三人の婚姻

第二十九話 新米魔術師の心配


 王都の春の盛りは過ぎ、夏が近づいてきていたある日のことである。魔術院では月に一、二回は開かれる定例会議が行われた。所属する魔術師全員が参加する報告連絡会のようなものである。


 ソニアは相変わらず早めに会議室に行き、後ろの隅に座った。婚約を発表した時から同僚の魔術師達は遠慮してか、彼女の隣を必ず一つ空けて座るのである。そしていつも時間ギリギリにやってくるベンジャミンをそこに座らせるのが習わしになっていた。その日も例外ではなかった。


 主な議題は夏に行われる王宮行事についてだった。


 最後に司会役の幹事が魔獣生態調査の予算が国庫から下りたことを報告したのに続き、総裁であるクロードが発言した。


「予算が下りたから早速この夏にでも生態調査を実施する予定だ。去年夏にこの調査に赴く希望者を募っていたのだが、人員二人の枠に希望者が二人ですぐに決定した。ルクレール魔術師とガドゥリー魔術師に行ってもらうことになる」


 自分の旧姓が呼ばれたソニアはハッとした。そう言えばまだベンジャミンと婚約する前に遠征人員の希望を募っていたのに応募していたことをすっかり忘れていたのだった。


「え? 今になって決行? ベン、ごめんなさい。貴方に報告し忘れていたわ。何せ婚約する前のことでしたから」


 ソニアは隣のベンジャミンに声を潜めて言った。


「ガドゥリーではなくてもうポワリエですわよ、総裁」


 クロードは妻のビアンカにそう訂正されていた。


「ああそうだった。ポワリエが二人居ると紛らわしいな。モルターニュでなくて、ソニア・ポワリエ魔術師の方だ」


「君が立候補していたのは聞いていたよ。良かったじゃないか、選ばれて」


「本当に行ってもいいの?」


 ソニアとベンジャミンはひそひそ声で話しているところをクロードに注意されてしまう。


「そこの二人、仲が良いのは分かるが、私語は慎め」


 周りの魔術師達はくすくす笑っている。ソニアは恥ずかしさで赤くなりうつむいた。


「遠征の日程は貴族学院の期末試験が終わり、夏休みに入ってからになる。今回は王国南部、カンディアックとの国境にある森の調査からだろうな。お二人には宜しく頼む」


 ソニアも魔術師として就職二年目に入り、古代魔術書を読み解くだけでなく何かもっと広い分野の知識と経験を積みたかったのである。昨年の人員募集に迷わず名乗りを挙げたはいいが、予算の問題と人手不足もあり、遠征の実施の見通しが立っていないことも聞いていた。


 そのうち婚約、結婚と忙しくしていたソニアは遠征のことなどとうの昔に忘れてしまっていたのである。


 会議の後、ソニアはアナに話しかけられた。


「ソニアさん、夏の派遣が楽しみですわね。よろしくお願いします」


「いえ、私の方こそお世話になります」


 アナ=ニコル・ルクレールは魔術院の幹部で貴族学院の教師も兼任している、ソニアにとっては大先輩にあたる。


「ああ、夏になるのが待ちきれないわ。南部の夏はやはり王都よりもずっと暑いのでしょうね。私の実家は北部ですし、主人の領地も王都と同じような気候ですから私は暑さには慣れていないのです」


 遠征に行けるのが非常に楽しみな様子のアナにソニアもつられそうだった。


「私も生まれも育ちも王都ですから、本格的な暑さには弱いという自信がありますわ」


「魔術師の黒いローブなんて暑苦しいものは向こうでは着られませんわね、きっと!」


「何だかアナさま、張り切っておられますね」


「あ、いえ、そんな浮かれているわけでは、決して……けれど楽しみなのは本当ですわ」


 うきうきしているアナは何だか少女のように可愛らしい。


「私も楽しみです。ベン、私も本当に行ってもいいの?」


「もちろんだよ、ソニア・ポワリエ魔術師」




 ソニアも就職してまだ二年目の魔術師で、持っている魔力もそう強くなく、この分野で特に優れているというものもない。例えばベンジャミンは特筆して呪術に長けているのだが、ソニアにはそれがないのである。


 ソニアは魔術師としての自分の将来の方向が見えず、常に手探り状態だった。


 ソニアの両親などはポワリエ家に嫁ぐのだから当然仕事は辞めるものと思っていたようである。実際、ソニアもベンジャミンやポワリエ前侯爵に仕事を辞めろと言われるのではと恐れていた。ポワリエ前侯爵は特に何も言わず、ベンジャミンはソニアが当然の如く仕事を続けるものと考えていたようで、ソニアは理解のある夫に感謝していた。




 その後二人きりになった時にソニアはベンジャミンに改めてお礼を言った。


「ベン、遠征のこと、ありがとう」


「礼を言われるようなことしてないよ」


「だってとても嬉しいのですもの。早く帰ってルイにも知らせたいわ」


「そうだね」


「それにしてもアナさまのあのはしゃぎようったら……今晩から荷造りでも始めそうな勢いね」


「ははは……」




 アナとソニアの遠征は予算が下りただけあってすぐに日程も決められた。そして王宮魔術院から二人が滞在する南部のテリオー伯爵領に晩春、文書が送られた。


 テリオー領の街の宿屋に泊まるものとばかりソニアは思っていたのだが、遠征は女性二人ということもあり、安全の為にも領主テリオー伯爵の屋敷に滞在させてもらうのが良いとの上の判断であった。


 貴族学院の年度末は非常勤講師のアナも期末試験のためにとても忙しい。その多忙な勤務の合間を縫い、アナはつばの広い帽子や日傘、麻や綿の涼しい夏のドレスなどの準備をしている。


 初夏の、まだ暑くなる時期の少し前だがアナの準備に抜かりはなく、ソニアにも荷造りの進捗状況を時々知らせてくれるのである。


 ソニアも学院時代に少し習っただけの魔獣に関する書物を片っ端から読んで遠征に備えていた。




 そしてあと二週間あまりで出発が迫ってきたある日、ソニアは自室で暦を見ながら一人呟いていた。


「二週間も留守にするのだから出発前はなるべくルイと過ごす時間を取りたいわ。ベンに相談してみなくてはね……来週くらいからずっと……」


 指を折って日数を数えていた彼女の手が止まった。その週はソニアの月のものがあるので、ベンの当番だったがそれも今晩で終わりである。


「そう言えば私、月のものがまだ来ていないわ、一週間近くも……もしかして……」


 ソニアは動悸がしてきて長椅子によろよろと座り込んだ。いつも定期的なそれが数日だけでなく一週間も遅れているということは、妊娠の可能性がとても大きい。


「だって今月末にはもう南部に行くのに……」


 新米魔術師のソニアにとって経験を積むとても大切な機会をむざむざ手放したくはなかった。妊娠は決定したわけではないから、その可能性に気付かなかったことにして遠征に行くことも考えた。


「そんなこと、出来ないわ」


 ポワリエ侯爵家の跡継ぎを身籠っているかもしれないのに、馬車で丸一日かかる南部への旅など危険である。それに向こうに着いた後は二週間もの間、毎日テリオーの屋敷から国境付近の森へ調査に出掛けるのである。


 跡継ぎの男子であろうが、女の子であろうがソニアの愛する男性との子供である。


「絶対に出来ないわよ、ソニア……」




***ひとこと***

前作の「愛は囁かずとも……」でのメインイベント、魔術師二人のテリオー領への遠征です。さて、ソニアさんの体調が気になるところですね。

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