ききとり
静真の回収は備品室で成功した。
それで終われば良かったのだが、静真が無造作に突き立てていたファイルから、どぷり、と血があふれ出したのには白目をむいた。
まるでそれが肉の器であるかのように、赤々とした液体で埋め尽くされていく。あたりに鉄サビに似た生々しい匂いが立ち上がり、現実から目をそらすことなど許さないとばかりに主張していた。
さらに静真が刀を引き抜いてすぐ、久次が取り出した札を貼り付けたとたん、身の毛もよだつような断末魔が響き渡る。
ぎい、ぎいと断末魔のような響き渡った後、備品室から息苦しさが消えたのだから、何か居たのだろう。
当たり前のように刃物を振り回す静真にも顔を引きつらせたし、まるで台所に現れる悪魔な虫を排除するような気軽さで、あっさりと対応する久次にも戦慄した。
「ただここに吸い寄せられた雑霊だな」
「悪趣味だな、こんな手で何を引きずり込むつもりだったのか」
久次が吐き捨てた言葉に橙子が血まみれのファイルに目を落とした。
何かがいた、としか表現できないことが幸せなのか不幸なのかわからない。
しかも、瞬きの間にその血痕が消えたことでもはや涙目だ。
昼食休憩をはさみ、複数の社員に対する聴取につきあった橙子はよろよろと、自分のデスクに戻ってきていた。
どうしても橙子でなくては処理できない案件がきたと連絡が入ったためだ。
久次たちはもういちどビルのフロアを回りたいと言ったため、他の社員に任せている。面談が一段落したあとで良かったと思うが、橙子のメンタルは恐ろしく削れていた。
橙子は嫌というほど思い知っていた。自分が知らなかっただけで、己にそれ系の耐性がないことを。
にもかかわらず、様々な職員から己の職場で起きている怪現象を聞かせられ、もはや半死半生だった。
一歩いつものオフィスに戻ると、聞き慣れた喧噪に包まれて橙子はほっとする。
なるべくならば居たくない場所だが、今日ばかりはなじみのある日常に救われた。
今は削れた気がする精神力の回復のために仕事に没頭しようとする。が、やはり意識してしまうのは今このビルで起きている怪現象騒ぎについてだ。
「行方不明者に幹部が入ったからようやく動き出したのね。けど半信半疑だからいつも通りの申し送りをしたのかマジ許さん」
自分の仕事の傍ら、ぱらぱらとここ数ヶ月の行方不明者リストを眺めた橙子は独りごちる。
「見知らぬ同僚」については、面談した全員が知って居た。
橙子が知らなかったのは、噂が流行り始めた時期から今まで、連日の深夜残業で思考能力が落ちていたからだろう。聞いたとしても仕事以外の事柄が頭からすっぱ抜けていたのだ。付け足すと、あの駅での出来事をすんなり夢だと納得しかかっていたのもそのせいである。
「見知らぬ同僚」というのは、大まかに言うとこういう話らしい。
ある日、一通のメールが来るところから始まる。「仕事を手伝ってくれないか」という内容で、無視をしたり罵倒の文言を返信したり、手伝うと返信しても残らなかったりすると、悪夢にさいなまれることになり、悪化すると行方不明になるのだという。
唯一救われる道が、深夜3時まで仕事を手伝い、社屋に残ること。
その悪夢を見た社員も面談にきたが、思い出すだけで意識を失いそうな虚ろな顔で言った。
『薄暗い、蛍光灯だけの下で、延々と書類を裁いていくんです。声はかけられないし、彼も仕事を進めている。けれどふ、と顔を上げて横を見ると、同僚がじっと見つめている。おかしいですよね。彼は前を向いているはずなのに。にもかかわらず、少しでもやめようというそぶりを見せたら別の場所へ引きずられて行くような気がしました。この職場はくそだと思っていましたが……』
あそこよりはましです。
社員はそうつぶやいて震えていた。
つまりは橙子は知らずに正しい選択を選んでいたのだが、全く嬉しくなかった。
だがもう終わったことである。知らない間に済んで居たのなら十分だろう。
「早めに仕事を終わらせて、久次くんたちのフォローを考えなきゃ」
彼らは解決するために来てくれているのだ。職務の分だけ協力する気はある。
だがしかし、そもそもこんな訳わからない現象を解決することなどできるのだろうか。
「あーどうせ悩んでもだめだめ。どうせ私は資料を集めるくらいしかできないんだから」
思考を切り替えた橙子が再び、キーボードに指を走らせた。
プルルルルと、電話の呼び出し音が鳴り響く。
橙子はパソコンの画面をながめながら、反射的に取る。
「はい、お電話かわり」
『……――もしもし』
耳から冷気が忍び込んできた。
ひび割れたような、ノイズが走ったような声だ。
雑音が混じって聞き取りづらいせいか、男か女かわからない。だが生理的嫌悪をかき立てるようなどうしようもなく異質なものをがねじ込まれているような感覚に襲われる。
知らない声のはずだ。しかし、橙子の心に浮かんだのは、見知らぬ同僚のことでパニックになりかけるのを無理やり抑えた。
しかしなぜ、電話なのだ。メールだけではなかったのか。
強烈に受話器を置きたい衝動に駆られたが、寸前で思い出す。
見知らぬ同僚を無視してはいけない。ならば切るのは悪手だ。
嫌な風に心臓が跳ね回るのを感じながらも、からからに乾いた喉につばを送り込んだ。
「なん、です、か」
『---・--・-----』
何かをしゃべられているのはわかるが、雑音がひどすぎて聞き取れない。ぞわりぞわりと怖気ばかりがひどくなるのがわかった。這い上がって来るような冷気に指先が冷たくなって行く。真っ白になって言葉なんて思い浮かばなかった。どうすればいい、どう答えれば良い。
だが雑音が、少しずつ明瞭になってきて、あ。と気づく。
ぶつ、ぶつ、となにかを突き刺しているような湿った音。それに紛れて聞こえるこの、雑音は……
……――――悲鳴だ。
『……----』
瞬間、橙子の固くこわばっていた左手から受話器が引き抜かれた。
どっと汗が噴き出す。耳にオフィスの喧噪が戻ってくる。ようやく息を吹き返した橙子が勢いよく振り向くと、いつの間にか静真が受話器に耳を当てていた。
「貴様がここの元凶か。己で片づけられぬ仕事を抱えるなど愚かの極みだ。数をそろえて乗り込んでやるから首を洗って待っていろ」
一方的にまくし立てると、乱暴に通話を切った。
山伏姿ではなくなぜかスーツ姿ではあったが、その姿形の良さで見事に浮き上がっていた。
さらに、橙子と目が合うと、静真はふん、と高慢に鼻を鳴らした。
「良く引っかけものだ。お前は良い餌だな」
救われたことに感謝すべきなのだろう。
だがどう考えても尋常ではない電話に暴言を吐くなんて、こいつの心臓は鋼か。
と橙子は全力で突っ込みたくなったのだった。
どうやらスーツ姿の静真は同じフロアにいた全員に見える状態だったらしい。戸惑う男性社員の不審者を見る目と特に女性社員の視線の熱さに耐えきれず、拠点としている会議室へと避難した。
橙子は仕事をあきらめた。
ちょうど合流した久次は、その経緯を聞いたとたん目尻をつり上げた。
「LINEに既読付けねえと思ったらなにやらかしてんだ。ばっかやろう。一般人を巻き込むんじゃねえ!」
「なぜ怒る。この女が怪異に遭遇していたのを助けただけだぞ。そもそも縁を結ばれたのはこの女だ。我らを該当者にできたのだから充分であろうが。元凶はアレなのだろう?ならば迅速な解決の糸口ではないか」
何が悪い、とむしろ不思議そうな顔をする静真に、久次は深くため息をついて半眼でにらんだ。
「へえええ、俺は、別に、かまわねえけどな。つまりは仕事を手伝うために残業をしなきゃなんねえんだけど、残業がなにか分かってんの?」
「ただの仕事だろう」
「今日深夜まで居なきゃなんねえってことは、姉貴の夕飯たべらんねえんだぞ」
静真は目を瞬いたかと思うとすい、ときびすを返した。
予測していた久次はすかさず彼の肩を捕まえる。
「離せ久次。今日は餃子を包むと言っていたのだ、手伝わなければならん」
「姉貴に連絡入れて取りやめだな。てめえがつなげた縁だろうが、責任取りやがれ」
むっすりと黙り込んだ静真に久次はふんと鼻を鳴らすと、橙子を振り向いた。
その表情は心底申し訳なさそうだ。
「あんたが取った電話はこのビルに憑いた何かからだ。あんたは『見知らぬ同僚』からだと思ったんだよな」
「あんまり、自身はないけど」
橙子が迷いながらも肯定すると、久次は言いにくそうに続けた。
「こういう怪異は何かしらの法則で縛られているんだ。だから、あんたに電話がかかってきたということは、なにかイレギュラーが起きたんじゃねえかと思う。縁が結ばれた以上、帰るのは危ない。悪いけど俺たちのそばにいてくれ。それが一番安全だ」
「……どうしても?」
「どうしても」
「わかった、わ……」
そういうわけで、強制的に橙子の残業が決まった。
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