認められない祭りの話
りょこう
水の音がする。
こぽ、こぽこぽ……
これは、空気が抜ける音。
ばちゃ、ばちゃばちゃ。
水のなかで、誰かを呼んでいる。
呼んで、よんで、喚んで。
伸ばして。のばして。探して。
……――ああ、でも見つかるはずがない。
ぼちゃん。
*
「…………う」
目をさました橙子は、全身にびっしょりとかいた汗の不快さに顔をしかめた。
肌に張り付くほどかいている汗のせいで、寝間着までぐっしょりと濡れている。
暑いわけではない。確かにここは南の島で、外の気温は高いし、昨日の夜はしっかりと冷房をつけて快適な室温で眠ったはず。
現に今の部屋は涼しいくらいだ。布団も薄いものをかけているだけ。
これで汗をかくはずがない。
いや、分かっている。このべったりと張り付くこれは、冷や汗だ。
「うう……。水の中で、おぼれる、なんてぇ……」
橙子はうなりながらごろごろ転がる。
ただの夢と考えらえられれば良いのだが、切り捨てるには生々しすぎた上、ほかにも無視できない事柄があったのだ。
布団の上で転がった橙子は、のっそりと起き上がると、そろりと障子を引いた。
広縁のむこうの窓には、べったりと、人の手形が張り付いていた。
いくつもいくつも執拗についたそれを、恐る恐る指でなぞってみても消えない。
なぜならこれは、外側からつけられているのだから。
「あはは……ここ、二階なんだけどなー」
そう、つぶやいた橙子の声は乾いていた。
一晩中、ばんばんやられていたのは気のせいじゃなかった。気のせいにしたかった。
しかもこの夢見の悪さである。
広縁に射している朝の日差しは、橙子の心情に反して大変さわやかだが、若干どころではなく憎たらしかった。
橙子はもういちど布団に戻ると、転がる。転がる。悩む、悩む。
ここにはまだ来たばかりだ。以前であれば気のせいですませていただろう。
しかし橙子はすでに知ってしまっているのだ。おばけと言うものは日常の裏にあっさりとこんにちわするものなのだと。
ごろごろ転がった拍子に、手にコードが引っかかってスマホが落ちてくる。
座卓の上で充電してあったものだ。
ふ、と少々目つきの悪い年下の青年の顔が浮かんだ。
橙子は眉間にしわを寄せてうなる。
このままにしておいても改善はしないだろう。
相談して欲しいと言われた。そしてこれは彼らの専門だ。
「……メッセージ。おくるだけなら」
のそり、と起き上がった橙子は、スマホのトークアプリを呼び出した。
*
橙子がここ、佐茅島(さちじま)を知ったのはほぼ偶然だった。
一連の事件で疲れ切っていて、とてもではないが再就職をしたとしても使い物にならない気がしたのだ。
姉である祐子にも、もうしばらく休むと良いと助言されたこともあり、固く決意をしたのだ。徹底的に休暇を取ってやろうと。
会社に居たときには行きたくともいけなかったリゾートで、バカンスをしてやるのだと。
とはいえぱあっと海外に行くようなお金はない。なるべくならば節約して、だが非日常感を味わえるような土地……。
と、ネットで探していたところで、ここ佐茅島にたどり着いたのだ。
太平洋にぽっかりと浮かぶそこは、本土から日に2便程度しかでていない船だけでいける孤島だ。
しかし、近年開発が進んだ結果、手軽に行けるリゾート島として、若い世代を中心に人気を集めているらしい。
何よりも人気なのはその割引の豊富さだろう。若者支援と銘打って、カップルからグループや女子会、一人旅まで、様々な割引を利用できるのだ。長期滞在は驚くほど良心的な価格に設定されており、橙子が4泊5日の予定を組んでも大丈夫な値段でやっほうとなったものだ。
青い海とわき出す温泉という、日本人が求める観光地の用件を満たしていたこと、なによりこの島の通称に心を惹かれた結果、橙子はここを滞在地に決めたのだ。
「訪れた者に幸が訪れる。別名「幸福の島」かあ。せめて癒やしが欲しいと思っていたのにな……」
ホテルで借りた電動自転車をころがしながら、橙子はため息をつく。
島だけあり、山や坂が多いが、無料で自由に貸してくれるこれのおかげで橙子でも自由に刊行が出来るのだ。
そう、この島に来たときには橙子も期待いっぱいではあったのだ。
実際、青い空と白い雲、どこか懐かしい雰囲気で、住民も観光客に気さくに迎えてくれたのもある。
旅館は離島にも関わらず、新しく清潔に保たれ女性用のアメニティも充実しており、長期滞在者向けの料理は量も質も申し分なく、大変おいしかった。
まだ春先だったために海にこそ入らなかったが温泉は堪能し、橙子はたっぷり羽根をのばした。
ゆったりと時間を気にせず過ごす一時も悪くないと思った矢先の、夢見と窓に張り付いた手形である。
完璧に心当たりがあった橙子は、初日に怪異専門のトラブル解決会社に所属している久次に助言を求めてしまった。だが2日たった今では、騒いでしまった自分に気恥ずかしさを覚えていた。
「いやまあ、確かにあのときはどうしたものかって思ったし、対処法を教えてくれたのは心底助かったけど。まさか『こっちに来る』なんて言うと思わないじゃない……」
メッセージを送って数分もたたないうちに電話が鳴り、こちらでも出来る対処法を指示した久次は、その土地について根掘り葉掘り尋ねてきた。
『佐茅島……?』
どこに居るかを聞いたとたん、電話の向こうの久次の声色が変わった。そしてひどく真剣な声で言われたのだ。
『……まだ、滞在期間が残ってんだな。分かった。あんたがそっちに居るうちに行く。悪いけどそれまで帰んないでくれ』
『え』
『じゃあ俺準備するから!』
それで通話を切られてしまったのだ。まさか本当に来る気か、と半信半疑だった橙子だが、昨日には島への船がでる最寄りの港に着いたとメッセージが届いた。
まさかという思いがぬぐい切れずさりとて途中で帰るという選択もできず、橙子はこうして恐る恐る港へと様子を見に来たのだった。
ちょうど船が到着したところのようで、駐輪場とは名ばかりの空き地に置いて行くと、渡されたタラップから、青年二人組が降りてくる。
後ろにいた地元住民らしい年配の女性グループが、そわそわと言葉を交わしているのも無理はない。二人とも、20代半ば、目つきは多少悪かったり愛想が無くとも十分に見栄えがする。旅先の出会いとしては申し分のない相手だろう。
しかし、彼らはそんな気配にはみじんも気づかず、特に目つきの悪い方である久次が安堵の息をついていた。
「飛行機じゃなくて良かった……。島だと小型飛行機系での移動もあり得たからな」
「さすがに、この距離をお前を担いで移動は出来ん」
「なんで空飛んで移動することを考えんだよ」
「昔は出来たのだがな」
「まじかよ」
もう片方の青年静真がその軽妙なやりとりに、橙子は嬉しいような、会いたくなかったような、それでもほっとしてしまうような、複雑な気分で肩を落とした。
「ほんとに来ちゃった……」
密やかにつぶやいた橙子は、申し訳なさとみょうにむずむずとくすぐったい気分で、こちらに気づいた久次が小走りで近づいてくるのを迎えたのだった。
近づいてきた久次は、橙子を上から下まで眺めると、橙子の肩をぱっぱと手で払ってほっと息をついた。
「橙子さん、迎えにきてくれたんだな。間に合ったようでよかった」
「その前に今私から何を払ったのか教えてちょうだい」
あんまりにも流れるような仕草だったが、スルーするには気になり過ぎるものだった。
久次がどうしたものかと言った風に眉をハの字にしていたが、静真はさらりと言った。
「お前にまとわりついていた名残をはらっただけだ。もう離れた」
「えっ」
「あーもう。静真言うんじゃねえよ……」
何か居たのかと、ぞわぞわと橙子が自分の肩に触れていると、久次がため息をついてきちんと話してくれた。
「たぶんあんたに憑いていた奴の……目印? みたいなもんを祓ったんだ。あとはちょっと穢れが多いくらいで支障はない。だが、まとわりついているのがそれくらいなら、あんたにちょっかい出してたやつらは本格的に手を出す前みたいだが……今んとこどうなんだ」
何かあったら必ず電話しろ、と言われていたが、橙子はしていなかった。それもあって久次は不安に思ったんだろう。だが橙子も伝えられる事は特にないのだ。
「久次くんから送ってもらったお札がめちゃくちゃ効いて、部屋は安全地帯になったわ。……まさかファックスで印刷した札が効くとは思わなかったけど」
そう、ホテルの人に願い、借りたファックスから送られたお札を、せっせとはさみで切って壁という壁に内側から貼り付けたのだ。ちなみに四枚綴りだった。
橙子の苦笑いに、久次は驚いた風もなく言う。
「札ってのは、要は立ち入り禁止看板だからな。ほら警察がよく使う黄色いテープあんだろ。アレが破られないのは『これを破ったのがばれたら警察に捕まる』っていう抑止力が働くからだ。今回の札はそれと似たようなもんだからコピーでも効く」
「なるほど。つまり警察に捕まる事を怖がらないやつはやばいやつってことね」
「橙子さんの理解力が怖い。……まあだからコピーでも弱い霊なら一発で効くし、今回のケースはまだ様子見ッぽそうだから効くと判断した。実際効いただろ」
「うん、びっくりした。ほんと波の音だけで健やかに眠れたもの」
おかげでおとといは壁ドンも窓バンも無く、普通に布団に入ってごろごろできたのだ。
もうコピーだなんて侮れない。お札には五体投地したい気分である。
「あと、部屋用の消臭スプレーだっけ? 言われたとおり部屋にまくようにはしてるけど……。これ意味あるの」
「消臭スプレーというのは、ファブ○ーズとやらか」
「そうだけど……」
意外にも食いついてきたのは静真だった。橙子が不思議に思っているとふむふむとうなずく彼は自慢げに言った。
「簡易的だが良い穢れよけになる。陽毬がよく使っているぞ」
「まさかの本職お墨付きだった」
だがしかし、久次は少々苦笑い気味だ。
「古来から死者や常世由来のものは香りを避けるもんだから、まちがっちゃいねえんだ。さらに除菌消臭っていうのが『きれいになる』という先入観を補強して、除霊が出来るって逸話が出来あがったと思えば納得できる。ただ、対症療法みたいなもんだから過信は出来ねえんだよ。……だから橙子さんファブリーズ携帯してても気休めだからな」
久次に釘を刺された橙子は、すごすごとあきらめた。
「……まあ良い旅館なんだけど、海辺のせいかちょっと生臭いんだよね。だからふぁぶれるのはとてもよかったんだけど」
「もう買ってたのか」
「当たり前でしょ。おばけ対策なら気休めでも」
少しでも安心できるものがあれば、すがりたくなるものだ。
橙子が力強く言うと、久次は歩き始めるそぶりを見せた。
「とりあえず、移動しよう。あんたとおなじ旅館空いてるか」
「ホテルの人に聞いて見たら大丈夫だって言ってたけど……ふたりとも、ほんとに荷物それだけなの」
久次と静真は、共に背負えるほどのリュックサックのみだ。
橙子は4泊5日で来ていて、大きなトランクを持ってきているが、それでも随分少ないように見える。
「良いんだ。必要なもんは持ってきたし。長くいるつもりもないからな。その自転車で行くのか。じゃあ俺が……」
久次がそう言って橙子の乗ってきた自転車を引こうとすると、けたたましいエンジン音と共に軽トラックが走ってくる。
そして橙子達のそばに止まると、運転席から壮年の男性が顔を出す。
「マレビトさん達だねえ。宿は決まっているかい? 自転車と一緒に送っていくぞ?」
来た、と思った橙子は一応愛想笑いで回避を試みる。
「あ、えっとそこまでしていただく訳には」
「あらまあ、いい男がこんなに! マレビトさんでしょう? おなか減ってない? おむすび持って行くかい?」
「お菓子もあるわよ?」
振り返ると明らかに地元の島民であるおばあちゃん達に囲まれている静真がいた。
橙子がこちらを見ていることに気づいていると、静真が珍しく仏頂面をわずかに崩して言う。
「おい、おい、助けろ」
言葉としては、偉そうだったが、短いとはいえ濃密な時間を過ごした橙子には、彼が本気で困っているのが分かった。
その隣で久次も困惑している。
「よしよし、自転車は荷台に載せるからな」
「あ、おいちょっと」
軽トラの男性は橙子から自転車を取り上げると、さっさと自転車を荷台上げてしまう。
さすがにその強行に、久次が気色ばむのを橙子は肩に手を置いて引き留めた。
「だいじょうぶよ。これがこの島の風習らしいのよ。なんか、島の外から来た人たちに食べ物や世話を焼くことで、自分たちに御利益があるって考えなんだって。断ると気まずいし、よほどのことが無い限り皆さん本当に好意だから気にする方が負けよ」
「……なるほど。だからマレビト」
ぼそ、と久次が納得したような様子に、橙子は何かを知っていると感じたがひとまず置いておくことにした。
「いやあ、こんな立派なマレビトさんがいらっしゃったのなら、また安泰やねえ」
「ありがたい、ありがたい。そろそろ祭りも必要じゃけえ。心配だったんよ」
そんなことを言い合っておばあさん方から解放されていたる静真は、両手いっぱいにお菓子やおにぎりを押しつけられている。
どことなく憑かれた様子で立ち尽くしているのは、なんとなく思い切りかまわれすぎた犬がふてくされている様を思い起こさせた。
そんなこんなしている間に、軽トラの男性は久次の肩をたたいて言った。
「兄ちゃん達は荷台に乗ってくれ。安全運転で行くからな」
本当は道路交通法的に捕まってしまう案件なのだが、軽トラの男性の笑顔は一点の曇りもなかったのだった。
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