かいけつ

 橙子は結局、屋上へのルートをエレベーターは全力で避けた。

 なぜならば全く逃げ場のない場所で、おばけと対峙する可能性があると気がついたからだ。

 あのぶよぶよとした見知らぬ同僚は執拗に追いかけてくる。

 かくれんぼと言うよりは鬼ごっこになっていたが、「刃物を刺す」という行為が成り立っていないため、続いているのだと久次に説明された。

 道中、見知らぬ同僚を静真と久次が何度もけん制したが、腕を切ろうとまた凶器を持った腕があらわれるだけで何ら痛痒を覚えていない。

 足は遅く、目も耳をあまり利かない様子なのが幸いしたが、いかんせん執拗だった。


「っち、埒があかん。こちらに引きつけておく。先に行け」

「ぜってー来いよ!」 


 しびれを切らせた静真が残り見知らぬ同僚を足止めをしている間に、橙子は久次に手を取られて駆け出した。

 ようやくたどり着いた屋上へ続く階段をなるべく急いで上っていく。しかし橙子は一段上がる度に、握られた手が冷たくなっているのに気づいて本当に高いところが苦手なのだと察した。

 大丈夫か、と聞きかけたが、大丈夫じゃないのは明白だ。だから橙子は別のことを口にした。

 

「久次くん、さっき声を荒げたのって、私のことを心配してくれたからでしょ」


 ぎょっとしてこちらを振り向く久次に、橙子はちょっとだけ笑って見せた。

 久次は少々うろたえように視線をさまよわせていたが、恨めしそうに睨んでくる。


「話せるなんて、ずいぶん余裕だな」

「怖いのを紛らわせてる」

「なるほど」

「ありがとね」

「っ」


息を呑んだ久次は、年相応に幼く見えて、橙子は少し和んだ。やはり、口に似合わず優しい子なのだなあと少し心の余裕が出来たところで、ようやく階段の終着点が見えた。


「あとはあの扉のむこうなんだ、けど!」


 若干息を切らしながらも、安堵した橙子は鉄扉のノブに飛びついて開く。




 ごう、と風が吹きすさんだ。




 思わず顔をかばった橙子は、傍らに久次がいないことに気がついた。

 背中に気配を感じていたし、手を離したのは扉を開ける一瞬だけだ。

 周囲を見回しても、あの気の強そうな青年の姿はない。

 閉めた覚えもないのに振りかえった先にある扉はしまっている。

 橙子はごくり、と喉をならした。

 ここに来て一人になってしまったことに泣きそうになりながらも、周囲を見回した。


 屋上自体は、いつもと変わりがなかった。

 時刻が深夜であるにもかかわらず、ベンチが置かれているのが見えることと、恐ろしく静かなこと以外は、殺風景な広場である。

 しかし、橙子は屋上の縁近くに、ぽつりと、突っかけサンダルがそろえておいてあるのが見えた。

 そしてその靴が置いてある先、縁にぼんやりと立ち尽くす人影がある。

 着ているスーツが風にゆらりゆらりと揺れている。髪がなぶられようとも、首をがくりとうつむかせたまま、虚空を……遙か眼下にある地面を眺めていた。


 橙子は、大きく深呼吸をして、ゆっくりと近づいていった。

 内心では泣きそうだ。というか帰りたい。ものすごく一目散に屋上の扉にすがりついてがちゃがちゃやりたい。

 それでも、あのよれたスーツに、そしてそろえられたサンダルに気づいて、橙子はここに呼ばれた理由が分かってしまったのだ。


「人が少ない時くらい、革靴なんて脱いじゃってもいい、って。話しましたね」


 言葉が通じるか分からなかったが、橙子は話しかけた。

 数ヶ月前、息抜きに屋上へ来た時に居合わせた社員にぎょっとされたのだ。橙子が履いていたのが履き心地を重視したつっかけサンダルだったから。

 勤務中は事務方の人間でも上から下まできちんとした服装を義務づける規則だったが、パンプスはひどく足が疲れてむくむ。だから見えない場所、特に上司の目がない残業中はこっそり履き替えていた。それをその社員に驚かれたときに、決まり悪さを隠すためにそんなことを言った覚えがある。

 橙子にとっては些細な記憶だ。けれど。その人は気の抜けた顔で「やってみます」と言っていた。そして、やっていたのだ。

 ようやく、あの電話の声が、何を言ったか理解した。


「電話で『たすけて』って言ったの、あなたですよね。――――仲本さん」


 縁に立つ人物の首が、ほんの少しだけ上がった気がした。

 ああ、やはりそうなのか。出会った時は名前を知らなかった。だから資料を集めているときは気づかなかった。文字だけではわからなかった。

 橙子はこみ上げてくる熱を無理矢理抑えて告げた。


「みつけました」


 ゆっくりと、顔を上げて振りかえったその人は、ほっとした表情を浮かべていて。

 橙子の視界がふさがれた。


「見なくて良い。これはもう、終わったことだ」


 一瞬硬直した橙子だったが、久次の声が響いて体の力が抜けた。

 すぐに手は離されて振りかえると、案じるように眉尻を下げる久次がいた。


「すまねえ、分断された」

「一人にしないでよ私一般人なんだから」

「悪かった、あんただけ呼ばれちまったんだ。――よく見送ってくれた」


 不器用ながら、久次のいたわる言葉に、橙子は涙ぐみかける。

 ただ一度、言葉を交わしただけの橙子に助けを求めるしかなかったほど、だれもいなかったのだ。仲本には。

 もっと早く気づけていれば、死なずにすんだのだろうか。数ヶ月も死んでいることに気づかれないこともなかったのではと後悔するばかりだ。


「生きて、いるうちに、気づけていれば変わったかな」

「これはどうしようもなかったことなんだよ。深田さんは良くやった」


 久次の声音は、その場を濁すためのものではなく、深いいたわりに満ちたものだった。

 申し訳なさと、だが安堵に満ちた久次の顔を見上げた橙子だったが。


 背後でドゴン!!!とすさまじい音が響き、鉄扉が吹っ飛んできた。

 振りかえると静真が軽い足取りで屋上広場に躍り出てくる。

 その背後には、白いぶよぶよとした体を無理矢理ねじ込むように見知らぬ同僚が現れようとしていた。まるで芋虫のような様相に、橙子は生理的嫌悪で一気に鳥肌がたつ。

 だが、そのおぞましい姿にも眉をひそめるだけの静真は、久次の傍らに降り立った。


「終わったか」

「一人目は成仏したぜ」


 短く応じた久次は、その複数の札を取り出した。

 ちきり、と静真も刀を構える。


「つまり、アレはもう切り飛ばせるな?」

「ああその通りだよ!」


 そのおぞましい巨体をさらす怪異に怪異にに怯むことなく、青年二人は飛び出していった。

 静真が一気に肉薄し、そのぶよぶよとした手を複数、まとめた刈り取る。

 虚空に溶け消えた手は、先ほどとは違いもとには戻らない。

 いやがるように身をよじった見知らぬ同僚は、ビル内に戻ろうとするそぶりを見せたが、見えない壁に弾かれたように足を止める。


 静真が気を引いている間に、怪異を取り囲むように札を配置していた久次が、にやりと笑った。


「逃がさねえぞ?」


 逃げ場のなくなった見知らぬ同僚を、静真はその刃で容赦なく削っていき出した。

 まるで水を得た魚のように見事な連携で圧倒していく二人を、橙子は疲れを覚えながらも感嘆の面持ちで眺めた。

 静真が強いとはなんとなく知っていた。だが、久次もまた、こういった怪異に対しては熟練者なのは危なげない立ち回りで理解する。とはいえ、これで一安心だろう。

 そう、思った橙子が、座り込もうとして。


 ひた、と足首を握られた。


 冷水につっこんだような冷たい感触に、はっと下を見る。

 生白い手が橙子の足首を握り、握った人物がいる。

  仲本ではない。もっと別の誰か……否、なにかがぐるり、と首をねじってこちらを見た。

 振り仰いだのなら分かる。だが、背後を振り向くように回された顔は、完全に背後を向いていて、首の骨が折れてないと出来ない芸当だ。

 向いた顔は、血走った目をほそめて。


 にい、と笑った。


 とたん、橙子はものすごい勢いで床に引き倒されて引きずられる。


「あっぁ……っ!?」


 悲鳴を上げようとした橙子だったが、うまく声が出なかった。

 何かに捕まろうとしたが、地面をひっかくだけだ。

 引きずられる先は屋上の縁であることに気づき、ぞっとする。

 道連れにしようとしているのだ。

 あるはずのフェンスすらなく、もう縁は間近である。

 あの高さから落ちれば絶対に助からない。


「い、やぁあああああ!!!」


 ようやく声が出た。しかし、だめだ、むりだ。助からない。

 何で足首ばかり取られるのだ。

 なんてことを考えしまうのは走馬燈のようなものだろう。


「橙子さんっ!」


 死にたくない。

 橙子の手が屋上の縁から離れたとたん、足首から重みがなくなるのと、抱えられるのが同時だった。しかし空中にいる不安定な浮遊感はやまない。


「出来れば、暴れないで、くれよ……」

「久次くん……?」


 苦しげな声音にはっと顔をあげれば、片腕で橙子を支え、さらに片腕で屋上の縁に手をかけている久次がいた。

 その目はきっちり閉じられていた。


「俺に、捕まってくれ。あんま余裕ねえから」


 その言葉に橙子は即座に久次の首に腕を回した。細身だと思っていた久次だったが、しがみついた体は存外に筋肉質だった。

 しかしそれでもこのままではじり貧だろう。


「まに、あってよかったぜ」

「ひさ、つぐくん」


 高所が苦手ではない橙子だったが、それでも命綱なしで放り出されていれば肝が冷えるし、何よりこのままでは久次も道連れである。

 もしかしたら、橙子がここで落ちれば久次だけなら助かるかもしれない。

 体の芯からわき起こる恐怖を覚えながらも、橙子がつかまった指先を緩めようとして。


「深田さん、大丈夫だ」


 橙子の考えを読んだかのように、目を閉じた久次が橙子のほうを向く。


「俺の相棒は態度悪くても、最強の天狗だからな」


 その視線は絶対に合わないが、苦しげながらも全く憂いを感じさせない表情をしていた。

 突風が吹きすさぶ。

 久次と橙子の体が揺れて、橙子は久次にしがみついた。ぐ、と彼が息を詰めるのが分かる。

 羽音が響いて。

 ふ、と体が虚空に浮いた。


「アレは完全に滅したぞ」


 羽ばたく音と共にぐんぐんと体が上がっていくなかで、静真の声が響いた。

 橙子は自分たちを抱える静真の片翼が広がるのを見る。

 その表情は見慣れた淡々としたものでは合ったが、橙子にはわずかに安堵が見えるような気がした。

 が、目をつぶっている久次は気づかない。


「遅えよ! ……だがまあご苦労さん。助かった」

「ああ」


 命を救い、救われた者同士の会話は思えない軽さだ。

 しかし、彼らの間ではそれで良いのかもしれないなあと橙子は思った。


「じゃあ、あと片付けをして……って滞空時間長くねえか」

「このまま帰る」

「「は?」」


 橙子と久次の言葉が重なった。

 すぐに我に返った久次がかみつくように言った。


「待てよ吹っ飛ばした扉とか、荒らしたもんの片付けや調査もあるんだぞ!」

「陽毬から朝ご飯は豪華にすると連絡があった。そろそろ電車が動く時刻だ。このまま行った方が早い」

「マジかよ!? ってまてあんた携帯使えるじゃねえか! 俺の連絡無視すんじゃねえというかおろせえええええ!!!」


 一瞬喜んだ久次だったすぐさま勢いよく抗議の声に変わる。

 それも声だけで、一切暴れないのだから徹底していた。

 隣で叫ばれて耳が痛かった橙子だったが、自分が下ろされないということは、自分も行くことになるのだろうか。

 途方に暮れつつもふ、と下を見ると、くらくらするほど高く、足下に自社ビルがある。

 それが、妙に小さく見えたのだった。






 結局、久次と橙子二人がかりの交渉の結果、早急に片付けたあと、朝食を食べに帰る。と言うことになった。

 しかもなぜか橙子まで、久次と静真の家を訪ねて朝ご飯をごちそうになる。

 ずっと気になっていた久次の姉である「陽毬ひまり」は、ほわほわとした陽だまりの中にいるような温かそうな女性だった。

 橙子という予想外の来客にもかかわらず、歓迎してくれた上で、朝ご飯を振る舞われた。

 白米はぴかぴかのつやつやで、味噌汁からはかぐわしい出汁の香りが立ち上る。黄色い卵焼きに、焼き鮭やひじきの煮物がならんだそれはどれも絶品で、コンビニ飯が続いていた橙子の腹に染みたものだ。

 聞いてみれば年下だったにもかかわらず、橙子はお母さんと呼びたくなった。

 さらに、いつも高飛車な静真の態度が若干和らぎ、何より彼女を見る目が驚くほど柔らかかったために、橙子は二度見三度見してしまったものだ。

 完全に徹夜だったため、橙子は帰って寝たい気分である。しかし死体まであるのだ。

 さすがに顔を出して説明しなければいけないと、橙子は久次と共に会社に戻った。

 静真はそもそも会社に紹介すらしていないため、必要なかったのだ。


「というかこれ、どうやって報告したら良いのよ……」

「こういうもんはだいたいつじつまが合うもんだ。滞っていたもんが昨日で取り除かれた。正しい方向に流れて行くさ」


 憂鬱な橙子だったが、久次はまったく気にした様子はない。

 なぜそんなに脳天気なのだろうと思ったが、そう考えていられたのも、社屋入り口に多くの警察車両が止まっているのを見るまでだった。

 黄色いテープが張られて出入りが規制されている。

 もしや大量の破壊活動が問題になったかと橙子が青ざめていると、入社出来ないでいる社員達がしきりに口にしている言葉が耳にはいった。


「……なんか、失踪と思われていた人の遺体が見つかったらしいよ」

「飛び降り自殺だったみたいなのに、どう見ても死んでから何ヶ月も経ってるみたいで」

「しかもビル内に今事件性がないか調べてるみたいだけど、行方不明になっているひとたちの血もあるかもとか言ってた。どう考えても生きてる量じゃないらしい」

「上は必死になってブラックの証拠隠そうするだろうなあ」

「……実は証拠、色々取っといてあるんだけど」

「今かけこめばいけるか?」

「いけるかもな」


 ざわざわと、それは波紋のように広がっていく。

 不満を抱えている社員は多くいたのだ、これを皮切りに多くの社員が訴えに走るかもしれない。この会社のよどみが一掃される可能性は示された。


「さすがに早いな。安東さんに今度エナドリ差し入れねえと」

「久次くん、もしかして警察に連絡してた……?」

「こういう仕事してるとそういう案件も多くてな。話のわかる人にこうちょちょいと。だから、橙子さんが疑われることはねえよ」


 久次がしてやったりと言わんばかりの顔で言うのに、橙子は脱力した。色々心配していた気持ちを返して欲しい。


「あとは俺のほうで調査報告書を提出しとくだけか」

「久次くんのほうは調査料とりはぐれない?」


 久次が大した感慨もなしに言うのに、橙子は少し心配になったが、彼は笑った。


「大丈夫だ、こういう結末が予想できる奴は前金取ってるし、未払いにはぜってえしないように優秀な取り立て班がいる」


 取り立ての方法は分からないが、久次の乾いた笑顔に橙子は少々顔を引きつらせる。

 だがしかし、きちんと労働の対価がもらえるようで安心した。

 とはいえ問題は橙子自身の身の振りなのだが。


「例の見知らぬ同僚を呼び出す手順については追加で調べなきゃなんねえだろうけど、これで一件落着だ。深田さん、どうする?」


 まるで考えを読んだかのように、久次に聞かれた橙子は、ビルを見上げて昨夜のことを思い返す。


「……あそこにいたおばけはぜんぶいなくなったの、かしら」

「おば……ああ。これからもう一度確認するけど、静真があらかた片づけたと思うぜ」

「……とりあえずこの会社やめるわ。ただでさえ過酷なのに。給湯室見るたびに水の音にびくつくだろうしトイレで何かが揺れてたら白目剥くし居ないって言われてもあのフロアで仕事が出来る気がしない」

「お、おう。それが良いと思うぜ」


 同情を浮かべる久次に、はあと息をついた橙子は、力はないだろうが笑って見せた。


「まあ、君が無事仕事の契約を完遂するのをみとどけてから、だけど」

「それはほんっと助かります。あーあ、深田さんみたいな人が仕事仲間になってくれた良いのになあ」

「能力を買ってくれるのは嬉しいけど、おばけまみれは遠慮したいわ」

「残念、振られた。だけど、困ったらなんかあったら言ってくれよ。力になるからさ」


 軽口を叩いた橙子は、にっかり笑う久次の真摯なまなざしに少し驚く。


「ありがと」


 若干、火照る気がする顔を背けつつ、橙子は、ふ、と黄色いテープで遮られた向こうを見た。

 ようやくあの人はようやく見つけてもらえたんだな。とほっとした。

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