じっし
「深田さん、顔色悪いけど大丈夫か」
「だいじょばないけど、だいじょうぶ。君たちのそばのほうが何倍も安心だから」
勢いでついてきてしまった橙子は、もう一度舞い戻ったフロアの嫌な肌寒さに早くも後悔していたが、それも向こうの会議室に帰る気にはなれなかった。
すると、久次はほっとした顔をする。
「あの松村ってやつは、朝になれば自分の体に帰れるから大丈夫。あの部屋に悪霊は入ってこられないようにしているしな」
「え゛」
橙子が固まると、前を歩いていた静真が振りかえった。
「気づいていなかったのか。アレは生き霊だぞ。魂だけこの場に縛り付けられていた」
「まってうそでしょあんなに分からないの!?」
自分の感覚すら信じられないという事態に橙子は呆然とする。しまったという顔をした久次が慌てて言いつのった。
「ただの生き霊だし、あっちも気づいてなかったから、そのままスルーしたほうが良いと思ったんだすまん」
「もうやだおうち帰りたい」
「ふ、深田さん!?」
常識人だと思っていた久次すら感覚がずれていたことが衝撃で、橙子はしゃがみ込んでうなだれる。頭の上で久次がうろたえている気配がしたが、もはや気力が尽きかけていた。
「だが、この場を収めねば帰れんぞ。俺も早く帰りたい」
静真の淡々とした言葉を聞いた橙子は、はっとした。そうだ、帰るためにはこの場を切り抜けなければならない。
「おい静真! 追い打ちかけてどうする……ってうおあっ」
ひとつ、ふたつ深呼吸した橙子は、勢いよく立ち上がる。
驚いた顔をする久次の後ろでそれで良いとばかりにうなずく静真に行った。
「そうね、そうよね。静真さんありがとう。気合い入ったわ」
「なら良い」
「で、久次くん。私を連れて外に出たからには、打開策が何かあるんでしょう?」
橙子が訊ねると、若干顔を引きつらせていた久次は、なんとかまじめな表情に戻った。
だが、少し表情は優れない。
「それなんだがな、一人目は鬼に見つからない場所で死んでいるのは確実だ。そしてその死がくさびになってこの場が固定化されてしまってるんだと思う。だから俺たちがするべきは、一人目がどこで隠れて死んだかを突き止めて、そいつを成仏させる。そのあと、弱体化するはずの鬼を仕留めるってところだ」
まるでゲームの攻略手順のようだな、と橙子は一瞬思ったが、そこで言葉を切った久次は気まずい顔で続けた。
「だが、肝心の一人目がどこに行ったか全く見当がつかねえ。このビル内だったら自由に歩き回れる鬼に見つからずに死んだはずなんだが」
「俺に聞くな。一通り建物内は回ったが、それらしい霊はいなかったぞ」
「だよなあ……ここが震源だから、絶対建物内にいるはずなんだが」
「追い詰められた人間だったのだろう」
頭を抱えて悩み込む久次と、立ち尽くす静真に、橙子はおそるおそる手を上げた。
「私、わかるかも」
二人に注目された橙子は少し怯んだが、それでも言った。
自分でも想像が出来てしまうことに少し嫌な気分になりつつ、橙子は告げる。
「屋上よ」
橙子は仕事に埋もれて追い詰められたことは、何度もある。妙なテンションで唄を歌ったり、何度も打ち間違いをして物に当たり散らしたくなったり。そうやって息が詰まりそうになったとき、外の空気を吸いたくなる。
とにかくここ以外の何かを見たくなったら、そこに行くのだ。
「うちのビル窓はだいたい開けられないから外の空気を吸いたいときは、屋上に行くのよ。すこし息を抜いて戻る……まあ、時々フェンスの前でぼうっとしている人がいるからあんまり気が休まらないんだけど」
「さらっと、闇深いな……」
「死ねる高さをのぞくと、ほっとするのよ。ここから飛び降りれば終われるってね」
何とも言いがたい顔で感想を漏らした久次が、橙子の言葉にぎょっとする。
橙子は久次の顔色が悪いのが心配になったが、この暗さできちんと顔色まで見て取れる異常に気づいて精神が削れた。
そこはかとなく黄昏れていると、またぐっと、冷気が忍び寄ってくる。もう嫌というほど感じている、良くないものが現れる前兆だ。
久次がいち早く懐から札を取り出して、むかえうつ構えを取る。
「よし、わかった。とりあえず俺はここで他の霊を食い止めるから静真と深田さんは屋上に行ってくれ。まだ力業しかつかってこれねえ奴らだからなんとかしてみせる」
自信に満ちた声音で言い放つ久次に、橙子は少し感動したのだが。
「久次。高い場所に出るのが嫌なだけだろう。とっとと行くぞ」
静真が淡々と指摘した。橙子が真顔で見ると、久次は焦ったように視線をさまよわせた。
「ええーっとそのだな」
「……ここも結構高い位置にあるんだけど。平気そうよね」
「外が見えなければセーフ! 屋上はアウト! 嫌だぞここで鬼の相手をしてた方が何倍もマシだ!」
「みんなで行こう! だって結局屋上で待ってるのだっておばけでしょ!? いやよ私が怖い!」
謎の理論を繰り広げる久次に、橙子は頼れると思った自分をかなぐり捨てた。
しかし久次も負けじと必死に言いつのる。その姿は命の危機があるはずの怨霊と対峙した時よりも切実なものだった。
「静真がいるから大丈夫だってほら、一番やべえ怨霊は俺が食い止めるし!」
「静真くんはすごく強いだろうけど、たぶん私の存在を忘れて行っちゃうわ。身の安全面ではたよりにならない!」
「た、確かに」
「でしょ!?」
「俺はけなされてるのか」
久次が真顔で同意するのに、静真が不機嫌そうに眉を寄せるが、淡々と聞いた。
「俺はお前が来なくてもかまわないが、俺だけが行った場合、斬って終わらせるぞ。かまわないか」
「よ、良くねえよ! 成仏できないだろうが」
「じゃあ久次くんも一緒に行く! 良いわねっ。というか私が必要な理由聞いてないわ」
怯んだ久次に橙子がたたみかけるように聞けば、彼ははっとした顔をした。すぐに真剣に表情が引き締められる。
「深田さんは、見知らぬ同僚からの電話を取って、ひとりかくれんぼの人形を真っ先にみつけた。ここにいる……たぶんかくれんぼを始めた社員と感応してる。だから一番呼ばれているのはあんただ」
「聞かなきゃ良かった」
が、そうなのだろう。橙子にはうっすらと自覚があった。昼間のあの電話。
聞こえてきた声を見知らぬ同僚からのものだと思っていた橙子だが、実際に対峙して違うと感じていた。
「もちろん、あんたが危ない目に合わないように、全力で守るつもりだ。それでももし何かあったときは、あんたが言葉をかけてやって欲しい」
「言葉って」
幽霊に対して何を言えば良いのか。久次に告げられた橙子が困惑を口にしかける。
廊下の向こうから、ずぞぞ……と這いずる音が響いた。
きぃー……。かしゃん。ぎぎぎぎ……
やがて現れたのは、見知らぬ同僚だった。しかし先ほどまでかろうじて保っていた体は既に人の形をなしておらず、廊下いっぱい埋め尽くすようなぶよぶよとした白い体に、面のような顔だけが虚ろな黒い目から血を流している。
耳障りな音の正体は、生白く細い無数の手に持った、様々な文房具が廊下をひっかくものだ。
はさみ、ホチキス、ボールペン、カッター、ペーパーナイフ、どれにもぬらぬらと照る赤い液体がこびりついている。
ただのオフィスにここまで凶器となるものがあったのか、と驚くことが現実逃避だと橙子は分かっていた。
ちゃき、と静真が鯉口を斬った。
「話はまとまったな。では案内は任せるぞ」
「出来ればエレベーターもやめてくれ!」
「もうやだああああ!」
久次にちゃっかりと頼まれた橙子は全力で叫びながら、屋上のへのルートを高速で算出した。
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