そうぐう

 橙子は道を見渡した。ここは海沿いに作られた道路だ。コンクリートで舗装され、うっそうと茂る草木のせいで海自体は見えないが、潮騒が歩いている間、常に聞こえていた。

 しかし、車がすれ違う道路の脇には十字路などもない。

 これのどこに入り江があるのか、と橙子は困惑したが、静真がガードレールを隠すように生い茂る茂みをかき分けると、下へと降りる道が現れた。

 あまり手入れをされていないらしい。

 かすれた手書きの文字の看板で「コチラドザエノ入江」と書かれている。あらかじめ教えられなければ気づかなかっただろう。

 道は土道で、降りる階段が石を重ねて人間が降りられる程度のものだ。ほんとうに穴場なのだろう。

 もしかして地元の住民もあまり来ないのではないだろうか。と橙子は考えつつも少々違和を覚える。しかしそれが形になる前に、久次に話しかけられた。


「橙子さんここ、来たことないよな」

「はじめてよ。こんなところにあるのも知らなかった」

「そうか……。実はな、悪夢を見た人間のさらに共通項が『入り江にあった祠を詣でた』ことだったんだ」

「……まって、それほんとだいじょうぶなの」


 ドザエ様の逸話を聞いた橙子が尻込みするのに、久次が申し訳なさそうに眉尻を下げる。


「橙子さんがどこでトリガーを引いたかわからねえから。俺たちが対処出来るようにそばにいて欲しいと言うのもある。もちろん祠じゃなくて外で待っていてくれ」

「……わかった」


 橙子はここで手持ち無沙汰でいることもいやだったため、諦めて頷いた。

 緊張しながら降りていった橙子だったが、砂浜にたどりついたとたん感嘆する。

 そこは確かに小さな入江だった。

 切り立った崖に囲まれているそこは、端から端が見渡せるほどだ。

 流れの関係か、流木など多くの漂流物が砂浜に流れ着いていたが、青々とした海と快晴の空に浮かぶ雲の対比が美しさは、それを補ってあまりある。

 さらに砂浜の端には、仲居が生けてくれた浜木綿の花が群生し風に葉を揺らしていた。

 甘い香りがかすかに鼻孔をくすぐる。

 ざざ、ざざ……と絶え間なく波が押し寄せる音が響くなか、人も全くいない。


 うまいことに、陸側には多くの木々が生い茂っており、日よけにも事欠かなかった。

 プライベートビーチとで称すべき贅沢な景色に、橙子は確かにおすすめと言われるだけあると思った。


 遊泳は出来ずとも、木陰に座って本を読んだり、食事をしたりすればさぞ気持ちよかろう。


「なんか、良いところね」


 当初のバカンスという目標を思い出した橙子が表情を緩めていたのだが。


「なまぐさい」


 ぽつり、と静真がつぶやいた言葉が耳に飛びこんできた。

 振り返ると、静真が手の甲で鼻をふさいで顔をしかめている。

 眉根を寄せて不機嫌そうに見えるのはいつものことだったが、どことなく顔色も悪いように見えた。


「どうかしたんですか」


 さすがに心配になった橙子が問いかけて見ても、静真はぐっとだまり込むばかりだ。

 だが、その様子に気がついた久次が、やはりかと言わんばかりの表情で言った。


「やっぱり、山の者なあんたにはきついか。船酔いもしてたし」

「長く居たいとは思わんな。色んなモノがよどんでいる」

「どういうこと? 静真さんは海が苦手なの?」


 橙子がすん、と鼻を利かせてみても、磯の匂いと、浜木綿から漂う甘い香りしかしない。

 だが静真は明確に気分の悪さを覚えているようだ。

 少し心配していると、黙り込んでいる静真の代わりに久次が言った。


「こいつは天狗だって話してただろ。天狗は山に縁が深いぶん、海や水のものには過剰に反応しちまってるらしいんだよ。もともと感覚も鋭いしな」

「動くのに支障は無い。とっとと行くぞ」


 心配と困惑が入り交じる久次にはかまわず、静真はすたすた歩いて行こうとする。

 そこを橙子は止めた。


「あの、においが厳しいんだったら、何かで鼻をふさげば良いんじゃないかしら。気休めかもしれないけど、マスクみたいに」


 相変わらず、自分が感じないものを誰かが感じているというのは薄気味悪いが、不快感があるのなら、和らげられた方が良いはずだ。すると立ち止まった静真は橙子を見て思案する。

 そうしてふとポケットから取り出したのは薄手のハンカチだった。

 器用にたたむと、ぎゅっと鼻と口を覆うように顔に巻き付けると満足そうにした。


「なるほど、多少は楽だ」


 橙子は変な声がでかけたのを全力でこらえた。

 見れば久次もものすごく微妙そうな顔をしている。

 静真が口元を覆うのに使ったハンカチはとてもかわいらしい花を模したキャラクターが浮かんだファンシーものだったのだ。

 ただの実用であることも百も承知だ。

 それでもきりりとした目元の下で、ファンシーな花が踊っているのは大変にシュールだった。


「……そ、それ姉貴のハンカチか」

「ああ、陽毬が入れてくれた。気配がするのは悪くない」

「そうか。とりあえず。祠探してみるか」


 本当にほっとした顔で静真が言うため、久次も指摘するのはあきらめたらしい。

 橙子を振り返った。


「じゃあ、これをしっかり持っていてくれ。何か嫌なもんを感じた時は慌てず騒がず、この円の中に入って俺達に連絡して欲しい」

「いつもの人形……とこれは、円?」


 久次はいつもの紙の人形を橙子に渡すと、流木の一つをとって、砂浜にさりさりと大きな円を書いていく。


「なんかワープゾーンみたい」

「橙子さんゲームやるの?」

「ソシャゲは頭が死んでるときにやると楽しいわ……」

「あ、ああなるほど」


 橙子が会社勤めの時のことを思い出している間に、久次は書きった。

 安心安全な場所があるとほっと出来る。


「じゃあ行ってらっしゃい」


 ひらひらと手を振ってやると、久次と静真は連れだって入江の端の方へ消えていった。

 橙子はひとまず、円の描かれた中心に座り込む。

 久次はちょうど木陰にさしかかる位置に円を描いてくれたので快適だった。

 傍らにはこの島特有の浜木綿が白く細い花弁を揺らしている。

 

 彼らの姿が見えなくなると、潮騒の音しか聞こえなくなる。

 ぼう、と橙子は海を眺めた。

 久次達の動向は気になるものの、こうして落ち着いて過ごせることが久々で、橙子は存分に頭を空っぽにした。

 ぼーっとするために新天地へ来たはずなのに、初日の霊障騒ぎだったためにゆっくり出来なかったのだ。

 海の潮騒はおだやかで、押し寄せてくる波は一つとして同じ形にはならない。一度注目すると、なんだかついつい眺めてしまう。

 この島は流れている空気が違うような気がする。

 住みたいとまでは思わないが、嫌なことを考えなくてすむ。

 ただ、砂浜に打ち付けられるゴミが気になった。

 漂流物は流木やガラス瓶などの他、何に使うか分からない蛍光色の丸い物体、見慣れたスナック菓子の空き袋など様々だ。

 ここに流れ着くような潮流にでもなっているのかもしれない。

 橙子は肩にかけてきたトートバッグに畳んだレジ袋が入って居ることを思い出す。

 少しくらい地域貢献をするのも良いかもしれない。


 また、海の向こうから何かが流れ着こうとしているのを見つけた。

 黒っぽい何か黒い糸のような物がこびりついた、丸っこいものだ。本当に色んな物が流れ着く。

 腰を浮かしかけた橙子に、海から吹き付ける冷えた風が当たった。

 ぶる、と体が震えた。

 風が音を運んでくる。


 びちゃり。たっぷりと水を含んだものが落ちたような音だった。

 続けて、じゃぼとかき分ける音が続く。

 まるで水の中を歩いているような。そんな音だ。


 ぷうんと、生臭いにおいが橙子の鼻腔をついた。

 この島でも何度となくかいだ臭いだ。生きているものが死んだ後、放置された磯のにおい。

 こびりついて離れない、生き物の腐敗した臭い。

 ふと、静真がかいだ臭いがこれなのではと思い至った。

 確かにこれは鼻をふさぎたくなる強烈な臭いだ。

 橙子は鼻をふさいで顔を上げて、ふと気がついた。

 海から流れつこうとしている物が近づいて来ている。

 それは当然だ。何せ絶え間なく押し寄せてくる波で、ゆっくりと近づいてくる物なのだから。

 しかし、橙子が見つけたそれは、波に揺れる様子はない。

 ゆっくりと歩いてきているのだ。


 びちゃ、びちゃ。

 そんな音をさせながら。


 かちかち、と橙子の歯がかみ合って鳴る。そのようなことあり得ない。

 だって、それは、海の中に居るのだ。

 水を滴らせて歩く音がするわけがないし、橙子のところまで聞こえるはずがない。


 橙子はとっさにポケットに入れた人形を確かめた。そして自分は久次が安全だ、と言った円の中に居る。

 大丈夫だ、大丈夫だ。声を立てずに、ここに居ればなんとかなる。

 じっとりとした汗が背中ににじむ。

 さらに震える手で、スマホ取り出し久次へと連絡を取ろうとした時に海が目に入り、ぽかんとする。

 そこにあの黒い物はなかった。

 訳のわからないものは、去って行ったのだろうか。

 肩の力が抜けた拍子に、指が滑って久次に通話コールを送ってしまう。

 焦った橙子だったが、


 びちゃ。


 音がした。


 びちゃ、びちゃん。


 生臭さが強くなる。


 びちゃん、びちゃ。びちゃん。


 橙子は砂浜を凝視していた。

 何も居ないはずなのに、足跡がついている。そのたびに水……海水が、ぼたぼたと落ちてゆく。

 ゆっくりと、海からまろびでて、踏みしめ、ふみしめ。

 人のあしあとだ。だれかがあるいている。

 橙子の、すぐそばを。ゆっくりと。

 スマホを握った手に、じっとりとした冷たい汗を搔いていた。


『と…こさん、ど……た』


 通話先から声が聞こえた。

 なにか、久次に伝えなければ。だが声を出したら、見えない誰かに、気づかれてしまうのではないだろうか。

 生臭さに息が詰まりそうで、今すぐ逃げ出したかったが、最後の理性で踏みとどまる。

 この円の中は安全だと言っていたのだ。

 息すら恐ろしい中でも、橙子はスマホを握り締めることで理性を保っていた。

 早く過ぎろ、早く消えてくれ、それだけを念じていた。


 びちゃ、と、音が止まった。


 橙子は顔を上げられなかった。遠ざかった音ではない。

 視線の先で、円の近くに足跡が止まっているのが見えてしまっていたからだ。


 そこに、居る。

 橙子に見えない何かが。さがしている。


 身じろぎをした瞬間、自分がここに居ることがばれるのではないか。

 そもそも自分のことが丸見えなのではないか。だってただ砂浜に少し複雑に書かれただけの円なのだ。

 今すぐ走って逃げた方が良いのではないか。

 そんな焦躁に駆られた。とき。


『橙子さん。そこから動いちゃだめだ』


 久次の声が響いた。

 先ほどよりもはっきりとした物だった。

 橙子はスマホにすがるような心地でもういちど握りしめる。

 海の音も風の音も遠く。ただじっとりと冷たく張り詰めた空気の中で、ひたすら、砂浜の足跡を見つめていた。

 足跡は、ためらうようにそこから先を刻まなかったが。


 びちゃん。


 円の外周をなぞるように、足跡が再び刻まれる。


 びちゃん、ずず……びちゃ。


 そうして、気の遠くなるような長い時間をかけて、背後へと歩き去っていった。

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