かこ
戻ってきた久次と情報交換する頃には日が傾き、夕食の時間になっていた。
広間に用意されたそれは、海の幸をふんだんに使ったものだ。
橙子は連日のごちそうはきついため、連泊者むけのあっさりとしたメニューだが、それでもどこか温かみのあるおかずが並んでいる。
しかし相変わらず、広間には橙子と久次たちしかいない。
橙子は贅沢な気分に浸れるものの、旅館側としては少々大変だろうとは思う。
だがしかし、それよりも橙子は目下の問題に気がついた。
外はとっぷり日が暮れている。夜である。つまり寝る支度をする必要がある。
しかし外にはあの化け物が徘徊している。
しかも、風呂のために水に近づかなければならないのだ。
だらだらと冷や汗が背筋を伝う。
「橙子さんどうした」
「久次くん、お風呂入らなきゃいけないんだけれども」
不思議そうな顔をしていた久次は、あっと理解が及んだ顔をする。
彼の察しの良さはとても助かると思いつつ、橙子は神妙に続けた。
「しかも私が見ていた夢、海に関する物なんだけれども」
「……ええとそうだな。ちょっと心配だし、俺たちの部屋に来るか」
「ぜひ」
正直いい年した大人ではあるが、尊厳なぞかまっていられないのである。
というわけで、橙子は久次たちの部屋に世話になることになったのだ。
久次たちの部屋は橙子の部屋とほぼ一緒だった。
すでに布団は2組適度な距離をとって敷かれており、床の間には花瓶には浜木綿の花が生けられていた。
温泉に行く勇気はなかったため、橙子は久次たちの部屋に据え付けてある風呂を使わせてもらった。
「久次くん! そこにいる? いるよね?」
「……大丈夫、いるから……」
壁越しの声を心の頼りにしながら、手早く済ませて橙子が出てくると、久次は少々疲れた顔をしていた。
ほっこりして多少気が緩んていた橙子は、久次の挙動不審さの理由は察したがそっとスルーする。少々申し訳なかったが、こちらまで羞恥をあらわにすると気まずくなるため橙子は耐えた。
それよりも自分の心の安寧のほうが大事なのだ。
「で、今後の方針なんだけど……静真、何してるんだ」
気を取り直した久次が話を始めようとしたが、静真が座卓に広げたトランプに妙な顔になる。
その理由が陽毬のメッセージでわかっていた橙子は、ちょっぴり苦笑しながらも見守る姿勢だ。
静真は久次を向いて至極まじめに言った。
「旅行に行ったら夜は遊ぶものだと陽毬が言った。そうしてこれを持たせてくれた」
「遊び方、知ってるのか?」
「……これは遊具だったのか?」
「だろうと思った」
きょとんとする静真に、どっと疲れた顔をした久次だったが、どこか張り詰めた空気が緩む。 橙子はもしかして陽毬はこれを狙っていたのだろうか、となんとなく思った。
陽毬のメッセージには、会話に困ったらトランプを託しているのでぜひ遊び方を教えて差し上げてください。とあった。
常識に疎い人で、今はお仕事中ですが、いろいろな楽しいことを経験してほしい。
そして、久次のことをよろしく頼むとも続けられている。
橙子が彼らの事情に踏み込むには少しためらわれるし、何より聞ける立場ではないだろう。彼らの事情があるのだろうし、トランプは正直、場の空気をもたせるためにもちょうどいい。
ゆえに橙子は座卓に置かれたトランプをとった。
「じゃあ、ちょっとトランプやりつつ話しましょ。まずはばば抜きから始める?」
「えっいいの橙子さん」
「夜寝なきゃいけないことをひとまず考えたくないです」
「了解した」
驚いていた久次は、橙子の真顔に即座に理解を示してくれた。ありがたい。
「じゃあ静真さんやろうか」
急遽トランプ大会が開催されることになったのだ。
「んーと、と私からの情報ってこんなものなんだけど。メモにしてたやつメッセージを送るね。あと静真さんがまたいろいろもらってた」
「橙子さんぐう有能……あここで革命するぜ! これで俺は……!」
「む、困るな。ここで革命返しとやらができるだろうか」
「なん、だと!?」
「お、じゃあ私はこれで」
「ぱ、ぱす……」
「ならば、これであがりだ。……勝ったな」
静真がどこかうれしそうな顔をする中、久次はぐっと悔しげにする。
橙子も静真に続いて上がり、久次が最下位に決まった。
「だーなんで! 静真このゲーム初めてだろ!? なんで勝てないんだよ!?」
「要領がわかればできる。が、橙子にはなかなか勝てん」
カードをまとめていた橙子は、久次と静真に見られて苦笑する。
確かに橙子はばば抜き、神経衰弱、七並べ、はすべて橙子が勝利していた。
「ふふふ、こういう勝負事はそこそこ得意なのよ。だけどスピード系は静真さんには負けたでしょ」
「目は良いものでな」
そんな風に言った静真はなんとなく上機嫌に見えた。
はじめこそ困惑していた静真だったがかなり楽しんでいたようだ。
なかなか勝てない久次と静真が交互にもう一勝負、としたために思った以上に白熱していたのだった。
「もう一回やろうぜ!」
「む、そろそろ陽毬との電話だ。行って来る」
久次がさらに提案をするが、時計を見た静真は携帯を持つと、そのまま当然のように部屋の外へと行こうとする。
「あれ、別にここで……」
「やめとけ橙子さん」
別に部屋の中でもかまわなかった橙子が呼び止めようとしたが、久次に止められた。
その表情は恐ろしくまじめだった。
「姉貴と静真の無自覚なのろけを延々と聞かされるのは心が死ぬぞ」
人ののろけはともすれば拷問に変わる。そうでなくても気まずさ満載だ。
橙子が言葉を呑んでいる間に、静真は出て行った。
先ほどまでわいわいがやがやとやっていた室内は、二人きりになると静かに思えた。
外からは虫の鳴き声も響いている。
「はーこんなに盛り上がるとは思わなかった。というかくっそ悔しい……」
ぶつぶつと言いつつ座卓に突っ伏す久次に、橙子は備え付けのお茶を入れ直した。
橙子もかなり集中していたため、もう時刻はだいぶ遅い。
「橙子さんは、とりあえずその布団で大丈夫か? ついたてはするつもりだけど」
「なにから何まですみません……」
本当は旅館に言って布団をもう一式入れてもらうことを考えたのだが、男二人の部屋に女が一人泊まる理由を一切合切思いつかなかったため、こっそり布団だけ持ってきた。
朝起きたらばれないうちに戻すつもりだ。
というわけで、橙子は彼らの布団から離れた位置に布団を敷かせてもらいつつ、片付けた座卓に難しい顔をしつつ、タブレットを眺める久次を見た。
中身はこの島に関する資料だろう。
久次は一応神社を訪ねたが、祭りの準備があると資料の閲覧は明日ということになったらしい。
橙子はやりきれない思いが口をついた。
「マレビトさん、なにからなにまでさんざんよね。漂流してたまたま流れ着いてしまっただけで、故郷に戻ることも出来ずに島民にいやがるような仕事を押しつけられていたってことなんでしょう」
「共同体の中で生き伸びるには、それしかなかっただろうしなあ」
それでももう何百年も前のこととはいえ、やるせない。そしてその子孫が今自分たちに優しくしてくれている島民たちだと思うと。
さらに、橙子たち旅人に親切にしてくれていたことが、マレビトにしていた行為が変化したものだと気づくと、形容しがたい気味悪さを覚えるのだった。
橙子の言葉に久次は少し心配そうな顔をしたが硬い表情で言った。
「……十中八九もなく、だから怨霊になったんだろうな。それを奉ることで島民は難を逃れていたんだろう。やがて話はゆがめられ、島民は罪悪感のために他の旅人に優しくする習慣がついたんだろうな」
「……でもあの足跡は何か探してたんでしょう?」
「そうなんだよなあ」
それが橙子には無性に気になったが、久次もそこまではわからないようだ。
「『いやがる物を押しつけられていた』というそれが、おそらく厄を引き受けるという性質の元だ。怪異となったは、生前の資質を写し取っているやつが多いからな」
「……というか、ドザエ様って、土左衛門から来てたり、するのかしら」
「だろうなあ。あの入り江は島でも奥まった場所にある。島民に聞いてみたら、潮の流れであそこにはよく物が流れ着きやすいらしい。どこかから身を投げた遺体があそこに流れ付いたんだろう。だが溜まるところはよどむ。遺体に穢れが集まって、未練を軸にあのドザエ様が生まれ、島民を呪ったんだろう」
「それで、怒りを静めてもらうために、神として奉った?」
橙子が言うと久次はうなずいたが、まだ難しく考える風だ。
「ああ……ただ、祭りは定期的にやってるみたいだし、神社の位置も祭りの手順を変えたという話も聞かなかった。まあ橙子さんが聞いた祭りについてはむこうの資料には載ってなかったから別の要因があるか……? ともかく急速に穢れが充満し始めた理由があるはずなんだ。それが、もしかしたら……」
ぶつぶつと言う久次の横顔はひどく思い詰めていて、橙子は少し心配になった。
やはり、なにか今までとは少し違う。
だから橙子は場の空気を変えるように、久次に話しかけた。
「ねえ久次くん、静真さんあんなにトランプに夢中になるなんてびっくりしたわ。楽しかったけど。天狗ってそういうことしないのかしら」
「ああ、あいつは特殊だからなぁ」
さりげない世間話のつもりだった橙子だが、久次が少し悔恨の入り交じった複雑な表情になっていた。
「それは、私が聞いていいこと?」
「そういう風に聞いてくれる橙子さんだから大丈夫かなって」
小さく表情緩めて久次は言った。
「……あいつは天狗達の中で育ってな。だけど半分人間だから爪弾きにされてずっと汚れ仕事を押しつけられてたんだよ。それを姉貴に出会ったことで脱出したんだ」
まさにここにいたマレビトの話のような境遇に橙子は息を呑む。
久次は不機嫌そうというより、自分でももてあましている様子でぼんやりと言った。
「はじめは本気でいけすかねえやつだったし、今でも姉貴の悪い虫だと思ってるけど。偏った知識だけを植え付けられたせいで、なんもしらねえだけだってわかったら何も言えねえし。……姉貴を独占するのは許せねえし、あいつはどうせ俺のことなんか、姉貴の次いで位にしか思ってねえだろうしな」
ふてくされる久次の最後の言葉に、橙子は面食らった。日中の静真の言動からして、少し違う気はしているのだ。
が、推量で他人の心を話すのは良くないだろう。だから橙子はちょっとほほえみつつこう言った。
「気にくわないと言いつつ、そうやって面倒を見れるのは優しい証拠だよ」
「んぐ」
茶を飲みかけていた久次がむせた。
げほげほとはき出しつつも、精一杯不機嫌そうな顔をする。
「べ、別にそんなつもりはねえし! 俺はあいつのこと気にくわねえんだからな! せっかく俺が仕事教えてやろうとしてんのに全部脳筋に突っ走って台無しにしやがって」
「……そういえば、久次くんはどうして祓い屋になったの?」
橙子の常識では、祓い屋という職業はあまりないものだ。久次は普通の青年に思える。
だからこそ、どうして選んだのか少々気になったのだ。
「陽毬さんは小さい頃から見えてたって言ってたし、久次くんも、お化けを昔から見えていたの? だからこういう職業についたのかしら」
世間話のつもりだった。しかし、複雑な表情を浮かべる久次に彼の深いところを聞いてしまったのだと気がつく。
「あ、話したくなければ……」
「いや、俺は姉貴と違ってガキの頃ははっきりと見えたり聞こえたりしたわけじゃねえんだ。はっきり見えるようになったのは、交通事故に合って両親が死んだときだ」
橙子は息を呑んだ。久次と陽毬が二人きりの家族だとは知っていたが、実際にその理由を聞くのは初めてだ。
久次は淡々と話していたが、顔に悲しみと同時に、何か抑えきれない感情がにじんでいた。
「俺は父さんと母さんと車に乗っていて、交通事故に合って、父さん達は無残な姿で見つかった。俺は崖下に落ちたけど奇跡的に助かったことになっている。……だけど姉貴にも言ってねえけど。俺は両親に崖から突き落とされたんだ」
「それは……」
「落ちる中で見たのは、毒々しい赤い空と、父さんも母さんの悲しそうな苦しそうな顔。それから高笑いだった。アレは心底楽しんでいる声だった」
久次の顔には、抑えきれない怒りと憎しみがあった。
「それを、陽毬さんは」
「……言えねえよ。姉貴は今でもおいて行かれたことを後悔してんだから」
愚問だったと橙子は口をつぐむ。
ぼそりとつぶやいた久次は、続けた。
「俺が襲っていた怪異は元々はただ道に迷わせる程度の軽いものだったにもかかわらず、悪質な物に変化していた。変化させた怪異が居る。だから俺は父さん達を殺した怪異を探すために祓い屋になった」
そう締めくくった久次に、橙子は息を吐いた。
「久次くんが高いところが苦手なのは、そのせいね」
「……まあ、落ちるのはやっぱだめだな」
苦い顔をした久次はぐっと背筋を伸ばした。
「俺が追っている怪異は、怪異を変質させる性質がある。だから通常とは違う行動や害を及ぼすようになった存在がいたら、師匠には優先的に仕事を回してもらえるようにしているんだ」
「もしかして、久次くんのお師匠さんは、事情は知ってるの?」
「全部事情を話すのが弟子入りの条件だったからな。まあ今回は師匠もえげつない人だし、容赦なく仕事を回してくるからお互い様だな」
ちょっと疲れた様子で言った久次に、橙子は今まで久次に感じていた違和の理由を理解した。
仇がそこにいるかもしれないのならあの態度も当然だ。
久次が決まり悪そうにほほを掻いた。
「まあ今回は俺の探してるやつじゃねえっぽいから、あとは穢れが旅行客に付いた原因を特定すれば良い……というかなんか恥ずかしいこと話したな」
「ううん、聞けて良かったと思うよ」
「苦手なお化けの話だけど?」
「それは全力で聞かなかったふりする」
橙子が即座に返すと久次はようやくほっとした顔をする。
彼が抱えている物を感じて橙子は少し疎外感を覚えた。自分はただの人間だ。
彼の役に立つことは出来ないから、橙子自身は彼に対して何もかけられる言葉がない。
ただ、これだけは言っておこうと口を開いた。
「私が協力するって言っても役には立たないだろうけど、静真くんはもうちょっと頼りにしてあげても良いと思うよ」
「はあ? 」
心外そうな顔をした久次の反応は案の定だった。
「ここまで付いて来た意味はよくわかんねえけど、あいつは姉貴命だからな。俺のなんて姉貴にひっついてるうるさいの。程度な認識だぜ?」
「静真さんとはまあ複雑なのは分かるけど」
うまく言うことが出来ず、橙子は少々もどかしかったが、ふと思い出す。
それなりに時間が経ったが、静真はまだかえって来ていなかった。
「それにしても静真くん、遅いね」
「電波が入りづらいしな、外にまで行っているのかもしんねえ」
ざぁ、ざぁと波が押し寄せるような水の音が外から響いてくる。
ああこの島に来てから夜になると聞こえていたものだ、とぼんやりと橙子は思う。
が、ふと気づく。この旅館は高台にあって海までも少し遠い。
果たして潮騒の音が届くだろうか。
ぞわ、と背筋に寒気が走った。
気づきたくなかったが、橙子は青ざめながら久次に確認しようとした時に。
手首をつかまれて引かれる。
その正体は久次だ。真剣な顔で橙子を引き寄せられて、橙子は面食らう。
じんわりと熱が上ってくる前に久次の真剣な表情が近づいてくる。
「何か来た」
ばつん、と部屋の照明が落ちた。
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