第3章 紅き炎と貫くもの

3-1 炭の記憶と炎の記録

 血の代わりに、溶けた鉄が血管を流れているんじゃないか。

 そう感じてしまうほどに熱い。痛い。わけの分からない力がぼくの全身を駆け巡っている。

 それなのにぼくの意識は消えてくれない。

 声が、断続的に聞こえてくる。


『実験』『成功』『兵器』『適合』


 歓声、歓声、歓声、驚愕、悲鳴、悲鳴、悲鳴――いつの間にか、声は止んでいた。

 ふと気がついたとき、ぼくの周りは炭でいっぱいだった。

 たぶん建物の柱だった、炭の棒。たぶんなにかの機械だった、炭の塊……ここはたぶんどこかの建物だったのだと思う。だけど今は、開けた空から降り注ぐ太陽の光が目に眩しかった。

 そんな光に目が慣れてきた頃、ぼくは気づいた。体中を駆け巡っていたはずの力をもう感じないことに。

 ただそれでも体の外側がひりひりと痛かった。体の内側がじくじくと熱かった。そのくせ頭は不思議と回らずぼんやりしてて……でもだからって、こんな炭だらけの場所で突っ立ってるだけなのも落ち着かない。

 だからぼくはとりあえず歩き出した。炭と炭と炭で創られた世界の中をただふらふらとさ迷って、さ迷って……かさっ。なにかを踏みつけた。

 それはぼくの裸足に踏まれただけで、あっさりと欠けた。

 それもまた、炭だった。

 髑髏どくろの形を辛うじて残した、真っ黒な炭だった。

 きっと眼が嵌っていたはずの真っ黒な穴が、ぼくをじっと見つめていて、


『っあああああああ!!??』



 ◇■◇



 悲鳴と共に、少年は目覚めた。被されていた毛布を跳ね除け、上半身を一気に起こして、


「はぁ、はぁ……あれ……?」


 炭の世界はすでに消えていた。少年は呆然としていたが、不意にぱちぱちっとなにかが弾ける音を耳にして、思わずそちらを向いてしまった。すると視界に映ったのは小さな焚き火だった。揺らめく炎の向こうに、炭の世界が。


「ひっ」


 思わず肩を竦めてしまったが、炎にはもうなにも映っていなかった。


「ゆ、ゆめ……?」


 思ったことを呟いてみれば、自然と安堵が胸に広がった。ほっと一息吐いたところで、ふと気づく。


(体の中、もう熱くない……だけど外側はちょっとひりひり……?)


 少年は異変を確認するため、自分の腕に目を向けて……気がついた。自らの全身に包帯が巻かれていることに。


「わ、わ、わ」


 慌てて立ち上がりながら確認すれば腕に、脚に、そして(いつ着たか覚えてない)シャツを捲り上げると胴体にも白い包帯がぐるぐると。ついでに頭も触ってみれば、そこにもなにか巻かれている感触が。


「なにこれ……」

「全身に火傷を負ってたのでな」

「!?」

「勝手に巻かせてもらったが、下手くそなのは勘弁してくれ」

「!?!?」


 少年は心底びっくりして、ぎゅんと顔を向けた。いきなり聞こえた謎の声のほうへと。

 すると彼女? はそこにいた。

 少年とは焚き火を挟んで反対側で腰を降ろし、ただ静かにほほ笑んでいる。焚き火に照らされるその口元は柔らかく、確かに女性的なのだが。


(女の人……だよね……?)


 少年には判断が付かなかった。先ほどの声が中性的なせいもあったのだが、なによりも全身をすっぽりと覆い隠すぼろ布フードが少年の判断を迷わせていた……しかし、分かることもひとつだけあった。


「えっと、あの、ありがとうございます……?」


 包帯を巻き、手当てをしてくれたのは、どうやら目の前の人物らしい。


(でも全身に火傷って、ぼく何かしたっけ……? まだ頭がぼんやりする……けど騙されてるわけじゃない……よね……?)


 少年はぼんやりと考えながらも、ひとまずは焚き火の向こうへと目を向けて。


「あの、ところであなたは一体……?」


 おそるおそる尋ねてみると、謎の人物は頭に被っているフードを脱いでから答える。


「拙者、名はアカツキと申す」


 フードの中から現れたのは、雑に1本でまとめたぼさぼさの黒髪と少しやせ気味な女性の顔だった。


「名乗れる家名は無いが、敢えて名乗るなら『ナガレのアカツキ』とでも言っておこうか」

「ナガレ……」


 少年はその単語のことをなんとなく覚えていた。


(どこかで教えられたような気がする。たしか、大陸中を旅して生きてる人たち……だっけ……)

「――拙者は名乗った。今度はおぬしの番だ」

「!」


 少年は慌てて顔を上げた。すると、焚き火の向こうには相も変わらず優しいほほ笑みがあって。


「強制はせぬが、これもなにかの縁だ。おぬしが良ければ是非、な?」


 アカツキはそう言いながら、お茶目なウインクをぱちんとひとつ。少年の目にはそれがなんだかとても様になっているように見えて、だから少年の気分は少し楽になって。

 だから安心して、口を開いて、


「分かりました。ぼくは……」


 名前を、


「ぼくは……」


 思い出そうと、探して、


「ぼくは……?」


 名前って、わざわざ探す物だっけ?


「あれ……あれ?」

(変だな。まだ頭が回ってないのかな。でも忘れたわけじゃないよね。だってほら、今までのことだってちゃんと思い出せる……)


 ――ぼくは小さな街にいた。ごく普通の家で、両親がいて、兄妹もいて、自分はいたずらっ子で、たまに学び舎の授業を抜け出したりもして、平凡な田舎に飽き飽きしながらそれでも楽しくて……


(楽しくて……楽しかった、はずで。だって暖かい人たちに囲まれて)

「あれ?」


 気づいた。


(暖かい人って、どんな人たちだっけ?)


 顔が思い出せない。


「え、あれ、え」


 どんな言葉をかけられて、ぼくはなんて返して


「う、う、うう」


 どんな家で、どんな人たちと


「ああ、あ、うああああ」


 名前、自分、他の、ない、なにも、なにも、なにも


「――大丈夫」

 

 気づけば背中をさすられていた。

 ゆっくりと、優しい手つきで。


「ア、カ、ツキ、さん」


 アカツキがそこにいた。


「ゆっくりな、息を吸って吐くのでござるよ。意識が混乱しているというのなら、一つずつ引き揚げればいいのだ。呼吸と共にゆっくり、丁寧に……」


 アカツキはそう語りながら絶えず背中をさすってくれている。その暖かな手が、霞がかった記憶に溺れる苦しみから少年をゆっくりと引き上げていく。


「う、ううう……!」


 やがて感極まり涙腺を震わせ始めた少年に、アカツキが凛とした声音を持って応える。


「大丈夫。おぬしは絶対に大丈夫だ」

「だい、じょうぶ?」


 少年は涙で潤んだ瞳をアカツキへと向けた。するとアカツキはニカッと潔く笑って断言する。


「なにせ今ここには、かの宵断流を受け継ぎし侍がいるだからな」

「……?」


 少年にはその言葉の意味がろくに分からなかった。

 だがそれでも、その奇妙な口調と自信満々の口ぶりは、少年の心を確かに軽くしたのだった。

 そしてそのおかげか……少年の胸中からふわりと。ひとつの記憶が浮かんできた。


「……ィズ」

「む、どうした?」


 アカツキが聞き耳を立てると、少年は今度こそはっきりと声に出すのであった――他でもない、己の名前を。


「レイズ。それが、ぼくの名前……」



◇■◇



――”約束の日”まであと10日――


 ブレイゼル城。それは剣の都ブレイゼルの中心にそびえ立ち、また政治的な観点から見てもあらゆる執務がそこに集中している心臓部でもあった。

 しかしその一角にある領主用の執務室では今、密かにとある陰謀が進められていた。一人の男の語りと共に。


「――その事件により、研究所は全て焼失。焼け跡からは職員及び実験体と思わしき、多くの死体が見つかりました」


 彼の声はまるで政治家のような良く通る声だった。いや、声だけではない。

 きっちり刈り上げられた黒の短髪。生傷のひとつも見当たらない肌。その生真面目かつ清潔感を与える顔つき……その顔を見た誰もに『腕より口の方が達者そうだ』と思わせるであろう彼は、しかしその顔に似合わず岩のように大きく堅強な鎧を纏っていた。


 ――黒騎士。

 それがとある一行によって付けられた、彼の仇名であった。

 が、その黒騎士が現在纏っている鎧は……なぜか黒ではなく白だった。黒騎士なのに白鎧。しかしそれに言及する者はこの執務室の中にいなかった。

 今ここで、黒騎士の話を聴いている者はただ1人。


「ほう。思わしき、か……つまり死体が判別できなくなるほどの火力でその一帯は焼かれた。そういうことだな?」


 その男は椅子に深く腰掛けて、目の前の机にいくつもの資料を広げて。そして剣のような鋭い双眸をもって黒騎士を見据えている。

 彼こそが剣帝ヴァルフレア――この執務室の主にして、ひいてはブレイゼル領の主でもある男だった。

 そんな彼の問いかけに、白鎧の黒騎士が答える。


「ええ。ゆえに当時実験中だった『三十二号』もまた共に燃え尽きた。そう推測され、実験も凍結された。はずだったのですが……」


 黒騎士はその手に持っていたファイルから一旦目を離すと、今度は机の上へと目を向けた。

 そこにあった資料群。それは全て――旅客民のレイズ。彼の旅、その全てを記した公式の記録だった。

 3年前、アカツキを身元引受人として登録したこと。そのあと彼が辿った3年間の旅路。その中で『蒼の都の内乱』終結に多大な貢献を行い、越境勲章を授与されたこと。その他組合を通して受けた、あらゆる依頼の成果について……。

 それら全てはヴァルフレアが正規の手段で、旅客組合より取り寄せた代物だった。


 ――旅客民はその性質上、特定の領には属さない。しかしその立場は完全なフリーというわけではなく旅客組合の……ひいては『九都市条約』の下に属している。それは言い換えてしまえば彼らの身柄は九都市全ての下にある。ということでもあり、ゆえに九都市の重役たちは彼らの身柄について詳細なデータを閲覧する権限を条約から与えられているである。

 もちろん、これは個々人のプライバシーにも大きく関わるため、閲覧の権限と言ってもピンからキリまで存在するのだが……それこそ九都市の一角を治める主ともなれば、たかが一旅客民の全データを取り寄せるくらい容易いことなのであった。


「これで納得がいった」


 そう呟いたのはヴァルフレアだった。しかし黒騎士の方はその言葉の意図が分からず、ゆえに尋ねる。


「納得、とは?」

「まだ年若き少年がこの過酷な旅路の中で生き残ってきた理由。そして『エグニダ』、お前ほどの男がこの少年……レイズを取り逃がした理由だ」


 ヴァルフレアの言葉に黒騎士、もといエグニダはただ深く頭を下げて謝る。


「……申し訳ございません」

「構わん。お前の判断自体は間違っていないのだからな。策の信憑性と機密性を上げるために『越境警護隊』の名を騙り、やつらとゆかりのある相手を選ぶ。対象は誘導も処分もやりやすいよう、なるべく未熟で疑いを知らぬ勇み足……つまりなるべく若い者が好ましい。ただ今回は、その対象があまりにもイレギュラーだったということだ。だが……あえて失敗を挙げるなら、ここまで若いのに越境勲章を賜ったという事実。そこに秘められた”可能性”を侮ったことだろうな」

「可能性、ですか……」

「若さゆえの勇み足。実力が伴っていなければ単なる無謀だが、それがいくつもの死線を潜り抜けた猛者となれば逆に計算し難い脅威にもなろう。そこに加えてやつが本当に例の実験体ならば……ふっ。おそらく俺の計画にとって、最も大きな障害となるやもしれんな」

「…………」


 エグニダはヴァルフレアの言葉に対して、肯定も否定もしなかった。彼はただじっと腕を組み考え込んで、それからようやく口を開く。


「差し出がましく、また言い訳がましくもありますが……それでも俺は未知の可能性より、既知の脅威の方を警戒すべきだと感じています」

「既知の脅威、か」

「ええ。その視点で言えばあの少年よりも……やつに同行している女侍の方がよほど恐ろしいかと」

「女侍……お前の大剣を断ち切ったというやつか。確か名はアカツキと言ったな」


 その言葉にエグニダは頷いてから話を続ける。脳裏で神速の一閃を思い出しながら。


「確かにかの少年の脅威度は未知数であり、また現時点ですらその歳に見合わぬ強さを持っているには違いありません。しかしこう言ってはなんですが、手合わせした実感においてあの少年は只者でなくとも、しかし絶対的な強者とも呼べなかった。事実として俺にあの少年の炎はほとんど効かず、逆に獲物を潰して追い詰めるところまで行ったのです。しかし……」

「あの女侍の一閃が戦況を変えた、か。確かにあの大剣の断面はあまりにも鮮やか過ぎた。それを見た瞬間、放たれた一閃の鋭さを思い描いてしまうほどにな」


 一体なにを思い描いたのか、ヴァルフレアの口端が上がった。

 リョウラン文化に触れるのが趣味。かつてそうインタビューで語った彼は、リョウランの侍についてもどこか楽しげな声で語っていく。


「神速の居合斬り……俺の二刀流も元はリョウランの出ゆえに分かるのだが、あそこの剣術はなにかと癖が強く、ただ振るうことさえ難しい。というのにまさか、このブレイゼルにそこまでの使い手が訪れていたとはな……」

「剣を1度交えれば、互いの技量はおおよそ測れる。そのような通説がありますが、その点で言えばたった一閃の交わりで刃を折られた俺は、決してあの女侍に勝てないのでしょう。そして……失礼を承知で申し上げるならば、あの女侍は俺が知る中で唯一、貴方に迫る剣士かもしれない」

「……ふっ」


 ヴァルフレアは肯定も否定もせず、ただ静かに笑った。その一瞬、瞳の眼光がわずかに和らぎ……しかし次の瞬間には、もう前だけを鋭く見据えていて。


「確かにあの女侍の実力もまた、俺の計画の障害に成りうるな」

「実力……だけではないのですよ。俺が危惧しているのは」

「ほう?」


 ヴァルフレアが興味を示した直後、エグニダは先ほど”事件”を語るときに使ったファイルから数枚の用紙を抜き出してヴァルフレアへと手渡した。


「これはあの女侍について俺が独自に集めた情報です」


 エグニダから渡された資料へとヴァルフレアは目を通していく……そしておよそ10秒後、とある事実に気がついた。


「これは……正規のルートではないな。使ったのは神威の情報網か?」

「ええ。蛇の道は蛇と言いますか、やつからは”同族の匂い”を感じましてね」

「同族の匂いか。具体的にはどういうことだ?」

「要は単なる直感ですよ。大した根拠などない……ですが直感というのも馬鹿にできないものでしてね。実際、思い当たる伝手をいくつか漁ってみたら見事に当たりましたよ。あの女侍の正体はおそらく……復讐者だ」


 エグニダが語り続ける。その間にもヴァルフレアは渡された資料に目を通し続けていた。

 『殺害』『背信』『重罪』『逃走』……瞳にいくつもの単語を映しながら、エグニダの語りに耳を傾ける。


「これは神威としての経験則ですが、復讐者というのはそのことごとくがなりふり構わない生き物なのです。それこそ……若さゆえの勇み足など及ばないほどに」

「復讐者……」


 ヴァルフレアはぽつりと呟いた。資料をじっと見つめたまま。

 しかしそれだけだった。彼は再び黙して、それきり何も語らない。ゆえにエグニダは話を再開した。


「実際、あの女侍がどれだけの復讐心を抱いているのか……ということに関しては直接確かめる他ありません。しかしそれは裏を返せば、あの女侍が己の命を捨ててでも我らを殺しに来るかもしれない、ということでもあるのです。つまりはあの女侍もまた、例の少年に負けず劣らずの未知性を、策を狂わせる脅威を秘めた存在だということになるのです……」

「…………」


 エグニダが語り終え、ヴァルフレアは応えず。ほんのわずかな間、静寂が執務室を支配した。

 しかしそれはすぐに破れた。ヴァルフレアの一言によって。


「10日後だ」

「それは、”決行の日”……」


 ヴァルフレアはアカツキに関する資料を机に置くと、面を上げてエグニダを見据えた。


「レイズはお前が危険視しているアカツキと繋がっている。そしてそのアカツキは、どうやら例の”偽記者”と繋がっているらしい……3日前、アカツキと偽記者が剣の都に入都した、という情報はお前も知っているな」

「もちろん。それはつまり女侍がニルヴェア様の下を離れているということでもある……今なら、ニルヴェア様を確保するチャンスとも思われますが」

「いや。そちらは捨て置け」

「しかし、ニルヴェア様は計画の鍵では……」

「ああ。だがやつのそばにはまだレイズが居るはずだ」

「そこまであの少年を危惧しておられるのですか……」

「要は舞台の問題だ。広い空間、突発的な戦闘こそ旅客民の得意とするところ。言ってしまえばこの大陸そのものが、彼らの庭のようなものなのだ。ならば散発的にこちらから仕掛けても戦力を減らすだけ……無論、神威の情報網や人員を強引につぎ込めばやりようもあろうが、後々のことを考えれば無暗に戦力を減らすわけにもいくまい」

「舞台の問題……なるほど、ある種の自由度が高い空間での戦闘は相手の有利になってしまう。しかしその逆……貴方が真っ向勝負できる舞台に敵を引き込めれば、剣帝たる貴方に負ける道理はないと」


 エグニダはヴァルフレアの意図を察してくつくつと嗤いながら、饒舌な語りを続ける。


「つまりそのための偽記者だと。本来はこそこそ嗅ぎまわる邪魔者を炙り出すためにあえて流した”決行の日”の日時だが、それこそが女侍と少年を連れてくると。そして”どこに潜んでいるか分からない”神威の性質上、ニルヴェア様もまた彼らの側を離れないはず……なにせどこかに隠れるくらいなら、強者のそばにいる方が安全だから。そういうことなのでしょう?」

「……概ね間違いないが、しかし一つだけ過大評価が過ぎるな」

「おや。心当たりがありませんが?」

「『負ける道理がない』とお前は言ったが、100%勝てる勝負などこの世には存在しない。さらに言えば、わざわざこちらの舞台に引き込むのだ。”真っ向勝負”などに甘んじるつもりもない。だが……もしやつらが全ての策を踏みこえ、俺の前に立つというならば。そのときはただ、真っ向から断ち切るのみだ。眼前に立ちはだかる壁は全て切り拓く。それができなければ、俺に『王』たる資格はない」


 王。それは条約により”国”が失われ、共に消えたはずの概念である。


「そうです、その潔さ。それでこそです――我が王よ」


 エグニダは賞賛と共に、恭しくお辞儀をしてみせた。だがヴァルフレアはそれを意にも介さず、逆にエグニダへと問いかける。


「ゆえに俺は決行の日まで予定通り準備を進める。それでエグニダ、お前はどうするつもりだ?」

「決行の日までニルヴェア様を泳がせておくというならば、俺のやるべきことは決まっています」


 エグニダは自分のファイルからまた一枚の資料を抜き出してヴァルフレアへと渡した。


「これは……」


 ヴァルフレアがわずかに目を見開いた。今日初めて驚きを見せた彼に対して、エグニダは堂々と語っていく。


「あの女侍は俺よりも遥かに強い。だからこそ、やつより弱い俺がやつを止められれば、その分だけこちらが得するということにもなる。そしてその得には、俺の命さえも捨てる価値があるはずです」


 ヴァルフレアはただ黙って資料を眺め……やがてひとつ尋ねた。


「この実験の、成功確率は?」

「先の実験が実は成功していた。そう仮定して、そのデータに今の神威の技術が合わされば”融合”自体は問題なく行えるでしょう。無論、その資料にもある通り普通の肉体ではまず間違いなく負荷に耐えきれず崩壊しますが……しかし俺の肉体は普通ではない。理論上、その崩壊は多少緩やかになるはずです。少なくとも、決行の日までは保たせてみせますよ」

「保たせてみせる……か」


 その瞬間、ヴァルフレアの口元がほんの少しだけ緩んだ。


「前々から感じていたが、エグニダ。お前は案外、精神論者の気があるな」

「魂を重んじなければ騎士ではありませんよ」

「魂を重んじる、か。しかしお前は大陸にその悪名を轟かせる犯罪者集団、神威からの協力者及び監視者だろう? そして……」


 その声音には少しだけ抑揚が付いていた。それは嘲るような、皮肉るような。


「その一方でお前は神威を密かに裏切って、俺の二重スパイとなり神威の情報を横流ししている……お前の道は背徳と背反で彩られているのだ。それでもお前は騎士道を語るのか?」


 しかしエグニダは顔色ひとつ変えなかった。それどころか、どこか楽しげさえ滲ませた口ぶりで。


「もちろん、俺は騎士ですから。そもそも騎士道とは己に課すべき命題以上でも以下でもありません。ゆえに俺は俺の騎士道に殉じていると断言できるのですよ――そう。背徳も背反も、全ては我が王のために」


 エグニダは声高に語って、それからわざとらしくその場に跪いてみせた。その動きに合わせて白の鎧ががちゃがちゃと音を立てる。

 だがヴァルフレアはそれを一瞥もしなかった。ただ手元の資料を眺めながら、くすりとほほ笑んで。


「本当は、俺でなくとも良いのだろう?」

「ふむ?」


 エグニダは面を上げてすぐに立ち上がると、主に向かって問いかける。


「質問の意図が少々読めませんね。俺が貴方を裏切る、とでも?」

「……あるいはな。そもそもお前が神威を裏切り俺に仕えることを選んだのは、俺がこの大陸の王を目指しているゆえにだろう? ならばもし、俺よりも王に相応しい人間が現れたら、お前はそちら側に着くはずだ。いとも簡単に神威を裏切ってみせたようにな」

「俺の騎士道は歪んでいる。貴方もそう仰りたいのですか?」


 問いに返された問いは、しかし答えを雄弁に物語っていた。だからヴァルフレアもまた答えを返す。


「そうだな。お前は騎士として間違いなく歪んでいる……しかし俺の道もまた、とうの昔に歪んでいるんだ。俺はそれでもこの道と全うすると決めている。だからお前もお前の好きにすればいい……どのみち俺の敵はこの大陸全てなんだ。俺に王たる資格がなければ、お前に裏切られずとも負けるだけだろうさ」

「……そう。それでこそ、俺もこの命を捨てて仕える甲斐があるというものです」


 その賞賛に、しかしやはりヴァルフレアは反応しなかった。むしろ彼は「しかしエグニダ」と切り出して、いきなり話題を変えてくる。


「お前がもうじき死ぬとなれば、お前に代わる神威とのパイプ役は新たに用意してあるのだろうな?」

「抜かりはありませんよ。なるべく愚鈍で手綱を握りやすい者を選出してあります。さすがに二重スパイには仕立てられませんが……貴方なら、今まで俺が流した情報だけで既に十分でしょう?」

「そうか。ならば良い。あとはお互い、決行の日までに準備を進めるとしよう……話は以上だ」

「御意」


 エグニダは一礼してから、机の隅へと手を伸ばした。そこに置いてあるのは、素顔を隠す白兜。彼はそれを被ってからヴァルフレアに背を向けた。それから執務室を出るため歩き始めて……


「エグニダ」


 主の呼び声が、エグニダの足を止めた。その背に主の言葉が届く。


「俺にとっては神威もまた敵だ。今はその力を利用しているが、いずれは全て駆逐するつもりだ。だが、それでも……エグニダ。お前の在り方は嫌いじゃなかった。よくここまで、忠義を尽くしてくれたな」

「…………」


 エグニダは振り返ることも、白兜を外すこともなく。たった一言だけ、主へと返すのだった。


「私なんぞには、もったいなきお言葉です」 



 ◇■◇



 執務室を出て、長い廊下を歩き続ける白鎧の騎士。その兜の下には――鋭く、歯を剥き出しにした笑みが隠れていた。


「醜悪な立場を超えて、最強の主に認められた。ああ、冥途の土産としては十分すぎるな」


 エグニダは分厚い鎧の中でずっと滾らせている。闘志を、忠義を、そして夢を。


「あの屋敷で作戦が失敗したときはどうなることかと思ったが……中々どうして、これ以上ない舞台が見えてきたじゃないか」


 彼は楽しみで楽しみで仕方がなかったのだ。あの記憶に刻まれた一閃。それを振るった女侍との再会が。


「待っていろ、『ユウヒ=ヨイダチ』」


 王のため、強大な敵と相対するその瞬間が。

 己が命を真っ直ぐに燃やし尽くせる、その瞬間が。


「俺の騎士道を見せてやる」

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