2-3 少女ニアと旅の醍醐味

 長い街道の向こうには、高い外壁に囲まれた街がある。外壁のせいで中は見えないが、しかし壁の規模だけでも分かることはあった。


「ずいぶんと大きい街だな……」


 ニルヴェアは荷台から顔を出して外壁を眺め、ぽつりとそう呟いた。少しずつ迫ってくる灰色の壁に対して、彼女は静かに考え込む。


(あの街でアカツキさんは”協力者”って人と合流する。そしてレイズは黒騎士に壊された銃を直したり、必要な物資を買い込んだりするらしい。だったら僕は……どうしよう……)


 ニルヴェアの肩にずしりと重くのしかかる。それは無力感であった。


(僕ひとりじゃなにもできない。だから二人を頼ったけど、だからって、なにか僕にだって……)

「――殿、ニア殿!」

「え?」


 気づけばアカツキが馬を止めて、ニルヴェアを呼んでいた。


「えっと……あれ? なんで止まるんですか? 街はすぐそこなのに……」


 その問いには、隣でバイクを止めたレイズが答える。


「だってお前、まだ素性不明じゃん」


 そう言われて、ニルヴェアは困惑した。レイズの言っていることは確かにごもっともなのだが、


「また隠れて入るのは駄目なのか? いや駄目かいいかといえば駄目なんだけど……」

「あの外壁は外部の侵入者から民を護るためのものなんだ。だから基本的に、出るより入る方が厳しいんだよ。それに街の規模がでかいと検査も必然的に厳しくなっていく。確かそういう決まりがあったはずだ」

「つまり、今朝みたいにやり過ごすことはできないと……? な、なにか策はないのか?」


 その言葉に対して、レイズはにやりと笑って見せた。まるで待ち構えていたかのように。


「あるに決まってんだろ――とっておきのアレがな」

「……アレ?」

「うむ、アレでござる」


 なぜかアカツキも口を挟んできた。なぜか、馬から降りながら。


「だからアレってなんですか」

「やり方はいたって簡単だ。まずはニア殿も荷台から降りてくれぬか?」

「はぁ、いいですけど……」


 ニルヴェアはよく分からないまま、しかし従わないわけにもいかないので大人しく荷台から降りた。するとすぐにアカツキが近づいてきた。ごく自然に、いつも通りの雰囲気で。


「痛くはせぬ。安らかに眠るが良い」

「え――」


 すとん。ニルヴェアの首に、手刀が落とされた。


「なに、を」


 ニルヴェアの意識があっという間に閉じていく。

 彼女が最後に見たのはアカツキの、『拙者いかにもなにか企んで候』的な胡散臭いにやけ顔だった。ほんの一瞬めちゃくちゃに嫌な予感が背筋を走ったが、それごと全てが闇に閉ざされて――



◇■◇



 ――そこはすでに街の中。それも『旅客組合』の施設の中であった。

 旅客組合。

 それは越境警護隊と同じく九都市条約の下に属する組織であり、その職務は大陸中の旅客民の諸々を取り仕切り、管理することにある。また旅客民にとって欠かせない収入源である”依頼”の提供も大半がここを通じて行われていた。

 旅客組合の施設はどこの領に関わらずほぼ全ての街に1件は存在しており、そして組合の施設には必ず旅客民用の依頼や各種手続きをする窓口がある。

 しかし組合に必要な設備というのは、究極的にはそれだけだ。つまり他の仕様は自由にしていいということであり……例えばこの街の組合には、宿屋と食堂が併設されていた。

 というわけで、その組合内の食堂の一角にて。


「正直、色々、言いたいことがあり過ぎて」


 ”彼女たち”は食事用のテーブルを囲んでいて、


「もうなにから怒ればいいのか分かんないんですが、とりあえず!」


 そのテーブルをばんと叩き、”彼女たち”の1人である、金髪蒼眼の少女の叫びが、


「この服を着せたのは、どっちだ!!!」


 食堂中に響き渡った。

 すると周囲の雑多な人々がぎょっとして少女を見た。だが当人はそんな視線を気にも留めず、正面に座る”2人組”を睨みつけていた。


 ――ところでこれはちょっとした余談になるが、この食堂は組合のうんぬん抜きにしても飯屋として普通に評判がいい。つまり旅客民から街の住民まで様々な人が通っているため、昼夜問わず常に人で賑わっているのだ。

 そのおかげで、実のところ少女1人の大声程度なら無数の喧騒の中に紛れてしまう。だから食堂内の全員が一様に少女に注目した、なんてことはないのだが……しかし人が多いということは、少女の周囲に居る人間だって多いということ。

 そしてそんな周囲の彼らを振り向かせる程度には、少女の怒鳴り声は大きいものだった。

 ゆえに彼らは少女を見て……瞬間、彼らの脳裏に浮かんだ単語はおおむねひとつであった。


 可愛い。


 そう、少女は単純に可愛かったのだ。

 とはいえ、その恰好自体は決して派手な物ではない。着ているのは爽やかで素朴な、薄緑色のワンピースのみ。しかしだからこそ、そこから伸びる腕や足の眩しさが映えるというもの。

 傷も日焼けもろくにない白い肌。それでいて健康的に引き締まった肢体は、一目見ただけで育ちの良さを伺わせる。

 それは首から上も同様だ。澄んだ空のように蒼く大きな瞳も、首元で結ばれた艶やかな金髪も、やはり傷ひとつない綺麗な顔立ちも……いや、その顔は今現在進行形で怒りに歪んでいるわけだが、ともかく彼女を見た誰かが(お忍びで街に降りた貴族かな?)と邪推する程度には全体的に育ち良さげで、可愛らしい少女だった。


 もちろん、ニルヴェアのことである。


 そうなると、彼女が睨みつけている2人組といえばアカツキとレイズ以外にいないわけで。

 しかし当の2人は、ニルヴェアがガンを飛ばしまくっているにも関わらず平然と席に座ったままだった。ただし、それぞれの動作は少し違っていた。

 レイズはアカツキを指差していた。アカツキはにまにまと実に楽しそうな笑みを浮かべていた。つまりそういうことであった。


「アカツキさん」


 ニルヴェアの声は冷めていた。怒りが一周回って逆に落ち着いたがゆえの声音であることは、誰が聞いても明らかだった。が、アカツキは一切悪びれることなく。


「良く似合ってるでござるよ」


 ニルヴェアは、机をばんと叩いてぶちぎれた。


「いくらなんでも! 無茶苦茶が過ぎる! 仮にも大人でしょ貴方!!」


 しかしアカツキは全く動じることなく……それどころか顔を隣へ、無料の水をちびちびとすすっているレイズの方へと向けて。


「レイズ、レイズ」


 呼ばれた彼は、椅子を引いてやや距離をとった。


「やめろ。こっちにまで飛び火させてくんな」

「実はあれ、下着まで変えてあるのだがどう思う?」

「ぶっ! げほっ、げほっ!?」

「~~~~~~~~!!!」


 レイズは咳き込み、ニルヴェアは顔を真っ赤にした。彼女はたまらず、机に乗っていた自分用のコップ(水入り)を掴んだが……


「ぐぐぐぐぐ……!」


 理性がぎりぎりストップをかけた。見た目に反さない育ちの良さが功を奏し、あるいは仇となり、結局ニルヴェアはコップを振りかぶることなく椅子に腰を降ろしてしまったのであった。


「もう! 本当に全くもう……アカツキさん! 今回はいくらなんでも度が過ぎています!」

「はて。度が過ぎているというと……具体的にはどこからどこまでだ?」

「その言い方分かってますよね!? 全部ですよ! 街の前で気絶させられてから、今の今まで片っ端から!」


 ――曰く、『これはニルヴェアの身分をでっち上げるための作戦』であった。


①まずニルヴェアを気絶させる

②すぐに街の関門に駆け込んで「身元不明の少女が1人で倒れていた! 今すぐ医者に見せてくれ!」

③旅客組合の宿屋で寝かせている間に、アカツキが服を着替えさせておく

④ニルヴェア、目覚める「え、何!? なんで服が」「ニア殿、目覚めていきなりで悪いのだが、ちょっと記憶喪失になってくれ」「は???」

⑤そのまま組合の人から事情聴取を受けて「な、なにも覚えてないんです。何か思い出そうとすると、うっ頭が、痛いー」「そうか。そこまで強いショックを負ってしまったんだな……」

⑥気づいたときには『獣により両親が惨殺されてただ1人生き残ったが、代わりに多くの記憶を失ってしまった悲しき少女』が無から産みだされていた。「いやこんなの通るわけないでしょう!?」

⑦通った。


「嘘でしょう! 旅客組合ちょっと大丈夫!?」

「まぁナガレにはままあることでござるしな。それに、レイズという信頼ある身元引受人がいたことも大きい」

「まーた越境勲章ですか……ってちょっと待ってください。僕、同い年の男子に身元を引き受けられるんですか!」

「まーまーまー、(仮)でござるよかっこかり!」


※ちなみにここまで、着せ替えられたことによるメリットは皆無である。


 そんなこんながあったのだった。


「なにひとつまともなやり方じゃないですよね! 正直前々から思っていたんですが、倫理観大丈夫ですか!?」

「前々から思われていたのは若干悲しい。なぁ弟子よ」

「弟子じゃねぇし妥当な評価だと思うけど、でもなニア。実際この方法が一番楽なことぐらいはお前も分かるだろ? 他にいい方法思いつくか?」

「う。まぁそれは……ないといえばないが……」


 ニルヴェアは反論の1つすら捻りだせず、結局はぐでんと机に突っ伏してしまった。そうするしかない無力感に体を支配されていたのだ。


(僕はまた、なにもできない。結局はまかり通した者勝ちなわけで、こうしてまかり通ってしまい、しかも僕自身が恩恵にあずかっている以上はなにも言えない……とはいえ!)

「それでも言いたいことはありますー!」


 ニルヴェアは再びがばりと起き上がった。その勢いのままアカツキへと文句を飛ばす。


「やっぱどう考えても、服を着替えさせた意味ってないですよね!?」

「なにを言う。恰好が変われば気分も変わる。こんな大変な今だからこそ、ここは気分を上げていくべきだと思わぬか?」

「この服じゃ僕の気分は上がらないっていうか、そう言う貴方はいつものぼろ布フードじゃないですか!」

「自分より人を着飾る方が楽しい。嫌がる生娘相手だともっと楽しい。ぬはは」

「こ、この人は……おいレイズ!」

「は! なんで俺!?」

「お前からもなんか言ってやれよ、弟子なんだろ!」

「弟子じゃねぇけど、こういうときは経験上なに言っても無駄だし力づくで止めるのは無理だ。そんで、俺が無理ならお前はもっと無理だ。諦めろ」

「……やはり、必要なのは力……」


 ニルヴェアの体がふらりと揺れた。この世を支配する弱肉強食の理を前に、軽く倒れそうになった。だがそれでも彼女は踏ん張った。その眼はまだ、死んでいない。


「もう服のことはひとまず置いときます。着替えればいいだけですし! だけどもうひとつ、これだけは言わせて!」


 その言葉と共に、ニルヴェアは右手でバン! と音を立ててテーブルを叩いた。その手の下からはなにやら一枚の紙片がはみ出していて、ニルヴェアはそれを右手ごとずいっと2人の前に押し出す。


「これ!」


 続いてニルヴェアは右手を紙片からどかした。そして露わになった紙片、その一点をすぐに指差す。


「ここ!」


 指差した箇所には、こう記載されている。


『氏名:ニア』


「決めたの、誰!」


 アカツキは隣を指差して、レイズは手を挙げた。


「なるほど」


 ニルヴェアは机からコップを引っ掴むと、その中の水をレイズにぶっかけた。


「つめたっ! おまっ、迷いがねぇな!?」

「傍観者気取っておいてお前もきっちり加担してるじゃないかちょっとだけ信じてたのにー!」

「信じてたとさ。良かったでござるなレイズ」

「黙れエセ侍。そんで待て! 弁解の余地をくれ!」

「分かった。ちょっと待て。水を汲んでくる」

「あ、はい……」


 レイズはなんか察した。

 ニルヴェアが席を離れたあと、今度はアカツキが”戻ってきた”。いつの間にか席を離れ、そして戻ってきたエセ侍はその手に白い布を持っていた。


「布巾を貰ってきた。ほれ、これで存分に濡れられる」

「くそっ。7割ぐらいはあんたのせいだろこれ……」


 そう言いつつもレイズは渡された布巾で濡れた体を拭きつつ、ニルヴェアの置いていった紙片に視線を落とした。

 それは掌サイズの長方形で、普通の紙より厚みのある素材で出来ている。その紙片を、レイズは自分から離れた位置にそっと置き直した。


「耐水性もあるけど、だからって濡れていいもんでもないよな。仮にもあいつの『身分証明証』なんだし……」

「――待たせたな」


 と、ニルヴェアが戻ってきた。なみなみと水を注いだコップを2杯、両手に持って。


「なんか増えてるんだけど……」

「使うかどうかはともかく、力はあるに越したことないからな……!」

「おーけー分かった。要は弁解が通ればいいわけだ」


 そう言ってから、レイズは身を乗り出して顔をずずいと近づけて。


「一応、アレな話だからな」


 レイズが小声でそう言えば、ニルヴェアとアカツキもまた身を乗り出して顔を近づけた。

 それを合図に、レイズが弁解を始める――ニルヴェアの、旅客民としての身分登録について。


「まずそもそもとしてさ、さすがに『ニルヴェア』で登録するわけにはいかないじゃん? 一応は神威から逃亡中の身だし、あいつら相手だとどこから情報が漏れるかも分からないし」

「理屈は分かるけど……でも旅客組合って条約傘下の大規模な組織なんだろう? その手の個人情報はきちんと管理してるんじゃ……」

「そこが神威の厄介なところでござる。あらゆる場所、機関にやつらは潜んで秘密の情報網ネットワークを張り巡らせておるのだ。それこそ……大陸の治安を護るはずの越境警護隊なんかにも、な」

「えっ!?」


 ニルヴェアはびっくりして大声を上げてしまったが、しかし慌てて口を塞ぐと今度は小声で問いかける。


「……それって、かなりの秘密じゃないんですか。アカツキさん、本当に何者なんですか?」

「ただの流れ者の侍でござるよ。ああそうそう。越警にスパイが潜んでいるのは間違いないのだが、正直誰がどうだというあたりは全く分からぬ。だからこれは他言無用でな?」


 そう言ってアカツキはお茶目にウインクをひとつ決めたが、しかし横からレイズが真面目な顔で問いかける。


「……おいアカツキ。あんたの”協力者”とやらも越警の人間なんだろ。大丈夫なのかそこら辺」

「それに関しては心配ない。どちらかと言えば越警というより一個人として、拙者はあやつに信頼を置いているのでな……と話が逸れてしまったな。さて、あとは若い2人で存分に話してくれ」


 そしてアカツキはすっと後ろに身を引いた。


「なんだそのノリ……」


 レイズは呆れながらも、言われた通りにニルヴェアと向き直って話を戻す。


「ま、そういうわけでどうせ新しい身分を作るなら、神威に目を付けられないよう名前を変えておくに越したことはない。ここまでは納得したか?」

「まぁ一応……」

「まだ不満そうだな、それじゃあもう1つ……どうせ偽名を使うんなら、前と似たような名前の方がいい。ってのは分かるか?」

「うん? 隠すためなら元の名とかけ離れていた方が良くないか?」

「いやいや。同名ならともかく自分と似たような名前のやつがこの世に何人いると思ってんだ。そこが似てるってだけで疑ってたらきりがないだろ」

「なるほど……」

「むしろ”呼ばれても気づかない”とか、ちょっとした挙動から怪しまれる方が危険だ。そう考えると、呼ばれて反応しやすい名前の方がいいって思わないか? それこそあだ名なんてぴったりだ」

「確かに、理屈には沿っている」

「だろ? それにたぶんお前は男らしい名前ってやつを所望してるんだろうけど、これもやっぱりはたから見て違和感が残る。些細な要因かもしんないけど、怪しまれる可能性は消しておくに越したことないだろ? その点『ニア』って名前なら今の姿にぴったりだ……お前自身の心境がどうであれ、他者からの印象ってのは否定できないはずだ」

「そうだな。その通りだ」

「ようし納得してくれたな。つまり俺は怒られるどころか、非常に合理的でスマートな判断を下したわけで、むしろ感謝してくれても」

「――でも、事前に相談しなかった理由にはならないよな?」

 

 レイズが固まった。


「理屈的には十分に分かる。だからあらかじめ話してくれれば僕だって心構えができたと思うし、あるいは代案の1つだって考えられたかもしれない……なにせ日が暮れるまで走っていたんだ。話す時間はいくらでもあったよな?」

「…………」


 レイズはすん……と視線を逸らした。ニルヴェアの方から、アカツキへと。

 アカツキもまた、レイズを見た。目と目が合って、師弟ふたりで頷き合って。


「「だっていきなりの方が面白いし」」


 2つのコップから、2杯の水が解き放たれた。


「おっと」「冷たぁ!」


 アカツキにはぼろ布でガードされたが、レイズには普通に直撃した。そんでもって、ニルヴェアがぶちぎれる。


「人の戸籍をおもちゃにするんじゃなーーーーい!!! というか前々から思ってたけど、2人とも『ナガレはろくでもない』ってのを免罪符にしてないか!? 旅客民がどうこうという前に、まずは人としての常識を」

 

 ――ごほんっ。大きな咳払いが1つ、どこからか聞こえてきた。

 

 ニルヴェアが反射的に顔を向けると、その先には1人の従業員ウェイターが立っていた。

 彼は料理のお盆を両手に乗せて、爽やかな営業スマイルをニルヴェアへと向けたまま、一言。


「当店の飲料水は確かに無料ですが、それはあくまでも飲み水だけの話であります。痴話喧嘩への使用はご遠慮いただければと」

「あ、はい。すみません……」


 しゅん、と頭が冷えた。しゅん、と席に座った。


「あの、本当に、ごめんなさい……」

「お分かりいただければ結構です。それではこちら、ご注文の『豚肉と旬の野菜のスパイシー炒め定食』になります」


 ウェイターは両手に持っていた2皿の料理を華麗に置くと、そのまま華麗に去っていった。胡乱な客相手でも揺るぎないその背中が人混みに紛れたのを見計らって、レイズがアカツキへと尋ねる。


「てかなんだよこの料理。しかも2人分しかないし」

「拙者が頼んでおいたのだ。そして拙者は今から用事があるからな、2人で仲良く食べるが良い」

「ふーん、そういうこと……いやちょっと待て。このタイミングで逃げる気かアンタ!?」

「逃げるとは人聞きが悪いな。ぼちぼち協力者と待ち合わせの時間なのだ。ああそうそう。場合によるが今日から2、3日は留守にするかもしれん。たまには様子を見に来ようと思うが、まぁ拙者のことは気にせずしばらく自由に過ごすが良い」

「いや自由にって、そんないきなり」


「――いただきます!」


 割り込んできたのは女子の声。


「あっ」


 レイズが気づいたときにはもうニルヴェアは勝手に食べ始めた。その表情にはむすっと露骨な反骨心が描かれている。

 レイズは内心でこっそりと、冷や汗をかき始めていた。


(いや、こんな状態のこいつと2人きりって)


 するとその内心を読んだかのように、アカツキがレイズの耳へとそっと口を近づけてきて。


「これも修行だ我が弟子よ。拙者がいない間、おぬしがちゃんとエスコートしてやるのだぞ?」


 アカツキはそれだけを言い残すと、満足そうな笑みと共にその場を立ち去った。やがて人混みの向こうへと消えていった女侍をレイズは呆然と見つめて、それから額に手を当てて。


「弟子じゃねぇ……」


 そうしてしばらく黙ったあと、ちらりとニルヴェアの方を覗いてみた。


「…………」


 ニルヴェアは、黙々と食べ続けている。


「…………はぁ」


 レイズも大人しく、目の前の食事に手を付け始めた。

 『豚肉と旬の野菜のスパイシー炒め』はその名の通り、油の乗った豚肉&甘みの強い数種類の野菜をピリッと辛みの効いた香辛料で和えて炒めた料理で、シンプルながら育ち盛りの少年少女に人気がある。この食堂の定番メニューの1つでもあった。

 つまりどう考えても旨い。特に育ち盛りの少年であるレイズにとっては問答無用で旨い。はずなのだが。


(味に……集中できねぇ……)


 場を支配する嫌悪な雰囲気が、味覚すらも塗り潰していた。あるいはレイズが勝手にそれを感じているだけかもしれないが、ともかく眼前のニルヴェアは一言たりとも喋らない。

 無言の女子(女子ではない)と二人きり……


(アカツキがいなくなった途端、頭が冷えてきたっつうか……うわ。なんかいかにもガキ臭いぞ俺。うーわー……)


 今になって、レイズの胃を罪悪感がきりきりと締め上げてきた。食欲が失せて食事の手も止まる。それでもレイズはなんとか口を開く。それは飯を食べるためでなく、


「あー、えっと、な……悪かったよ……」


 謝罪をするために。


「その、なんだ。正直、あだ名とか偽名とかって、俺たちにとっちゃそんな珍しいもんでもねぇし……ニアって男でも一応通用するし、まぁいいかなぐらいに思ってたとこはあって、だな……軽く見てたのはまぁごめんっつうか……」

「…………」


 ニルヴェアは、黙々と飯を食べ続けていた。


「ぐ……」


 レイズの胃がさらに強く締め上げられた。


(なんも分かんねぇ。不機嫌な女子のなだめ方なんて旅じゃ培えねぇんだよ。いや女子じゃねぇけど……)


 レイズはちらりとニルヴェアを見た。天井の灯りを受けて輝いている金の髪。晴れ渡った空のような蒼い眼。温室育ちの白い肌。黙々と食べ物を放り込む小さな唇……


(口の周りが全然汚れてない。綺麗な食べ方してるんだな)


 胃がぎりぎりと。


(こうしてみると貴族っぽいのに、口を開きゃ妙に腕白でどこか馬が合うっつうか付き合いやすいっつうか)


 ぎりぎり、ぎりぎり。


(今日含めてたった2晩の付き合いで、分かっちまう程度には、真っ直ぐで、いいやつで)


 ぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎりぎり。


(だから、つまり、あの、なんだ、あれが、あれで、あれが)


 ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ、


「っ、だーーーーーーーー! こんなんクッソだせぇやってられるか!!!」


 レイズがいきなり、爆発した。


「いた! だき! ます!」


 やけっぱちな叫びからのやけ食いが始まった。

 レイズは食器を乱暴に掴むと、目の前の飯をどんどん口の中へと放り込んでいく。豚肉と旬の野菜のスパイシー炒めも付け合わせのスープやサラダも混ぜこぜに噛み砕いて飲み込んで。上品の対極にある食べ方が口の周りがベタベタに汚すが最早知ったことではない。

 そんないきなりの暴飲暴食は――当然、相席の少女を呆然とさせた。


「レ、レイズ……?」


 その声に、レイズは口一杯に飯を詰め込んだまま顔を上げた。料理が来てから初めて2人の目と目が合った。その瞬間、レイズの瞳がぎらりと光った。

 レイズはいきなり手元のコップから水を乱暴に飲み干した。その勢いで口内の一切合切を押し流し、それからコップをどんとテーブルに叩きつけた。そして再びニルヴェアとしっかり目を合わせて、堂々宣言!


「もう夜も遅いけど、これ食ったら少し外出るぞ!」

「え。外って……」


 瞬間、ニルヴェアの目の色が明らかに変わった。そしてレイズはそれを見逃さなかった。


(やっぱお前は興味津々だよな。町の外で気絶させられて、そのまま組合ここに放り込まれたんならなおさらだよな!)


 女子のなだめ方なんて、旅の中で習わなかった。

 だけどレイズは知っている。老若男女を問わない浪漫を、旅の中で知っている。


「新しいなにかとの出会いこそ、旅の一番の醍醐味だ!」



◇■◇



 すでに日が落ちて長いというのに外は――組合の前の大通りは、とても明るかった。

 光源は大きく分けて2種類ある。

 1つは大通りに等間隔に配置されている街灯。

 もう1つは、あちこちで無秩序に吊り下げられている提灯の明かりだ。そしてそれぞれの提灯の下では、いくつもの出店が開かれていた。

 きらびやかな光景が、ニルヴェアの前には広がっている。


「うっ……わ……!」


 ニルヴェアの口から感嘆の声が漏れた。それは隣に立つレイズの耳にも届いていて。「すげーだろ?」ニッと笑ってから解説を始める。


「組合には当然ナガレが集まる。そんで大きな組合になればなるほどそれは増えるし、そもそもナガレ自体が『昼に旅をして夜に街に泊まる』やつが多いんだ」

「つまりこの賑わいは旅客民向けの商売ってことか?」

「大きな組合がある街ではよくあるこった。にしてもここは出店が多いと思うけど……そこが街の特色ってやつかもな」

「はぁ……なんていうかすごいな、本当に……」


 ニルヴェアはどこか夢でも見ているような気分で、街の景色を見つめていた。

 なぜならニルヴェアが住んでいた街にとっての夜は、ただ寝静まるだけの時間だったのだから。


「たった1日分しか離れていない街でも、景色がこんなに変わるのか」


 ニルヴェアは呟きながら1歩踏み出して、くるりと辺りを見回して……ふと、甘い匂いが鼻孔をくすぐった。彼女は迷いなくその匂いを辿っていった。

 果たしてその先にあったのは、1軒の出店だった。ニルヴェアがそこを覗くと、


「わぁ……」


 カラフルな飴玉の袋詰めが、所狭しと並んでいた。

 提灯の光できらきらと輝く飴玉。それを夢中で眺めていると、店主が店の奥から顔を出した。恰幅&人柄の良さげなおばさん店主がニルヴェアへと声をかける。


「お嬢ちゃん、一個舐めてみるかい?」

「……」

「おーい」


 ニルヴェアはそこでようやく気付いた。『お嬢ちゃん』が自分を指していることに。


「え、あ。もしかして、僕のことですか?」


 僕。その一人称に店主は一度目を丸くしたが、しかしすぐに笑みを浮かべて。


「変わったお嬢ちゃんだ。もしかしてナガレかい?」

「え? まぁ……はい。一応……」

「あははっ。一応ってなんだい。まぁともかく旅の記念にほら、舐めてみなよ」


 店主はそう言って、ニルヴェアに飴玉を1粒渡した。


「ありがとうございます。それじゃあ遠慮なく」


 ニルヴェアも素直に飴玉を口の中へと放り込んだ。それからころころ転がせば、優しい甘みが舌の上に広がった。


「知り合いの菓子工房が作った飴なんだけどね。どうだい?」

「美味しいですよ。なんか優しい味っていうか……」

「良い感想だねぇ。そうそう、お嬢ちゃんはこの街初めてかい?」

「はい。というかここまで明るい夜自体が実は初めてなんですよ。自分が田舎者だと思い知ったと言いますか……」

「ははっ、賑やかだろう? ここはちょっとした職人街ってやつでね。釣り下がってる提灯もこの街の職人が作ったものだし、出店で売られてるのもそういう手作りの物ばかりなのさ。例えばどこかの工房の、変な試作品とかね?」

「え? それって――」


 ぱちぱちっ!


「!?」


 その音はニルヴェアの口内から鳴った。正確には口の中の飴玉が急に”弾けた”のだ。


「んむっ。むぇ?」


 弾けた、といっても文字通りに割れたわけではない。飴玉を舐める度にぱちぱちと、舌の上に小気味よい刺激が踊るのだ。


(まるで炭酸水をそのまま舐めているみたいだ)


 ニルヴェアが驚いて目を丸くすると、店主はそれを待っていたと言わんばかりに大きな笑みを見せた。


「あっはっはっ! 本当に良い反応するねぇお嬢ちゃん。それ、まだ名前はないけどアタシらは『ぱちぱち飴』って呼んでるんだ。まだ世に出回ってない試作品だし、旅の記念にちょうどいいと思わないかい?」

「なるほど、商売上手ですね。なら1袋……」


 と、そこでニルヴェアは気づく。


(そういえば僕、無一文なんだよな。寝間着のまま逃げたし今も勝手に着せられた服だし……ん?)


 考えた途端、服の裾辺りが若干重いことにも気づいた。

 だから服の裾に視線を向けてみれば、そこにはポケットがひとつ付いていた。そこに手を入れてみれば、中にはなにかが入っていた。


(これが感じた重さの正体?)


 ニルヴェアはポケットからそれを取り出して……「ははっ」呆れたように笑った。


「こういう心遣いなら、素直にありがたいんだけどなぁ」


 ポケットの中に入っていたのは、カエルの口のように丸っこい財布。それは桜の都リョウラン発祥の『がま口財布』であった。



◇■◇



 やがてニルヴェアはぱちぱち飴を2袋買って戻ってきた。組合の前で待っていたレイズの下へと。


「お、なんか2つあるじゃん。俺の分も買ってきてくれたの?」

「……これはおまけで貰っただけだ」

「『お嬢ちゃん可愛いから~』って?」

「なんで知ってるんだ!」

「わはは、カマかけただけだっつーの。でも着せ替えられた甲斐あったじゃん」

「うるさい! お前には絶対に分けてやらん!」

「くくっ。そりゃいいんだけどさ……それ買った金、アカツキが用意してくれてたんだろ?」

「む。やっぱあのがま口財布、アカツキさんのだったのか……あの人、基本的にろくでもないのに妙なところで繊細というか、手回しがいいんだよな……」


 ニルヴェアの率直な感想に、レイズも「マジでそれなー」と同意をみせた。呆れたような声音で、しかしうっすら微笑んで。


「なに考えてんのかよく分かんねーことも多いけど、それでもなんか色々考えてくれてるやつなんだよ。きっと」

「それは、なんとなく分かる気もするが……」


 そのときニルヴェアは思い出した。アカツキが語った一言を。


「恰好が変われば気分も変わる、か」

「そーいやそんなこと言ってたっけ。ま、あれも結構マジだったんじゃね?」

「だからってこんなの無茶苦茶だ。それに……」


 ニルヴェアはそこでわずかに目を伏せて、遠くを見つめた。


「あまり楽しんでいい旅でもないだろう。僕らには目的があるんだか、」


 こつんっ。


「ら?」


 額にほんの小さく1発、お見舞いされた。

 レイズが拳を緩く握り、ニルヴェアの額に当てたのだ。

 痛くはないけど分からない。きょとんとしたニルヴェアに、レイズがはっきりと断言する。


「そんなもんあってたまるか、バーカ」

「なっ、こっちは真面目に……!」

「メリハリつけて生きるのが、ナガレの流儀だ」

「っ――」


 ニルヴェアは思わず言葉を詰まらせてしまった。だってレイズの表情が本気のそれだったから。


「ガキ扱いされるのは嫌いだけど、それでも俺たちはまだ全然ガキだろ。歴戦の戦士でもあるまいし、四六時中気を張ってたら本当に大事なときにへばっちまう。それに……楽しい思い出ってやつは、そういうときこそ心の支えになるもんだ。ニア、お前だってそういう思い出があったから、今ここにいるんだろ?」

「……!」


 ニルヴェアは目を見開いた。その瞳は現在を越えて、蒼き月下の誓いを映した。


 ――僕はあの日の誓いをごっこ遊びで終わらせたくない。だから僕は、2人と行くことを選びたいんだ


「……ああ、その通りだ」

「だ、か、ら!」


 いつの間にやら、レイズの表情はもうすっかりおどけていた。


「明日は街の散策だ。昨日の今日で思うところもまだあるだろうけどさ、俺のためだと思って一緒に楽しんでくれよ。な?」

「レイズ……」


 ニルヴェアはそのとき確かに感じた。肩の重荷が、ふっと消える感覚を。


(僕にできることはきっと少ない……だったら、できることくらいはちゃんとしなきゃな)


 その第一歩として。ニルヴェアは手に持ったぱちぱち飴の袋をひとつ放り投げた。それはふわりと放物線を描いて、レイズの胸へと吸い込まれていく。


「うおっと?」


 レイズは反射的に袋を受け取って、それから目をぱちくりと瞬かせて……


「店主さんに言われたんだ」


 声に反応してレイズが面を上げると、蒼い瞳が真っ直ぐな視線を向けてきていた。彼女は実に楽しげな想いを視線に乗せて、声も思い切り弾ませて言うのであった。


「『良ければ友達にも広めてくれ』ってさ!」

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