第三十二話 代理の魔術師


 翌朝、ソニアとベンジャミンはいつものように一緒に通勤した。その朝が普段と違ったのは、ベンジャミンの執務室の前で別れる二人がそのまま連れ立って最上階のクロードの総裁執務室まで行ったことである。


 ベンジャミンが扉を叩こうとしたら、中から声がした。


「二人共、入ってくれ」


 クロードは扉の向こうからソニアとベンジャミンの魔力を感じたらしい。


「失礼します、お早うございます、総裁」


「お早うございます。まあ、ビアンカさままで……」


「ああ、君達二人が何を報告しに来たか分かっている。ビアンカから聞いた」


「はい、総裁さま。来週からの南部テリオー領への遠征を辞退させて下さい。私の勝手な都合で、しかも急に申し訳ありません」


「気にするな。子は何にも勝る宝だ。大事にしなさい」


「それでソニアから私に代わりに行ってくれと頼まれたのですが、私は今のこの状態の妻を置いて二週間も留守にしたくないのです。身勝手で申し訳ありません」


「いいのよ、ベン。大事な時期ですもの。ソニアさんの側に居てあげて下さい。貴方もご存知のように代わりにどうしてもテリオー領に行きたい、どうしても行かないといけないって言っている人がいるのです。だからソニアさんが抜けた後のことは心配ありませんよ」


「まあ、どなたかお聞きしてもよろしいですか? 私、その方が出発する前に是非お礼を申し上げたいのです」


「ナタニエル・ソンルグレ魔術師だ。礼など必要ない。ソニアさんには気の毒だが、あいつは遠征に行けるようになったと聞いたら浮かれて出発まで仕事にならないかもしれんな」


「総裁もおっしゃいますねぇ」


「本当だろ」


「うふふ」


 ソニアは事情が良く呑み込めないが、ナタニエルは代わりに遠征に行くことを快諾してくれるようだった。


「早速ナタニエルの奴には嬉しい知らせを伝えるとするかな」


「ありがとうございます、失礼致します」




 ソニアとベンジャミンが退室した後、ビアンカは一人考えていた。ソニアの妊娠に気付いた時から彼女は不思議に思っていた。子供の父親はベンジャミンではないということが、先程夫婦二人に会ったことで確信に変わったのである。


 しかし今日のベンジャミンの様子を見る限りでは彼も承知の上なのだろうとビアンカは考えた。そこまで首を突っ込むことは躊躇ためらわれたので彼女は自分一人の胸の内に仕舞っておくことにした。




 総裁執務室を出て二人になるとベンジャミンはソニアの肩をポンポンと叩いた。


「良かったな、ソニア。これで肩の荷が下りただろう。まあ、また今回みたいな遠征もきっといつの日か出来るよ」


 ベンジャミンはいつも彼女の欲しい言葉をくれる。


「貴方の言う通りね。人生の中で妊娠出産できる回数よりも、遠征の機会の方がずっと沢山あるに決まっているわ」


「君のその考え方、いいね」


「それにしても、ベン、ナタニエルさまが遠征に行きたがっているって知っていたの?」


「うん。本人からも少し聞いていた。それにビアンカ様もちょっとだけ教えてくれていたから」


「どうしてナタニエルさまは希望者を去年募っていた時に立候補しなかったのかしら?」


「それはね、彼の目的が別にあるからだよ。本人に直接聞いてごらん」


「何よそれ?」




 その日の終業後、帰宅するベンジャミンがソニアを迎えに彼女の執務室に顔を覗かせると同時にナタニエルが扉を叩いて入ってきた。


「ソニアさん、あの一身上の理由で遠征に行けなくなったと聞きましたが……」


「はい。その代わりにナタニエルさまが行って下さるから心配するなと総裁から言われました」


「今朝正式にアナ伯母様と一緒に遠征するように辞令が下りました。あの、僕はどうしてもテリオー領に行きたかったから嬉しいのですけれど、ソニアさんは張り切っていたのに諦めざるをえなかったのですよね」


 ナタニエルはアナの甥にあたる。アナの夫ジェレミー・ルクレール侯爵の妹が彼の母親なのだ。


「そんな、お気になさらないで下さい。私、ナタニエルさまが喜んで引き受けて下さると聞いてほっとしているのですから。ありがとうございます」


「ナタニエル、ちゃんと任務も真面目にしてこいよ」


「も、勿論ですよ」


 ソニアは首を傾げた。ナタニエルがそこまでこの急な任務を引き受けたがる理由は未だに謎だった。


「ソニア、こいつ遠征先がテリオー領だから名乗りを挙げたんだぜ。他の地域なら絶対に行かないね」


「どういう意味ですか? そう言えば去年希望者を募集していた時は私とアナさましか居なかったみたいですし」


 ナタニエルは少し赤くなりながらソニアに事情を説明してくれた。


「実はね、学生時代に付き合っていた彼女が実家のテリオー領に戻っていてね。去年近況を聞いた時には彼女は領地の商人と婚約間近だったのだよ。けれど今年になってつい先日、共通の友人が彼女は破談してまだ独り身だって言うから……」


「ああ、それで彼女に会いに行かれるのですね。でも、それなら遠征まで待たなくても普通に休みを取ればよろしいのではないですか? でも年度末のこの時期は中々無理ですね」


「そうなんだよ、こいつったら彼女が破談したって聞いた翌日に休暇を申請して却下されてんの。それでも総裁は一応ナタニエルが抜けてもやっていけるか、なんて俺に打診してきた。本当は休みをやりたいのだけど、と相談までされてね」


「まあね、結局年度末の休みは取れなかったけれど、学院が夏休みに入って遠征組の二人が帰ってきた後の休暇は認められてね。僕自身が遠征に行けるなら願ったり叶ったりだよ」


 ナタニエルはソニアより四つ年上で、学院でも有名人だった。母親は王妃の妹、継父のソンルグレ侯爵は王国史上最年少で副宰相の地位に就くと当時言われており、その通り彼は今副宰相として活躍している。


 そしてその美しい容貌に貴公子紳士的な立ち居振る舞いのナタニエルは女子学生にとても人気があったのだ。噂に疎いソニアでも彼のことは周りの級友たちがしきりに話しているのを聞いていた。


 彼は魔術師にしては珍しい金髪で、青緑の瞳を持っている。魔術師には圧倒的に黒髪が多いのである。クロード総裁にアナ、ソニアとベンジャミンも例に漏れず皆黒髪だった。


「こいつが遠征を希望する不純な動機についてどう思う、ソニア。公私混同もはなはだしくないか?」


 ソニアはふと、自分が婚約する前に同級生たちが話していたことを思い出した。魔術院で当時独身だった男性はベンジャミンとナタニエルの二人だけで、彼女達はこの二人を優良物件と呼んでいた。


 ベンジャミンとソニアが婚約したと知った時の彼女達の反応は微妙なものだった。ソニアも表向きは祝ってもらえたが、陰ではなんと言われていたか大体想像はついていた。


「けれど、私は出発直前に辞退したという引け目があるので……理由は何であれナタニエルさまが喜んで私の代わりに行って下さると聞いて安心しています」


「良かったよ。ソニアさんの代わりに仕事もきちんとこなしてくるから」




***ひとこと***

渡りに船とばかりにナタニエル君張り切っております。アナよりもはしゃいでいるのはこの人ですね。

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