きき
保育園での一連の騒動の数日後、橙子はふたたび祐子の家を訪れていた。
はるみの様子が気になったというのと、祐子と亭主に改めて礼を言いたいと言われたからだ。
家で遊んでいたはるみは祐子にべったりだったが、本来の朗らかさを取り戻しつつあった。
しばらくは、心の傷を癒やすことに集中しなければならないだろうが、祐子の仕事も一段落していたのが不幸中の幸いだ。
橙子ははるみと思いっきり遊んだあと、祐子の出す夕食をごちそうになったあと、祐子の亭主がはるみの相手をしているあいだに話を聞いた。
「ほんと気づかない私が馬鹿だった。はるみはあんなに追い詰められていたのに」
「心の盲点になってたんだから仕方ないし、悪いのはすべて、あの園の園長よ」
橙子が気づけたのはたまたまだ。
祐子ははるみの一番そばに居たからこそ、ゆっくり、ゆっくりと抑圧されていくはるみの変化に気づきづらかったのだ。そして橙子は引っ込み思案でも朗らかなはるみの記憶しかなく、いきなり遭遇したために違和をもてた。それだけの話のなのだ。
「姉さん、はるみちゃんの保育園どうするつもり?」
「ちょっと遠いけど、弘人くんとおなじ保育園に空きがあるみたいだから、そっちに行こうと思っているわ。はるみも弘人くんに会えるのは嬉しいみたいだし」
祐子がそう話してくれた声はいくぶん落ち着いていて、橙子は少し安心したものだ。
「必要だったら言ってね。まだ転職先は決まらなさそうだし、手は空いてるから」
そう申し出ると、祐子は心底呆れた顔になった。
「今回の大活躍でも足りないの? 橙子には頼ってばかりで申し訳ない位だったのに」
「んでも、姉さんには昔っから迷惑かけてたからさ。力になれるときにはなっときたいの」
橙子が本心から言うと、祐子は苦笑した。
「まあ昔からあなた、変なのにばかり好かれてたもんねえ。普通にしてるのに、向こうからトラブルがやってくるって感じで。なんであんなに修羅場になる確率が高かったのか」
「ほんとーにごめんね」
「あなたが悪い訳じゃないことくらい、分かってるから気にしないの。ただ、あなたはそういう巡り合わせってあるんだろうなあとは思うのよ」
巡り合わせ、という言葉が橙子は妙に心に残った。
昔から橙子は人に異様に好かれるか、異様に嫌われるかの極端な人生だった。異界駅で鬼になりはてた同級生もまた、その中の一人だ。
怪異に遭遇したのも奇妙な巡り合わせだった。しかしあれがなければ久次や静真と出会うことはなかったのだろうなと考えると不思議な気分ではある。
何が幸いするか分からないものだ。しかしもう会うことはないだろう。……と言うよりもう怪異ごとはご遠慮申し上げたいのだ。
うむと改めて決意していると。
「ただ、あなた一人で何でも解決しようとするから心配ではあるんだけどね。まだ隠してること、ないわよね?」
見透かすように祐子にじっと見つめられて、橙子は気まずい気分になった。
これはもう戦略的撤退しかない。
「……ないわよ。ところで、このはな保育園のほうはどうなりそう?」
「うーん。暴行傷害事件だから、ほかのお母さん達と足並みそろえて被害届を出した後、訴訟を起こすつもり。保育士さんも、積極的に隠蔽に協力していた人と、解雇をされたくないから黙って居た人も居たみたい。罪に問われるかは分からないけれど、どっちみちあの保育園は閉鎖でしょうね」
その言葉に橙子はぼんやりと保育士達の顔を思い出す。ヒステリックに子供を怒鳴りつけていた保育士は積極的に協力していた側だろうか。きっと分かる日が来ることはないだろう。
「ただ、園長の重野さんが急に入院しちゃったから逃げられてしまわないかが心配だわ」
「入院?」
「心労が祟って体調を崩したんじゃないか、って噂だけど、よく分からないのよねぇ。他人を傷つける、という行為に対して異様にハードルが低い人だった事は確かみたいだけど」
祐子の話に、橙子は少し驚いた。あの重野園長は、一貫して子供達にした虐待を「教育」だと主張し、何ら良心の呵責を感じていなかった。だからこそ精神を病んで入院というのに違和を覚えた。
「一瞬だけ姿を見たらしい親御さんの話だと、目に包帯を巻いていたらしくて。車いすに座っていたって話だから自力で歩けないかもしれないって」
すぅ、と背筋が冷えた。
目に包帯という単語に、橙子はぞわぞわとえたいのしれない不気味さを覚える。
今回の騒動で、キーワードになっていたのも目だったのだ。
しかしもう解決したはずである。杞憂のはずだ。
「どうかした?」
「あ、ううん。何でもない。そろそろ帰るね」
「だいだい姉かえるの?」
ひょこりと部屋から出てきたはるみが、とことこと廊下を歩いてやってきた。
足にぎゅっと捕まって寂しそうにこちらを見上げるはるみの頭を、橙子はやさしくなでてやる。
「うん、今度はもっと時間があるときに、うんとあそぼうね」
「うん!」
はにかむはるみに、橙子はほほえみ返して、祐子の家を後にした。
夜道を歩く橙子は、コートのポケットからスマホを取り出して手に持った。
住宅街である祐子の家周りは、当然のごとく人通りはなく、静かな道だった。
トークアプリを呼び出した。
指でなぞり連絡先を眺めているうちに、久次の連絡先が目に入りしばし悩む。
あれからどうなったか、聞くだけならありだろうか。
『きらきらさんの事後処理はどうなった?』
そう、送信したあと。
橙子はふと背後に気配を感じた。
橙子の足音を追いかける音がする。
今日の橙子はスニーカーだ。あまり音が響かないために気づいた。
追い越してもらおうと、足音を遅くすると、同じように遅くなる。
こくり、とのどを鳴らした。
密かに息を吐き、もういちど吸う。
そのとき、スマホが震えて、橙子は思わずびくついた。
画面を見ると、久次の返信が返ってきていた。
『今どこに居る?』
まるで橙子の状況を見透かしたようなメッセージに驚く。
久次が何かをしっているかもしれないと直感した橙子が、画面に指を滑らせる。
『はるみちゃんちの帰りだけど、もしかして不審……』
橙子はタップに気をとられていたせいで、迫る足音に気づくのが遅れた。はっと振り返った時には、すでに間近に人が居る。
反射的に鞄を盾にして身を振るがえした。
ざくり、と何かが裂ける感触がする。
鞄のトートバックの表面は、無残に裂けた。
両手で構えるために、スマホを地面に落としてしまう。
液晶割れていないといいけど、と橙子は頭の隅で考えながら服のポケットに手を突っ込む。
目的の物をつかんだ橙子はスイッチを押すなり、それに向けた。
「っ!?」
強力なライトはその人物を照らし出し、良い具合に目に明かりが入ったようでひるむ。
普通の女性だった。見たことがあると思えば、このはな保育園の若い保育士だ。結ばれた髪はざんばらに乱れ、服装にもどこか荒れた雰囲気がにじんでいる。
数日でここまでやつれられるのか、と橙子は息をのむ。
しかし、何をしに来たかは、その手に握られるぎらりと光を反射する三徳包丁で明白だった。
橙子は迷わず身を翻して逃走した。
「誰かああ! 助けてください! 火事です!!!」
防犯ブザーは切られた部分から、どこかへ飛んでいってしまったらしい。
こういう時に素直に状況を叫んでも、人は顔を出してくれないことは経験則で知っていた。
こんな経験則なんて欲しくなかったと思いつつ走るが、間の悪いことにあたりには民家が遠い地域に入り込んでしまっている。
だが、あれを引き連れて祐子の家に戻る訳にはいかない。
しかし叫んだことで逃げていってくれるかと思った不審者は追いかけてきていた。
「やっとみつけた仕事先がなくなったの! 頑張って耐えてたのに台無しになった! 私は何もしてない、何もしてないのになんでこんな目に遭わなきゃいけないの!? ずっと誰かが責めるように見てるの! あんな映像流さなきゃよかったのにあんたのせいでしょ!?」
「ああああもう! 分かってたけど! わかってたけど何でこんなめにあうかなあ!?」
訳の分からないわめき声を上げる若い保育士に、橙子も叫びながら走る。
断片的に理解したところによると、この若い保育士は就職先がなくなった逆恨みで、夜間保育を利用していた園児の家に押し入ろうとしていたんだろう。
そこにちょうど、橙子が出てきたために、告発された恨みにすり替わったのだ。
これだけ叫び合っていても、一向に人は出てこない。
すでに息は上がりきって汗が噴き出しているが、命の危険にさらされている恐怖のせいか、濁った冷気で悪寒がした。
さらに言うならば、保育士をやっているだけあって、ずっとデスクワークだった橙子よりも格段に体力があった。
振り返って再びライトを当てるべきか、迷った時。
「橙子さん!」
橙子を呼ぶ声がした。
瞬間、橙子は再び若い保育士にライトを当てる。
顔には当たらなかったものの、その姿と位置を知らせた。
若い保育士の背後に、黒々とした片翼を負った静真が降り立った。
驚いた保育士が振り抜いた包丁を、静真は鞘に入ったままの刀ではじいた。
返す手で包丁をも持つ籠手を打って、取り落とさせ拾えない位置にまで包丁を蹴り飛ばす。
さらによろめく保育士の腕をとるとあっさりとひねり上げた静真は、淡々と橙子を向くと目を細めた。
「まぶしい。消せ」
橙子は慌ててフラッシュライトをそらすと、電源を落とす。
その間に、橙子の背後から久次が走り込んできた。
「無事か橙子さん!」
「静真さんと久次くん。助けに来てくれたの」。
「あんな返信もらったら何かあったと思うに決まってる。はるみちゃんちから遠くないと思って探してたんだよ」
試しに返信を見せてもらえば、途中送信していた。しかしよく間に合う位置に居たものだと思う。
「ほんと助かったわ。ありがとう二人とも」
「なんか、ずいぶん落ち着いてるか」
久次が戸惑った顔をしているのに、橙子はほんの少し苦笑する。
「だって人間相手だって分かってたし。うすうすこんな展開になるんじゃないかと考えてたから、色々準備はしてたのよ」
追いつかれた場合は、催涙スプレーでもういちど時間稼ぎをするつもりだったし、交番の場所も念のために把握していた。
「逃走した時のためにカラーボールも用意してたんだけど、私コントロール悪いから心配だったのよね。使わずにすんで良かったわ。あ、そうだ。イヤホンコードあるから手首縛っとく?」
橙子が破れかけのトートバックからコードを取り出すと、久次は今度こそあんぐりと口を開けた。
「中学、高校、大学と、人の修羅場に巻き込まれることが多くてねえ。さすがに包丁持ち出されたのはこれが二度目だけど」
「普通は2度もねえよ!?」
「縛る物があるのか。欲しい」
「静真お前黙っとけ!」
気持ちの良い久次の突っ込みに、橙子は緊張がほぐれた。
「まあそうなんだけどね。人間は恨むものだし、思い詰めると何をするか分からないって思い知っていたから。保育園から帰るときになんとなく嫌な感じはしていたから、注意してたのよ」
あの場で目立っていたのは、保護者の先導をしていた祐子であり、映像を公開した久次だった。久次は男性で何より身を守るすべを持っている。だから目をつけるのなら祐子か、そのこどもであるはるみのほうだと思ったのは間違いではなかった。
「だって人間は何をするかわからないものだからね」
少しだけ微笑んで橙子が言うのに、久次が絶句するが、すぐにぎゅっと眉を寄せた。
「そこまで分かってたんなら、なんで……」
「おい、久次。この女から話を聞かないで良いのか」
「……わりい、そうだったな」
何かを言いかけた久次だったが、静真の問いかけにそちらを向いた。
保育士の女は、暴れ疲れたのか、ぐったりと地面に膝を突いてうなだれている。
そんな彼女を見下ろして久次は淡々と尋ねた。
「なあ。夏原さん、聞こえるか。あんたに教えて欲しいことがある。今も視線を感じるか」
夏原と呼ばれた保育士は、最後の言葉を聞いたとたん、びくんと体を震わせた。
「なんで私悪くないのよ。悪くない! 全部やったのは園長先生だもの! だってしょうがなかったのよ! 怖かったの!」
それでも、きっと、許されることはないのだ。と橙子は哀れに思ったが、カタカタと見て分かるほど全身を震わせて怯える姿は尋常ではない。
じっとりとうすら寒さを覚えた橙子は、淡々と見下ろす久次に問いかけた。
「そういえば、なんで久次くん。こんな短時間で間に合ったんだから、近くに居たのよね。どうして?」
「きらきらさんは終わってない」
明確に久次が言い切るのに、橙子は息をのんだ。
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