そうぐう

 橙子とうこは深夜まで残業という事態に二重の意味で泣きたくなったが、自分の命には代えられない。久次ひさつぐたちの調査に協力する名目で申請した残業が、サービス残業扱いになったことにまた半泣きになる。


 ともあれ、橙子は青年二人と共に夕飯の調達にコンビニへ行った。

 もう勤務時間は過ぎているし良いか、と橙子がパンプスからスニーカー風の突っかけに履き替えて彼らと合流すると、久次に不思議そうにされた。


「あれ、橙子さんスニーカー?」

「パンプスって結構足が疲れるのよ。だから見えないところでは履き替えてるの」


この会社は就業中は必ずスーツと革靴と徹底されているが、足がむくむときついのだ。故に橙子はこっそりサンダルなどを持ち込んで履き替えていた。深夜の残業の時はこれで出歩くこともあるくらいである。


「それに、あの駅みたいなことになるんなら、パンプスはよしときたいわ」

「深田さん、なんかすまん」

 

 橙子が黄昏れながら言えば、久次は引きつった顔をした。

 

 橙子の経験から見知らぬ同僚が出現するのは、フロアに社員が少なくなる9時以降だ。

 それまで社屋に残っているのに空きっ腹を抱えるのはかんべんしたかった。

 心が寒かったために、せめて温かい物が食べたいと思った橙子は、レジカウンターに設置されたおでんを即決する。

 久次が慣れた風でチルドコーナーの丼ものを選ぶ中、静真が物珍しそうにあたりを見回して居るのに気づいた。


「コンビニそんなにこないんですか?」


 思わず声をかけると、静真は一拍遅れてから橙子のほうを見た。まるで呼びかけられたことに気づかなかったような反応だ。


「初めてだ……これはなんだ」


 静真が棚から取ったのは、赤いパッケージが特徴的なカップ麺だった。これくらいの年齢になれば知らない者のほうが少ないと思うが、どんな食生活をしてきたのか。

 不思議そうにする静真に対し、久次は特段不思議がる様子もなく納得したように言った。


「そういやだいたい姉貴の飯もってたもんな。それお湯を注いで3分……いやそれは5分だな。待つと食えるうどんだ」

「なに」


 久次の反応した静真はぱちくりと瞬いた。その仕草は存外あどけない。

 そういえば、完全に意識の彼方だったが、静真という青年は科学技術を使わずに姿を見えなくさせたり、背中から翼をはやしたり出来る存在であった。

 奇行ばかりが目立つが、ようやくむくむくと好奇心が湧いてくる。


 ゆえにすっかり日が暮れた社屋の会議室内で、神妙な顔をしてお湯の注がれたうどんを待つ静真に、橙子が聞くのは自然な流れだった。


「ねえ、その。久次くんは、人間なのよね。じゃあ天高さんはなんなのかしら」


 おにぎりをお供に味の染みただいこんを突っついていた橙子が問いかけると、焼き肉丼にラーメンを追加していた久次がむっすりとしていた。


「こいつなんて静真でいいんだよ。天高も偽名だし」

「……え、偽名?」

「天狗と人間のハーフ。半分妖怪って言っただろ? 正式な戸籍もねえんだ」

 

 さっきの不思議な反応はそういうことだったのかと納得したところに、無造作に爆弾を投下された橙子は思わず静真を見た。しかし、当の彼は5分たったうどんを妙に美しい所作ですすって少し眉をひそめている。


「陽毬のうどんと違う」

「そりゃあインスタントだから味もちげえよ。というか姉貴のうどんは別格だ」

「なるほど。……だが、まずいとも言いがたいな」

「そういうもんだ」


 久次が適当に応じると、静真は無言で再びうどんをすすり始める。

 あどけない少年のような表情を見せる静真が半分人ではないと言われると、妙に納得してしまった橙子だ。せっかくだから世間話代わりにおでんの大根をかじりながら問いかけた。


「その陽毬さんって、この間のおにぎりを握った人よね。久次くんのお姉さんだとは聞いたけど、静真さんともつきあいが長いの?」


 その瞬間、久次の顔が奇妙に歪んだ。耳から穢れると言わんばかりの反応に橙子は戸惑う。

 心底嫌そうだったが、隠すのも業腹だ、と久次は嫌悪に似た雰囲気で吐き捨てるように言った。


「姉貴と静真が知り合ったのが先だ」

「共に居ると約束した。久次は関係ない」

「俺はまだ姉貴の恋人だって認めてねえからな」


 静真がすまし顔でいうのに、久次が即座にかみつく。その眼光は彼の外見の印象通りの鋭さだ。


「なぜ、お前に認められなければならん」

「俺が! 姉貴の弟だからに決まってんだろう!」


 一方的に険悪感を出す久次と、それを不思議そうに見る静真に橙子は完全に地雷を踏んだことを知った。だが自分でまいてしまった種だ。


「話題に出して悪かったわ! 今の話をしましょう! これからどうするの」

 ちゃんと収拾はつけなければと、橙子は口げんかが始まりかける中で強引にぶった切った。

 ぴたりと話が止まりこちらを振り向いた久次が、ばつの悪そうな顔をしつつ上げていた腰を落とした。


「まあ、そんなに難しいことはしねえよ。いつもすげえ困る情報収集は深田さんのおかげで済んでるから。見知らぬ同僚を叩くだけだ」

「その……叩くって言っても、ああいう怪奇現象って消滅させられるの」

「出来なければ我らはこうして仕事をしておらん」


 久次の言葉に橙子が面食らっていると、ぱちり、と手を合わせていた静真が静かに言う。

 一つうなずいた久次が、橙子が簡易的にまとめた証言資料を見つつ話し始めた。


「まあ、ケースバイケースだけどな。俺たちの仕事は起きている怪異の原因調査。収拾がつけられるのなら原因の根絶。または被害が拡大しないように封印することだ。行方不明者は一人をのぞいて全員見知らぬ同僚に接触していた様子がある。これだけ攻撃的なもんだと、最終的には強制排除になるだろうな」

「まあ、見知らぬ同僚がいなくなったら、不満に思う社員もいそうだけど」


 おでんを平らげた橙子は印刷した紙を引き寄せた。


「5人は全員何かしら勤務態度に問題があったみたいね。「いなくなってくれて良かった」って話が多かったし。特に1人目の行方不明者の諸島さんは、私でも知ってるくらい陰湿な新人いじめで有名だったわ」


 パワハラモラハラは当たり前で、それでも職務上の成績は問題ないどころか良好だったために握りつぶされていたようだ。


「特にひどかったのは、意味のない仕事を深夜まで残らせてやらせることみたい。『修行』と称していたけど、マクロ組めば楽になる仕事を手作業でさせてただけだから、嫌がらせ以外の何者でもなわね。同じチームで働いていた同僚も諸島さんのターゲットになるのが怖くて新人を助けることはなかったみたい。最後にターゲットになっていた子は、耐えきれなかったみたいで失踪しているわ」

 

 話を知れば知るだけ気分が悪くなる話だ。こうはなりたくないと思うが、諸島が行方不明になったのが3カ月前。普通に失踪してくれていた方がまだ希望があるが、諸島に悩みがあるそぶりもなかったらしい。

 だからだろう、久次と静真はほぼ確信として、怪異が原因の行方不明だと思っている節があった。

 橙子がそんなことを考えていると、既にラーメンと焼き肉丼を平らげた久次が、資料を眺めつつ頭を抱えた。


「ただ、これが生じた因果が見えてこねえんだよなあ。ここは特に霊場として優れてる訳でもねえのに浮遊霊はうじゃうじゃ居るし、この会社にわだかまる負の思念がこごったにしても結び付きが弱すぎる。まだなんか分かってない部分がある気がするんだが」

「発見次第切れば良いものを。周りくどいことをする」


 静真が無造作に言い放つのに、久次はぎろりとにらんだ。


「今回の依頼者の意向は行方不明者の発見だ。問答無用で切って万一にも生きているかもしれない人間の居場所がわからなくなる可能性がある以上、慎重に行くぞ」

「分かっている」


 そう、応えた静真はだが、納得いっていない風なのは表情で明白だ。仕事相手とのコミュニケーションで鍛えられている橙子にはわかる。

 それでもある程度従う気配があるのはマシなほうかもしれない。

 久次と静真が言い合うのを橙子は片耳で聞きながら、立ち上がった。


「どこ行くんだ?」

「ちょっと、給湯室まで空の容器を捨ててくるわ。すぐそこだから待ってて」

 

 気安く話しているとはいえ、客人にゴミの処理などさせるわけにはいかない。久次が声を上げる前に、橙子はてきぱきとゴミをまとめて廊下に出た。

 この会社の給湯室は所属している人間の数に比例して、そこそこ広い。がそこそこと言うだけでレンジと湯沸かし器が設置してあるだけの殺風景な場所だ。

 食べ物を扱うのはここという決まりがあるため、橙子はいつも通りここに来ていた。

 トイレにインスタント麺の匂いが立ちこめているのは全く嬉しくないので。


 少し照明の落とされた廊下をたどり給湯室に近づいていく。


ぴちょん、と水滴が落ちる音がした。


橙子は眉を寄せる。

 先ほど静真のうどんのお湯を調達した時に水道をつかった。

 もしかして蛇口を締め損ねていたのだろうか。

 節水!と小うるさい上司やお局の声を思い出してげんなりしつつ、給湯室の入り口にたどり着く。


 びちゃり、と水を踏んだ。


 面食らって下を見てみれば、給湯室の床が水浸しだった。

 不意打ちで跳ねた水の不快さと、これを片付けなければならないことに気分が落ち込む。

 しかし、じっとりとした水の匂いと共に、生臭い匂いがして橙子ははて、と思った。

 おかしい。このような匂い、先ほどはしなかったはずだ。


 暗がりの中で、水は黒く濁って見える。


 そういえば、記録した怪現象のなかに、「誰もいじっていないにもかかわらず水びたしになっている給湯室」と言うのがあったと思い出して、橙子の心臓が嫌な風に脈打った。

 そう気づいてしまうと、ひんやりと湿った空気が濁って居るような気さえして、橙子は空いている手で無意識に腕をさすった。

 だが、ここで立ち往生をしているわけにも行かない。

 壁を探って、給湯室の照明をつける。



 どぼん。



 なにかが、水に落ちた。


 何が、落ちた。落ちる物などなかったはずだ。

 橙子は片手に提げたレジ袋の手提げを固く握りしめていることすら気づかないまま、振り向く。


 明るく照らされた給湯室内は、案の定水びたしだった。


 しかし散らばっている水は所々淡い赤で染まっており、いまでもシンクの縁から新たな赤い水がこぼれ落ちている。

 水滴の原因はこれだったのだ。

 一番、赤が濃いのは水が流れ落ちている部分であり、そして。

 水が限界まで溜められたシンクは真っ赤に染まり、その中に浮かんでいる赤く染まった白い物に気づいた。気づいてしまった。


 生臭い、さびに似たそれ。


 この匂いが血液だと。


 その頭についた目が、きろ、とこちらを向いた。


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