見知らぬ駅に迷い込んだ話。終わり


 一歩車の外に出ると、あたりは暗い森の中のようだった。真っ暗で明かりはないにも関わらず、おぼろげに木々が見える。

 そして空は濁った赤をしていた。毒々しく、息が詰まるような空だ。

 決定的に橙子の知っている世界ではないのだと明確に突きつけられながらも、橙子は己の手を引いて走る久次になんとか話しかけた。


「あなたたち無事だったの! で、でもあんなに血がいっぱい! あの化け物みたいな手のやつとか!」

「アレは俺たちのじゃないから大丈夫。まあ、えぐい奴らに襲われたり、心が死んだが、あんたも無事でよかった」


 うつろに言った久次に、一体どんな目に会ったのだろうと橙子は震えた。

 しかし再び問いかける前に、軽い足取りで静真が併走してきた。


「もう確保したなら、ここから退避でいいな」

「ああ、あとはここの確実な脱出方法を見つけるだけだ」

「分かった、が素直に帰すつもりはないようだ」


 静真が煩わしげに見た森の暗がりから、腐臭を伴って現れたモノに、橙子はひっと息をのむ。

 それらは人の形をしていた。どれひとつまともな肌をしておらず、異様に腹を膨らませながらずるずると体を引きずるように、爪がはがれた手を伸ばしてくる。頭髪を半分むしり取られたようなそこから見える白いものがなにか、橙子は考えないことにした。

 まるで死体が動いているような群れに息を詰めていると、静真がこちらを向いていた。


「あれは死者から湧いてきた物だ。――貴様はあの女によほど執着されているな。地獄へ道連れにしようと異界を支配して引きずり込んだのだから。別人が引きずり込まれて俺たちのようなものが呼ばれるほど騒ぎになったのだぞ」

「あの子は他の人も引きずり込んでいたの?」

「貴様ではないと分かったとたん放り出されたがな」

「――静真、これは深田さんのせいじゃないぞ。それよりも目の前のあいつらをどうにかするのが先だ」


 厳しい声音で遮った久次に、静真は一瞬困惑の表情を浮かべたが静かに消して肩をすくめた。


「そんなもの一つだけだろう、目につく鬼を殲滅する」

「シンプルで脳筋な答えをありがとうよ!」


 言葉を選ばない辛さには驚いた橙子だったが、あずかり知らぬ場所で面倒なことを引き起こしていた同級生のことを、己のせいだと思うような精神性はしていない。

 それよりもあのおぞましい存在に取り囲まれてしまったことに、危機感を覚えていた。

 が、彼らは軽口を交わせるほどに場慣れしているらしい。

 わずかにほっとしかけた橙子だったが、彼らの手にある物にきょとりとした。静真がちきちきとなじみ深い音をさせて繰り出しているのはどう見ても工作用のカッターだ。

 はっと久次を見れば、彼が持つのは、大判サイズのメモ帳ブロックと朱色の筆ペンだったのだ。


「メモ帳とカッターってなんの工作するつもりなの!?」


 ふざけている様子は一切ないもののまったく場違いなそれに、橙子は思わず叫ぶ。

 早速筆ペンのキャップを外していた久次がぐっと息を詰まらせて、気恥ずかしさを隠すように声を荒げた。


「い、いつもはちゃんとした装備使ってんだぞ! だけど呪具持ってたらここには入れなかったから仕方なかったんだよ! この面だって気配を悟られにくくするためのもんだからな!? 俺の趣味じゃねえからな!?」

「そ、そうだったんだ」

「そうだよ!」


 必死に言いつのる久次の頬が赤らんでいて相当不本意だったのは察せられた。

 しかし、血みどろの鬼の群れは進行方向を埋めつくしていた。もう逃げ場がない。

 橙子が顔を引きつらせて身を固くしていたが、とん、と身軽に進み出たのは静真だった。

 おぞましくすがってこようとする鬼たちにむけて、右手に持ったカッターを無造作に一閃する。

 その瞬間、カッターの刃の延長に輝く刃がほとばしり、まさに害そうとしていた鬼を両断した。

 切られた鬼は奇声を上げなら切られた場所から灰となって崩れ消える。さらに返す刃でもう2体切り伏せた静真は淡々と言った。


「こいつらはただの餓鬼だ。倒せる」

「そんな力押しでいけんのあんただけだからな! だがあんがと、よ!」


 流れるようにメモ帳をめくりながら筆ペンを走らせていた久次は、べり、と一枚はがすと、足にかみつこうとしていた餓鬼の額にたたきつけた。

 とたん餓鬼はぼうと燃え上がり動かなくなる。


「くそ、精進潔斎しないで書くとこんなもんだよな。走るぞ!」


 再びメモ帳に筆を走らせながらも、久次は橙子に叫んだ。

 あっけにとられて立ち尽くしていた橙子は、その声に弾かれるように走り出す。

 さらにようやくまともに口が回るようになってまくし立てる。


「ひ、久次くんなにあれなにあれっ灰になって燃え上がってただのカッターとメモ帳でしょ!? というかあの生き物何!? というか気色悪いし怖いし全然訳わかんない!」

「ははは! 深田さん、混乱してただけか!」

「笑い事じゃないわよ!?」


 メモ帳をはがして追いすがってくる餓鬼に投げつけていた久次はからからと笑う。

 馬鹿にされているようでむっときた橙子だったが、こんな日常からかけ離れた状況で平静でいられるような人生を送っていないのだ。

 今だって、走ってごまかしているが少しでも気を抜いたらへたり込んで震えているだけになりそうだった。


「安心してくれ、俺たちはプロだ。ちゃんと帰れるぜ」


 にっと笑った久次は年下と思えないほど、頼もしかった。

 しかし、凄絶な太刀筋で餓鬼を屠りながら先行していた静真が唐突に足を止めていた。

 一体なぜだ、と橙子は肩で息をしながら考えたが、すぐにわかる。

 わずかながらあった道は途切れ、深い渓谷となっていたのだ。対岸に陸は見えるが、とてもではないが飛び越えられるような距離ではなかった。


「うそ、でしょ……」


 追いついた橙子が絶望の面持ちで闇がうごめいているような谷底を見つめていると、静真に襟元を引っ張って引き戻された。


「下は見るな。地獄を知って心を壊してもつまらんだろう」


 その言葉にごうごうと風が吹く音のなかに、人の悲鳴が混じっていることが、気のせいではないと分かってしまい橙子は青ざめた。

 もうこれ以上は逃げられない。あの女のなれの果てが追いすがってくるのも時間の問題だ。

 だがしかし、静真は平静そのもので、ものすごく嫌そうに顔をしかめる久次を振り返る。


「久次」

「ああもうやっぱこうなるのかよ!」


 やるせない、口惜しい。忌避、おびえ。そういう物が入り交じった表情だったが、橙子は久次が命の危機を覚えているようには見えなかった。

 一体なぜだ、と思ったところで、橙子はメモ紙を久次に押しつけられた。

 朱色の筆ペンでミミズがのたくったような文字を描かれたそれを、握らせた久次が真剣に言いつのってくる。


「いいかこれはお守りだ。なんかあったら気合い入れてたたきつけろ。ここから俺は使いもんになんねえからな!」

「え、え?」

「前置きが長い。行くぞ」

「てめえぜってえ落とすなよ! ほんと安全に気を遣えよ揺らすなよ!」

「うるさい。――暴れるなよ」


 橙子が戸惑っているうちに、そばにいた静真の腕が腹に回り。

 久次共々、谷に向かって落ちていた。


「いっ…………!!!!!」


 恐怖が臨界点に達すると、声も出ないのだと初めて知った。

 内臓が浮くような浮遊感と恐怖に顔が引きつる。あの悲鳴が混じった暴風に包まれて。しかし唐突に上昇に転じた。

 大きな鳥が羽ばたくような音が響き、ぐんぐんと闇が遠ざかっていく。


「……二人は重い」


 不機嫌そうな声に、橙子がはっと振り仰げば、そこには静真の秀麗な美貌と、夜の闇に紛れぬ黒々とした翼があった。

 しかし、左翼のみで、右翼は半ばから先がない。

 にもかかわらず平然と空を飛んでいた。

 橙子は何から驚けば良いのかわからず、ただその翼の美しさに見ほれていると、隣から声が響いた。


「ぜってー落とすんじゃねえぞ落としやがったら俺の全霊力を使って呪うからな」


 そう震える声でつぶやくのは、静真の右腕に抱えられた久次だ。

 だがぎゅっと目を閉じながら静真の右腕にしがみついている。心なしか震えているようだ。


「高所恐怖症という奴らしい」

「うるせえ! 人間は普通空には浮かばねえんだよ!」

「俺は」

「あんたは半分天狗だろーが!」


 間髪入れず返されたそれに、橙子は思わず納得するが、ふと振り返って血の気が引いた。

 対岸に追いついた美奈だったものが、こちらに向けて跳躍するところだったのだ。

 成人二人を抱えて移動できると言うだけで十分だが、ゆっくりとしか進んでいない。

 カエルのように美奈が勢いよく迫ってくる。静真も気づいたようだが方向転換する前に、美奈だったものは、橙子の足にしがみついてきた。静真が体勢を崩す。

 ぬちゃりと、ストッキング越しでも生々しい湿った肉の感触に、橙子は総毛立つ。

 強烈な妄執を瞳に宿すその顔がにたりと笑った。


『一緒ニ、逝コ?』


 このままでは、全員あの奈落のような谷底へ落ちてしまう。しかし久次は役に立たない。静真は両手がふさがっている。

 どうすれば良い。こんなところで死ぬのは絶対い嫌だった。恐怖に手を握りしめたとき、橙子は久次に渡されたメモ紙を思い出した。


「絶対! 嫌!」


 精一杯の拒絶の思いを込めてメモ紙を、ぐずぐずに溶けた顔にたたきつける。

 じゅっと、焼けるような音共に、美奈だった物の顔が苦痛にゆがみ、つかむ手がゆるんだ。


「上出来だ、おにぎりを食べさせたかいがある」


 静真がどこか満足そうに言うが、美奈だった物はすぐにつかみ直そうと片手を伸ばしてくる。しかし、それは男物のスニーカーに蹴り飛ばされた。

 呆然とした顔に、もう一枚、札がたたきつけられる。

 身の毛もよだつような声と共に、橙子から離れ、灰となって消えていった。

 ああ、やっぱり人ではなかったのだな。と今更ながら呆然としている橙子の耳に、久次の声が響く。


「蹴り飛ばせたか! 落ちたか!」

「灰に、なってきえちゃった」

「ならよし! 生き残ったもん勝ちだ」


 みれば久次は目をつぶったままだった。声だけを頼りに蹴りをいれて札を投げたらしい。

 あんまりにも器用すぎておどろいて、なにより勢いよく肯定されて、わずかに感じかけていた罪悪感が吹っ飛んだ。

 橙子があっけに取られている間にも、青年二人は言い合っている。


「静真、あんま高度あげんじゃねえぞ」

「見えていないのならどちらも一緒ではないか」

「俺の気分の問題だ!」


 しかし、久次の要求もむなしく静真は体勢を立て直すなり、ぐんぐん空へと上っていく。

 ひいと息をのんで腕にすがりつく久次を、静真は「うるさい」と煩わしそうにしていた。

 ここが空でなければどこにでもありそうなじゃれ合いに、橙子は思わずわらってしまった。


「ははははは……私生きてるんだ」

 

 自分でもわかるほど震えている引きつった笑い声だったが、ぴたりと久次と静真の言い合いが止まる。


「ああ、あんたは生きてるよ。目に見えたものじゃなくて、自分の感覚を信じた結果だぜ」


 相変わらず、目はつぶったままだったが久次にそう言われて、橙子はどっと肩の力が抜けてしまった。


「二人とも、助けてくれてありがとう、ね」


 腹は苦しいし、不自由な体勢だったが、彼らを見上げて言えば、片方は目をつぶったままで、もう一人は肩をすくめるだけだったが、なんだかそれが「らしい」と分かってしまうくらいには彼らを知ったのだな、と橙子はまたおかしくて笑ってしまった。



 *



「……夫ですか。具合が悪いんですか」


 そんな声が耳に響いて、橙子はまどろみから目が覚めた。

 顔を上げると、制帽をかぶった警察官に揺り起こされていた。一瞬自分がどこにいるかわからず、あたりを見回せば、自宅の最寄り駅の前だった。

 どうやらベンチに横たわって寝こけていたらしい。酒に酔っても道ばたで眠ることなんてなかったのにと、考えたところで、昨夜の強烈な経験がよみがえってくる。

 奇妙で怪奇的で恐ろしい体験をしたはずだ。

 死んだはずの友人に引きずり込まれた異質な駅。そこで出会ったのは仲が良いのか悪いのかわからないやたら美しく異質な青年と目つきの悪くても面倒見の良い青年だった。

 あんなに強烈だったにもかかわらずどうやってここにたどりついたのか、すっぱり記憶がない。


「女性がこんなところで眠ってると危ないよ」

「えあ、すみませんありがとうございした!」


 橙子はぺこぺこと頭を下げて警官と別れて歩き出す。

 疲れすぎて悪夢でも見たのだろうか。やっぱり三人分の仕事はやめよう、徹夜も良くない。

 スマホの時計を見れば、始発時間だ。今から家に戻ってシャワーを浴びて一寝入りするくらいはできるだろうか。

 しかし、足が泥の中の歩いているように重い。

 よろよろと橙子が歩き出すと、青年二人とすれ違った。


「はー……とりあえず、姉貴の朝飯食いたい」

「同感だ」

「牛しぐれ残ってねえかな」


 はっと振り返ったが、青年二人は改札を通ってしまっていた。

 しばらく立ち尽くしていた橙子だったが、ふと思う。


「……今日、休もうかな」


 実際は仕事に行かねばならないだろうが、なんだか、自分の気持ちに正直になって良いような気がしてきた。

 きっと家に帰ったら、外に出たくなくなるから先にコンビニに寄ろう。

 調達するならおにぎりが良いかもしれないと思いつつ、橙子は朝日に照らされる道を歩き出したのだった。


〈了〉


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