しんにゅう

 いきなり部屋が真っ暗になり、橙子の心臓がひゅん、と縮んだ。

 明かりに慣れた橙子の目には何も見えない。パニックになりかけるのを久次に握られた手が引き留めた。

 温かさにほっとするが、同時にこの部屋が急激に冷えていることを理解した。


「な、なにが」

「何か悪いものがくる。くそ、油断してた。静真が帰ってくるからまだ完全に結界張ってねえんだ」


 久次の悔いの緊迫した声に橙子は状況を理解して青ざめる。


「つまり」

「来るかもしれない。今から安全確保する。良いか橙子さん、驚かないでくれ」

「う……うん!?」


 久次は橙子を部屋の端まで誘導すると、橙子を抱えて座り込んだのだ。

 ふたたび動揺したが、耳元に久次の声は緊張に満ちていた。


「相手に見えないようにする。いいか、俺が良いって言うまで橙子さんは絶対声を上げないように。見えても視線だけは合わせないように耐えてくれ。わかったらうなずいて」


 橙子がうなずくと、久次は橙子を抱える手に少し力を込めると小さく低く何かを早口で唱え始めた。

 その間にもどんどん部屋は冷えてくる。あっという間に冷房などよりも張り付くような寒さで満たされた。

 波の音がする。

 ざざ、ざざ……と押し寄せてくる。

 水があることはあり得ない。橙子はもう知っていた。

 だんだん夜の闇に慣れてきた橙子の目は、窓から入ってくる月明かりの中、ぼんやりと部屋の様子を見て取れてきはじめる。


 橙子は極力息を潜め、身じろぎをしないようにしていたが。


 ふ、と生臭さが鼻についた。


 びちゃ。


 久次の唱える声に、異音が混じる。


 びちゃ、ぐじゅ。


 水気を含んだ袋を落としたようなそれが、だんだんこの部屋に近づいてきている。

 見えないはずなのに、橙子はそれが自分自分たちの居る部屋に向かっていることが感じ取れてしまった。


 びちゃ、びちゃ、ぐじゅり。 


 ああ、これは歩いてきているのか。と橙子は唐突に理解した。

 背に回された久次の手に力がこもる。

 橙子は抱き寄せられた拍子に久次の首筋がじっとり汗ばんでいるのに気がついた。

 どっどっどっと、鼓動の早さも伝わってくる。

 彼がそれだけ緊張していることが感じ取れて橙子は小さくつばを呑む。


 ふ、と部屋が暗くなった。

 理由は単純だった。唯一の光源となっていた窓がふさがれたからだ。


 鼻の曲がるような生臭さが広がった。

 これは磯の臭いに近かったが、橙子はその臭いの正体を思い出す。

 この島の港でよく嗅いだ、死んだ魚が腐敗した臭いだ。


 ぐちゅりと、湿った音をさせて窓に手をかけた。

 窓には橙子が部屋に張った物と同じ札がはりつけられている。

 だがしかし、そのようなもの見えていないかのように、ソレは窓に体を押しつけた。

 とたん、札が黒ずみひとりでにはがれ落ちる。

 そしてそれは窓ガラスなどなかったかのように部屋に侵入してきた。

 橙子はだめだとわかっていても、久次の肩越しに見える窓から現れるものから目を離せなかった。


 ぼたぼたと、部屋に海水が落ちる。

 海水で濡れているのと、全身に水を含んでいるからだ。

 今回は、橙子にもその姿が見えた。

 それは一応、人の形をしていた。

 着ているものは薄汚れてはいるが、元は白かったと思われる着物を身につけている。

 しかしその着物から伸びる手足もまた妙に生白く、肥満しているようにぶよぶよとしており、わさわさとした海藻のように長く伸びた髪を引きずっている。

 そしてふらり、ふらりと体を揺らしながら、ひどくゆっくりとした動作で歩いていた。


 一歩足を踏み出すごとに、海水が畳に落ちて、生臭さが増す。

 まるでついさっき海から上がってきたようだった。

 水死体が歩いていたら、こんなものかもしれないと、橙子は思った。


 橙子はそれが入り江で見たものと同一だと気づいて、久次の体にすがるように手を回す。

 顔は絶対に見るものか、と思っていたが、何かを支えにしないと体が震えてしまいそうだった。

 アレは、絶対に良くないものだと、橙子は思い知ってしまった。

 あの場では気づかれて居ないはずなのに、どうしてここに現れたのか、全く訳がわからず橙子はただ賢明に息を殺すことしか出来ない。


 久次に話かけたかったが、声は出すなとも言われている。

 間近で見た久次の横顔は、緊張をみなぎらせて、まっすぐそのドザエ様の姿をとらえていた。そのこわばった表情で見つかったら最後なのだと思い知った。


 ぐちゃ、びちゃ、と緩慢な動作でそれは部屋を歩く。

 水の後を引いて、まるで何かを探すように。

 見つからないでくれ、と心の底から願う。


『ァ……オ……。カ……ヨ……』


 水の音の他に、何かを聞いた気がした。

 橙子が顔をあげると、ソレは橙子のすぐそばにある布団の傍らにたたずんでいた。

 緩慢な動作だったにも変わらず、いきなり距離を詰められて、ひぐ、と出かけた悲鳴を必死でこらえる。

 理不尽だ、なぜそばに居るんだ。と心の中で悲鳴を上げた。

 しかも、それは布団の傍らで動かない。まさか、ばれてるのか。そんな可能性が脳裏をよぎるが、久次の唱える声はそのままだ。

 布団が敷かれた頭にある床の間では花瓶に活けられた浜木綿が清楚に咲いているのが場違いだった。

 ぞろり、と濡れた髪がうごく。

 体がいびつでわかりづらいが、のぞき込んでいるのだと橙子は悟り。


 どぱぁと何かがぶちまけられた。


 生臭い匂いが波のように押し寄せてくるのに、橙子は必死に息を止めてやり過ごす。

 ぱちん、と乾いた音をさせて照明がついた。


 急に部屋が明るくなったことに、橙子は目が慣れず思わずつぶる。

 しかし徐々に目が慣れてくると同時、久次の何かを唱えている声が途切れているのに気がついた。

 ずる、と久次の体が橙子に寄りかかってくる。


「もう……大丈夫だぜ……」


 慌てて橙子が支えると、久次は玉のような汗をしたたらせながら荒い息を吐いていた。


「久次くんっ。大丈夫!?」

「いや、さすがに、しんどかった……えげつない。なんだよあれ……」

「水飲む?」

「のむ……」


 ぜいぜいと息をついている久次に橙子は備え付けの冷蔵庫から水のペットボトルを持ってくる。

 飲んで息をついた久次は、はっとした。なぜか顔を赤らめている。


「い、今のは身固めって言ってな。守るための呪法だったんだ。決してやましいことはねえからな!」

「いやわかってるから安心して、アレを見た後に疑うわけないじゃない」


 そういった橙子は今更あれの存在を思い出しぶるりと震えた。

 明るくなった室内には、まだ磯の匂いと生臭さが漂っている。先ほどの存在が確かに居たことを表すように、畳はじっとりと海水を含んでいた。


「あれドザエ様よね」

「……ああ、そうだな。だが何でアレがこっちに来たんだよ」

「でもなんでか布団? のほうに行って良かったね」


 橙子が震えながら言うと、落ち着いた久次が立ち上がった。

 そして、ドザエ様が突っ込んだ布団をゆっくりと持ち上げると、そこには真っ黒に染まった人形が現れた。

 橙子が見ている間にぼろぼろと崩れ去る。

 すでに人形が、持ち主の身代わりをしてくれるものということを知っている橙子は青ざめる。


「これは、たぶん俺だな」

「これ、だいじょうぶ」

「全然だいじょばねえな」


 橙子は久次の横顔からもそれが深刻であることはよく感じられた。が、久次が橙子の口癖を使ったことでほんのちょっぴり和んだ。


「まあ、ともかく、旅行者が見たドザエ様の夢に関してはあれが原因だろう」

「海水まみれになるのもね……というか波の音だと思っていたのが、あいつの足音だと気づいて改めてメンタルが死んでる」

「……あー気づいちまったか」


 慰めるように言う久次に、橙子は知らないうちに気遣われていたことに少ししょんぼりしする。

 久次はがしがしと頭を掻きながら続けた。


「だが、なんでこの部屋に来たのかわからねえ。橙子さんの部屋も試しに見に行ってみよう」

「わ、私も付いてくわ!」


 一人っきりで待っているのは無理だ。

 橙子が全力で久次のシャツをつかんで引き留めると、久次はおかしそうに笑った。


 生臭い匂いが充満する部屋を見回す久次に、橙子は救いのように思えた。


 橙子と久次は連れだって橙子の部屋に行ってみると、特に異変は起きていなかった。

 ただ、かすかに磯の匂いがする。


「人間がいる部屋にしか来ないのかもしれねえな」

「いや私もこうやって磯の匂いがここまでするのは初めてよ」

「今までと違うところは何かあるか。俺の部屋とも違うところはあるか」


 橙子は部屋を見回すが部屋が荒らされた訳でもなく、橙子が布団を持ち出したままの部屋だ。

 昨日と違う部分を探した方が早いと改めて見回すと、花瓶が目に入る。

 あ、と思い出した。


「花が、浜木綿だわ。今まで南国っぽい花だったのに。久次くんの部屋の花は元から浜木綿だった」

「浜木綿……っそうか! 探していたのは長者の娘だ!」

「長者の娘って……マレビトを追って自殺しちゃったっていう?」 


 橙子が問いかけると、久次はスマホのメモ欄を確認しつつうなずいた。


「”浜木綿好きな娘ッ子。潮に飛び込むときも差していた。”って一文もある。長者の娘の名前はかよ。あのドザエ様がつぶやいていた名前と一致するし、浜木綿の香りを目印に来た可能性が高いな」


 そこで橙子は自分のそばに浜木綿の群生地が合ったことを思い出した。

 あれは橙子に気がついた訳ではなく、浜木綿の前で止まっていたのだ。


「つまり、今までドザエ様の被害に合った人は、祠に行ったからじゃなくて、浜木綿の群生地に行ったから?」

「だと思う」

「……ねえ、ドザエ様って、長者の娘が死んだこと、知ってるとおもう?」


 橙子が聞くと、久次はものすごくいやなことに気がついた顔をした。


「……逸話の順番を全部信じる気はねえけど。長者の娘が死ぬ前に殺されてるんだから、知るわけはねえな。ドザエ様は長者の娘を取り返すために今でも歩き回ってんだ。そして浜木綿のある場所に現れてはそれが長者の娘か確かめている」

「うわあ……とっても、迷惑」

「ついでに島中歩いて押しつけられた大量の穢れを写して去って行くから迷惑どころの話じゃねえ。実際見てわかった。あいつは怨霊から転じた祟り神だ。はじめは奉られることで幸福も授けていたんだろう。でも今はしかも抱えきれない厄を抱えて膨れあがらせちまってる。遠からずアレは爆発する」

「うわぁ……」


 もうそれしか言えない橙子だったが、ふと脇に置いてあるファブリーズが目に入った。


「……とりあえず。匂いが付いてると危ないんなら、ふぁぶっていい?」

「大事だな」


 しゅっしゅっとやりながらも橙子は何か引っかかる物を覚えていた。

 久次は、スマホの画面をタップしつつ言った。


「にしても島民も申し訳ねえな。とりあえず、事情を話して浜木綿の花を使わないでもらえたら大丈夫だろうが。浜木綿はここの特産みたいなもんだからな。どうしたもんかな……」


 頭を掻く久次がぶつぶつと言うのに、橙子はすっと血の気が引いた。

 どうする。これはどうしたらいいのだろう。


「あの、久次くん。私さ浜木綿について、今日知ったのよ。ここで浜木綿を見たのも今日が初めてだった」

「え、そうなのか」


 戸惑った様子の久次に、橙子はためらいながらも言わなければならないと続けた。


「この島で浜木綿を見たのもあそこだけだった。そして、祠について勧めてきたのも、花を飾ったのもこの旅館の人よ」


 ここまで言うと、久次も察して顔をこわばらせて声を低く潜めた。


「……まさか。この旅館の人間が?」

「この島にある旅館の中では比較的大きいから、多くの旅行者が利用できておかしくないわ。とはいえこれはあくまで憶測に過ぎないけど……」


 同時にこんな考え方しか出来ない自分に嫌気が差す。

 今までよくしてくれた旅館の人を疑っているのだ。


「……だが、あのドザエ様は厄を誰かに移さないといけねえといけねえもんだ。旅行者に移すために旅館に呼び寄せていたとすればつじつまが合う」


 思い切り橙子の想像を補強する考察をされて、橙子は少しぽかんとした。


「久次くん、私、ものすごく性格悪いことを考えたと思うわよ」

「まあ、すげえ……とは思うけど。俺が思い至らなきゃなんなかったことなのに、橙子さんに嫌なことを考えさせてすまん。それに俺にもまだそう考える根拠はあるんだ。……静真が遅すぎる」


 久次は橙子に顔を近づけて言うのに、橙子は今更気がついた。


「姉貴との電話が長えのには慣れたけど、あそこまでの穢れを持ったやつが近づいてんのに気づかねえやつじゃない。絶対何かあった。下手すると旅館だけじゃなく島の人間もグルだ」

「……どうする」


 橙子が聞くと久次は悩みこんだあと、覚悟を決めた顔で言った。


「顔に出さない自信あるか」

「ブラック勤めで培った表情筋がうなるわね」

「橙子さんは明日にでも帰ってほしい。ひとまず浜木綿をおいた目的は果たしたんだ。旅館の人もこれ以上は何もして来ないとは思う。俺はこれから静真を探してくる。一応、この人の連絡先、入れといてくれ」


 久次から転送されてきた連絡先に橙子はきょとんとする。

 そこには道隆師匠と表示されている。


「このひとは?」

「俺の師匠。危険が予想されるときは定時連絡を入れることになってる。万が一明日来なかったら、この人に連絡入れてほしい」

「私は一緒に居たら足手まといよ、ね」


 久次が困った顔をしたことで、橙子はだだをこねたい気持ちを抑えた。

 あんなお化けに橙子が出来ることは何もないのだ。だから自分がすべきはここで待機することだ。


「わかった。明日帰るわ。気をつけてね」

「大丈夫大丈夫、なんだかんだ生き残って来たからな。明日に備えて寝るんだぜ?」

「これで眠れたら私すごい」


 橙子が真顔で言うと、久次は小さく笑って荷物を持って行ったのだった。

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