見知らぬ駅に迷い込んだ話。続き

 気がついたら見知らぬ駅、来るかもわからない電車で帰れるかもわからない中で空腹を訴えるなんて何を考えているのか。

 橙子があっけにとられていたが、久次はすぐに目をつり上げて静真に詰め寄っていた。


「おま、空気読めよ!? 無視して弁当広げんじゃねえというか荷物全部それか!?」

「当たり前だろう。陽毬が持たせてくれたのだぞ。持って行かぬ理由がない」

「あんたはそうだろうけどなあ! もうちょっと緊張感をもってくれよ!」

「ではお前は食わんのか」

「食うけど!」


 最終的に折れた久次が肩を落とすのに、橙子はちょっぴり同情した。

 まるで話の通じない部下にふりまわされている様な様子には橙子も覚えがあったからだ。

 静真はベンチに腰を下ろすと、身につけていたボディバッグから小風呂敷の包みを取り出すと、次々とおにぎりを取り出した。


 コンビニで売っている様なビニール包装に包まれたそれは、均一な三角形をしていて、作り手の丁寧さをうかがわせる。


「具は、昆布と梅干しとおかかとあたりがあるらしい」

「あたりか、姉貴の”あたり”は面白いからな、気合い入れてかかるか」


 久次は一度あきらめたとたん、静真の隣に座って転がされたおにぎりを選び始めた。

 どうやらそれを握ったのは久次の姉らしい。

 どうでも良いことを知りつつも、橙子がどうして良いかわからず立ち尽くしていると、熱心におにぎりを選んでいた静真がこちらを向いた。


「貴様も食べると良い」

「こんなところで!?」


 美奈が橙子の気持ちを代弁してくれた。明らかに非難する声にも静真はしかし一切取り合わない。

 早速一つおにぎりの包装をはがしてかぶりついていた久次が、場を取りなす様に言った。


「腹が減ってはなんとやらってやつだからさ。食べてからまた考えようぜ」


 そのとき、橙子の腹が鳴った。同時に夕飯すら食べられていないことを思い出す。

 通りでうまく物事が判断できないはずだ、と腑に落ちた橙子は、思い切って静真の隣に腰を下ろす。


「私にも一つください」

「橙子ちゃん! やめときなよ」


 美奈が心配そうに言いつのるのに、橙子は肩をすくめてみせる。

 久次と静真が何かを隠していることくらいは、橙子にもなんとなく察せられた。

 けれども、先ほどから近寄りがたいほど無表情だった静真が、喜色をにじませながらおにぎりをかじる姿は生気が宿っていた。それがなんとなく人間らしく見えて親近感を覚えたのだ。


「だってお腹空いてたし、久次くんのお姉さんが作ったんでしょ」

「ああ」

「陽毬のおにぎりはいつもうまい」


 間髪入れず静真に答えられて思わず笑った橙子は、差し出されたおにぎりを受け取った。

 ぺりぺりと、包装をはがして、海苔を巻いてかぶりつく。


 歯を立てたとたん、ほろりとご飯がほぐれ、良い塩梅の塩気と海苔の磯の香りが口いっぱいにひろがった。

 ふつうのおにぎりなのだが、なんだか無性に腹に染みるようで、橙子はぱちぱちと瞬いた。


「あ、おいしい」

「それは陽毬が握ったおにぎりだからな、当然だ」


 妙に自慢げに言う静真をおかしく思いつつ、橙子がもう一口食べ進めると甘辛いものに行き当たった。


「あ、牛しぐれだ」

「あたりはそれか。くっそ。姉貴に今度握ってもらおう」


 久次がうらやましそうに言いつつ、黙りこくって立ち尽くす美奈に話しかけた。


「あんたも食わねえか」

「……真夜中に食べるなんて。太るし」

「う、それを言われると弱いわね」


 美奈の言葉が橙子に突き刺さった。それでも腹が減りすぎていたので背に腹は代えられない。何よりおにぎりがおいしすぎたのだ。

 久次は美奈が受け取らなかったおにぎりをあっさりと下げた。


「別に食わねえんなら良いんだ。俺たちで食うし」

「久次、そのおにぎりよこせ」

「あん、……ってあんた膝にあったおにぎりどこやった」

「たべた」

「おい、一人三つで俺はまだ一つしか食ってねえんだから、これは俺のだろうが」

「ちっ」

「いや俺のまで食っててそれはねえだろ!」


 舌打ちをする静真が子供じみていて、久次はあきれた顔でおにぎりを食べている。そのやりとりがまるで小学生のじゃれあいじみていてほほえましい。

 結局、美奈がふてくされたように視線をそらして、おにぎりを食べなかったのは気になったが、橙子は肩の力が抜けるのを感じながら、牛しぐれのおにぎりを完食した。



 食べた後、久次達と共にやみ駅方面まで歩いてみると、向こう側へ渡るための連絡橋があった。

 しかし、その入り口はベニヤ板でふさがれ、その上からさらに板を釘で執拗に打ち付けてあり、上がることはできなかった。

 大した距離ではないのに近づくまでこの連絡橋が見えなかったのは気味が悪かったが、通れないのなら他の手を考えなければならない。


「赤いペンキで通行止めなんて書かなくて良いのにね……」

「いや、あれたぶんけつ……」

「けつ? なに?」

「なんでもない。なああんた、幽霊とか都市伝説とかあんまり信じないタイプか」


 妙に困惑した顔の久次に話しかけられて、橙子はきょとんとした。


「んーよくわからないわねえ。今までぜんっぜんそういうことに出会ったことはないけど現在進行形で妙な出来事に遭遇してるし。体験したら実感するしかないな、とは今思ってる」

「そういう心構えは悪くないぜ」

「ふふふ、それに一番怖いのは人間だと思ってるから」

「へ?」


 ぽろっと言えば、久次が目を丸くしていた。目つきの悪さが和らぎあどけない雰囲気になる。もしかしたらまだ未成年かもしれないな、と橙子は思いつつ曖昧に笑ってみせる。


「だって人間は殴ってくるし暴言吐いてくるし、好意を寄せられてもこじれるとひどいことになるからね。実害がある方がよっぽど困るから、それ以外はスルーすることにしてるのよ」

「ああ、ええっとそうか。これは実害のうちに入らないんだな」

 

 やたらと連絡橋を振り返る久次に、橙子は首をかしげた。とはいえ今は帰り方がわからないという実害が発生しているため、できる限り解決したい。外に何があるかわからず、ここが何かもわからない。見えない何かに閉じ込められてしまったような閉塞感が息苦しかった。


「やっぱり、改札から外に出るしかないんじゃないですか」


 やみ駅方面のホームで、美奈が再び主張した。やみ駅方面にも何もなく、ただうっすらと暗い闇が広がっていた。


「どこにも行き場がないものねえ」

「何を言っている。目の前にあるではないか」


 同意しかけた橙子に、淡々と言った静真が指さしたのは線路だった。


「ここからきたのだから、歩いて戻ればたどり着くだろう」

「まあ、それが確実だろ。もし電車が来たらよければいいわけだし。……くれば。だけどよ」

「ええと、線路に無断で立ち入ると罪に問われるんじゃなかったかしら」


 あ、なるほど。と思った橙子だったが、さすがに諸手で賛成できずに言えば、久次はきょとんとしたなぜか嬉しそうにした。


「ああそうだよな! 普通はそういう反応だよな! ありがとう深田さん!」

「え、ええ? なんでお礼?」

「いいんだ最近一般的な感覚を持ってる人に飢えてたもんでよ! それと、罪に関しては大丈夫だ。ここではむしろ普段禁じられていることをした方が良い」

「え?」

「誰が、何のためにこんな所に呼び寄せたかを考えりゃいい。帰り道であるはずの向こう側に行く道がわざわざ通せんぼ。真っ暗で見えないようになっている中、あの改札口だけが妙に主張している。……まるでここを通れ、と言わんばかりだよなあ」

「ねえ、なに言ってるんですか! 橙子ちゃん、こんな人たちにつきあってちゃいけないよ。わたしたちまで巻き込まれて怒られちゃう」


 久次の言葉はよくわからなかったが美奈がおびえた様に腕を引くのに、橙子は眉間に皺を寄せて考える。何を信じれば良いかまったくわからない。なぜなら橙子が歩んできた人生のなかでこんな理解のできない現象に遭遇したことがないからだ。

 いつもの常識から考えれば、美奈の言うことに従うのが正しいだろう。だが、


「線路、降りようか」

「橙子ちゃん!?」

「だって、久次くんたちの言うとおり、私たちが電車で通った道でしょ。ならつながってるってわかるから」

 

 結局。橙子は、自分があの改札が嫌だと思った感覚を優先した。後で怒られて罪に問われたとしても、甘んじて受けよう。


「では行くぞ。つまらんことにつきあわされるいわれはない」


 静真がさっさと歩き出してしまう。久次はホームをのぞき込んだ後、橙子を振り返った。


「階段もないみてえだから直接降りるしかないか……深田さん降りられるか」

「ちょっとパンプスじゃ厳しいかしら」

「んじゃあ俺が先降りるから、手を貸すぜ」


 なにせ、事務職なため運動神経に自信が持てなかった橙子が素直に言えば、久次があっさりと提案してくれた。スマートさにほんの少しだけときめく。

 久々の潤いである。無条件のさりげない好意というのは身に染みた。相手の意志を真っ向から無視した愛情表現など全力でご遠慮申し上げたい。

 しみじみ考えたところで、橙子ははてと首をかしげる。最近そのような迷惑を被った記憶がないのに、なぜそんなことを考えるのか。

 よくわからなかったが、先に静真が線路に消え、次いで久次が身軽に降りる。


「深田さん、手を出してくれ」


 ホームの端に少しだけ見える久次の上半身を見つつ、橙子が歩いていく。

 からん、からん。と鈴の音が響いた。

 神社にある鈴の様な重みのあるそれはホームには不釣り合いだ。しかし妙に不安を誘うそれに橙子が思わず足を止めたとたん、目を見開いた久次が何かを言いかけて、消えた。

 ホームの下で誰かに引っ張られた様な、そんな不自然な消え方だ。


「くっそ! 深田さ――!!」


 久次が叫ぶ声が聞こえたが、がらんがらん響く鈴の音のせいで内容まで聞き取れない。耳をふさぎたいほどの騒音だったが、久次に何が起きたか知るほうが先だ。

 しかし、ぐいと左腕を掴まれ引っ張られた。引っ張ったのは美奈だ。


「橙子ちゃん! 逃げよう!」

「美奈っ!? でも、彼らがっ」


 がらんがらんと鈴の音が響く中、その声だけが耳に飛び込んできた。

 橙子はとっさに足を踏ん張ったが、びちゃ、と足下を濡らしたものを見て青ざめる。

 鉄錆のような匂いが鼻腔をかすめる。ホームを濡らしていたのは、赤く粘度のある血液だった。

 そして一瞬、橙子は見た。枯れ木のように干からびた手のようなものがホームの縁をつかみ、上ってこようとするのを。

 あんな痩せ細った手が、動くはずがない。絶句する橙子を、美奈は青ざめた顔でぐいぐいと引きずっていった。

 腕をつかむ手は恐ろしく強く、ふりほどけなかった。

 焦りを帯びた歩調でも瞬く間にホームの中頃を過ぎていき、あっという間に改札口を越えた。

 真っ暗闇だった改札の向こうは、閑散としたロータリーになっていた。

 それ以外は何にもなかったが、本当にどこにでもありそうな駅前の光景に、橙子は肩の力が抜ける。

 美奈は橙子を引っ張ったまま、客待ちしていたタクシーに乗り込んだ。


「--町にいってください!」


 転がり込むように後部座席に乗り込んで息切れしていた橙子は、美奈が告げた町の名前がうまく聞き取れなかった。

 だが、あのやかましいほどだった鈴の音はやんでいる。

 滑るように発車したタクシーの中で、息を整えていた橙子はそっと自分の足を見てみた。

 ストッキングを湿らせているものは確かに赤くて、間違いようがない。明らかに害意のある存在がいたのだ。

 すう、と背筋が震える。血を流した久次と静真はどうなっただろう。

 騒々しくも親しそうな二人の顔が浮かんで、罪悪感がこみ上げてきた。無事を祈るしかないが、最近やっかいごとに遭遇する確率が高くて気が滅入りそうだ。


「ここまで来ればもう安心だよ。橙子ちゃん」


 と、美奈のほっとした声が響いて、橙子は強烈な違和に襲われた。

 そちらを向けば、安堵に顔をほころばせる彼女がいる。

 安心して良いはずだ。彼女は高校生の頃からの友人だったはず。にもかかわらずなぜか呼ばれることが不自然な気がした。


「ねえ、私、あなたのこと美奈って呼んでたっけ」


 自分でもずいぶん間抜けな問いかけだと思ったが、聞かずには居られなかった。案の定、美奈はきょとんとした後おかしげに吹き出す。


「え、やだなあ! 橙子ちゃん。3年間ずうっと一緒だったのに忘れちゃったの? 橙子ちゃんが甘いクッキーをブラックのコーヒーに浸して食べるのが好きなことも、勉強はまんべんなくやるけど、こつこつやるようなのが好きなコトも、面倒で男の人からの告白は全部断っていたのも知ってるのに」


 からからと笑う美奈に、だが橙子はつばを飲み込んだ。

 それは全部橙子に関することだ。しかし。


「あなたとの思い出は?」

 

 語られる話に、橙子と共通した思い出は一切なかった。

 ぴたり、と美奈の笑い声がやむ。

 橙子は頭にかかっていた薄もやが晴れてゆく代わりに、ひたひたと背筋を這い上って行くような不安が押し寄せてくる。

 橙子は彼女のことを一度も下の名前で呼んだことはないし、彼女と親しくした記憶もない。

 脳裏に浮かんだのは、久次の言葉だった。


『かたす、やみ、って言うのは、どちらも死後の世界にある堅州の国と黄泉の国に通じる』


 死後の世界。あのときは遠い世界のことのようだと聞き流していたが、今は明確にある記憶と結びついていた。

 なぜ、忘れていたのだろう。

 橙子が疲れていたのは残業だけではない。数日前に友人の訃報を聞いたからだ。高校在学中慕ってくれた同級生で、だが時が経つにつれてその好意は度を超し始め、他の友人の協力で距離を置いた人間。

 ごくりと、つばを飲み込んで、橙子は傍らにいる女性を見る。


「あなたは、死んだはずよね」


 美奈は、にいと笑った。心底嬉しそうでいながら、こちらを不安にさせるような笑顔だった。


「大好きだったのもっともっと仲良くなりたかったの。橙子ちゃんを縛り付ける忌々しい豚たちのせいで離ればなれだったけど、わたしその間も橙子ちゃんのことずっとずっとずっとずぅっと思っていたの。それなのに一緒にいられないでしょ。だから寂しくて寂しくて死んじゃった。びっくりだよね。恋煩いで死ねるんだもの。でもでもそれだけわたし橙子ちゃんのこと大好きだったの大好きで大好きで大好きで大好きでやあっと気がついたの! 

――――この世がだめならあの世があるじゃないって」


 言葉を重ねるたびに、美奈だったもの額がめり、と割れぬらぬらと赤い血を垂れ流しながら白い物が伸びてくる。

 それは橙子には鬼の角に見えた。


「ねえ、橙子ちゃん。一緒に死んで?」


 ほがらかに告げた美奈だったものは橙子の腕をがっとつかむ。離さないと言わんばかりに強いその手は、氷のように冷たい。その口はぬらぬらと血を含んだかのように赤く染まっていた。

 美奈だったものはケタケタと笑いながら、橙子の頬に手を伸ばしてくる。

 湿り気を帯びたぞっとずるほど冷たい手に、橙子は鳥肌が立った。


「あんな穢れた男たちの邪魔が入ったけれど、ああとうとういっしょにいられるんだよ橙子ちゃん嬉しい!」


 全く嬉しくない。しかし橙子は全力で思ったが腕を引き抜こうとしてもびくともしない。

 橙子はとっさに助けを求めようと運転手を見たが、運転席に座っていたのは人の形をした肉塊だった。

 にもかかわらずタクシーは風を切るように暗がりを走って行く。見なきゃよかったと思った。

 なぜ今まで気づかなかったのだろうという腐臭に橙子が息をのんでいる間に、頬をなぜていた美奈の手が徐々に首に降りてくる。


 これはもうだめかもしれない。

 目の間のにたにたとした美奈を見たくなくて、橙子が助手席のほうへ顔を背けたとき、かすかな悲鳴がひびいた。

 橙子は声を上げていない。だがどんっっ!とすさまじい衝撃と共に、ボンネットに人影が降り立った。


 一つに結わえた髪を翻し青年は、静真だ。

 その目と視線が絡んだと橙子が感じたとたん、フロントガラスが粉々になった。


「きゃあっ!」


 とたん、車体が大きく揺れ橙子は悲鳴を上げる。

 喉にかかっていた手が離れたが、橙子はとっさに座席と天井の取っ手を握って耐えた。

 永遠のように振り回されるのに耐えていると、不意に橙子の背後のドアが開いた。


「深田さんっ来い!」


 乱暴に言いながらさしのべられた久次の手を、橙子はあふれるような安堵のまま握って外に出た。



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