3-9 拒絶の炎と小さな手(前編)
「予定変更だ。やっぱ迎え撃つぞ!」
逃亡劇から迎撃戦へ。決断した相方へとニルヴェアは反射的に叫ぶ。
「いいのか!?」
「たしか灰牙狼には天敵がいたはずなんだよ。あいつらが逃げてるとしたらたぶんそいつからだ。そんでもしこの追いかけっこの最中にそいつが突っ込んできて混戦になったら、それが一番最悪だと思う。だからそうなる前に狼たちを速攻で倒して、そいつらを餌に俺たちはさっさと逃げるって寸法だ」
レイズは一通り説明すると、バイクのスピードを緩めて後ろを振り返り、狼たちの様子を確認した。
長い下り坂の奥、5頭の灰牙狼はニルヴェアが様子を伺ったときと同じく、必死な形相で走り続けている。
「確かにありゃ狩りどころじゃなさそうだな。統率が取れてないし、群れが控えてるわけでもなさそうだ。よし……ここで一気に畳むぞ、ニア!」
レイズはそう叫ぶやいなや、バイクのブレーキを一気に踏んだ。
ズザザザザザッ、とタイヤで地面を擦ってドリフト。車体の側面を狼の群れに向けると、背負っていた琥珀銃を素早く構えて――
「まず1体!」
エネルギー弾を解き放った。紅の光が一直線に空を切り裂き、1頭の灰牙狼。その鼻っ面へと着弾した。瞬間、紅が眩く煌めいて膨張、爆発。
『ギャインッ!?』
灰牙狼は悲鳴を上げて吹き飛んだ。そしてそのまま坂道をごろごろと転がっていき、その向こうへと姿を消した。そんな仲間の姿を見て、残る4頭の狼たちが足を止めた。
目の前に、敵がいる。
狼たちはようやくそれを認識して、平静さを取り戻したらしい。彼らはすぐさま密集すると、警戒心に満ちた瞳でレイズを睨んだ。
対するレイズもまた、琥珀銃を狼たちへと向けたままバイクを降りて戦闘態勢に入る。
「ニア、俺が前に出てやつらの気を惹くからフォローを……」
ふと、レイズの眼前で金色のポニーテールがふわりとなびいた。
「仲間外れにするなよ」
ニルヴェアはすでに、レイズの一歩前へと出ていた。レイズは少し驚いて、しかしすぐニルヴェアへと問う。
「びびってねーか? 無理はすんなよ」
「この道中で何度獣と遭遇したと思ってるんだ? いい加減に慣れてきた、っていうか慣れなきゃこの旅の意味がないだろ」
凛とした声と、無駄に堂々とした背中。それがレイズの決断を促した。
「ったく、しゃあない……なら1人2匹だ! しくじるなよ!」
レイズは声を張り上げて、ニルヴェアの背から一気に飛び出した。
『!』
狼たちの方もレイズの動きには反応した。が、しかし彼らが動くよりも早くレイズの銃が光を発した。放たれたエネルギー弾が狼たちの中心へとねじこまれる。
だがそれが着弾する前に、狼たちも動いた。彼らは左右へと散開することでエネルギー弾を躱したのだ。ただし、群れの分断と引き換えに。
2匹と2匹。左右に別れた塊に向かってレイズが、そしてニルヴェアがそれぞれ別れて飛び込んでいく。
果たしてニルヴェアが2匹の狼の前に躍り出たとき、彼らもまたニルヴェアへと照準を定めてきた。狂暴な獣の血走った瞳がニルヴェアを貫く。
「っ!」
ニルヴェアはほんの一瞬息を飲んだが、しかしすぐにそれを振り払って思考を切り替える。
(びびってる暇があるなら倒す策を考えろ。まずは隙を作るとこから!)
ニルヴェアは視線を狼へと固定したまま、腰ベルトのポケットに手を添えて指を突っ込んだ。ベルトに付いたポケットは3つ。それぞれに入っている”玉”の配置はしっかりと覚えてある。だからポケットに目を向けることなく玉をひとつ抜き取り、そして叫ぶ。
「閃光、使うぞ!」
視界を塞ぐ玉を使うときは、非常時を除いて明確な形で合図をすること。それが2人で決めていた約束だった。
「こっちは気にすんな!」
相方からの許可を聞き、ニルヴェアは意を決した。そのときには狼は2頭とも、すでに己に向かって走り出してきていた。
ゆえにニルヴェアは目を瞑って顔を背けた――それは恐怖から、ではなく立ち向かうために。
瞬間、ニルヴェアと狼を眩い光が包み込んだ。それはニルヴェアが地面に叩きつけた閃光玉の光であった。
『ギャウッ!?』
狼の悲鳴が耳に入った直後、ニルヴェアはすぐに目を開けて顔を正面へと向けた。すると真っ先に視界に入ったのは一頭の、視界を潰されて怯んだ狼だった。
だからニルヴェアは即座に動いた。狼の眼前まで一飛びで踏み込むと、体に覚えさせた技を引っ張り出す。
(左足を軸に、腰を捻って、勢いを全体に伝えて……!)
しなやかな肉体をバネにして、右足をぶん回す!
「っせい!」
ゴスッ! と鈍い音を立てて、ニルヴェア渾身の回し蹴りが狼の頭を直撃した。その瞬間、足の脛からぐわんと響いたのは確かな手応え。そして視界には地面を跳ねて転がる狼の姿が映っていた。ニルヴェアは口端を僅かに上げ、勝利を確信する。
(まずは一頭)
しかし油断は禁物。勝利の余韻に浸ることなく態勢を立て直し、視線を動かして探すべくは。
(あと1頭。そいつも目が潰れている内に――っ!?)
不意に、ニルヴェアの視界を灰色が覆う。それは灰色の毛と、灰色の牙。
「このっ……!」
反射的に両腕を動かす。右手で腰からハンドガンを引き抜き、左腕を盾にして守る。それを実行した直後、灰牙狼が覆い被さってきた。そして少女の体はあっけなく押し倒された。
「だっ!?」
背中から地面に叩きつけられて、鈍い痛みが走った。さらに、盾にした左腕にも狼の前足が乗っており、その短い爪がニルヴェアの腕の皮を今もぶちぶちと貫いていた。
(ぐっ……しまった! 最初の1頭だけ見て、2頭目にも効いてるって思い込んでた……!)
脳内で反省する間にも、狼の鋭い牙は容赦なくニルヴェアの顔を喰らって――いなかった。
(でも、運が良い)
狼の口内に、1本の銃がつっかえ棒のように突っ込まれていたからだ。そう。それはニルヴェアが押し倒されながらも突っ込んだハンドガンであった。
(運が良い。運が良い)
依然、脅威は眼前に在る。
開きっぱなしの獣口からは嫌な生温さと、鼻をつまみたくなるような悪臭が漂っている。さらに口内からは涎が絶えず垂れてきており、その下にあるニルヴェアの体を今も濡らしている。それでもニルヴェアは腕を引き抜かない。その細腕の上下に、ギロチンのごとく鋭い牙が待ち構えていたとしても。
(運が良い。運が良い!)
怖気が、鳥肌が、問答無用で全身を駆け巡る。それでも。
――いいかニア。いつでも使える超すごい呪文をひとつ、教えてやる
修行の最中で伝授された魔法の呪文。それこそが!
(死んでないなら、運が良い!!)
ニルヴェアは胸中で唱え、そして眼前へと吠える。
「っあああ!」
叫びと共にトリガーを引く。一度二度三度がむしゃらに連射しながら、腕を一気に引き抜いた。その途端に、
『ギャウッ!?』
狼が飛びあがり、ひっくり返って、ごろごろとその場を転げまわった。それは間違いなく狼にダメージを与えた証だった。
無論、即死とはいかない。なぜならハンドガンの殺傷能力自体はごく低いからだ。その豆粒のようなエネルギー弾では軽度の火傷が精々だが、しかし軽度とはいえ皮膚を焼くのだから当たりどころ次第では馬鹿にならない。
現に、口内という柔らかい部分を焼かれた狼はパニックに陥っているようだった。
(隙ができた、なら一気にぶちこめ!)
ニルヴェアはすぐに立ち上がった。未だのたうち回っている狼の下へと駆け寄りながら、ハンドガンを持ち替える。彼女はその銃身をあえて持ち手として握ると、本来持ち手だったはずの短いグリップを――狼の頭へと、全力で叩きつける。
女子供や初心者でも扱える、取り回しの良さとシンプルさ。
そんなコンセプトから生み出された
つまるところ狼の頭蓋に振り下ろされたのは、単純に硬い鉄の塊だった。
ごすっ。鈍い音が一つ鳴った。
狼はあっけなく、糸が切れたようにその場へと崩れ落ちた。
ニルヴェアは、倒れ伏す狼を視界に収めながらその場に立ち尽くした。
彼女の表情には、恐怖と興奮が入り混じっていて……。
「はぁ、はぁっ……」
不意に、背筋が震える。
「っ!」
半ば直感的に振り返れば、視線の先では狼がふらふらと立ち上がっていた。それは、先ほど回し蹴りで倒したはずの一頭目であった。
(仕留めきれてなかったのか)
ニルヴェアがそれに気づいたとき、狼は顔を上げた。
獣とニルヴェア、両者の視線がかち合う……それを合図に、狼が走りだした。身を低くして、一直線に襲い掛かってくる。
そして……その狼の姿勢が、ニルヴェアの中に閃きを呼びこむ。
(そうだ、狼の視界は僕よりも低い。そしてここは森の中。ならば僕はもっと、高く――)
しかしその思考を切り裂くように、狼は真正面から飛び掛かってきた。
だがニルヴェアも臆さない。彼女は咄嗟に左へと動くことで狼の軌道から身を外した。そうして空いた空間へと、すぐに狼が飛び込んだ。
『グウッ』
躱された。狼はそれを理解して唸りを上げつつも、すぐにニルヴェアが逃げたはずの左方向へと目を向けた。それはもちろん追撃のため、だったが――そこに、ニルヴェアの姿はなかった。その代わりに、1本の樹が立っている。
狼はほんの一瞬きょとんとして、しかしすぐに周囲を見渡して――
『ガッ!?』
頭蓋に響く打撃音と共に、その視界が黒く染まった。
狼の頭には
そしてそれを振り下ろしたのはニルヴェアであった。彼女はすぐに蹴り込んだ反動を利用してジャンプ、地面に着地してから正面へと目を向けた。その直後、彼女の目の前で一頭の狼がどさりと倒れた。
狼は倒れたまま動かない。ニルヴェアはそれを確認して、ほっと一息つく。
「上手くいって良かった」
いわゆる踵落としというやつだった。ニルヴェアは樹を蹴って、狼の視界が届かぬ真上へと跳躍してからそれを放ったのだ。
「敵も、自分も、周囲の状況も。全部を生かして追い風に変えろ……レイズの受け売りも少しは身についてきた、かな」
ニルヴェアはそう呟いてから、視線を動かし始めた。先ほど、自分とは別に2頭の狼を相手取ったはずのレイズの方へと。
(あいつのことだから、どうせ僕よりも早く戦闘を終わらせているだろう)
なんて気楽に考えながら。
「レイズ。そっちは」
――赤銅色の髪と紅い光が、視界の中で舞う。
「!?」
驚愕に固まるニルヴェア。その顔のすぐ横を、”光の槍”が打ち貫く。
『ギャッ』
獣の悲鳴。どさりと何かが落ちた音。
ニルヴェアが反射的に後ろを向く。すると彼女の足元では、一頭の狼が顔の半分ほどを焼き貫かれて絶命していた。
「最初に銃でぶっ飛ばしたやつだな」
「!」
ニルヴェアが再び振り返ると、そこにはレイズが立っていた。彼の琥珀銃からは、今も光の槍が伸びている。
「獣は人よりもずっとしぶとい。殺すまで油断できないって教えたろ」
静かな口調でそう言い放ったレイズに対して、ニルヴェアはただ謝ることしかできなかった。
「す、すまない……」
「……ま、でもこんだけ動けりゃ上出来だろ。つーわけで処理だけ済ませとくからちょっと待ってろ」
レイズはそれだけ告げると、すぐに”処理”を始める。
それは、いたって単純で簡単だった。
レイズはニルヴェアが気絶させた2頭の狼。そのうちの1頭の前に立つと……じゅっ。光の槍で、狼の頭を貫いた。
これで処理は終わり。
その瞬間、どくんっと跳ねた――ニルヴェアの心臓が。
「レ、レイズ」
ニルヴェアは反射的に追いかけようとした。1歩を踏み出して、腰のベルトに仕舞ってあるサバイバルナイフへと手を添えて。
しかし……そこまでだった。
「っ……!」
ニルヴェアの体はひたすらに固まっていた。心臓だけが、その中でどくどくと激しく脈を打っている。
やがて、レイズが2頭目の狼も処理した。
全部終わった。レイズは光の槍を消した。そして、ニルヴェアは。
「ごめん」
ただ、それだけを呟いた。
するとレイズはそれに気づいて、ニルヴェアへと目を向けた。しかしその目に、ニルヴェアを責める意思は全くなかった。
「謝ることじゃない。気にすんな」
ニルヴェアの胸に、ずきりと痛みが走る。
(なんで怒らないんだよ)
ニルヴェアは望んでいた。己が未熟さを突き付けられることを。甘さを咎められることを。
なのに、レイズは優しく言い聞かせてくる。
「強くなることと、獣を殺せることはイコールじゃない。なんつうかさ、きっと”そういう気持ち”は無いより有った方が人として正しいんだよ。特にお前はさ……この旅が終わったら、今まで通りの屋敷暮らしに戻るんだろ? だったら尚更、大事にした方がいいはずだ」
「それは……!」
「お前は自分を護れるくらいに強くなればそれでいい。こういうのは、俺に任せろ」
「っ……!」
ニルヴェアが手を伸ばした。己が心の中だけで、どこにも届かない小さな手を。
(レイズが遠のいていく。試験を受けて、修行をつけてもらって、少しずつでも近づけてきたと思ったのに)
ニルヴェアの胸中で焦燥が渦を巻く。
(お前に全部押し付けたくないのに。早くお前の助けになりたいのに。なのに、なんで……!)
焦燥が、苛立ちへと変わっていく。そして苛立ちが口を開かせ、
「レイズ、お前の言葉はいつも優しいな」
感情を、形にしてしまう。
「ニア?」
「それでもお前は、旅を続けるんだろ」
蒼の瞳には紅の少年が、そして未熟な己自身が映っている。埋まらない力の差、照らされてしまう心の弱さ。
「旅をする限り、お前は戦い続ける。獣を殺し続ける。きっと必要となれば……人でさえも」
それは誰への当てつけか。得体の知れない濁りを吐き出して……風通しが良くなったおかげか、すぐ我に返った。
(あ、僕は、なんてことを)
子供じみた癇癪。残酷な理への糾弾。違う、そんなことをしたかったわけじゃないのに。
「レイズ。違うんだ、今のは」
「そうだな」
「――!」
ニルヴェアが目を見開いた。
しかしその視界の中、レイズの表情はなにひとつ変わらない。
まるで凪いだ水面のように、彼は穏やかだった。
「他の命を奪ってでも生きていたい。それだけで俺は戦えるんだ」
レイズはゆっくりと背中を向けて、そしてただ静かに言う。
「所詮ただの流れ者だからさ、俺は」
(そんなこと、言うなよ)
ぐんにゃりと、ニルヴェアの視界が歪んだ。
(そんなこと言うなよ! いつもみたいにナガレの流儀とか言い張ってくれよ! 僕は、僕はお前がお前だから……!)
そこにあるはずの少年の背中が、遠く遠くへと離れていく。
(いつも優しく手を差し伸べてきて、そのくせ優しく突き放して、きっとお前にとって僕は護るべき存在でしかなくて、そうじゃないって言いたいのに!)
いくら手を伸ばしたって、ちっぽけな手じゃなにひとつ掴めない。
(もっと怒って欲しいのに! もっと頼って欲しいのに!)
無論、全てはニルヴェアの心象風景だ。
現実としてレイズの背中は目の前にあるし、手を伸ばせばすぐに掴める。それでもニルヴェアの体は動かない。
(僕が弱いから? お前の隣に立つ”資格”がないから? だったら、僕だって……!)
――いざというときは覚悟を決める。そのくらいの覚悟はできているつもりだ
無力感が、全身の力を奪う。
(できている、って思っていたのに)
ニルヴェアは半ば無自覚のうちに、右手を動かしていた。彼女は縋るように腰のナイフへと……なにひとつ斬れないお守りとは違う、本物の刃へと手を添えて――
蒼の月光。
紅の鮮血。
己を庇って、崩れ落ちた少女の姿が
「ニア」
不意に呼ばれて、視界に現実が戻ってきた。
今、そこにあるのはレイズの横顔。彼の表情は、いつの間にか警戒心に満ちていた。
「やばいのが来る。少し下がってろ」
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