2-2 ナガレの誇りと少女の飛び蹴り

「よーし、ちょっと下がっててくれよ」


 青年の指示通りに3人がトラックから離れた。すると、がこんっ!

 大きな音が鳴って、トラックのコンテナ部分がゆっくりと開き始めた。


「わっ」


 ニルヴェアは目の前の光景に思わず声を上げた。

 うぃーん、がこっ、がこん。

 コンテナから響く機械仕掛けの異音はニルヴェアにとってあまり聞き慣れないもので、だからおっかなびっくり見ていれば、果たしてコンテナが開いて中から現れたものは……


「ちゅ、厨房……?」


 展開完了後、トラックの主である青年は自慢げに胸を張った。その身に纏った真っ白なエプロンが、彼の動きに合わせて大きくはためいた。


「時も、場所も、時間さえも問わない! ナガレの飯屋の開店だ!」



◇■◇



 折り畳み式の安っぽいテーブルがひとつ&椅子がみっつ、街道沿いの原っぱに広げられている。そこにニルヴェア、レイズ、アカツキが座って待っていると、街道に停められたトラック……もとい厨房の方から青年が料理を持ってやってきた。


「待たせたな。今日のおすすめ、鉄板定食3人前だ!」


 並べられたのはパンとスープ。そして鉄板にででんと乗った牛肉のステーキだ。ステーキは今もなお、鉄板の上でじゅうじゅうぱちぱち音を立て、香ばしい匂いを派手に撒き散らしている。


「へー、いい感じじゃん!」

「もりもり食べるでござるよ、おぬしは育ち盛りなのだから。なんなら拙者のも一切れいるか?」

「いやそういうのいーから! いただきます!」

「昔はもう少し可愛げがあったのに、つれないやつだ……いただきます」


 ナガレ2人が早速手を付け始めた一方で……ステーキが放つ豪快な雰囲気に、屋敷育ちのニルヴェアはちょっと圧倒されていた。


「うわ、すご……これってもう食べられるんですか?」

「もちろん! 焼き加減はお好みで選んでくれ。あ、ソースもちゃんと揃えてあるからな」

「焼き加減……」

「迷うなら、中がまだ赤いうちに今すぐ食ってみればいい。いわゆるレアって焼き加減なんだが、いかにも肉を喰らってる! って感じが堪らないんだよな。特にそいつのそれは格別だと思うぜ!」

「肉を喰らってる感じ……」


 ニルヴェアは喉をごくりと鳴らし、そして決意した。大陸で普遍的に伝わる、命を食する言葉と共に。


「いただきます」


 予め用意されていたナイフとフォークでステーキを切り分けて、それからテーブル中央に置いてあるソースの瓶に手を伸ばした。いくつか種類があったのだが『店主おススメ特製ソース!』と自己主張のやたら強いラベルが速攻で目に留まったので、とりあえずそれを肉にかけてみた。

 まだ生の部分がしっかり残った牛肉の上から、玉ねぎベースのとろっとしたソースがかけられて、鉄板がさらに激しく音を鳴らした。


「わ、わ、わ」


 小気味良い音が、香ばしい匂いが、豪快な見た目が、全てが食べごろであることを訴えている。ニルヴェアは慌ててフォークをぎゅっと握りしめると、


「えいや!」


 と肉にぶっ刺してその勢いのまま口に運んだ。すると熱々の肉がはふはふと口内で踊る。ちょっぴり口の中を火傷して、それでもためらわずに肉をぎゅっと噛み締めてみれば、


「!!」


 じゅわっと肉汁が溢れ出て、肉の味が口いっぱいに広がった。


(なに。なんだろう、これ)


 暴力的なまでに濃い生の味。えも言われぬ肉の旨味が舌を打ち、その一方で奇妙な生臭さが鼻にがつんと突き抜ける。しかしこの瞬間においてはそれすらもアクセントと化していた。


(ほんとに、なんか、すごく肉だ。野性味溢れるっていうか、すご……すごいな!?)


 屋敷では決して味わうことのなかった、洗練された粗暴の極みとも言える一切れをニルヴェアはじっくりと噛み締めて、それから飲み込む。そして考える前に再び肉を突き刺しては口へと運んでじっくり味わう。それを何度も何度も繰り返し……その殆どを平らげた頃、不意に少年の声が耳に届く。


「これ、もしかして『黄刃牛』か?」


 声の方に視線を向ければ、レイズが青年になにやら尋ねているようであった。ニルヴェアはそれに聞き耳を立てながら考える。


(初めて聞いた名前だけど、たしかその手のネーミングって……)


 ニルヴェアがそんな予想を立てる中、問われた青年は嬉しそうに答える。


「おお、よく気づいたな少年!」

「多分アンタほどじゃないけど、俺も飯にはこだわりを持ってる方だからな。たしかブレイゼル領を中心に生息してる獣で、その肉は正に野生を喰らうよう……だったか? ガイドブックかなんかのうろ覚えだけど」

「たぶん俺の読んだやつとおんなじだな! ここら辺だとちょっと街道を外れて探せばわりと簡単に見つかるし、実際さっきも1匹狩ってたんだよ。だからそれ、マジの獲れたてほやほやなんだぜ?」


 そんなことをレイズと青年が話しているその隣で、ニルヴェアも「へー」と感心していた。なにせそれは彼女にとって、知らない世界の知らない話なのだから……


「ってこれ家畜じゃなくて獣なんですか!?」


 野性味溢れるどころか、野生そのものだったらしい。

 ニルヴェアの驚愕に対して、青年は堂々と胸を張ってここぞとばかりに声を上げる。


「そりゃそうさ! なんたって俺は、獣料理を極めるためにこうして旅をしてるんだからな!」

「…………」


 ニルヴェアは唖然とした。

 青年の一言は彼女にとって情報量が多過ぎて、どこからツッコめばいいのか分からなかったのだ。

 しかしそんなニルヴェアの心境を代弁するように、レイズが青年へと質問を投げかける。


「店主さん。アンタはなんでそんなことやってんだ?」

(直球で聞くなお前!?)


 ニルヴェアは内心でぎょっとしつつも、しかし口は挟まなかった。


(でも、結局はそういうことだよな……)

 

 ニルヴェアも気になったのだ。

 だって彼女は知っていたから――旅客民がそう簡単に辞められないものであることを。旅をする義務というものは、たかが料理ひとつのために背負うにはあまりに重いのだということを。

 だが、しかし。


「最高に旨い飯を創るための武者修行。料理人が旅に出る理由なんてそれ以外必要ないだろう?」


 青年は堂々と、なんのてらいもなく断言してみせた。だからニルヴェアはびっくりして、つい口を挟んでしまう。


「そ、それだけなんですか!? 旅客民って、たしか一度申請したら1年は元の生活に戻れない決まりとかありますよね!」


 ニルヴェアの言うことは正しかった。

 旅客民はある種の自由を得る代わりに、大陸全体への奉仕を義務付けられている存在だ。

 奉仕の手段それ自体は、大陸各地の獣を狩ることや商売により経済を回すことなど個々人の自由だが……どんな手段にせよ、旅を続ける。その一点だけは決して揺るがない。

 ゆえにそれを強制するための制度がいくつか存在する。ゆえに、旅客民は普通の民に比べて過酷な立場である……はずだが。


「なぁきみ、俺の料理は旨いか?」


 藪から棒にニルヴェアは問いかけられ、そして反射的に頷いてしまった。


「は、はい。そりゃあもう」

「だろうな。俺の料理は旨い!」

「は、はぁ……」

「だけどまだまだだ。こんなもんじゃないはずなんだ!」


 青年の声がどんどん熱くなっていく。まるで肉がじゅわっと焼けるように。


「この大陸には未知の獣がごまんといる。だというのに世に出回る肉は狩りやすいごく一部の獣か、あるいは品種改良されて大人しくなった家畜のものばかりだ。野菜だって魚介類だって……きっと一生かかっても研究しきれないほどの食材がこの大陸には眠っている。それなのに壁の内に籠っているなんてもったいないったらありゃしない! 飯も人生も残さず平らげてこその料理人だ。そうだろ!」

「…………」


 ニルヴェアは再び唖然としてしまった。青年の熱気に押されたのが半分。もう半分は、


(言いたいことは分からなくもない。情熱が有り余っているのも伝わる。だけど、でも)


 だからと言って。


「それなら普通に依頼でもかければよくね?」

「!?」


 ニルヴェアはびっくりしてレイズの方を向いた。びっくりしたのは彼の不躾な物言いに対して半分。しかし、もう半分は。


「折角ナガレなんて物好きがこの大陸にはごまんといるんだ。料理人なら、自分がナガレになって命を張る理由もないだろ」


 またしても、ニルヴェアが感じていた疑問を代弁されたからだった。そしてそのとき、彼女は思い出した。


 ――ナガレに誇りなんて大層なものがあるのかないのか。あるいはあったとして、それがどこに宿ってるのか。知ってみるのも一興かもな


(もしかして、こいつ……)


 ニルヴェアがレイズの意図を考察するその一方で、青年が断言する。


「料理人だから理由がある」


 青年はそう言いながら腰に手を回すと、その腰に巻いてあるベルトから包丁を1本引き抜いた。ごく自然に。ごく気楽に。


(え?)


 ニルヴェアが疑問に思った矢先、青年がいきなり包丁を投げた。手首のスナップを利かせて、どこか遠くへ一直線に。


「えっ!?」


 ニルヴェアがぎょっとして声を上げた、その直後。


『ビギィ!?』


 しゃがれた悲鳴が、どこからともなく響いてきた。


「えっ、えっ、えっ?」


 ニルヴェアが慌てて振り返れば、そこにいたのは『猪』の群れであった。

 およそトラック2,3台分の距離を空けて、6匹の猪たちがこちらに敵意のような視線を向けている。そしてその内の1匹、もっとも目を血走らせている猪の額には……包丁がものの見事にぷっすりと突き刺さっていた。


「あれは……獣!? いつの間に……!」

「命を美味しく喰らうのが料理人だ」


 ニルヴェアが声に釣られて視線を向ければ、青年の目つきはすでに変わっていた。


「喰らい合いを体で覚えるのが、料理の腕を上げる一番の近道だ」


(ナガレには、ろくなやつがいない)


 ニルヴェアの脳裏に、どこかの誰かの言葉が過ぎった。そしてすぐに、


「御馳走さま。道理で旨かったわけでござるな」

「『赤銅猪』じゃん。腹ごなしの運動には丁度いいな」


 アカツキとレイズが立ち上がった。アカツキは懐の刀に手を添えて、レイズもナイフを抜いて構えた。そこに加えて、


「赤銅猪は見た目ごついけど、実際は脂肪多めでジューシーな食べ応えだ! ステーキはもちろん、ローストなんかもありだな」


 青年はそう言いながら、厨房から巨大な鉈を取り出していた。

 誰も彼もが、すでに臨戦態勢へと移行している……ただひとりを除いて。


「な、なんで整備された街道に獣がいるんだ!?」

「ま、こういうこともあんだろ」


 事もなげに答えたのはレイズであった。


「単に群れからはぐれたか、あるいは群れで人を襲って味を占めたか……あの図体なら下手すりゃバスだって押し倒せるかもだしな。なんにせよ、売られた喧嘩は買うだけだ。ちょうど飯代にもなるしな」

「そんな気楽な……ってちょっと待て。お前、たしか黒騎士に琥珀銃を壊されていたよな!? そんなナイフ1本で――」


 と、不意にニルヴェアの眼前へと掌がかざされた。


「まぁ見てろって」


 赤褐色の髪を揺らし、歯を剥き出しにして笑う。レイズの表情には恐れなんて微塵もなくて。


「ぁ……」


 ニルヴェアの気持ちがふっ、と楽になったその瞬間。レイズの姿が目の前から消えた。レイズはすでに赤銅猪へと向かって走り出していたのだ。


「1人2匹だ! 行けるなアカツキ、店主さん!」


 その声にアカツキと青年もそれぞれ応える。


「うむ。店主よ、あまり傷つけぬ方が良い部位とかあるか? 具体的には飯代になる部分とか」

「どこも無駄にはならないだろうけど……今一番欲しいのはタンだな。前々から試してみたいと思ってたんだ」

「了解した。なら首を落とすのが一番早いな」


 そして2人もまた猪の下へと駆けだした。

 やがてレイズも含めた3人は、6匹の猪を打ち合わせもなしに立ち回りひとつで攪乱。レイズの指示通り、1人2匹の戦闘に持ち込んでそれぞれ戦い始めた。

 その中で唯一ニルヴェアだけがいきなり始まった戦闘に呆然としていたが、しかし彼女もはっと我に返るとすぐに顔を向けた。3人の中で最も非力そうなレイズの方へと。

 すると視界に映ったのは2匹の巨大な猪。そしてそのど真ん中へと躍り出た小柄な少年の姿だった。


「なっ……!」


 ニルヴェアの心臓がドキッと跳ねた。なにせ猪は胴体の太さだけでも少年レイズの身長より大きいのだ。頭から尻までの全長に至っては、レイズを3人並べてもまだ足りない。そんな巨体に挟まれれば、否が応でも彼は小さく見えてしまう。


(無理だ)


 そう思ってしまった途端、その予感を煽るように2匹の猪が同時に走り出した。少年の体を挟み撃ちにしようと、左右から迫ってくる。


「あっ――」


 と思わず声を上げてしまった次の瞬間――ガツンッ!


「っ!」


 2匹の猪がぶつかり合って、衝突音が打ち鳴らされた。その激しさに、ニルヴェアは肩を思わずきゅっと竦めた。が……すぐに気づいた。衝突したのは2匹の猪”だけ”だということを。

 いわく『バスだって倒せる』ほどの破壊力をもった突進で同士討ちした2匹は、お互いにぐらぐらと体を揺らして明らかに目を回しているようだった。

 ならばレイズはどこにいる? その姿はすぐに見つかった。

 彼は目を回している猪の1匹、その首の下に潜り込んでいたのだ。そして、ニルヴェアが彼の姿に気づいた直後。


『んぎぃぃぃぃ!』


 猪は一際大きな声を――ニルヴェアの鼓膜を震わす”断末魔”を上げた。その首下からは真っ赤な鮮血が滝のように零れ落ち、草原の緑を塗り潰していた。

 だがその頃にはもうレイズは猪の首下から転がり出ていて、ニルヴェアの下へと歩いてきていた。彼は歩きながら、ナイフについた血を適当な布でふき取っている。

 それはつまり彼が赤銅猪を――獣を、ナイフ一本で切り殺したということであった。

 戻ってきたレイズは気さくに笑いかけてきた。その頬や服にもいくらか返り血が付いている。


「赤銅猪って首の下が意外と薄いんだよ。元々脂肪多めで柔らかい肉だし、だからナイフ1本でもぐっと押し込めば、な?」

「あ、ああ」


 ニルヴェアは分からなかった。一体どんな言葉をかければいいのか。しかしそんな彼女を置いてけぼりに、レイズは言う。


「つーわけで心配すんな。大人しく待ってろよ」


 その一言だけを残して、レイズは再び戦場へと戻っていく。その彼の行く先では、残る1匹の猪が高らかに吠えている。


『プギ――――――!』


 正面衝突の衝撃か、あるいは仲間の血の匂いを嗅いだせいなのか。いずれにせよその両目は激しく血走り、向かってきたレイズを瞳に映すと何のためらいもなく突進してきた。

 しかしレイズはそれを軽やかに躱した。すると猪は、まるでその眼にレイズしか映っていないかのように再び突進を仕掛けてくる。そしてまた、レイズはそれをあっさり躱してみせたのだ。

 それがニルヴェアの目には、まるで1人と1匹で仕組んだ曲芸のように映っていた。


(猪を操り踊っている……そう見えるくらいに、あいつは本当に余裕なんだ。自分よりずっと大きな獣相手なのに。僕には絶対に真似できないことを、あいつはいとも簡単に……)


 そのとき、不意に鼻の奥がキンと刺激された。


(鉄錆びの匂い? 違う。これは、獣の血が……)


 ニルヴェアは気づいた。猪が振り撒いた血の匂いが、”戦場”の後方にまで漂ってきているのだ。

 ニルヴェアはぐっと拳を握った……握ったということに、自分でも気がつかないまま。


(なんで)


 視界の中に映る少年。獣と戯れ”戦場”に舞うその姿がぶれて、遥か遠くの理想と重なる。


(どうして)


 剣帝ヴァルフレアもまた、15の歳を数えたときには、すでに戦場で活躍していたのだという。


(僕はあの場にいないんだ)


 誰にでもなく問いかけて。


(分かっている。怖いんだ。だってあんな突進、喰らったら死ぬに決まってる。死が目の前に迫れば立ち竦んでしまう。昨日の夜のように、僕はまたなにも……なにか、できなければ……また……!)


 昨夜の騒乱が脳裏を過ぎった。奪われ、失い、それでもなにもできなかった後悔が。


(兄上、僕はどうすれば――)


 そのとき、ふっと脳裏に浮かんだ。本が1冊。


『剣帝名言集百選 ~歴代ブレイゼル王の足跡を辿る~』


 ――数年前に出版されたそれはニルヴェアの愛読書であり、ブレイゼル領内で近年最も売れたベストセラー本でもあった。

 そしてそこで語られる剣帝の中には、現ブレイゼル領主であるヴァルフレアも含まれていた。歴代の中で最も早く当主の座に就き、剣帝の中で唯一の”二刀流”を扱い続けるヴァルフレア。

 彼は戦場において、ただの1度も自らの双剣を手放したことがないという。二対の剣を握り続けるということは、すなわち彼は戦場において決して盾を持たないということでもあった。それに加え、彼は二刀流による高速戦闘の強みを生かすために鎧すらも纏わなかったのだ。

 己の護りを全て捨てて、体ひとつで戦場に飛びこむ。その姿ははたから見れば恐れ知らずに他ならない。しかしヴァルフレア自身は、そんな己の戦闘スタイルについてこう語っている。


『常にこの身ひとつで戦い、そして死を恐れ続けること。それが俺の最大の武器だ。恐れが心乱すからこそ、より一層強く在れと志せる。さらに恐れは人の生存本能を呼び覚まし、それこそが己の限界を超える力を引きだしてくれる。つまり恐れとは戦いにおいて最高の導師なのだ。ゆえに戦士よ、戦場を常に恐れよ。その上で戦い続け、そして勝ち続けることを忘れるな。それが常在戦場の心得。恐れは常に、お前たちの隣にある』


 一方で、レイズは猪の猛攻を躱しながら考えていた。


(ちっ、派手に血を撒き過ぎたかな。興奮し過ぎて逆に隙が見つかんねー)


 ぶっちゃけわりと手詰まりであった。

 興奮を越えてもはや錯乱した猪の突進そのものは単純明快で、誘導も回避も余裕ではある。だがその乱暴さが、逆にレイズの飛び込む”隙間”を消してもいた。


(ああも首をぶんぶん振ったりじたばたしたり……下手に飛び込んだらミンチになりかねないな。俺が)


 赤銅猪は首下に柔らかい弱点がある。だがそこには飛びこめず、そこ以外に致命傷が与えられる部位も見当たらない。愛用の琥珀銃による光の槍でもあれば弱点もくそもないのだが、今の武器はナイフ1本だけなのだ。


(さーて他に方法は、と)


 一応、他にも道具を持っていないわけではない。


(煙玉は……たぶん嗅覚でバレるな。閃光玉で目を潰して……そしたら余計に暴れるだけか?)


 他の手段だって、なくはない。


(でもなぁ。たかが猪に”炎”まで使いたくないんだよなぁ。こーなったらアカツキにばっさり斬ってもらう方がなんか色々楽っぽいか? つってもなぁ、ニアに恰好付けた手前なぁ……)


 などとつらつら考えながら、本日10度目となる突撃を躱した。すると猪は勢い余ってごろごろ転がり、しかし乱暴に首を振ってすぐに起き上がる。その一連の動作が地面の草をこれでもかと抉り、土砂もろとも派手に舞い上がらせた。ぶわっと立ち昇る茶と緑の柱を見てレイズがぼやいた。


「うーわ。さすがにナイフ1本でどうにかすんのは馬鹿らしいか。しゃあない……」


 レイズは今、ナイフを右手に握っている。ゆえに彼の左手はがら空きだ、が。


「こうなったら、ドカンと1発……」


 手のひらに、紅い光がほのかに集う。次の瞬間、

 

「――だああああああ!!!」

  

 レイズの声が、少女の叫びに上書きされた。

 レイズの眼前に、金色の髪が躍りでた。


「!?」


 首元で1本に纏めた金髪をなびかせて、少女が跳んだ。


「ああああああ!!!」


 少女は吠えながら右脚を突き出した。その先には、今にも突進しようとしていた猪が――どすんっ!


『ギュッ!?』


 少女の飛び蹴りが猪の鼻っ面を直撃し、その巨体をぐわりと揺らした。そして少女の金髪が、馬の尻尾のようにふわっと跳ねた。

 そしてレイズはやっと理解する。目の前の少女が誰であるかを。


「ニア!?」


 突然の乱入者にレイズがびっくりした一方、蹴り込んだ当の本人はその反動を活かして一気に背後へと飛び退いた……までは良かったものの。


「あうっ」


 彼女は受け身のひとつもろくに取れず、地面に素っ転んでしまった。それから急いで上半身を起こし……目が、合ってしまった。


「あ――」


 猪が、その血走った両目をニルヴェアへと向けていた。『次の標的はお前か』そう言わんばかりに、獣の濁った瞳が少女の姿を映してこんでいる。


「はやく、立たなきゃ」


 ニルヴェアは足をばたつかせた。違う、本当は立ち上がろうとしたのに上手く動かないのだ。早く、早く、早く。必死に命令を送り続ければ、足は覚束ないながらもなんとか大地を踏みしめて


『ブギィァァァァァ!!』


「!?!?!?!?」


 全身がどくんっっ!と思い切り跳ね上がった。正確には、全身が跳ねたかと錯覚するほど心臓が大きく跳ねたのだ。

 猪の威嚇。それだけで、ニルヴェアの全身から力が抜け落ちた。体が石のように固まった一方で、心臓だけが激しく脈打っている。まるで警報を鳴らすように。


「あ、あ、あ」


 ニルヴェアの眼前。威嚇を行った猪の口は大きく開き、その汚らしくも太く硬い歯をありありと見せている。涎が歯を伝い滴り落ちて、猪自身が抉った地面をねちょりと濡らしていた。


 ニルヴェアは動けなかった。


 猪も、口を開いたまま動かない。


 ニルヴェアは動けない。


 猪も……ニルヴェアが、ふと気づいた。


「あ……あれ?」


 その疑問の声が偶然にも合図となり、猪が動いた。

 ぐらりと、横向きに。そのまま傾いて傾いて。

 ずぅん……その巨体にしては静かな地鳴りを立てて、猪は倒れ伏した。


「……………………あっ」


 ニルヴェアはようやく気付いた。

 猪の首からどくどくと流れでている血の河に。そして、


「ナイスキック!」


 猪の隣で、獣の血に濡れた親指を立ててサムズアップを決めている少年の姿に。



◇■◇



「これ配分どうするでござるか?」

「食えるとこくれるんなら、食えないとこは全部もってっていいぞー」

「それはこちらとしても助かるが、そちらは6匹分も保管できるのか?」

「元より自給自足でやってるからな。この手の保存はお手のものだし、そうじゃなくてもこんなところに”餌”を残しちゃ二次被害も出てくるだろ? それになにより……創った飯も狩った命もきっちり平らげてやらなきゃ勿体ないってもんだ」

「料理人のプライドというやつか。良きこだわりでござるな」

「あんたこそ、侍って言ったっけ? とんでもない剣術だな……こんな綺麗な断面した肉なんて早々お目にかかれねぇぞ。ある意味じゃ今回一番の収穫かもな」


 やいのやいのと軽快に語り合いながら、ナイフ片手に猪の死体をサクサク解体していく自称侍&エプロン姿の青年。その姿を遠目に眺めて、ニルヴェアは思う。


(なんというか、シュールな光景だなぁ……)


 それからニルヴェアは視線を正面に向けた。彼女の目の前ではレイズもまた手慣れた手つきで解体を続けている。


「皮と爪。牙は生えてないから歯と……こいつの骨ってなんかに使えたっけ? まぁなんかには使えるだろ」

(……こっちも大概シュールだよな)


 真っ赤な返り血を全身に浴びた少年が、自らよりもだいぶ大きい獣を軽快に捌いているのだ。その光景は、狩りと縁遠いニルヴェアにとって結構猟奇的な光景に見えていた。


(戦いを日常とする生き方、か……)


 ニルヴェアがなにやら思いを馳せている間にも解体は進む。

 レイズがふと作業の合間に額の汗を腕で拭った。すると腕についていた血が、汗に濡れた額をぬめっと這いずった。


「うげ。やっぱあとで着替えないとな」


 その独り言で、ニルヴェアは気づいた。アカツキの馬車に積まれ、自分が身を隠した衣類の山。その本当の意義に。


「だからあんなに着替えが多いのか……」


 ニルヴェアが呟いたその言葉に、レイズが解体を続けながら答える。


「荒事に汚れは付き物だしな。だからこそ、常に清潔さを心がけるのがナガレの流儀だ。たまにいるんだよなー、ナガレ生活にかまけてそういうの疎かにするやつが……ああいう大人にはなりたくねーよなマジで」


 レイズは平然とぼやいたが、ニルヴェアは平然と……していられなかった。


「お前は、当たり前のように戦っているんだな」


 ぽつりと呟かれた小さな言葉。しかしレイズはそれを逃さず聞いていたようで、彼は解体する手を動かしながらニルヴェアへ問いかける。


「初めてなんだろ、獣との戦闘は。なのによく1発かまそうなんて思ったな」

「……悪かった。いきなり飛び出して」

「理由が知りたいだけだよ、俺は」

「…………」


 ニルヴェアは少しだけ迷って、しかし正直に答える。


「なにもできないまま戦いが終わる。それがどうしても嫌だったんだ」


 するとレイズはふはっと笑って。


「その割には腰抜かしてたけどな」

「こ、腰を抜かしたんじゃない! ただびっくりしただけで、その……」


 ――恐れは常に、お前たちの隣にある


「……恐れに打ち勝つって、やっぱ難しいんだな」


 レイズの背中に兄の背中が重なっていく。すぐ近くに見えるはずの背中が、しかし遥か遠くへと、


「それでも、あのデカブツをガツンと揺らして隙を作ったのはお前だろ」

「!」


 レイズが振り返って、血にまみれた快活な笑みを見せた。


「勢いしかなかったけど、勢いだけは中々良いキックだったぜ」

「ぁ……」


 頬になにやら微熱が集まってくる。ぽわぽわと。ニルヴェアがそのとき感じたのは不思議な高揚感だった。


「そ、そうか。その……」

(謎にむずがゆい。妙に照れくさい。しかしブレイゼル家の者として、お礼はちゃんとだな……)


 ありがとう。

 ニルヴェアがそう言おうと、口を開きかけたそのとき。


「箱入りにしちゃあマシってだけだ。これに懲りたら坊ちゃんらしく、大人しくしとけよな!」

「むっ……!」

(急に褒めてきたり馬鹿にしたり、なんなんだこいつは!)


 なんか知らんが腹立たしい。そんな感情がニルヴェアを動かした。彼女はいきなり手を伸ばすと、レイズの手からナイフをふんだくった。


「うわっ、返せ俺のナイフ!」


 ニルヴェアはレイズの言葉を聞かなかった。それどころか、猪の死体の前にしゃがみこむと。


「僕もやる」

「はぁ? お前こういう解体したことあんの?」

「……騎士団の遠征においては、道中で獣を狩って食料を節約することも多いらしい」

「なんだよいきなり」

「だから練習したことがあるんだ。屋敷の料理人に頼んでだな、鶏とか小さい家畜を捌くぐらいなら……」


 ニルヴェアはそう語りながら、猪にナイフをぐさっと突き立てて――ぶちゅっ。


「うひゃあああ」


 いきなり噴きだした鮮血に悲鳴を上げた。


「あーあーそりゃ狩りたてほやほやだからな。練習っつってもどうせ血抜きとか済んでるやつだろ? ほら代わるって」

「……やる!」


 再びナイフを突き立てて、ぶちょ。


「ひゃわぁぁぁ」

「つくづく諦めの悪いやつ……」


 そうぼやきながらも、しかしレイズはナイフを取り上げてこなかった。その代わりに一言。


「でも、お前のそういうとこは嫌いじゃないぜ」

「?」


 ろくな前触れもなく、ぽんと置かれた好意の言葉。なんのこっちゃとニルヴェアは首を傾げる。


「いきなりなにを――」


 と。ニルヴェアの脳裏にふと、昨日の”トラブル”が浮かんだ。押し倒されて、胸を思い切り掴まれた――


「気持ち悪いこと言うな変態!」

「はぁ!? なに勘違いしてんのお前みたいな男女こっちからお断りだっての!」

「分かった。今のお前なら気兼ねなくバラせそうだ」

「刃先を人に向けんなばーか! やっぱ返せ、箱入り坊ちゃんはそこで見てろ!」

「なんだとお前こそ見てろこのくらい、ぴゃあぁぁぁ……」


 少年少女はやいのやいのと騒ぎながら、猪の解体を進めていく……そんな彼らは自分たちのことで手一杯で、全く気づいていなかった。

 少年少女を見守る大人たちの、生暖かい目線というやつに。


「うーむ、この青臭くて甘酸っぱい感じ。若さってやつは独特の旨味があるな!」

「やみつきになる旨さでござるよな。しかもあれを引っ掻き回すと、また味わいが変わってきてなぁ……」


 そんなこんなで猪の解体はつつがなく終了し、3人は青年と別れて再び旅路に戻った。そして日が暮れるまで走り続けた頃、果たして目的の街が見えてきたのであった。

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