3-2 心と体とそして技

 ――約束の日まで残り14日――


 日はもうすっかり昇っていた。白雲がのどかに空を泳ぎ、太陽の光がぽかぽかと草原を照らしている。今日は絶好の修行日和!

 ……だというのに。


「痛い、痛い。なにこれ、こんなの知らない……」


 ニルヴェアはテントの中でぐったりと倒れ、うめいていた。

 その理由は単純明快。昨日の”試験”の疲労が一晩明けて筋肉痛へと変わったのだ。うつ伏せの姿勢からすっかり動けなくなった彼女に、しかし救いの手は突然ひょっこりと現れる。


「ニア、入っていいか?」

「う。レイズか……いいけど……」


 了承を受けてテントの中へと入ってきたレイズ。彼はニルヴェアの様子を直に見ておおよその事情を察した。


「いつまで経っても起きてこないと思ったら……やっぱりこうなったか。ほれ、湿布持ってきてやったぞ。自分で貼れるか?」


 レイズは持ってきていた数枚の湿布を見せたものの、ニルヴェアの反応は芳しくない。


「……悪いけど、貼ってくれるか……」

「すっかり萎びてんな。いつもの元気はどこいった?」


 レイズは苦笑しつつニルヴェアの背へと回り、さっそく湿布を……と、彼はそこで気づく。


(湿布を貼るってことは、こいつの肌に触ったりシャツを捲り上げたり……)


 レイズの体が固まった。そのままざっくり5秒ほど、


「レイズ?」

「あ。いや。大丈夫、大丈夫。今から貼る、うん」


 レイズは慌てて我に返ると、意を決してニルヴェアの小さな背中へと手を伸ばした。

 2人の彼我を隔てる物は薄手のシャツが1枚のみ。レイズは横目でちらちらと見たり見なかったりしながら、シャツをそっと捲ってその下にある柔肌を視界に入れて――


「……!」


 少年の目が、大きく開いた。

 視界の中心。少女の白い背中には、ところどころに青い痣ができていた。昨日レイズに散々こかされて、何度も背中を打ち付けた。その痛々しい痕跡が、レイズの頭をすっと冷やした。


「昨日は、悪かったな」


 ぽつりとこぼれたその一言。それが意味するところをニルヴェアもまた理解していた。

 しかし、だからこそ……彼女はくすりとほほ笑んで。


「急にしおらしくなったな。昨日は『お前を好きにできる』とかひどいこと言いながら押し倒してきたくせに」

「いや、その、あれは! そういう意味じゃなくて!」

「そういう意味ってどういう意味だよ。ほんと、変なとこでうぶなやつ――」


 ぺちゃっ。青痣の上に湿布が叩きつけられた。


「うひゃあ!」


 背中を襲ったひやっと冷たい感触に、少女の喉から悲鳴が上がった。しかし少年はためらわず、眼前の白い背中に次々と湿布を貼っていく。


「ニアのくせに生意気なんだよ!」

「ちょ、つめたっ、わひゃっ」

「いちいち身をよじるな声出すな! 男なら大人しく我慢しろ!」


 そんなこんなで貼り終わり。

 そんなこんなでニルヴェアは……なんだかすっかり蕩けていた。


「うあー、これすごい良い……いっそ全身に貼りたい……」

「おいおい。それはさすがに臭いがヤバいだろ……これから街に行くってのにさ」

「え、なにそれ。聞いてない…………行ってらっしゃい……」

「諦めるの早いなおい! ったく、こりゃ思ったより重症だな……しゃあない。とりあえず寝たままでいいからちょっと聞け」


 レイズはもう知っていた。すっかり萎びたニルヴェアの、この本来は好奇心旺盛な相方の活力を取り戻す特効薬を。だから彼は腰を降ろして口を開く。


「約束の日まで残り14日。その間に俺が課そうと思ってる”修行”ってやつについて、ざっくりと説明してやる」

「むっ」


 案の定、ニルヴェアの目つきがちょーっと変わった。レイズはそれを見計らって語りだす。


「『しんたい』。アカツキ曰く、リョウランにはそういう考え方が昔からあるらしい」

「それ……聞いたことある。『心に雑念あらばそれは技に伝わり、技を持たざれば体を持て余し、体が鈍れば心を映せず』……だったか?」

「あー、俺がアカツキから聞いたのはもうちょい違ってたけど、まぁ大体そんなもんか。要は”心”と”技”と”体”。その全てが充実してこそ、人は初めて自分の本領を100%発揮できるってこったな」

「……ということは、僕はそれらを鍛えろ。そういう話なのか?」

「正確には足りない部分をこの期間で補強して、お前の100%を引き出せるようにする。それができれば最低限、自衛ぐらいはできるはずだ」

「僕の100%……? でも……」


 ニルヴェアの脳裏には自然と浮かんだ。昨日、散々レイズに打ちのめされた事実が。


「全力ならあのときだって。だけど全然……」

「昨日の試験のこと言ってんなら、あれは要するに心と技が体に追いついてないってだけだ。『一発だけ当てればいい。それぐらいならやれるはず』そういう雑念が攻撃を甘くした。それにそもそもお前には経験も知識もないんだから、あの場で俺に1発当てるための技なんて最初からなかったんだよ。最後の1発を除いて、な」

「なんだよ。やっぱ全然駄目じゃないか……」

「凹むのはいいけどほどほどにな。まだ話は終わってねーんだから」

「え?」

「言ったろ? 体に追いついてないだけだって。昨日の試験……それに今までの獣や荒くれ者との戦いぶりなんかも見てて思ったけど、身体能力それ自体は普通に高いっぽいからなお前」

「本当か!?」


 ニルヴェアはピコッと反応して、ガバッと起き上がって、


「はぅっ……!」


 再び地べたへと倒れ伏した。そんな一連の動作に対して、レイズはぽつりと感想ひとつ。


「馬鹿だなぁ」

「うるさい……」

「ははっ。まぁでもさ……たしか屋敷で自主練してたんだろ? ならそれがちゃんと活きてるってことだ。体を作るのは毎日の地道な積み重ねだからな……よく頑張ったじゃん」

「……!」


 その途端、ニルヴェアの表情がみるみるうちに変わっていった。


「ふ、ふふふ……」

「なんだいきなり。ちょっと怖いぞお前」

「ちなみに」

「あ?」

「ちなみにどこが良かったとか、なんかこう、もっと詳しく聞きたい」

「おい雑念出てきてんぞー」


 いかにも調子に乗った要求であった。

 レイズはそれに呆れながらも、しかしどこか楽しげな表情を見せる。


「でもそうだな……あぁ、昨日のバク転なんかは結構驚いたな。あれは俺でもできるかちょっと分からんし」

「バク転……そんなのやったか……?」

「なに、覚えてないの? 俺が、その、押し倒したあとにだな、お前が手に爪を喰い込ませて……」

「む。なんか微妙に思い出してきた……でもあのときは無我夢中だったし、お前に押し倒された印象が強すぎてな」

「ぐ、この……!」

「あはは、冗談だよ冗談。でもバク転か……実はそれも練習したことあるんだよな、昔。だってできるとかっこいいかなって思って、でもそのときはできなかったんだが……」


 それを聞いたレイズは、ニルヴェアの四肢へと目を向けた。簡素な半袖半ズボンから出ている細い四肢へと。

 それからレイズはすぐにひとつの仮定を挙げる。


「女になって、体が柔らかくなったから……かもな」

「あ……なるほど。その可能性もあるのか」

「可能性っつうか、もうそういうことにしとこう。その体も捨てたもんじゃないな!」

「はぁ!? 雑だな他人事だと思って!」


 レイズの大雑把な結論にニルヴェアは当然怒ったが、しかし当の本人はどこ吹く風とばかりにニヒヒと笑った。


「いいじゃねぇか。なんでも前向きに考えて、使える物はなんでも使えよ。それが新しい体だろうがな」

「……それも、ナガレの流儀なのか」

「ま、そういうことだ」

「なら……分かった」

「おお。妙に物分かりがいいな?」

「妙にってなんだよ。その『ナガレの流儀』っていうのも言ってみれば修行のひとつなんだろ。要はお前なりの心構えなんだし」

「お、分かってんじゃん。つーわけでまとめると、そこそこ動けるお前の体に残る2つ。心と技を追いつかせる。それが、この14日でお前にやって欲しいことになる。オーケー?」

「オーケー、だけど……」


 ニルヴェアにはひとつの疑問があった。

 体が、日々の積み重ねの結実というのなら。


「心と技……その2つも体と同じく、毎日の積み重ねが大事なんじゃないのか?」

「まーそこら辺もピンキリだな。まず心に関してだけど、まぁなんつうか心って一口に言っても色々あるだろ。たとえばそうだな……お前自身の覚悟的なやつだと俺からは何も言えないと思う。だけどその一方で、俺が教えられることも結構あるはずだ。それこそナガレとして培ってきた旅や戦闘への心構え、とかな」

「それがナガレの流儀……だよな」

「そうそう。さっきも言ったろ、『使える物はなんでも使え』って。あれもだいぶ真面目な話なんだぜ? なにせ格上ってのは、普通にやっても勝てないからこそ格上なんだ」

格上狩りジャイアントキリング……」


 ――それでもやりたいことを捻じ込んでまかり通す。そんな術ならそれなりに覚えがあるし、きっとお前が今一番望むものでもあるはずだ


「味方、相手、周囲の状況。全部をよく見て、時には突然のアクシデントさえも追い風に変えて、ワンチャンスをこじ開ける。勝機は一瞬かもしれないけど、一瞬でも見えればあとはそこにぶちこむだけだ。その過程がどんなにかっこ悪くても、まかり通っちまえばかっこいいし気持ちいい。そういうもんだろ?」


 それを聞いて、ニルヴェアはハッとした。


「それは、試験の……」

「ほら、これでひとつ覚えたな」

「!」


 ――かっこ悪く足掻いてでもかっこ良く生きるのがナガレの流儀。お前、案外ナガレ向きかもな


「……そうだな。うん、絶対に忘れない」

「だったらよし! それでだな、この心構えってのは技にも直結してくるわけだ」

「技にも? どういうことだ?」

「それはあとでのお楽しみ」

「なんだよそれ!」

「続きは街に行ってからってことだよ。つーわけで、ぼちぼち立てるか?」

「む、無茶言うなよ……!」


 ニルヴェアはそう毒づきながらも、なんとか立ち上がろうと動き始める。


「んぐぐ……!」


 手足で体を支え、腰をぷるぷると持ち上げ、た……ところで、ぺしゃり。力が抜けて、再び床へと倒れ伏した。


「……しんどい」

「マジで立てない?」

「やろうと思えばやれるから」

「じゃあやれや」

「でもあと1日だけ待って……痛いし重いしこのまま寝たい……」


 寝たいというか、むしろ寝そう。ニルヴェアの瞼はすでにじわじわと落ちかけていた、が。


「剣士が技を振るうには剣が必要であるように、ナガレの心構えを技として活かすのにも必要な物がある」

「へ……?」

「今日はお前の装備を見繕ってやろうと思ったんだけどなー」

「装備」


 瞼はすぐ、ぱっちりと開いた。


「道具に服、それに武器だって色々あるんだけどなー」

「道具に服、それに武器」

「お前、見た目にもこだわりあるみたいだし色々見て回ろうと思ったんだけどなー。この街にはナガレ御用達の、見た目よし機能性良しの有名ブランドの店もあったんだけどなー。でもしょうがねぇよなー、お前立てねえもんなー。よしこうなったら俺が勝手に――」


 ニルヴェアが立ち上がるまで、時間はそうかからなかった。



◇■◇



 旅客屋。

 そう呼ばれる類の店が、このグラド大陸の各地には存在する。

 それはあくまでも通称であり、店によって取り扱う品物は様々だが……しかし旅客屋には総じて共通する特徴がひとつだけあった。

 それは旅客民向け、つまり旅の必需品を揃えた専門店であることだ。

 例えば旅向けの動きやすく丈夫な軽装。とりあえず1本は持っておくと便利なサバイバルナイフ。あるいはテント、携帯食料、獣除けの香などなど……。


「本当に色々売ってるんだな……なぁレイズ、これはなんだ?」

「一口で旅客民っつっても需要は色々だしな。そんでそりゃ折り畳み式の琥珀灯だ。なんかでっぱりあるだろ? それを上に引っ張って縦に開くと、それだけで灯りが点くんだよ」

「なるほど……」


 ニルヴェアがレイズに連れられてやってきたのも、その旅客屋のひとつであった。

 例のごとく例によって、ニルヴェアは物珍しい品々に目移りしていたのだが……


「楽しそうなのはいいけど、ぼちぼち説明始めるぞ?」


 レイズの言葉に対し、慌ててシャキッと姿勢を正した。レイズはそんなニルヴェアの様子に苦笑をひとつこぼしてから説明を始める。


「『心構えが技に直結する』ってのは、要するにどういう戦い方をしたいかってことだ。まず自分なりに戦うための心構えや持論があって、だったら実際にはどうやって戦う? ってのを突き詰めていくわけだ。誰であろうと技の根幹には心がある、とも言えるかな」

「なるほど……そう言われるとなんかイメージできたかも」

「で、これは俺なりの持論なんだけど……格上狩りの基本ってのはとにもかくにも”隙”を作ることにあるんだと思う」

「隙を作る……格上相手なのにか?」


 そのときニルヴェアの頭に思い浮かんだのは、彼女にとって格上筆頭であるヴァルフレアだった。

 二刀を緩く握り、柳のようにゆらりと立つのが彼の構えだ。それは一種の脱力状態なのだとか。体の力は抜き、神経だけを研ぎ澄ませる。周囲の気配を色濃く感じ、あらゆる変化に対して瞬時に対応するための戦型。


(……隙を作る。イメージが、全く浮かばない……)


 ニルヴェアはついつい眉にしわを寄せてしまった。だがレイズは「だからこそだ」と前置きしてから説明を再開する。


「相手の方が力強いのに力押しなんてできっこないだろ。だから僅かな隙を作って、それをこじ開けて、最後にでかいのを1発ぶちこむ……敵がどれだけ強かろうが獣だろうが人間だろうがあるいは生き物じゃなかろうが……それでもどっかに弱点は必ずあるんだ。極端な話、ぐっすり眠ってるところに心臓ぐさっとされたらまぁ死ぬだろ大抵のやつは」

「逆に死なないやつもいるのか……? というか本当に極端な話だなそれ」

「おう。でもぐっすりすやすやが無理だろうと……例えば、3秒あれば心臓ぐさっとするには十分だとする。たったの3秒だ。それなら……」


 レイズはいきなり左手をぶらりと上げてから、そのまま話を続ける。


「例えば相手が片手剣使いだったとして、そいつが剣を振ってきたときに俺の左手を犠牲にして受け止める……気合入れて受け止めれば、まぁ3秒ぐらいはイケそうじゃん? あとは空いた右手でナイフを握ってぐさっとするだけだ。簡単だろ?」


 ニルヴェアの顔から、さっと血の気が引いた。


「物騒な例えをするな! それもそれで極端だし!」

「まぁな。そりゃ隙を作るためっつっても一々自分を犠牲にしてたら、割に合わないどころの話じゃない。だから実際は武器とか道具とかあの手この手を使うわけだ。そんで……」


 レイズはぷらぷら持ち上げていた左手を、そのまま自身の左側へと伸ばしていった。その手の先にあったのは、いくつもの商品が置かれている大きな棚だった。

 レイズはそこから一つの物を摘まみ取ると、それをニルヴェアに見せた。


「隙を作る。そのために俺が一番よく使う道具がこの”玉”だ」


 ”玉”の大きさはおよそ親指サイズで、その色は灰一色だった。

 ニルヴェアはそれをまじまじと覗き込んだ。彼女の記憶にそれと一致する物はなかったが……


(玉っていうとレイズとか、あと荒くれ者も使ってた……)


 ニルヴェアは脳裏に浮かんだ道具類を口に出してみる。


「煙玉に閃光玉……いわゆる目くらまし系の道具か?」

「その2つは玉の中でも最もポピュラーな物に当たるな。”玉”それ自体はそうだな……一種の共通規格を持った道具群の総称、って言えばいいのか? 地面に叩きつける、あるいは指で潰すとか、一定の圧力を加えれば起爆する親指サイズの道具。そういうのは大体ナントカ玉って名前になるんだ」

「ふーん。それじゃあ、煙玉と閃光玉以外にもあるのか?」

「もちろん。まぁ戦闘で使える物ばかりじゃないけど……あ。例えばこれとか地味に便利だな」


 そう言いながらレイズが棚から取ったのは、先日のスライムグローブに似た材質らしき半透明でぶよぶよした玉だった。


「名前はそのまんま『水玉』って言うんだ。中にはちょっと粘っこい水が入っていて、主に火を消すのに使う。あ、もちろん食用じゃないからな」

「うーん、便利なようなそうでもないような……」

「焚き火を急いで処理したいときとかな、地味に便利なんだぜ? ま、それはそれとしてだ」


 レイズは水玉を棚に戻すと、改めてニルヴェアへと向き直った。


「ニア。お前にはこの玉のうち閃光と煙の2つだけを、状況に合わせて使いこなせるよう教えていきたい」

「む。2つだけでいいのか?」

「おう。俺だって戦闘中は基本この2つしか使わないし、実際の戦闘だと玉以外にも選択肢は結構あるだろ? 身ひとつで躱すとか、手持ちの武器を使うとかな。その上で戦況ってやつは刻一刻と変化を続けるんだ。あまり選択肢が多過ぎても判断に困るだろ」

「なるほど。有り過ぎて困ることはない……わけでもないのか」

「常に考えながらも迷わない程度に、ってのがコツだな。選択肢が少ないと不測の事態に対応できなくなるし、かといって多くても迷いが出ちまう。よく言うじゃん、一瞬の迷いが命取りになるって」

「確かにな。常に考えながら迷わないか……覚えておくよ。これもまた心構えだな」

「そういうこと。んでもって、そういう思考を軸に他の装備も選んでいくわけだ……っと、その手のコーナーは向こうだな。早速行くか」


 というわけでレイズが連れてきた一角。そこは防護用のベストや登山用のシューズ、道具の収納ベルトに旅用のリュックなどが壁一面、あるいは棚一杯に揃えられている区画だった。


「装備を決める基準のひとつは道具の取り回しだ。例えば俺が普段から着てるこのベストなんだけど……」


 レイズがそう言いながら摘まんでみせたのは、彼自身が今も服の上から羽織っている袖なしのベストだった。ニルヴェアはそれをまじまじと観察して、考える。


(明らかに分厚そうな素材で、ポケットもいっぱいあるな。どう見ても実用性重視。着飾るためじゃなくて戦闘用の……)

「普通、こういうベストはよく防弾や防刃のために着られるんだ。いくら用心が必要とはいえ、旅を続けるのに騎士みたいな全身鎧なんて着てらんないしな。まぁ間を取って軽鎧って選択肢もあるけど、俺的にはあれでもちょい重いと思う。基本的には身軽に、すぐ動けるに越したことないってのが俺の考えだ」

「ふむ……確かに、僕らぐらいの体格だとちょっと防御力を上げたところで焼け石に水なのかもな」

「まーそうなんだけど、とはいえ念のために最低限の防御力は確保しときたい……ってのがこれを着るひとつ目の理由だ」

「ひとつ目?」

「そうだな……俺が今着てるこのベストと、そこの壁に掛かってる売り物のベスト。ちょっと見比べてみ?」

「?」


 ニルヴェアはとりあえず言われるがままに、売り物のべストへと目を向けてみた。

 それもまたレイズのベストのように分厚い素材で作られているのが一目で分かった。とはいえ、ちょっとしたデザインとしての線が入っていたり、ワンポイントとしてブランドのロゴのようなマークも刺繍されていたり。


(実用性重視とはいえ、見た目も結構凝られているものだな)


 なんて感心を覚えつつ、今度はレイズのベストに目を向けて……一目で気がついた。


「あっ。ポケットの数か!」

「正解!」


 先ほどニルヴェアが見た売り物のベストにはポケットがなかったのだが、レイズのそれにはポケットが付いている。それもひとつではない。小さなポケットがベストの前面にたくさん付いているのだ。


「見てろよ、こいつはな……」


 レイズがそのポケットのひとつへと右手を伸ばす。そこでふと、ニルヴェアは気づく。


(あのポケット、蓋が上下に付いているのか? 少し変わったデザインだけど……)


 しかしその疑問はすぐに解決することとなる。文字通り、ポケットへと添えられたレイズの手によって。

 レイズの手がポケットをすっと撫でた。上から下へと静かに、滑らかに――


(あれ?)


 いつの間にか、レイズの右手にはなにかが握られていた。彼がその手をニルヴェアの目の前で開くと、そこには煙玉がちょこんとひとつ乗っていた。


「……え? あれ、今ポケット、開けて……えっ?」


 その反応を見て、してやったりとばかりにレイズが笑った。


「ちょっとした手品だな。種明かしすると……このポケット、下からも開くんだよ」


 そう言いながら、レイズは今さっき手で撫でたポケット。その上下に付いた蓋の下側を人差し指で押してみせた。すると蓋はいとも簡単に開いた。しかもレイズが指を離せば、その途端に蓋は勝手に閉じてしまった。


「わっ。なんだこれ」

「本体と蓋に磁石を仕込んであるんだ。だから押せば開くし、離せば閉じる。簡単な仕組みだろ?」

「それで中の煙玉をさりげなく手の中へと落としたのか。確かに手品みたいですごい。すごいけど……戦闘で使うのか? それ」


 ニルヴェアの疑問に対して、レイズは事もなげに答えた。


「上から取り出すより下に落として取る方が速いからな」

「それだけ?」

「それだけ。ちなみにポケットの数を増やして小分けにしてるのは、この方法だとポケットの中身が全部落ちるからだな」

「……ちょっと早くするためだけに、そこまで?」

「納得いってないって顔だな」

「速さが大事なのはさすがに分かるが、凝った作りのわりに……とは」

「だったら実践してみるか」

「え――」


 ほんの一瞬。

 銀の刃が煌めいて、


「っ!?」


 ニルヴェアの眼前には、すでに突き付けられていた。鋭く光る銀色のナイフが。

 そしてそれを握っているのは、他ならぬレイズの右手であった。彼はナイフの向こう側からニルヴェアを真っ直ぐ見つめ、そして断言する。


「一瞬の迷いが命取りになる。だったら出し入れに掛かる1秒が、命を左右しないわけがない」

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