第十六話 親不孝娘の葛藤


 ソニアは帰宅するベンジャミンを医療塔の出口まで見送ることにした。彼には言いたいことが山のようにある。


「モルターニュさん、今日はありがとうございました。けれど……何が御母上よ、口先だけ男!」


「聞き捨てならないね。言葉だけでなく行動でも示しているよ」


「え、ええそうね。それには本当に感謝しています」


 ベンジャミンは完全に面白がっているように見えなくもない。


「先程も御母上に言ったように、ベンと呼んでよ。もうすぐ婚約者になるのだから」


「……モルターニュさん」


「結構強情だね、君も」


「お見舞いに来て下さってありがとうございました。母があんな笑顔を見せたのは久しぶりだわ」


「君もあまり無理をしないようにね。御母上には今君しかいないのだろう?」


「はい」


「俺も明日からまた仕事に戻ろうかなぁ」


「予定より随分早いお帰りだったのですね」


「ルイからお母様の入院の知らせが来てね、用事も早く済んだから急いで帰ってきた。君とルイが留守中にもっと親しくなることを勧めておきながら、本音を言うと気になってしょうがなかったということもある」


「ルイとは一度会って話をしただけですわ。再び会おうと言われたその日に母が倒れたものですから」


「うん。ルイに聞いたよ。大変だったね。ルイも身分のせいで王宮には入れないし、心配しているよ」


 これからルイのもとに帰るベンジャミンを前に胸がチクりと痛んだソニアだった。彼らも久しぶりにお互いに会えるのだ。なのにベンジャミンは先にソニアの母を見舞いに来てくれた。申し訳ない気でいっぱいだった。


「ルイに、よろしくお伝え下さい」


「うん、お休み。また明日ね」




 ソニアは母親の病室に戻って驚いた。母親が立ち上がってドレスや寝間着を畳んで鞄に詰めているのである。


「お母さま、何をなさっているのですか? 休んで下さい」


「何だか早く家に帰りたくなったのよ。モルターニュさん、とても素敵なお方ね。お優しそうで、貴女の見た目だけでなくて仕事に対する姿勢が好きだ、なんて……貴女自身を見てくれる人も居るのねぇ」


「私自身、というか……」


 訳ありのソニアなら偽装結婚でも承知してくれるだろうと目をつけられただけなのであるが、ベンジャミンが母親にここまで言うとは思ってもいなかった。


「私も寝込んでいる場合ではないわね」


 あんなに塞ぎ込んでいた母親がいきなり元気になったのにはソニアも驚いていた。顔色もいくばくか良くなったようである。


「お母さま……」


「ソニア、逆境に負けずにここまで頑張ってきた甲斐があったわね」




 次の日にはもうベンジャミンは休暇を早めに切り上げて出勤してきたようだった。しかし午前中に二人は顔を合わせることはなかった。昼休みにソニアは医療塔の母親のところへ行き顔を出す。


 彼女の病室には立派な花が活けられていた。それに見事な果物かごまでがあった。


「ソニア、モルターニュさんが先程こんな綺麗な花を持ってきて下さったのよ。果物もそう。今の季節どちらも高価で貴重なものなのにね。この部屋も明るくなったでしょう?」


 部屋よりも何よりも、母親の笑顔が昨日よりももっと明るく輝いていた。母親から懐柔しようというモルターニュの作戦は見事に成功しつつあるのだが、ソニアは苦々しい思いよりも純粋に母親が元気になったことを喜ぶ気持ちになれた。


「モルターニュさんはもう帰られたのね。入れ違いになってしまったわ」


「ねえ、ソニア。彼の何が駄目なの? 今日だってね、貴女に対しては焦る気持ちが抑えられないけれど、私がこんな状態の時だから気長に待ちますよとまでおっしゃったのよ」


「私、やはり以前のことがあるから慎重になっているのです」


 母親に本当のことが言えるわけがない。


「モルターニュさんはおいくつなの? あまり待たせたら気の毒よ」


「私より八つか九つ上だったと思います」


「今までもっと良い縁談もあったでしょうにねぇ」


「結婚したい女性に巡り合えなかったとおっしゃっていましたわ」


 ベンジャミンにとって女性は恋愛の対象にはならないのだから嘘ではない。


「まあ、そうだったの。とにかく私は早く家に帰りたくなったわ」


「お母さまが元気になって私はそれが嬉しいのです。お父さまがお帰りになったらきっと驚かれますわね」


 母親に笑顔が戻ってきたことについてはベンジャミンに感謝してもしきれない。


「心配かけたわね、ソニア」




 考え事をしながら医療塔を出たソニアだった。彼とルイの申し出を受けるにしても断るにしても、こうなったらなるべく早くベンジャミンと話をする必要があるように思えた。しかし、彼らのことだからソニアが首を縦に振るまで諦めてくれそうにもない。


 その日の夜遅く、父親がガドゥリー領から戻ってきた。ソニアの兄はやはり領地に残らざるを得なかったらしい。そして翌日、王宮医師から退院の許可も出たので、ソニアは午後早退して母親の帰宅に付き添うことにした。


 ベンジャミンの執務室に寄り、母の退院を報告すると何と彼もついてくると言う。


「俺も行くよ、荷物持ちくらいは出来るだろう?」


「いえ、そんなとんでもないですわ」


「まあ、御父上もお帰りだったら家族水入らずのところにお邪魔するわけにもいかないね」


「そうではないのです。私の家族のためにモルターニュさんが仕事をお休みされる必要はありませんから。それに今までも十分に良くして頂きましたわ。花束と果物もありがとうございました」


「ああ、あれはルイの提案で、俺達二人から。君とはこれから婚約して結婚するのだったら君の家族は俺の家族同然だろう?」


 強引すぎるとも思ったが、ソニアはベンジャミンのその言葉には感銘を受けていた。元婚約者とは長いこと正式に婚約していたというのに、彼がソニアの家族のことをここまで気に掛けてくれたことなど一度もなかったのである。


「母は貴方の顔を見る度に元気になっていくようで……私は実の娘なのに……緊急入院してからずっと気弱になっていたというのに。何だか複雑な気持ちです」


「君はそんなところ、素直だよね」


「貴方は良き夫になりそうね」


 思わず言い過ぎてしまったが、一度口に出してしまったものは取り消せない。


「そう言っていただけて光栄ですよ、ソニア・ガドゥリー嬢」


「……今回の母の入院で改めて思い知りました。貴方はほんの些細なことにも気付いて細やかな心遣いが出来る方ですよね。ちょっと意外です」


「ははは、一言余計じゃない? けれど君自身でなく、御母上から攻略していこうと、そういう下心は全然なかったと言えば嘘になるけれどね」


「将を射んと欲すればなんとかという貴方の策略は見事功を奏していますわよ」


 ソニアだって婚約破棄されたことで親不孝をしたという後ろめたい思いがある。特に母親には自分の将来のことで心配をさせたくなかった。そのためにはソニアが幸せな結婚をすることが一番なのかもしれない。




***ひとこと***

強引なベンジャミンですが、本当にソニアの家族のことを思っているようです。ソニアも少しほだされてきました。

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