ふたたびの

 久次は硬い表情のまま言った。


「7つまでは神のうちって言ってな。昔、とにかく死にやすかった子供達をあきらめるための方便ではあったんだが。実際に魂が神に限りなく近いんだ。そんな子供達が、見えないいない物を『いる』と語り続けていた」

「え、でも、それは吉良さんのことだったでしょ。居るってことなんじゃ」

「だが、吉良はただ居ることを主張するだけで、結果的に救出はできなかった。呼びかけているのに、来ない。追い詰められて、絶望して、それでもどうしようもない時はどうする?」


 久次の淡々とした物言いに、橙子は指先が冷たくなっていくのを感じながらも答えた。


「助けてくれるものを、探す」

「そして、想像するだろうな。自分たちを助けてくれる、あるいは保育士達を懲らしめてくれる『きらきらさん』を」


 久次は、重々しく後悔のにじむ声音で続ける。


「居ない物を居ると語り続ける行為は、もはや降霊術だ。子供達は居ないはずの想像上のきらきらさんに何度も呼びかけ、何度もその性質を語ることで、様々な浮遊霊が呼び寄せられていた。それが俺たちが感じていた『薄いけど何かがいる』気配だ」


 きらきらさんのことは言ってはいけない。

 きらきらさんは見てはいけない。

 きらきらさんは悪い子から、大事な物を取り上げる。

 でも、きらきらさんは助けてくれる。


「呼び寄せられたなにかがきらきらさんの行動を取り始めた。そして、吉良じゃないものが置いた死骸を見たとき、子供達は『きらきらさん』だと答えた。肯定すれば、それは確固たる物になる。その瞬間。存在として成立しちまったんだ」


 怪異が生まれる瞬間に立ち会っていたという事実にに、橙子は一気に青ざめた。

 橙子とて、きらきらさんだとしゃべっていたのだ。

 悔しそうに久次は顔をゆがめていた。


「これには俺も一枚かんじまっている。ヒサルキの怪異に似ている、と語っちまった。子供が願ったのは、解放だ。だから保育士全員を襲うまでこいつは止まらない」

「なに、それ。どういうこと」

「見てはいけないと言われたものを見てしまったとき、見たとしても見えない状態と同じようににするには、どうすれば良いと思う?」

「そんな、とんちみたいなこと……」


 わからない、考えたくないと思いつつ、とても嫌な予感しかしない橙子が口ごもっていると、あっさりと静真が言った。


「簡単だ、目をつぶせば良い。眼球をくりぬけば完璧だ。そうすれば見たものを誰かに伝えることはない」


 ぞ、と橙子の背筋が凍った。

 真昼の公園で、目を真っ先に保育士と自分の目をつぶそうとした園児を思い出した。

 あのときからすでに子供達は何かにとらわれていたのだ。


「人間の仕業だったのは間違いない。だがその人間に呼び寄せられて怪異が成立している。……重野さんは両目をつぶされた。ほかの保育士も目をつぶされてる。夏原さんも、監視されているような視線を感じているんだろう?」


 久次の問いにびくん、と夏原は体を大きく震わせた。

 橙子は必死に、はるみの話していた話を思い出していた。


「きらきらさんはいつも見てる。きらきらさんは見てはいけない。悪い子からは大切なものをとりあげる、でも、懲らしめてくれ、る」

「この場合、子供の大事な存在をさらに傷つけた貴様は、完全に標的となっているだろうな」


 静真が、気のないそぶりで夏原につぶやくと、彼女はびくんと体を揺らした。


 ずん、とあたりの空気が重くなった。

 まるで急に極寒に放り込まれたように寒さが襲いかかってきて、橙子の吐く息すら白くなる。

 視界の端で何かがちらつく。


 橙子は強烈に突き刺すような視線を感じた。

 まるで橙子の内側すべてを見抜こうとするような、少しでも瑕疵があれば暴き立てようとするような害意の塊のような視線だ。

 そちらを向きたくない。だが、体は勝手にうごくようで、橙子はきしむように首を巡らせる。


 目が、あった。


 よどんだ泥濘をいっぱいにしたような真っ黒なうろがふたつ。こちらを見ていた。

 輪郭は犬に似ているが目がついている頭は異様に大きく、アンバランスだ。

 それが、夜の空にくっきりと濃く浮かんでいる。

 はるみや弘人が描いていた絵にそっくりだ。

 橙子は、ようやく気付いた。今まで感じていた視線は、これだったのだ。

 あんなものにずっと見られていたのか、と理解してしまい、生理的嫌悪に全身に鳥肌が立った。

 これは、見てはいけないものだ。


「……ぁう」


 しかし、橙子は目をつぶることすらできなかった。

 目をそらしたい、そらしたいのに、あの目が見えなくなったらあの存在がどこに行ったか分からなくなる。

 動いたら分かるか? 何も音を発していないのに?

 それが怖い。あれは自分の味方ではない。見えなくなったら、殺される。

 橙子が立ち尽くした、とき、がと肩をつかまれて振り向かされた。


「橙子さん、俺を見ろ」


 一瞬もがこうとしたが、久次の強固な声音に目を合わせる。

 強い意思の宿ったまなざしに射貫かれて、かひゅ、と橙子の呼吸が再開した。

 橙子がようやく我に返って半泣きになるのを確認した久次は、安堵しながらも言い聞かせてくる。


「あれは、襲ってこない。橙子さんは含まれない。大丈夫だから、あんまり見ないようにしろ」


 橙子はがくがくと頷いたが、その視界の端で、ぐりん、とそれが視線を巡らせた。

 直接見ていないにも関わらず、誰に視線を合わせたのかすら感じ取れて、橙子のめに涙がにじむ。

 悲鳴が響いた。


「いやああああみないで、みないで! しらないから! しらないからあぁっぁぁ!!!!」

「ぐっ」


 まっすぐ焦点を合わされた夏原はめちゃくちゃに暴れた。

 不意を打たれたのか静真の腕の拘束から逃れて走り出す。


「あ、まてっだめだ!」


 久次が叫ぶが、夏原は止まらない。


 ふ、と橙子は視線を感じなくなる。どこへと思えば、夏原の肩に、それが乗っていた。

 それは、首を伸ばして夏原をのぞき込むと、そのうろを見開いた。

 恐怖に凍り付いた夏原は立ち尽くす。

 うろのような目から、ぬう、と出てきたのは、ちいさなこどもの手だった。

 どこか湿り気を帯びたあおじろく、ふくふくとしたゆびだ。

 それが、硬直する夏原に、いっそ柔らかい仕草で伸ばされ。


「あああぁぁぁ……っ!!!!」 

「っ!」


 その眼球にさしこまれる寸前、がっ、と静真の手にはじかれた。

 一足飛びに追いついていた静真はすかさず、夏原の襟首を片手で引っ張り引きずり離す。

 夏原がその場にへたり込む中、たたき落とされたそれは、距離をとって逃げようとする。

 だがすでに回り込んでいた久次が、地面にずらりと札を並べていた。


 まるでそこに壁が出来たかのように、とどまったそれに対し、久次は押し殺した声音で宣言する。


「まがりなりにも子供の願いによって生じた怪異だ。これ以上人を傷つけさせて、力をつけさせるわけにはいかねえ」

「子供にどんな影響が及ぶか分からんからな。ここで引導を渡す」


 静真の声は淡々としていたが、どこか今までにない情がにじんでいるように思えた。


「静真、わかってるな! 火をかけて倒す間際は見るなよ! 念のためだけど」

「俺がその程度の呪に負けるわけがないだろう。お前こそ見るなよ」


 静真と言い合った久次が、橙子を見る。


「橙子さん! 視線を下げていてくれ! 見ないように!」


 橙子が慌てて下を向くと、夜のしじまに、刀が鞘走る音が響いた。

 その音を知っている自分になんだか情けない気分になったが、目をつぶることすら怖かったため下を向く作業を続けていると。


 ぼう、と赤い炎がつけられる気配がした。一体何が起きているのか、顔を上げたい衝動に駆られたが橙子は耐える。

 こんなに見てはいけないことがつらいと思わなかった。

 とん、と、肩が叩かれた。

 終わったのだと思った橙子は心底ほっとして、顔を上げかけたが、ふ、と気づく。


 久次が近づいてくる足音はしたか?


 全身から血の気が引いた。代わりにどっと汗が噴き出してくる。

 ならば、後ろから橙子の肩を叩いたのは一体誰だ。

 うつむいている橙子は足が見えないかと、視線を巡らすが、夜の暗がりで見えなかった。

 だがこれだけは分かる。居ると認める行為をしてはいけない。


 しかし、とん、ともういちど肩をたたかれた。

 体がびくつきかけるのを必死でこらえる。

 気づいていることに、気づかれてはいけない。しかし、橙子の張り詰めるような緊張も限界に達していた。


 やがて、背後に居る何かがぞろりと橙子の右手に移動してくるのを感じる。 

 後もう少し、で、のぞき込んでくる。そうしたら見ざるを得なくなる。

 震えをこらえる橙子の呼吸が浅くなった。


 ひゅっと風が吹いた。


 何かが傍らを通ったが、果たして顔を上げて良いか判断がつかなかった。

 しかし、するりと刀をしまう音が響いた。


「おい、もう終わったぞ。いつまでうつむいている」


 それは静真の呆れた声に橙子ははっとする。


「いや橙子さんにはわかんないから。橙子さん、もう良いぞ」


 次いで久次の無骨な手が視界に入り、橙子が握り締めていた手を取った。

 あたたかい。

 橙子がゆっくり顔を上げると、心配そうな久次の顔がある。


「おわった?」

「おう、お疲れさん」


 そこで、ようやく橙子は深く息を吐くことが出来た。

 どっどっどっ今更ながら心臓がうるさく鳴り響く。痛い。苦しい。だが生きていることに息をつい。


「はぁぁぁぁ……こわかったぁああああ。あれなに!? ほんとなに!? なんで肩叩くの!? のぞき込もうとするの!?」


 こらえていた物をはき出すように声を出す橙子に、久次が答えた。


「最後の最後で、きらきらさんがもういちど実体を持とうと、あんたに認識させようとしたんだ。だがあんたに憑こうとしていた残滓も静真が切った。これで終わりだ」

「何その往生際の悪さ」

「生きても死んでも居ないからしかたねえ」


 あまりに理不尽な存在に、橙子が言葉を失っていれば、久次がおかしそうな顔で見ていた。

「俺橙子さんの恐がりポイントがよくわかんねえ……訳の分からない理論で殺そうとしてきた女も怖いと思うけど。そうでもないのか」

「あっちは実体がある! ライトも痴漢撃退スプレーも効く! でもおばけには光も痴漢撃退スプレーも効かないでしょ!?」

「ま、まあ、そうだけど。おばけで通すんだな」

「マイルドな表現にして正気を保とうとしてるの察して!」

「お、おう」 


 久次は若干引き気味だったが、橙子ははっと気づく。


「あ、そうだっ。その、夏原さんだっけ、大丈夫そう?」


 橙子が振り返り夏原に近づけば、彼女は道路に倒れていた。

 見ていた限りゆっくりと倒れていたため、頭を打っては居ないだろうがこのままにはしておけないだろう。

 しかし、この状況をどうやって収拾をつければ良いのだろう。


「こういう時は、どっちが先が良かったかしら。おばけについて警察に話しても信じてもらえないから隠すとしても、病院は後かな……。いやその前にスマホ拾ってこなきゃ」

「橙子さん、とりあえず警察はつてがあるから大丈夫だ。多少橙子さんも事情聴取をされるだろうが、悪いことにはならないと思う」

「それは助かるわ。なにせ自分の証明をするのが大変なのよ」


 久次の提案に橙子はほっとする。これで憂いはなくなった。

 だがしかし、ふと久次が物言いたげな眼差しをしていることに気がついた。


「なあ橙子さん。もし怪異じゃなかったら、一人で対処するつもりだったろ」

「まあそうね。私しかいなかったし」


 否定する必要も無かったために橙子が肩をすくめると、久次はぐっと眉を寄せた。


「今回俺達は間に合ったけど。次はどうなるかわかんねえ。次はちゃんと助けを求めてくれねえか」

「いや自分だけじゃ無理なときはさすがに助けは求めるわよ?」

「だけど、あの保育士をおびき寄せるために人通りのない道に行っただろ。この道は駅からは少し遠回りだ」


 久次に指摘されて橙子はちょっと言葉に詰まった。

 その通りだっためそっと目をそらす。


「だってはるみちゃんのいる家に近づける訳にはいかないでしょ?」

「だが橙子さんだって大事だろう。だから、俺に助けさせてくれよ」


 久次の言葉に、橙子は少し驚いた。


「久次くん、時々たらしなこと言うわね」

「あ、いやその! 橙子さんなんか怪奇現象に縁が出来ちまってるみたいだからな。そういうのは橙子さん対処出来ないだろ。俺たちはそれが専門だからな!」

「気づかせて欲しくないかなあそれは!」


 橙子は叫んだが、慌ててごまかすように早口になる久次の頬は少々赤らんでいる。


「おい、警察は呼ばなくて良いのか」

「よ、呼ぶぞ! 安東さんに」


 夏原を見ていた静真がしびれを切らしたように言うのに、久次がはっとして連絡を始める。

 す、と静真が橙子を見た。


「お前は弱いなりに気概があるようだが。力が及ばぬことは強い物に頼れば良い」

「え、」


 橙子が目を丸くしているうちに、ふ、と静真は興味をなくしたようにあさってを向いていた。

 橙子は少々驚きながらも、自分の妙な感情に戸惑った。

 あまり仲の良い友達が居る方ではない橙子だったが、久次と静真の二人はなんとなく気を許してしまっているような気がする。

 理由はなんとなく分かる。橙子が親しくなってきた人間は、皆橙子と共にトラブルに巻き込まれることが多かった。そのため、だんだんと忌避するようになってゆくのだ。

 だがこの二人は忌避のまなざしを向けない。

 オカルト関連に遭遇するのは、久次と静真が居るからとも言えるのだが、不思議な気分だったが。


 なにはともあれ、スマホを拾いに行こうとした橙子だったが、ふ、と街灯に照らされていない道の暗さに真顔になる。


「橙子さん、もう少し待って居てくれ」

「……久次くん。こう早々に悪いんだけど」


 電話を終えた久次がきょとんとするのに、橙子は神妙な面持ちで言った。


「とりあえず、スマホ拾うの手伝ってくれる?」

「っく。ああいいぜ。手、握るか」


 久次に吹き出して笑われた橙子は不本意ではあったが、それでも久次の手の温かさにほっとしたのだった。

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