第三十三話 妊婦の不安


 学生時代の恋を再燃させたいというナタニエルの一途さにソニアは感動していた。


「それにしても、何年も前に別れて今は遠方に住んでいる恋人に会いに行くなんて……」


「未練がましいだけだろ」


「もう、ベンは黙っていてよ! それだけナタニエルさまの想いは強いのですね」


「学生時代は若過ぎたせいもあって、些細なことで別れてしまってね。よりが戻せるのだったら今度はもう決して彼女の手を放さないって決めている」


 魔術院最後の優良物件ももうすぐ売却済みとなるかもしれない。ソニアの例の同級生を含む一部の独身貴族女性が大層嘆き悲しむことだろう。


「まあなんてロマンティックな……私も応援していますわ」


「彼女にフラれたら自棄酒に付き合って慰めてやるよ」


 アンタがそれを言うとシャレにならないし、ルイに言いつけてやるから、とソニアはベンジャミンに目で訴えた。彼はソニアから視線をわざとらしくらしている。


「モルターニュさん、縁起でもないことおっしゃらないで下さい」


 ナタニエルやティエリーなど、一部の人間はベンジャミンのことを依然旧姓のモルターニュで呼んでいるのだ。


「そうよベン、貴方はいつも一言も二言も多いのよ」


「僕も、貴方たちのような何でも言い合える仲良し夫婦になりたいですね、頑張って遠征してきます」


 ナタニエルはそこで軽く頭を下げて退室した。




「俺達、外ではラブラブ新婚夫婦ですっかり定着しているよね」


「実際はラブラブにはほど遠いのにねぇ。でもこれでいいじゃない」


「俺、実はナタニエルみたいなキラキラ王子様系はどうも好みじゃないんだよ」


「知っているわ」


「うん、彼みたいなのを前にすると何というか俺、劣等感の塊になるんだ。俺自身もムスコもアソコも萎縮してしまってね。俺の好みはさ、一見地味でも……」


「はいはい、誰もそんなこと聞いていません。今更一々説明してくれなくてもいいから。私たちのルイが待つ家に早く帰りましょ」


 ソニアはベンジャミンの言葉を遮り、立ち上がって荷物を持つとさっさと執務室を出て行こうとする。


「待てよソニア、鞄持つよ」




 翌日、一緒に遠征に行く予定だったアナにだけソニアはきちんと理由を話した。


「私は……魔力も人並以下で、特に抜きんでいる分野もないし、努力だけでここまできました。ですから今回の遠征はどうしても行きたかったのです」


「そう、私もソニアさんとの遠征を楽しみにしていたけれど、残念ね。けれど、人生にはもっと大事なことがありますもの」


「そう言えばアナさまは学生時代に上の二人のお子さまをお生みになったのですよね」


「ええ。主人は子供を持つのは私の卒業まで待っても良いとも言ってくれたのです。けれど自然に任せることにしました。そうしたらありがたいことに長男をすぐに身籠って、二人目も二年後に……ですから結局人の何倍もの年月をかけて卒業しました。学業も仕事も大事ですけど、子宝に勝るものはありませんわ」


 アナは実家の経済的な理由で二十歳を過ぎてから学院に編入し、十代の同級生に混じって魔術科で学んだのである。


 編入前にルクレール侯爵と結婚していた彼女は在学中に二度も出産と育児の為に休学、周りよりもずっと遅く卒業証書を手に入れた。今は魔術院幹部の地位にいる彼女も実は遅咲きで努力の人なのである。


「実はビアンカさまにも心配されてしまいました。お医者様に確認してもらえるほどの日数は経っていないのですけれど、ビアンカさまにはもう胎児の存在が感じられると。それで私の迷いも吹っ切れました」


「ソニアさんはもう立派に母親としてのお顔をされているわ。お体大事にして下さいね」


 そしてアナとナタニエルは予定通り、初夏のある日に南部テリオー領に旅立って行った。




 しばらくするとソニアは体がだるく連日眠くてしょうがなくなってくる。食欲も落ちてしまった。いわゆる悪阻つわりである。かかりつけの医師にはまだ断定は出来ないがもうすぐ妊娠が確認できるだろうと言われていた。


「ソニア、最近食べる量がぐんと減ったな。食欲ないのか?」


「心配しないで、ベン。今は悪阻で気持ち悪くて体調も良くないし、ただ眠っていたいだけなの」


「そんなに辛いのだったら仕事もしばらく休めよ。体調不良で何日か欠席しても罰は当たらないだろう」


「いいえ、そこまでしなくても大丈夫よ。けれど決して無理はしないわ」


「あまりにも見ていられなくなったらもう仕事には連れて行かずにルイに頼んで屋敷に監禁するからな」


 ソニアは確かに体調が悪くなったということもあったが、精神的にも不安定になっているのが自分でも分かった。


「けれど……たとえルイに監禁されて二人きりでも、当分まともにねやのお相手も出来そうにないわ。本当は悪阻が収まるまでは貴方にずっと当番を代わって欲しいくらいよ」


 少し自棄になって口調も刺々しいものとなっていた。


「機嫌損ねるなよ、ソニア。ただの冗談だってば」


 悪阻が終わったら今度はお腹が出てきてルイの方がその気にならないのでは、出産してもすぐに夜の手合わせも出来ないだろうし、体型も戻らないだろうし、とソニアの懸念は留まることを知らなかった。


「怒ってなんかいないわ、事実を述べているだけじゃない」


 後ろ向きな考えばかりに囚われているソニアは、口調が益々きつくなってしまう。


 男同士だったら月のものも、妊娠出産もないし、その点では女よりもずっと気楽ではある。けれどそれを口に出してしまったら無神経すぎるだろう。


「当番を俺に代わって欲しいだなんて君の本心じゃないだろ」


「けれど、今の私の状態ではデキないものはデキないもの。貴方がもし遠征に出て、私たち二人を置いて王都を留守にすることになっても心配なかったわよ。ああ、でもそうしたらルイが私たち以外の人と浮気をする心配があるのよねぇ……」


「なあ、ソニア。誤解するなよな。今の発言はルイに対しても失礼だぞ。夫婦や恋人の絆は性欲を満たすだけのものではないだろう?」


「それはそうよ。私たちには共通の目的があるものね」


「俺が言いたいのはな、別にヤらなくてもいいから彼に寄り添ってもらうだけでも満たされないか? 人間下半身だけで生きていないよ」


「貴方の口からそんな言葉が出てくるだなんて……どうしちゃったのよ、ベン?」


「君も言うねぇ」


「ごめんなさいね、ベン。少しヒステリックになってしまったわ。貴方だって怒って当然なことを言ったのに……」


 ゆっくりと深呼吸をするとソニアの気持ちも少し落ち着いてきた。毎度ながらベンジャミンの寛大さと包容力の大きさには感謝しているのである。


「良い夫としての株もまた少し上がったかな?」


「ええ。妊娠中の不安定な時期は特に、理解ある夫と情熱的な恋人の両方に側に居て尽くしてもらいたいわ。私にはそんな贅沢が許されるでしょう?」


「おっしゃる通りですよ、奥様」


「うふふ、一人には背中、もう一人には足のマッサージをしてもらおうかしらね」


「なんでもお言いつけ下さい」


「私は果報者だわ」




***ひとこと***

ナタニエルとアナは無事に南部テリオー領に旅立ちました。さあナタニエル君の恋の行方は?

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