まった。

「モオーン」牛の言葉で、人間の呼ぶ声が聞こえた。

「ヨシダ教授だ。スタンフォード大学の人達が助けに来てくれたんだ」と、ポールはデュー クとマーシャに言った。

「モー」ここですと、ポールは鳴いた。

「デューク、スタンフォード……」と言いながら彼に目をやった時、先ほどまで波打ってい たデュークの横腹が静かなのに気付いた。

「デューク!」ポールの呼びかけに、金色の牛は答えなかった。月の光を浴びた彼の体は、 異次元の物体が突然と闇の中に出現したかのように、夜のあらゆる光りに金色の光を投げ返していた。

やがて、丘の影から人間の姿が現れ、彼達の手にしたライトの光がこちらに向かってきた。

「ポール!」中の一人がポールの名を呼んだ。

「モオーン」とポールは答えた。

ボイル教授やヨシダ教授など五、六人のスタンフォードのスタッフがデュークを取り囲んだ。

「だめだ。死んでいる」一人がデュークに聴診器を当てて言った。

「とにかく、我々の実験室に運ぼう。体細胞を保存するんだ」

「どうやって運びますか?」若いスタッフの一人が言った。

「スタンフォード・ホスピタルのヘリコプターを使おう。車では無理だ」


第15話


ヘリコプターが闇の中から赤い飛行ライトを点滅させて飛来して来た。ヘッド・ライトの光が現場に届いた。

デュークの体は用意された網状の物に包まれ、ロープでヘリコブータにつながれると、空 中に浮き上がった。金色の毛が飛行ライトを受けて、闇の中に吊り下がっているデュークの 体を浮かびあがらせた。

「オレは、あの牛の脳を見てみたい……」近くにいたヨシダ教授がつぶやいた。

「脳……」

ポールの言葉に、教授はうなずいた。

「人間以上に脳の発達した牛だ。どんな脳を持っていたのか調べてみたい」

「パパの、脳を?」マーシャが言った。

「脳を知ることで、分からないことも分かることがある。我々人間がもっと動物を理解し、 共存できる社会をつくるには、必要不可欠なことだと思うが、どうだろうか?」

「でも、パパの脳が……」

「 マーシャ。君のパパは、生前から人間の手によって自分の脳が調べられる事を望んでいた。体重と大脳の重董比の比較で、人間の脳を一とすると、我々牛は O、O九程度だと言うことに不満を持っていた」

「脳を知ることで、最も大切な『心』と言う部分が分かって来る。人間社会は、コンピューターのように、情報を加工して答えを見つけ出す機械によって影轡を受け始めている。心のない機械が、社会の動きを決定する異常社会にならないように、オレはこの人工脳に心を持たせたいと思っているんだ」

教授は、デュークを運んで行くヘリコブターの飛行ライトが点滅する空間を見つめながら言った。

一方の丘には、電波望遠鏡が何億光年も離れた宇宙空間を知るために、ハスの花状の形を夜空の一点に向けていた。大脳には一立方ミリの脳組織に約十万個の神経細胞が含まれ、十キロメートルもの突起を伸ばして結合しているという。気の遠くなるような宇宙空間の距離や又、微細な細胞組織に、脳機能は自ら解明を求めている。

ポールとマーシャは、スタンフォドー大学のスタッフと別れて、丘の反対方向の道を牛舎の方に向かった。

闇の中を歩くと、身体が浮遊しているかのような錯覚がある。足にあたる草や、時々蹄がたてる音に歩行という目的を知覚しながら、ポールはデュークの言薬を思い出していた。

(人間は、私の体細胞でクローンをつくるだろう。だから、私は再び生き返る。キリストが 復活したように、死んですぐにだ――)と、デュークは言った。

ポールは、マーシャと闇の丘を歩きながら、一本木の下の雄牛を思い起こした。雄牛は、 濃紺の深い目でポールを見た。

君は、神を信じるか――と、雄牛は言った。

自分がこうやって生きているのは、神の仕業だろうか、それとも人間の意志によるものだろうか。

ポールは今、動物という固体的な範囲を抜け、末来に向かう自分の姿勢を認識した。

                                  了





 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

スタンフォードの牛 三崎伸太郎 @ss55

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ