見えない友達の話
はじまり
みちゃだめ、きいちゃだめ、いっちゃだめ。
わんわん響く声もきのせい、楽しそうにわらうこえもきのせい。
ぼくが感じる気持ちも気のせい。
だってこれは必要なことなんだから。
だってわるいのはぼく。みーんなみーんなぼくたち。
けれど、くるしくて、いたくて、つらくて、たすけてほしい。
でも、ぼくたちが悪いのに、誰が助けてくれるの?
悪い子だからこうなっているのに。
おかーさん。いきたくない。いきたいけど、いきたくない。
おともだちにも会えないんだ。
でもいやってたくさん言うのも悪い子だ。
いかなきゃ、いかなきゃ……
あ、
「きらきらさん」
*
朝8時、約束通り
「自分でお願いしといてなんだけど、朝早くからごめんね」
「大丈夫、始発電車での出勤なんかよりぜんっぜん楽だから」
「ほんと会社やめてくれてよかったわ……」
橙子が朗らかに笑うと、姉の祐子は疲れたように肩を落とした。
彼女は橙子に会社を辞めるように何度も進言してきた一人だ。少し年が離れていたせいか、小さい頃から何かと気にかけてくれたひとである。
祐子が結婚し、橙子が就職してからは少々疎遠になっていたものの、盆と正月以外にも頻繁に連絡を取り合い、橙子が仕事でつぶれかけていたときも、励ましてくれた人だった。
とはいえ、なぜ橙子が朝早くそれなりに距離のある祐子の自宅を訪ねたかといえば、頼み事をされたからだ。
出勤用のオフィスカジュアルに身を包んだ彼女の背後からひょこり、と柔らかい髪を揺らしながら、幼い少女が顔を出した。
柔らかな髪を二つに結び、気弱げで不安げな表情でこちらを見ていたが、橙子は膝を折って呼びかける。
「おはよう、はるみちゃん」
「だいだい姉……!」
嬉しそうにはにかんで、飛びついてくる少女はるみを、橙子は慣れた仕草で抱きしめた。
「ほんと、はるみは橙子が好きねえ」
「私もよくわかんない」
橙子の軽口に、ほんの少しだけ呆れをにじませつつもどこかほっとした祐子は、はるみに言った。
「今日から帰りはしばらくだいだい姉に来てもらうから、保育園いこ?」
母親の柔らかい声音に、だがしかしはにかんでいたはるみは、表情を落として目をそらす。
すがるように橙子を見上げた。
「ほんと?」
「うん、ほんとだよ」
「……わかった」
橙子がしっかりとうなずくと、ようやくはるみはしぶしぶといった雰囲気でうなずいた。
これは相当根が深い。
そう察した橙子は、橙子と祐子は顔を見合わせて困惑を共有した。
橙子がはるみのお迎えを引き受けた経緯は、数日前、会社を辞めた直後までさかのぼる。
もう仕事に行かなくてよくとも、働いていないという罪悪感が襲ってくるのだ、と橙子は思い知った。つとめていた会社を辞めて3日目である。
勤め先のビルでは多くの謎の遺体が出たことで、連日大騒ぎである。前代未聞の猟奇殺人事件として報道されたが、犯人は未だに捕まっていない。
その処理の上、社員の4割が参加した労働基準法違反の告発で盛大にパンクした我が社は破産手続きをしている、らしい。
というのも、橙子はきっちり辞表を提出し、有給消化の上で退職金もしっかりもらって退職し、もう他人事だからである。
後日、サービス残業分と慰謝料も送金されてくる予定だ。
あの混乱のなかよく正常に受理されたなと思ったが、今吹き荒れている嵐を眺めている身とすると心底よかったと感じた。
が、それとこれとは別である。
平日に仕事もせずに出歩くことへの罪悪感や、何もすることがないという不安感が橙子を襲った。ぶっちゃけ部屋には全く娯楽らしい娯楽がない。もう何年も部屋は倒れ込むだけの場所だった。
自分で思っている以上に社畜根性が染みついていたのだなあと、橙子がうつろな面持ちで部屋に転がってきたときに、スマホに連絡が入ったのが昨日のこと。
会社をやめたことを祝福してくれた、橙子の姉からの相談事だった。
祐子の娘である5歳のはるみが、最近保育園をいやがるようになったために、一週間ほど夕方の迎えをしてくれないか。というものだ。
引っ込み思案で人見知りの気がありおっとりとした子供であるはるみは、橙子にことさらなついており、ちょうど橙子が会社を辞めたことを思い出した彼女が願ってきたのだ。
転職活動はあるものの、橙子はできることが見つからず焦躁を感じている自分の性格を察した祐子が、気を遣ってくれたことを察している。だから快諾した橙子はこうしてアルバイト初日を迎えたのだ。
「園内に乱暴な友達がいるみたいでね。ちょっとつねられたりしてるみたいなの」
橙子は知らない町並みをはるみと手をつないで歩きながら、祐子から文字では詳しく聞けなかった事情を聞いていた。
「本当は、保育園を変えられたらいいんだけど、どこもいっぱいでね。私も今の期間はどうしても仕事休めないし……。特に夜の保育時間をいやがるから、せめてその時間だけでも減らしてあげられないかなあって。橙子ならはるみもいやがらないし」
「私は夕方にはるみちゃんを迎えに行ったあと、姉さんが帰って来るまで一緒にいたらいいんでしょ」
「ついでに夕飯作ってくれるとうれしいんだけど?」
「私に料理の腕を求めないでよ……」
「あんたもちょっとは料理できるようになっときなさいよ」
祐子に流し見られた橙子は顔を引きつらせる。自分ができるのはせいぜい白米を炊く程度である。それに味噌汁さえつけられれば、なんとなくご飯が食べられると知ったので。
橙子がかわそうとすれば、くん、とつないでいた手が引かれた。
「だいだい姉もごはんたべてかえる?」
ほのかに期待に満ちたはるみのまなざしに、ぐっと橙子は息を詰めた。
「そうよーだいだい姉も食べてかえるわ」
「え、いいの?」
「それもお礼の一つよ。どうせ白米と味噌汁だけでご飯を済ませてるんでしょ。今のうちに体の健康取り戻しときなさい」
「……わかったよ、下ごしらえだけはしとく」
「さすが我が妹、頼りになるわあ」
にんまりと笑う祐子にはかなわないな、と橙子は息をついた。
「今日は、保育園の先生たちの顔合わせのためについて行くけど今日の帰りからは一人でお願い。合い鍵はさっき渡したやつ。旦那はいつものごとく遅いから鉢合わせることはないわ。今携わってる仕事が一段落したら、またお迎えできるから」
「大丈夫、バイト代ももらえるし」
橙子が茶化して言えば、祐子はわずかにほっとした色をのぞかせる。
普段楽天的ともいえる祐子のだいぶまいっている様子に、橙子は相談を聞いた頃から思っていた事を口にした。
「……というかいいの? 私家ではるみちゃんと一緒でもかまわないよ」
「それが」
「きらきらさんがいるから、いく」
小さく声を上げたのは、当のはるみだった。表情は硬いものの、意思は変わらないといわんばかりに強固である。橙子はきゅ、とはるみの小さな手に力が入るのを感じた。
予想していたのだろう、それっきり黙り込んでしまったはるみに、祐子は息をつくと言った。
「こんな感じで、仲がいい子がいるみたいだから、行くって言いはするの。あなたも転職活動があるだろうから、打ち合わせ通りお迎えだけでいいわ」
「了解」
身内とはいえ、今回の上司である。素直に返事をした橙子だったが、祐子は憂い顔でためいきを吐いた。
「ただねえ、どの子に聞いてもきらきらさんがわからないし、あの保育園、いま妙なことが起きているのよ」
「妙なことって」
「頻繁に物が壊されたり、ゴミが荒らされたりしてるみたいなの。この間なんて、誰も入り込んだ形跡がないらしいのに、園内で飼っていたインコが外で頭をその……こうなって見つかって」
はるみにはばかったのか言葉にはせず、ぐっと、握った仕草をした祐子に橙子は眉をひそめた。幼い子供がたくさんいるなかでそのような猟奇的なことが起きていれば、心配にもなるだろう。と、言うより、はるみの気が進まないのは、そのせいではないか。
だがはるみがいやがっているのは、夜間保育だけか。と橙子が考えていると、祐子はやんわりとした苦笑いに変わった。
「まあ橙子なら大丈夫よね。いつも全然動じないし」
「うーん、聞いてる限りじゃ嫌がらせっぽいけど、警察に相談しないの」
「警察に相談しても巡回を強化してもらったみたいだけど、犯人が捕まるどころかひどくなる一方だし。保護者の中には、霊障じゃないのとか言う人もいてね」
原因は何だろう、と考えていた橙子は、ぴしりと固まった。
まさかそちらの方向につながるとは思わなかった。
橙子の異変に気づかず、祐子は頬に手を当てて続ける。
「そのせいか保育園でもそういう関係の場所に相談したみたいで、今霊能者?が保育手伝いで入ってるのよ。その二人も胡散臭い上になんか柄の悪そうでねぇ。それでも若いから、子供相手には負けないし、顔はいいから片方のほうはママには人気っぽいわ」
ため息をつく祐子の話した人物像に橙子はものすごく既視感を覚えた。
まさか、そんなことはあるまい。いくら霊能者というのが胡散臭く思えても数はいるだろう。
「どうかした。ちょっと顔色悪い?」
「ううん何でもないよ」
「そう? ――あ、ついたわここよ。このはな幼稚園」
たどり着いたのは真新しい平屋建ての建物だった。新築されたと言っていたため、壁もほとんど汚れておらず、周囲から浮き上がっているような気配すらする。
玄関口には登園してきた園児たちと付き添いの保護者たちが多くたむろっている。
保育園に通っていたのは当の昔だが、それでも典型的な登園風景だと感じた。しかし、少し違和を覚える。
「やっぱり、静かねえ」
祐子のつぶやきで、橙子はなるほどと気づいた。
子供は元気でうるさいものと相場が決まっているが、子供達の声があまり聞こえてこなかった。
園庭では子供達が遊んでいるが、どことなくおとなしいような気がする。
「この保育園、行儀作法をきちんとしつけるからかおとなしい子が多いのよ」
祐子の言葉に、橙子は勝手にこわばりかけた体から力を抜いた。
そうだ、そうそう出会うことはないはずである。それに自分はお迎えすることに集中しよう。橙子は思いながらも、祐子に連れられて建物の玄関へ向かう。
玄関で靴を脱いでいた園児達が、奥を見てぱっと表情を輝かせる。
廊下の奥から、ドタバタと園児にまとわりつかれた青年が足音も荒く現れた。
「だー! ガキども! 何でもかんでも突っ込んでくるな!」
「わーひさつぐー! あそぼうー」
「あそぼー」
「久次お兄さんだって言ってんだろうが!」
短く髪を切り、少し目つきの鋭い彼はラフなシャツにジーンズの上から、パステルカラーにリスのアップリケのついたエプロンを掛けている。
園児達は彼の鋭い目つきにもひるまず、エプロンを引っ張って気を引こうとしていた。
一人は腕に捕まっている。
口悪く文句は言うものの、乱暴に腕を振ってふりほどこうとしないのが、彼の気質を表しているようだ。
そうなのだ、橙子は彼をよく知っている。
橙子が拾い上げかけていた己の靴を取り落とすと、その音が思ったよりも大きく響き、久次がこちらを向いた。
「え、深田さん!?」
「うっそでしょ」
まさかの事態に橙子は言葉を失ったのだった。
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