第二十五話 署名された契約書


 ティエリーは契約書に署名する約束の日、モルターニュ家に何とカトリーヌも連れて来た。客間に通されるなり、彼は弁解がましく言った。


「折角の休みにデートを潰して来ているのですから、もう貴方達の事情を知っているカトリーヌも同席させてよろしいですよね。それに彼女から貴方達に頼みたいこともあるそうですし」


「問題ないよ」


「カトリーヌ、貴女も来て下さって嬉しいわ。こちらが私の婚約者のベンジャミン・モルターニュさんと執事のルイ・ロベルジュさんです」


「お二人にお目にかかれて光栄です」


「年末頃には、と言っていたのに遅くなって申し訳ありません」


「君の事情も分かるし。だって栄転やら婚約やら一度に重なったからだよね。宰相室勤務、おめでとう。慣れるまでは大変だろう?」


「ありがとうございます。仕事は非常にやり甲斐のある部署です」


「忙しいのに俺達の書類も書き上げてくれて、流石ティエリーは副宰相に見込まれているだけのことはある」


「おだててもこれ以上何も出ませんよ」


 ティエリーの表情は固いままである。


「いやいや、出してくれなくてもいいってば。書類を仕上げてくれただけで十分だよ」


 ベンジャミンはわざと空気を読めないふりをしておどけているのがソニアには分かった。




 ティエリーが持ってきた書類を出し、三人で確認した後、必要な個所に署名をした。


「今回は予想できる限り起こり得る事態を予測して契約書を書いてもらったけれど、今後もまた色々変更があるようだったら君とカトリーヌさんにお願いするよ。何か追記したくなると、その都度契約書き直しっていうのは?」


「そうね、その時はまたよろしくお願いいたしますわ、ガニョンさん」


「はい? これからも貴方達三人に付きまとわれるのですか? 全く、問題が起こる度に書き直しさせられていたら結婚のご祝儀にしては無茶苦茶高くつくじゃないですか」


「ティエリー、それはいくらなんでも失礼ですわ。私はソニアが少し変わった形だけれど愛する人を見つけたことが嬉しいのです。それに私たちの大事な親友同士の結婚ですよ」


「うん、そうだねカトリーヌ……でも、俺の方は親友じゃねぇし……」


 そこでティエリーが隣に座るカトリーヌの手を握り、彼の表情と雰囲気がガラッと変わったのにソニアは吹き出しそうになった。そっとルイの方を見ると彼も同じことを考えているらしい。


「私は仕事があるので失礼致します。皆様はごゆっくりどうぞ」


 ルイはそこで立ち上がって礼をした。


「私の魔法の笛の作製に協力して下さったのはモルターニュさんなのですよね。お陰さまで今のところ使うこともありません。けれどこの笛をいつも肌身離さず持っていると、心が落ち着くのです」


 ソニアはそこでティエリーとベンジャミンの顔を見比べ、笑いを堪えるのに必死だった。客間を出て行こうとしているルイまで振り返っている。苦々しい顔のティエリーに向かいのベンジャミンは意味ありげな笑みを浮かべている。


 吹き出しそうで腹筋が苦しくなっていたソニアはさっさと退室したルイの背中を恨めしげに見つめた。


「お役に立てて何よりですよ、カトリーヌさん。ティエリーがあまりにも必死に頼むものですから……俺も彼の貴女に対する愛に感銘を受けたのです」


 ティエリーとソニアは二人して、これ以上余計な事を言うなとベンジャミンに目線で訴えた。あの魔笛作製のためにティエリーが払った多大なる精神的苦痛をカトリーヌは知らないに違いない。


「あっ、そうだカトリーヌ、二人にお願いしたい事があるのだろう?」


「ええ、そうでしたわ」


 ティエリーが上手く話題を転換してくれて、ソニアはこっそり安堵のため息をついた。


「ソニアとモルターニュさんに私たちの結婚式で付添人を務めて欲しいのです。日程は私たちの方が先ですから問題ありませんよね」


「えっ? 私が貴女の付添人を?」


「ええそうよ、ソニア」


「でもカトリーヌ、貴女も知っているように、私もう生娘ではないのに……」


「ブハッ……ゴホゴホッ」


 ティエリーは飲んでいたコーヒーに盛大にむせ、ベンジャミンは顔に手を当てて呆れ笑いをしている。結婚式で新郎新婦の付添人は未婚の男女が務めるのが習わしなのだ。


「まあティエリー、大丈夫ですか? ソニアもそこまではっきり言うことないじゃない……」


「驚くことでもありませんわよ、ガニョンさん。貴族社会では数年前に私が婚約破棄をされた時、そんな噂で持ちきりでしたもの。私、貴方たちの結婚に水を差したくないわ」


「だって、ソニア。私はそんなことは気にしないもの。付添人の大役は本当に祝って欲しい貴女にして欲しいのよ」


「ガニョンさんはそれでよろしいのですか? 私とベンが付添人で」


「もちろん。式の準備で他に何も我儘を言わないカトリーヌが付添人だけは譲れないと言うのですから。彼女は自分の花嫁衣装にさえ特に注文をつけないのにですよ。それに、私にとって重要なのは花嫁がカトリーヌということだけです」


「貴女には私が王都の貴族学院に編入して来た時からずっとお世話になりっぱなしですもの。付添人は貴女以外に考えられないわ」


 学生時代は確かに下宿先で身の危険にさらされていたカトリーヌをソニアは何度も屋敷に匿っていたのは確かである。


「ティエリーも俺達でいいって言うなら引き受けるしかないねぇ」


「そうですわね。身に余る大役、謹んで務めさせていただきます」


「ソニア、俺達の付添人はどうする?」


「男性は是非ともルイにして欲しいのですけれど……残念ながらそれは無理よね」


「じゃあ適当に職場で選ぶかな?」


「魔術院で独身の男性はあとナタニエルさましかいらっしゃらないわ」


「そう言われてみればそうだった。今ナタニエルは彼女も婚約者も居ないらしいから……相方の女性選びが問題だね。本人からは面倒臭いって即断られそうだ」


 結婚式の付添人は婚約済みの男女や恋人同士の二人が務めることが多いのである。そうでなければ両家や新郎新婦が次に結ばれてて欲しい男女を任命することもある。


「うちの兄と恋人にお願いしてみようかしら」


「それは名案だね」




 カトリーヌとティエリーの帰り際、昼食を一緒にとらないかと誘ったベンジャミンだったがティエリーに断られる。


「なんか冷たいよね、ティエリー」


「ですから、私は役目をもう果たしましたよね。折角の休みがもう半日しか残っていないのですよ。カトリーヌとゆっくりしたいに決まっています」


「ティエリーったら、またそんな失礼を!」


 彼は真っ赤になったカトリーヌにたしなめられていた。


「だって、カトリーヌだって早く二人きりになりたいだろう?」


「え、それは、その……ハイ……」


「ちょっと、甘々過ぎて胸焼けがするからさっさと帰っていいよ!」


「もちろんです、失礼します。甲乙丙さんたち! あっ、丙さんはここには居ませんけれど!」


 ティエリーがカトリーヌの腰を抱いてさっさと馬車に乗り込むのを見送りながら、ソニアとベンジャミンは笑いが止まらなかった。




***ひとこと***

ティエリーさんはなんだかんだ言って一生この三人と縁が切れないようです。

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