そうどう

「だいだい姉っ!」


 はるみに飛びつかれた橙子は、彼女を受け止めた。ほかの子供達も興味津々で近づいてくる。

 そう広くない公園だ。こうして話していれば気づくのも当然だろう。


「なんでなんで! ひさつぐせんせーといっしょにいるのなんで!」


 無邪気に話かけてくるはるみは友達と居るせいか、朝の落ち込んだ顔が嘘のように明るい。


「久次くんとは前からお友達だったから、お話してたんだよ」

「ひさつぐせんせーだいだいねえとお友達なの!」


 橙子がしゃがみ込んではるみに応じると、彼女は目をきらきらとさせて久次を見た。

 無垢なまなざしを向けられた久次は若干身を引いたが、それでも不思議そうにする。


「だいだい姉って、どういうことだ。深田さんの下の名前ってとうこさんだよな」

「ああ、それは……」

「あのね、だいだいねえもはるみも、おみかんのなまえだから、いっしょなの!」

「い、いっしょなのか?」


 珍しくはるみが説明するが、たどたどしくてますます久次を混乱させたらしい。

 橙子は苦笑しつつ補足した。


「はるみも、私の名前に入ってるダイダイも、柑橘類の品種でしょ。一緒だね。って言ったらなんか気に入っちゃってね。この子、名前を繰り返しで言うのが好きだから、結果的にだいだい姉が定着したってことなの」

「はるみとだいだいねえはおそろい!」


 にこにこ笑ったはるみはしかし不思議そうに久次を見上げた。


「せんせーはだいだいねえとおともだちなのに、なまえで呼ばないの?」

「え゛」


 久次がぎょっとした顔をする。橙子もまた、そこに気づいてしまったか、とやや困った気分で苦笑いになった。


「あのねーおともだちはねー。おなまえでよぶんだよ。せんせーはなかよしじゃないの?」

「ええとそれ、は、だな……年上の人をそう呼ぶのはマナーに反するというか深田さんは」

「だいだいねえはとーこだよ?」


 悪気のないはるみの無垢な主張に、久次が助けを求めるように橙子を見る。

 はるみという少女は人見知りで引っ込み思案の気があるが、親しい人が関わっていると知ると、とたん素直になる性質がある。今回は橙子が久次と親しいと知ったから、こうまで話しかけるのだろう。

 ただ、こうなったはるみは、ずっとどうしてどうしてと言い続けるため扱いに困るのだ。

 説明をしようにも彼女に分かる言葉でとなるとかなり難しい。

 だから、橙子はしどろもどろで途方に暮れる久次に対して言った。


「まあ、橙子で良いわよ」

「え゛」


 再び珍妙な声を出した久次に、橙子はそっと顔近づけささやいた。


「はるみちゃん、納得させるより素直に呼んでおいた方が話が早いわよ」

「うえ、あ、それなら……分かりました」


 なぜそこで敬語になるんだと、橙子は思ったが、若干顔を赤らめた久次がはるみに向けて言った。


「そうだよな、橙子さんだよな」

「うん、だいだい姉はとーこさん!」


 にこにこと笑うはるみの笑顔を、今日初めて見た気がして、橙子はなんだかほっとした。

 きらきらさん、などという得たいのしれない物に関わっているとはとうてい思えなかった。

 しかし、橙子にはあの不気味な絵が脳裏に残っている。

 あの絵の雰囲気を、橙子はどこかで見たことがある気がした。

 ぞ、と冷気を感じた。


「きらきらさんだ」


 その声に、ぐるん、とはるみが首を巡らせた。

 なんの予備動作もなく、まるでスイッチが切り替わったように。あどけなく笑っていたのが嘘のように無表情に変わっていた。

 目の前で見てても信じられず、橙子はぎょっと硬直したが、ほかの園児達も遊ぶ手を止めていた。

 園児の一人が指さす青空を見上げる。


「ほんとだ」

「きらきらさんだ」

「きらきらさんがみてる」

「だいじょうぶ」

「きらきらさんがいるなら」

「きらきらさんがみてるから」

「あともうすこし」

「きらきらさん」

「きらきらさん」


 さざ波のように、その単語が園児達に広がっていく。

 異様な空気が公園を満たした。

 橙子もはじかれるように空を見上げた。まっさらに晴れた青空には生き物はいない。

 少なくとも橙子には何も見えない。にもかかわらず、園児達は嬉しそうに、楽しげに手を振る園児までいた。

 その異様な光景に橙子はすくんでいたが、久次は険しい顔で見上げ叫んだ。


「静真!!!」


 その瞬間、待ち構えていたように、静真が何かを振り抜いた。

 空に向けて剛速球で飛び、虚空へ消えていく。

 橙子はその一瞬だけ、何かがきらめいたように見えた。

 しかし、こちら側にやってきた静真は若干不本意そうに言った。


「外した」

「くっそ。……というか何投げたんだお前」

「枝だ。子供に剣に使えと言われた。術者でもない子供には無理だろうといったのだが」

「お、おう。そうか」


 静真の回答に、久次と橙子は一気に弛緩するが、金切り声が響いた。


「もう一体何なのよ!」


 保育士の一人が、はじめに空を指さした園児の肩をつかんでゆさぶっていたのだ。

 少し年の行った女性で、確か開園直後から園に勤める古株だと言っていた気がする。


「何もないでしょう!? ねえ、今空には何もなかったわよね。なにもないんだから! そう言ってよ!」

「きらきらさんがいたんだよ」


 冷静さを欠いて取り乱してる女性とは対照的に、園児はたどたどしいながらも淡々と返して居るのが対照的だった。


「じゃあきらきらさんってなに!?」


 金切り声を上げる女性に対し、園児はごっそりと表情をなくす。

 そして、両手で自分の目をふさぐと、ひとこと。


「しらない」


 橙子はそこで、ほかの子供達もぴたりと目をふさいで居る事に気がついた。

 はるみもまた、小さな手で自分の両目を覆っている。

 ほかの保育士達は子供達の異様さに硬直していた。

 橙子もとっさに動けないでいたが、久次が顔色を変えた。


「やばい」


 だが、久次が駆け寄る前に、詰問していた女性が園児の手を無理矢理引きはがした。


「そんなものはいないでしょ! もう変な遊びはやめなさい!」


 ぷつん。緊張の糸が切れた音を橙子は聞いた気がした。


 幼子の小さな指が、まるで糸でつながっているように、しゃがみ込む保育士の目に吸い込まれようとする。

 そのあまりにためらいのない動作に、橙子は女性が戸惑う顔が恐怖にゆがむ課程を眺めることしかできなかった。

 しかし、保育士の目に小さな爪が突き込まれる寸前、子供を久次が羽交い締めにする。

 女性の目をえぐり損ねた小さな指は、しかし今度は小さな子供の目に向かう。


 しかし間一髪、間に合った久次が指を止める。

 久次がの腕には恐ろしく力が入っている事が感じられたが、それも瞬きの間に抜ける。

 園児の男の子はきょとんとした顔で久次を見返していた。


「大丈夫か、智紀ともき、俺が分かるか」

「……ひさつぐ」

「さんづけしろっていつも言ってんだろ」


 久次が優しくさとすと、園児の少年はぶるぶると震えだした。

 まるでようやく自分がしたことに思い至り、恐怖がこみ上げてきたような反応だ。じわりと目に涙をにじませている。

 理解が追いつかず立ち尽くしていた橙子だったが、そこでようやく周囲の子供達を見た。

 まるで初めて異様な空気に気づいたように戸惑い、怯え、少年につられて泣き出しそうになっていた。

 異様な気配は和らいでいたが、決壊寸前だ。集団でパニックになれば、収拾がつけられなくなる。

 保育士達はまだ頼りにならない。とっさに判断した橙子は、一縷の望みをかけて長髪の青年を振り返った。


「静真さん! なんかびっくりするようなことできませんか!」

「……は」


 まさか自分に振られるとは思っていなかったように静真は面食らった顔をしていたが、かまわず橙子は詰め寄る。


「ほら、さっき木の棒を剛速球で投げたみたいに! なんか天狗パワーとかありません!?」

「何を言っているんだお前は。意図が分からん」

「子供を泣かせないために、気をそらしたいんです!」


 静真が引くのが分かったが必死な橙子が詰め寄りながら訴える。

 と、静真の姿が消えた。

 面食らって周囲を見渡すと、うんていの上に長い髪をなびかせる静真の姿がある。

 驚くべき身体能力だったが、あいにくと橙子は逃げられた事にしか目が向かなかった。


「ちょっと、降りてきてください! 一大事なんですから!」

「俺に何かを処分する以外の事を求めるな」

「そこをなんとか! ちょっとだけ!」


 橙子が下から追いかけるたびに、静真は鉄パイプを足場に逃げていく。

 うんていの端にまで追い詰めたと思ったら、10メートルは離れたジャングルジムへと飛び移ったのだ。

 予想外のことに橙子がぽかんとしていると、歓声が上がった。


「静真せんせいすげー!」


 男の子達が目を輝かせて、ばたばたとジャングルジムに駆け寄る。

 地上とジャングルジムの頂上という距離はあるものの、少年達の熱いまなざしに静真がとまどうのが手に取るようにわかった。


「なんでできるの!?」

「にんじゃみたい!」

「忍者ではない。天狗だ」

「てんぐ!」

「てんぐ!!」


 ますますはしゃぐ子供達に、うろたえる静真へ久次が楽しげに話しかけた。


「静真、この間姉貴が驚いてたやつ見せてやれよ」

「む、なぜあれを。ただの鍛錬だぞ」

「いいから!」


 久次に促された静真は、ジャングルジムの上で無造作に宙返りをすると、片手で逆立ちしてみせたのだ。細い鉄パイプの上で、全体重を片手だけで支えているにも関わらず、涼しい顔で維持する静真の曲芸じみた技に子供達から歓声が巻き起こる。


「すげー!」

「てんぐすごい!」


 はじめ興味がなかった園児達もきょとんとした顔をしていた。

 すでに園児達には泣き出しそうな気配はなく、橙子は結果的とはいえうまくいってほっとする。

 が、しかし、あの異様な光景は、橙子の脳裏に焼き付いていたのだった。

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