第三十話 奥様の優先順位


 ソニアは大きく深呼吸をし、あと数日だけ待ってみるという考えに行きついた。


 結婚して新居に越して、やはり精神的にも肉体的にも疲れがあって月のものが少し遅れているだけかもしれないのである。しかし、心配で食事も喉を通りそうになかった。食欲などなくなってしまったが、食べ物は少しずつ無理に口に押し込むようにしたソニアだった。


 もし大事なお子を授かっているとしたらしっかりしないといけないと彼女は自分に言い聞かせた。


 翌日の夕食時には既にベンジャミンが何か察したようであった。


「ソニア、今日はどうした? 口数も少ないし、何か様子が変だぞ?」


「変って何よ、ベン。いつもと同じです」


「大体今晩は久しぶりにほらさ……いつもの君ならはやる気持ちが抑えられずにさっさと食事を済ませて部屋に引っ込むだろ?」


 今晩は一週間ぶりにルイがソニアの部屋を訪れることをベンジャミンは言っているのだった。


「え、ええ。今晩は少し疲れているから……」


「君が葡萄酒をほとんど飲まないなんてさぁ」


 いつもは決まって一、二杯飲んでいるのにいきなり飲まなくなるのも不自然かと思ったソニアは、一杯注いでもらったのはいいのだが、グラスを手でもてあそぶだけで全然口を付けていないのである。


「体調がすぐれないのなら今日の当番交代してやるよ」


「調子に乗らないでね。結構よ」


「ならいいけど」




 ベンジャミンの提案は突っぱねたソニアも、実はねやでルイの相手が出来る気分でもなかったし、そんな元気もなかった。


 それにもし身籠っていたらあまり激しい行為も避けた方がいいに決まっている。ルイとゆっくり話したい、一緒に寄り添ってもらいたいという気持ちは大きかった。


「ルイにはすぐに分かってしまうかもしれないわね……」


 確信もないうちからあまり早く知らせても、ソニアの勘違いである可能性も、早期流産の危険も高いのである。彼女は愛する男性二人をぬか喜びさせたくなかった。


 今周期は一週間も遅れていることを、ソニア付きの侍女もそろそろ気付いているかもしれない。




 ソニアは寝室に引き取るとゆっくり入浴した。ルイに何と言おうか、どう接したらいいのかまだ悩んでいた。


 その夜遅くにルイが部屋に入ってきた時にはソニアは寝台で既にうとうとしていた。本を読んでいたのだが、いつの間にかその本を閉じて横になってしまっていたようである。


「ソニア、遅くなって申し訳ありませんでした」


「大丈夫よ、ルイ。お仕事お疲れさまでした。先に寝てしまってごめんなさいね」


「私の方こそ貴女を起こしてしまいました。お疲れのようですね。今晩はもうこのまま休まれますか?」


 そう言ったルイは軽くソニアの額に口付けた。


「ええ、貴方がそれでよければ」


 ソニアはルイの提案に後ろめたさを感じながらも同時に安堵もしていた。


「構いませんよ。膝枕でも腕枕でもお言いつけ下さい」


「じゃあね、横向きに寝るから後ろから抱きしめて?」


「奥様の仰せの通りに」


 ルイの体温を背中に感じながら幸福感にも満たされていた。


「ベンも今日は私が疲れ気味だからって当番を代わろうか、なんて言い出すのよ。貴方が来てくれてもデキそうにないのは分かっていたけれど、今晩は貴方を独り占めしたかったからベンに譲るのはやめたの。貴方の温もりを感じながら一緒に寝たかったのよ」


「実は私も今晩はすぐに眠りたいのです。貪欲な貴女を満たせる体力はちょっと残っておりません。丁度良かったです」


 ソニアに気を遣わせないようにルイがそう言ってくれているのかもしれないが、彼女は嬉しかった。


「愛しているわ、ルイ。お休みなさい……」




 次の日もその次の日も変わりなく過ぎて行った。ソニアの疑問はだんだんと確信になりつつあった。母親としての本能が妊娠を告げていた。


 ここに貴方の赤ちゃんがいる、とソニアは声を大にしてルイに言いたくてしょうがなかった。しかし、医者に妊娠を確認してもらえるのはもう少し先のことになりそうだった。


 ソニアの中では遠征を辞退する決心が既に出来ていたのだが、理由をどうしようか迷っていた。あまり悩むのもお腹の子に良くないし、辞退するなら一日でも早い方がいいに決まっているとは分かっていた。


 出勤中の馬車の中でもベンジャミンが話しかけてくるのにソニアは上の空だった。


「ソニア、どうしちゃったの? 体調が良くないなら休めよ。引き返そうか?」


「あ、いえ、ベン。ごめんなさい、私ったら。遠征のことを考えていて」


「君もアナ様のことを笑えないよねぇ。アナ様のところはご主人のルクレール侯爵が少々つむじを曲げているって噂だ、知っていた?」


「ええ。私の旦那さまは留守中に羽を伸ばせてルイを独り占め出来るから喜んで送り出してくれるのよね」


「い、いや、それはそうだけど、君が二週間も居なくなるのは寂しいよ」


「何よ、取ってつけたように!」


 王宮魔術院に到着し、ベンジャミンの執務室の前で二人は別れ、ソニアはブツブツとつぶやきながら自分の執務室に向かった。


「今晩にはルイとベンに報告して、明日には遠征辞退届を出すわよ」




 その日の昼休みになる少し前にビアンカがソニアを訪ねてきた。


「ソニアさん、良かったら私の執務室でお昼をご一緒しませんか? 今日の昼食を持って来ておいでですか?」


「え、ええ。お誘いありがとうございます」


 珍しいこともある、ビアンカはソニアよりもずっとベンジャミンと親しくしている。何せベンジャミンはビアンカの夫であるクロードから唯一彼女に近寄っても良い男として認められていたからである。


 ビアンカの執務室に二人で入ると、彼女は手際良くお茶を淹れてくれた。


「このお茶、とても香り高くて美味しいのですよ」


「ありがとうございます」


 二人で向かい合って昼食を食べ始めてからビアンカが口を開いた。


「ソニアさんは最近、その、今朝は特に顔色が良くないように見えるのですけれど大丈夫ですか?」


 その言葉にソニアは悟った、ビアンカは彼女特有の白魔術で人の心が読めることがあるのだ。


 ソニアは震え出した手がティーカップを落とす前にそれを卓上に置いた。そして大きく深呼吸をした。


「ビアンカさまは私が考えていることがお分かりになったのですね」


「いいえ。貴女のお腹に宿った小さな存在が感じられたのです。今朝廊下ですれ違った時よ」


 ソニアは驚愕で目を見開いた。彼女はビアンカの言葉に驚いたと同時に少々憤然とせずにいられない。


「まあ、そんなことまでお出来になるのですか、白魔術師は」


 身分の違いも職場での立場も考えず、思わずとがめるような口調になってしまった。しかし公爵夫人で魔術院の幹部であろうが、ソニアの個人的な事情を暴く権利はない。


「お気を悪くされたらごめんなさいね。普段は私、誰かがご懐妊されていることが分かっても自分の中に留めておいて口に出すことは決してありません」


「いいえ、私の方こそ失礼な態度を取りました、申し訳ありませんでした」


「無理もありませんわ。けれど、今回のソニアさんは事情が事情ですから。もうすぐ遠征されるでしょう? お医者さまに妊娠を確認してもらうにはまだまだ早すぎますし、もしかしたらソニアさん自身がまだお気付きでないのかもと心配でした。余計なお世話と思いましたけれども……」


 ビアンカもそこまで考えてくれていたのだった。




***ひとこと***

市販の妊娠検査薬よりもよほど早くて正確なビアンカチェックでした! これが初めてではありませんよね。彼女は性別も既に分かっているかも?

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