いとぐち

 夕暮れ、橙子は姉の家でてきぱきと指示通り夕飯の下ごしらえをこなしていた。

 姉はおおらかではあるが、きちんと指示はしてくれている。この素晴らしさをどうして前の会社では味わえなかったのか疑問である。

 献立の指定さえしてくれれば、橙子とてある程度の下ごしらえはできた。

 対面式のキッチンだったために、ダイニングテーブルに画用紙を広げているのがちらりと見える。

 橙子はどう話を切り出すか慎重に考えながらも、朗らかに言った。


「はるみちゃん、今日は大変だったねえ」


 せっせとサラダの彩りとしてパプリカを薄切りにし、にんじんを千切りにしながら、橙子ははるみに話しかけた。

 ぼんやりと画用紙にクレヨンを滑らせていたはるみは顔を上げた。


「たいへん?」

「きらきらさんのこと」


 すう、とはるみの顔から表情が消える。

 橙子は、下ごしらえを続けながらも、ポケットに入れた札を強く意識した。

 正直、危ない橋を渡っている自覚はある。

 聴き方を一つ間違えれば、昼間の保育士のような事態になる。久次のように札がうまく仕えなくてもおなじだ。

 しかし、橙子の一刻も早くこの状況を解明しなければならないと考えていた。

 だから、橙子は最後の下ごしらえを終わらせると、ゆっくりとはるみの隣に座った。

 橙子は刺激しないようになるべく落ち着いた声音で尋ねた。


「私は知らないから、はるみちゃんにおしえてほしいなー」

「う……」

「もしかしてさ、きらきらさんって、はるみちゃんが名前つけた?」


 橙子の問いかけに、はるみはびっくりしたように目を開いた。


「どうしてしってるの」

「ふっふっふっ。だいだい姉を甘く見るでない」


 芝居がかった仕草で言って見せたが、ただの当てずっぽうだ。

 ただ、言葉を繰り返すあだ名が好きなはるみがつけそうな名前だと思ったために、鎌をかけたら大当たりだっただけ。

 しかしおかげではるみがこちらに心を開いたのを感じる。

 後はここからが勝負だ。橙子は、ポケットに入れ込んだ札の存在を感じながら、慎重に言葉を選んだ。


「きらきらさんのこと、教えてくれたのはだれ?」

「ひろとくん」

「ひろとくんはだれ?」

「とおくにいっちゃったこ。きらきらさんとなかがよかったの」


 橙子は「ひろとくん」の存在を胸に刻みつつ、はるみがたどたどしく説明する声に耳を傾けた。


「それでね、それでねわたしにもおしえてくれたの。だからきらきらさんがいればだいじょうぶなの」


 仲が良い、とはどういうことか。何が大丈夫なのか。

 たどたどしく話す彼女に、きらきらさんの存在について直接聞きたい衝動に駆られたが、ぐっとこらえて、問いかけた。


「きらきらさんがいればだいじょうぶ、ってことは。きらきらさんはなにかしてくれるの?」


 ぴたり。とはるみの言葉が止まる。黒々とした瞳がうつろにひられ、橙子を見上げた。

 テレビすらつけていない室内は痛いほどの静寂に包まれる。しかし橙子はじっと耐えて待った。

 長い沈黙の後、はるみはようやく口にした。


「……たすけてくれるの」


 どこかよそよそしく、ちいさな声ではあったが、目はふさいでいない。

 橙子は心臓が飛び出そうなほど脈打つのを感じながらも、声だけは朗らかさを保った。


「そっかーたすけてくれるのかー。はるみちゃんには、たすけて欲しいほどいやなことがあるんだねぇ」


 ぴくん。とはるみが反応した。ヒットだ。

 気になっていた。ほとんど直感だ。あまり当たって欲しくなかったが。

 見逃してしまいそうなほどかすかだったが、確かに反応した。


「いやなこと。おかあさんに言った?」


 とたん、ぶるぶるとはるみは頭を振ると、怯えた様子で縮こまる。


「だめ、おとうさんと、おかあさんにはなしたら怒られる。わたしがいけない、から。わるいこはだいじなものをあげないとゆるしてもらえないの。でもだいじなものをあげるとこらしめてくれるの」


 なるほど。だから口が重かったのか。橙子はふつふつと胸の内にわだかまる焦躁を押さえつけて、努めて柔らかい声音で言いつのった。


「じゃあはるみちゃん、私は? はるみちゃんにとって、私はなんですか?」


 きょとんとしたはるみは、素直に答えた。


「だいだい、姉。おねーちゃん」

「そのとおり! おかあさんでもおとうさんでもないよ。だから話しても怒られないわ。もちろん私は、何があってもはるみちゃんのみかただよ」


 へりくつに等しい。だが、はるみははちり、と瞬いた。うつろなまなざしが見開かれる。

 すがるような色が浮かび、はるみの心に大きな葛藤が生まれているのが手に取るように分かった。

 わなわなと震えながら、声を上げた。


「わ、わたしはみちゃだめなの。めをふさぎなさいっていわれるの。そうじゃないと悪い子だから、おともだちをいたいいたいされるの」

「それは、だれに?」


 橙子が問いかけると、はるみはひゅう、と息を呑み、表情がごっそりと抜ける。

 小さな手で両目をふさいだ。


「しらない」

「……うん、わかった。はるみちゃん」


 ここまでだ。だが、必要なことはわかった。

 橙子ははるみの頭をなでながら、はるみが今までかいていた絵を見る。

 黒くとげとげしい輪郭をしたものが、赤く染まった小さな塊を持っている。

 二つの目は、異様に大きく、ぐりぐりと執拗に塗りつぶされ、うつろにこちらを見ていた。

 その周りには小さい人型が書かれていて、手で目をふさいでいる。

 不気味な絵に、ぞっと背筋が冷えるのを感じながらも、橙子は覚悟を決めた。




 *




 翌日、橙子は精力的に動いた。なるべくならば早いほうが良い。

 出来るならば間に合わせたいという願いが届いたのか、必要な情報をそろえることが出来たた橙子は久次に連絡を取った。

 出なければメッセージを残して直接向かうか、と考えていたが果たしてすぐに出た。


「もしもし久次くん」

『久次は取り込み中だ。用件を言え』


 その低い声音は静真のもので、橙子は驚いた。久次がスマホを預けているのは相当ではないだろうか。


「折り返したほうが良いかしら」

『たいしたことではない。施設周辺をうろついていた不審な男を捕まえたから、警察に付きだそうとしていただけだ。すぐに終わる』

「いやまってそれ大したことだし、その人がたぶんきらきらさん! 保育園に言うのも警察に突き出すのも待って!」


 橙子が心底驚いた橙子がまくし立てると、電話の向こうから困惑する気配がした。

 じりじりとした焦躁を覚えながらも待ち構えていると、通話の向こうから会話する気配がした後、久次の声が響いた。


『橙子さん、こいつが飛ばしてたはた迷惑なおもちゃのせいで勘違いが生まれてたんだよ。子供達はこの野郎が飛ばしてたもんを見ていたんだ』


 押し殺した声音で橙子は久次が怒り狂っていることを感じていた。

 少しひるみながらも、橙子は確認するために言った。


「白か透明なドローンで、きらきらと反射するテープを上空で放して居たんでしょう。風に乗ったそれがうねって太陽の光を反射してたことで、きらきら光ってるように見えたのね」

『……何でわかったんだ』


 久次の声が、戸惑いに変わるのに、橙子は続けた。


「その人に『あなたが救いたかった人の名前』を聞いてみて。間違っていたら人違いで私が全力で謝るし警察につきだして」

『あんたが救いたかったやつは誰だ』


 久次は押し殺した声ながら、向こう側に居る不審者に押し殺した声で問いかけるのが聞こえる。

 声までは聞こえなかったが、数秒後答えが返される。


『弘人という、ラジコンが好きな男の子だと。このはな保育園のせいで、心を壊してしまった……ってどういうことだ』


 その答えに、橙子は大きく息を吐いた。


「久次くん。その人、やっぱり警察に突き出すのは待って。それから保育園側にばれないように連れ出せる? なるべくなら夕方のお迎えまでに準備を整えたいわ」

『できるけど。何でだよ橙子さん。何を知ってる』


 困惑のにじむ久次の言葉に、橙子は努めて淡々と答えた。


「このきらきらさん騒動は、人間のせいだわ」

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