8

空に浮かぶ大きな満月は雲に抱かれ、小さな星々の煌めきの中でナターシャを照らしていた。

静かで何も音を発しない中空から注ぐ光だけが世界色付け、時間を忘れそうな景色だった。


これで手入れされた中庭なら最高だっただろうに。

そんな時だった。状況が一変したのは。


「きゃっ!!」


ソフィーが小さく悲鳴をあげて、ベッドから飛び起きた。


「どうしたの?」

「分からない、んですが、なんか変な感じがして……」


床にペタリと膝をついて座り込んだ彼女は、何を見たのか、それとも感じたのか。怯えたように自分自身を腕で抱いてしどろもどろな言葉を繰り返す。

なにか異変があったのは確か。

だが、辺りを見渡すナターシャにはその原因らしきものが見つけられない。


こういう時に、あの温度の視界を持つアレンの目が羨ましいと思う。目に見えないものすら見えてしまうのだから、こんな時には1発だろう。まあ、戦闘には何の役にもたたないが。


窓の外を見やるもやはり異変はなく、ナターシャは少し考えた末に、


「……寝ぼけたの?」

「……なんでしょうか」


困惑したように首を傾げる彼女が一番不思議がっているようだった。

だが、そんな彼女の元に視線を落とした瞬間、ぞわりと背筋に冷たいものが走った。

沈んでいる……。


「ソフィー、下!」


そして、真っ黒い何かがが彼女を中心にして広がっている。


「えっ、なに!これ!!」


床に倒れていた彼女の足元には、光を通さない程の黒く暗い水面が広がっていたのだ。それにソフィーは膝の半分を吸い込まれていた。床にめり込むような見た目だが、恐らく正体は影……


サリエル…、とうとう攫いに来たのか。

底なし沼の様な影に彼女を沈めていくつもりのようだ。


「な、ナターシャさん…!!これ!」


慌てて立ち上がろうとしたソフィーだったが、どうやら影に食われた足が抜けられないらしい。

引っ張ってやらないと。


不安げな彼女に頷き駆け寄ろうとしたその時、身体に違和感を覚えた。足が動かない。

蝋でも流さたかのように固まって、全く言う事をきかないのだ。


冷や汗が伝う。いつの間にかナターシャの両脚には、自分の影から這い出た黒い影が二匹の蛇のようにパンツスーツの足を登り巻きついていたのだ。

影に拘束されている…!掴み外そうとしても、自分の脚しか触れない。締め付けられている感触はあるのに、この影を掴むことすらできないのだ。


「っなんだってのよ!」

「な、ナターシャさん…」


泣きそうな声に、ギリと奥歯を噛み締めた。

この間にもソフィーは沈んでいるのだ。ズブズブと、とうとう腰まで影に浸かっている。


「ああ、くそっ!」


このままでは…

怒りに任せて力ずくで踏み出そうとした耳にはとうとう、ギシと骨が嫌な音を立てて軋んだのが聞こえた。

だがナターシャは力を緩めない。

骨折なんて、魔薬の効力で人の何倍も早く治るのだ。今躊躇してなんになる!


だがそれは、不意にだった。突然に拘束する力が消えたのだ。お陰で力が有り余り、ナターシャは前のめりに倒れ込む。


「痛……」


ムクリと起き上がり自分の足を振り返ると、脚に巻きついていた影が嘘のようにすっかり消えていたのだ。

何故…?だが幸運だった。ソフィーの元に駆けつけ腰まで埋まっていた彼女を引き上げると、いとも簡単に救出出来てしまった。


「ありがとうございます…ああ本当に、ありがとうございます」


勢い余ってナターシャに抱きつくソフィーは心の底から安堵しているようだったが、ナターシャには違和感しか感じられない。


まるで犯行を諦めたかのように、急に影の力が一斉に消えたのは、気味が悪かった。

あとの少しだったのに、止めた理由はなんだ。


口が裂けても言えないが、ナターシャは既にソフィーを助けられない事を覚悟をしていたというのに…。


再びシンと静まり返った部屋は、嫌に不気味だった。

窓から見上げた夜空は何事もなかったように満月が支配している。が、空を泳ぐ雲が満月を隠していた。


なるほど…、だから月光の影、か。

ならこれは一時的。いつまた現れるか分かったもんじゃない。


「ソフィー、走れるわね」

「え、ええ」


ふらふらと腰を上げたソフィーに堪らず、手を掴んで引っ張り駆け出した。

使用人部屋を出て、来た道を戻る。

廊下の窓から見える月は、ゆっくりと、だが確実に顔を出し始めている。



「あの、どちらに……?」


後ろでつんのめりそうになりながら走るソフィーが聞いてくる。


「応接間よ。あそこにはカーテンもあるし、ランプもあったわね?」

「ええ、ありますけれど……」


何故?と問うてくる彼女を無視してひた走り、応接間に彼女を入れた。

中庭に続く出窓一体はカーテンで遮断され、月の光は入ってきていない。

真っ暗でナターシャが侵入した時と同じ状態である。


後はソフィーに人工蝋燭のランプを片っ端から付けさせる。辺りが光で満ちた所で、それを持っているよう指示を出した。


「あの、ここでなにを……」

「何もしなくていい」


そのランプに囲まれたソフィーは、不思議そうに首を傾げた。どうやら使用人の性なのか、1人で夜中に応接間に来る事にも、勝手に意味もなくランプを全てつける事にも、全てに抵抗があるようで。落ち着かない様子だった。


「アンタはそこにいて。絶対にこの部屋から出ないで。いい?分かったわね。アンタを誘拐しようとしてるのは影よ。さっき見たでしょ?」

「影…という事はライラが…!」

「違う、違うわ、人よ。人間がやってるの。分かったらそこにいて、この部屋なら安全だから。月の光もないし、アンタの周りの影は人工蝋燭の影だから大丈夫よ」


服用者への誤解は未だに多い。

悪魔に唆されたと思われていれば、神の奇跡と言われている時もある。

今回なら怨霊の呪い、か。


そうすると厄介である。天災と同じく、非現実的な力が起こした顛末を人は、怯えながら時に敬意を示しながら納得し受け入れてしまうのだから。

全て人による故意的な犯罪だというのに。


これは報告書に書くのを止めよう。書いたら学校で子どもたちの前で魔薬防犯教室だとかをまたさせられる……。

とまで考えてナターシャは首を振る。


そしてランプを1つ手に取って、応接間のドアを開ける。再び月明かりが照らす廊下に足を踏み出した。


「な、ナターシャさんは、あの、どちらへ……?」


後ろでソフィーが不安そうに聞いてくる。


「執事の方を見てくるのよ。アンタに手が出せないなら次は彼が狙われてるかも」

「そんな、アダムさんまで危ないんですか!?」

「分からないわ。部下に護衛はさせてはいるけど一応よ」


だからアンタはここから出ないでね、と再度釘を指して、ナターシャは後ろのドアを閉めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マトリックズ:ルピシエ市警察署所属 魔薬取締班 衣更月 浅葱 @winered

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ