りつあん
橙子と久次、そして松村を抱えた静真は、会議室の一つへと滑り込んだ。
本来なら申請しなければ入れないが、すでにこの場は常のオフィスとは違うらしい。
最後に入室した久次が、ドアを閉めると同時に札をドアに貼り付けた。
続けて四方の壁にも同じものを施していく。
そのよどみない動作は、こういう事態に何度も対応していることを橙子に感じさせた。
静真によって無造作に床へと落とされた松村はぐったりとしていて、どうやら気絶しているようだ。
だがそれどころではない橙子がぜいぜいと息をなだめていると、対策を終えた久次が、怒りの形相で橙子を振りかえった。
「なにやってんだあんた! つっこんでいくなんて馬鹿か!」
「だってあれ殺そうとしてたしっ。そうしたら助けなきゃだめでしょ!?」
「そういうんなら人型取り出してみろよ!」
久次の剣幕に、橙子はポケットに入れていたそれを取り出して、思わず手を離す。
床に落ちたそれは真っ黒に染まっていた。受け取った時には白い紙に模様が描かれて橙子の名前が書かれていたにもかかわらず。
橙子はそのおぞましさと、自分が思っていた以上に危険だったのだと今更ながら実感した。
そんな彼女を、久次は厳しく見据えた。
「さっきのやつからべったり呪いを貰ってたんだ。それがなかったら、あんたはあれじゃすまなかった。ただの人間はおとなしくしてろよ!」
「それでも目の前で人が殺される経験なんてしたくなかったのよ! いくら気にくわないやつでも!」
真っ青になっても橙子は久次に叫ぶと、久次は気圧されたように言葉を飲んだ。
そう、怒りこそしないが、橙子だって何も思わないわけではないのだ。同僚の理不尽なやっかみのせいで、知らぬ間に死にかけていた恐怖と苛立ちはある。でもそれとこれとは別なのである。
あんな訳の分からないものに、滅多刺しで殺されるような場面を見てトラウマを作るなんてごめんなのだ。
それでも、現状を甘く考えていたのは確かだ。
怖かった。あんな得体の知れないモノの前に体を投げ出すなんてもう出来ない。
「あ、えっちょっ……」
涙がにじんできたのを感じた橙子がうつむくと、久次が大いにうろたえていたが、橙子には見えていなかった。
それでもなんとか気をなだめようと橙子が葛藤していると、静真が口を開いた。
「妙な考え方だな。己が殺されかけてでも身を挺してかばうとは。それを己のためだと言うのか」
その声音は不思議そうで、純粋に疑問を覚えているようだった。
橙子が顔を上げると、静真は橙子が感じた通りの表情をしている。
静真の眼差しがまっすぐ橙子を映していて、その視線の強さに少し怯んだがうなずいた。
「だって、動かなかったら後悔するし、殺される場面なんか見たらずっとあいつのことが心に残るわ。嫌なやつのことなんてわざわざ私は嫌よ……殺されかけてたのはわかってなかったし」
「なるほど」
簡素にうなずいた静真は、どこか理解の色を浮かべて久次を向いていた。
「これが人間の普通か。だからお前は気にくわなくても人間はできる限り守れ、と言ったのか」
「だいたいその通りだよ。……まあ深田さんは極端だけど」
久次は少し驚いたように静真を見返したが、少し言いにくそうながらも肯定する。
橙子はその表現がちょっと所ではなく不満だったが、久次にたっぷり迷惑をかけた自覚はあったので、黙り込んだ。
自分が自ら殺されに行ったようなもので、助けて貰った側である。
だから橙子は、二人に向けて深々と頭を下げた。
「私が軽率だったわ。ごめんなさい。あと助けてくれてありがとう」
「あ、え、そのだな」
ぎょっとしたように目を見開く久次の反応に橙子のほうが驚いたが、深く息をついた彼はばつが悪そうに頭をかいた。
「……俺の方も強く言って悪かった」
「いつもと同じではないか?」
「うっせえ静真! これからの話するぞ!」
心底不思議そうな静真に声を荒げた久次に、橙子は面食らう。だがしかしなんとなく理由はわかったため、久次の言葉に乗っかることにした。
「そうだわ、久次くん。どういうことなの。あの見知らぬ同僚が元凶だったんじゃなかったのかしら」
「……元凶、というよりは、『見知らぬ同僚』が呼び出した本人でそいつを排除すれば解決だと考えていたんだが、違った。アレは呼び出された鬼のほうだ」
「切った感触からして仕留め切れていない。有象無象の集合体を切っただけだ」
「だろうなあ。俺にもいろんな霊が混ざり合って寄り集まっているように見えたぜ。たぶんここに呼び出された霊同士でも隠れ鬼をやり続けていたんだろうな」
「何で集合しちゃうの、ばらばらになってて」
切実な橙子の本音に、久次は肩をすくめて淡々と言った。
「捕まったら鬼のもの。かくれんぼはそういうもんだろ」
久次は身につけていたボディバックから取り出した札を確認しながら、続けた。
「想像でしかねえが、呼び出されたもんが依り代からはじめの一人を模倣した結果、見知らぬ同僚の形を取ったんだろう。ここには餌になる陰の気もたまりまくっている。だが、肝心の最初にして最後の一人が捕まえられねえから、ここに留まってかくれんぼを続けてる。そのおかげでこのビルから出て行かないが、より強力に引き込む力を得ちまってるんだ」
「捕まえられないって。だ、だってその。呼び込まれたひとって見知らぬ同僚に捕まって、その殺されてるんでしょう?」
橙子が今の今まで明確に言わなかった事実を口にすると、無情にも静真が言った。
「ひとりかくれんぼを始めた一人が残っている」
「はじめの犠牲者にパワハラを受けていた奴、あいつも失踪者だろ。依り代に詰め込まれた体の一部からそいつの思念をトレースした鬼が、はじめの犠牲者を狙ったとすればつじつまは合う」
久次に付け足された橙子は、ぞう、と背筋が凍った。
そこまで追い詰められていた人間がいたこと、指摘されるまで、橙子はその失踪者を意識してすらいなかった自分に愕然としたのだ。
だが、知識がない橙子にも、様々なことがつながってゆくような気がした。
「まあただ、それがなんでひとりかくれんぼだったのか、って言うのはわかんねえんだけどさ」
「……一人で、いたくなかったんだと思う」
「は?」
がしがしと頭をかいていた久次は、橙子の言葉に目を丸くする。
橙子は一人目の犠牲者である諸星に関連して、パワハラ被害に遭って失踪した社員についてもまとめた。だから想像がつく。
「暗い部屋でさ、一人で作業し続けていると、寂しくて、誰かに声を聞いて欲しくてたまらない気持ちになることがあるの。でもあの人には誰も味方がいなかった。上司はああだし、助けてくれるはずの同僚もない。そんな中だったら、たとえ悪魔だろうと幽霊だろうと声を聞いてくれるのなら、すがりついたと思うわ」
「……あんたでも、か」
「さすがに、あんな気持ちの悪い遊びはしたくないけどね」
神妙な顔をして聞いてくる久次に、橙子は明言を避けた。
したくはないが、するかもしれない。
睡眠不足と疲労で極限の精神の中、すがるような思いで人形をつくり、手順を踏んで。何かが起きて、何かが聞こえて、誰かがいるかもしれないと思えたなら。
呼び出されたもののせいで、もう取り返しがつかないほど多くの人間が殺されてしまっている。それでも、呼び出した一人目に対して橙子はやるせなさにも似た同情を覚えていた。
暗い顔で沈黙する橙子に、うろたえた久次が声をかけようとしたが、うめき声がひびく。
「う……」
床に倒れていた松村が意識を取り戻したのだ。
「あ、ひい!? なんだよ俺が何したって……」
「喚くな、見つかりたいのか」
大声を上げかけた松村に、静真が冷然と言い放つ。”見つかる”という言葉に過敏に反応して黙り込んだ松村は、ここがどのような場所か思い知っているだけあった。
ずず……ずず……と、廊下のほうから這いずる音が響く。
時折、動きを止めていることから、何かを探していることが察せられた。
久次が扉のほうを見て小さくつぶやく。
「札で隠しているが、見つかるのは時間の問題だな」
ぐっと、息を詰めた松村は、足下がおぼつかない中でも的に久次と静真に迫った。
「お、お前ら、なんとか出来るんだろう? 俺を助けてくれよ。なあ?」
「自分が陥れようとした女のいる前で、良く頼めるものだな」
静真のそれに侮蔑は混じっておらず、純粋に意外そうなニュアンスではあったが、松村はぐっと息を詰める。
「い、一度助けた人間を見捨てるのか!」
橙子は複雑な思いで松村を見つめた。先ほどはああいったものの、橙子は自分を陥れた人間に優しく出来るかと言えば別の話なのだ。
しかし、たとえ素直に従うのが業腹でも、見捨てることは出来ない。
ただ橙子が口を開く前に、久次がひどくめんどくさそうに腰に手を当てていた。
「だがなあ、あんたをつれて行くと足手まといなんだよなぁ。ついて来ても死なせちまうかも知んねえし」
「そうだな。しかもそいつは鬼に触れた。目をつけられているものをわざわざ連れて行きたいとは思わん」
合わせているつもりはないが、静真の支援に松村の顔が赤くなったり青くなったりする。
そんな松村に顔を近づけた久次は、顔に似合った、加虐的な笑顔を浮かべた。
「助けた奴は見捨てねえけど? 助け方は俺たちの心次第ってやつだろうなあ」
「な、うわっ!」
松村が言い返そうとしたが額にべしりと札を貼られて面食らう。
札を貼った本人である久次は、立ち上がると冷めたまなざしで見下ろした。
「それでここをうろついてる霊には見つからねえよ。ただし、それがはがれなければ、だけどな」
はがそうとしていた松村は、その言葉で即座に札から手を離した。
額に貼られた頼りない札だけで無事に過ごせる、と言われたとして果たして信用することが出来るだろうか。
しかし、それにすがるしかないのだ。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。俺を置いていくのか」
「いやあ、あんたのためなんだぜ? 俺たち今から親玉の本拠に行くんだし。ただ息を殺して朝日が登るまで耐えりゃ良いんだ。なんなら寝ちまってもいいぜ」
「そうだな、意識が途切れれば霊にはいないのと同じだ」
親切めかして言う久次に、静真も続けた。松村は絶句してスーツ姿の二人を見るばかりだ。
橙子はその脳裏には、あの刃物を振りかぶった人の形をしていないものが浮かんでいるのが容易に察せられた。もしかしたら、それ以外にも見ていたかもしれない。
ただ、久次と静真の中では、当然のごとく橙子が同行することになっているようで、橙子は遠い目になった。あと何体いるかも分からない、危険な幽霊が闊歩する中に戻るのだ。
大層あくどい顔をした久次は、橙子を向いた。
「と、言うわけで深田さん、行こうぜ」
「……そうね」
しかし橙子は素直にうなずいて、久次の隣に歩み寄った。
松村が血相を変える。
「お、い。おい! 深田も行くのか!?」
そんなとでも言うような顔をする松村を、橙子は冷えたまなざしで一瞥した。
「ええ、だって。私は彼らの案内人で、仕事中ですから」
絶望の色を浮かべる松村の顔は、正直かなりすっとした。
「霊は通り過ぎたようだ。では行くぞ」
静真の号令で、扉は開けられて、橙子達は再びフロアに戻った。
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