手紙

たいらやすし

第1話

「誘惑の多い町ね」

 はじめてこの町を訪れた母は咎めるようにそう言った。

 わたしがこの町に住む事になったのは、そもそもが母の意向だったのに。

 春から通う大学からなるべく近い所。

 母はそれだけを基準にこの町を選んだ。

 そこにわたしの希望は含まれない。

 なのにまるでわたしが全部悪いみたいな言い方をするのだから、つくづくこの人とは反りが合わないのだと苦い思いをした。


 大学は駅の東側、いわゆる歓楽街を抜けた辺りにあった。

 わたしが住む事になるマンションは大学から十五分程、大きな川の近くだった。

 川沿いには真新しいマンションが建ち並んでいたが、わたしの住むマンションはありきたりな冴えない外観。

エレベーターはなく三階の部屋までは湿ったコンクリートの階段をあがらなければならなかった。


 錆びた鉄の匂いがする赤茶色のドアを管理人から貰った鍵で開けると、西日に洗われた室内には母が選んだ家具がすでに据付けられていたのも辛かった。

 テレビ、冷蔵庫、洗濯機、ベッドに机。

 それにカラーボックスが幾つか。

 これから始まる大学生活が一挙につまらないものに思えてつい溜息が出てしまう。

 「いいの。最初はこのくらいで。暮すってね、あなたが考えているよりずっと大変なのよ」

 言われてわたしは、曖昧に頷く事しかできなかった。

 母には何を言っても無駄なのだ。

 諦める事で丸く収めて、付き合っていくしかないのがこの人なのだ。



 母は自分が学んだ大学に私を入れたがった。

 でも無理だった。浪人も考えたが滑り止めで受けた大学に何とか引っ掛かり、私は進学を希望した。

 最初は渋っていた母だったが、父の口添えもあり折れてくれた。

 しかしその事は彼女の自尊心をいたく傷つけたようで、それから暫くの間、母はわたしを見ようともしなかった。


 だからわたしは文句も言わず全てを母に任せた。

 進学というわたしの希望を叶えてもらうかわりに、その他すべてを母に捧げた。

 そんなわたしが唯一したささやかな抵抗と言えば、母がこれまで買い与えてくれた本や衣類を、引っ越しを口実に全部捨てることくらい。

 激怒すると思っていた母はでも、黙ってそれを見ているだけだった。



 親元を離れて数ヶ月。

 夏の終わりにわたしは恋をした。

 誘惑が多い、と母が腐したこの町で。自分が選んだ服と下着を身につけて。

 母が買い与えてくれなかった化粧品と少しのアクセサリーで着飾って。

 わたしはひとりの男の子と恋に落ちたのだ。


 その頃、母からは頻繁に手紙がきていた。

 几帳面な字で書かれた宛名を見るたびうんざりしてしまい、読みもしないまま束ねられた手紙は、だけど捨てるのも忍びなく母が選んだカラーボックスの片隅に捻じ込まれていた。


 彼とはじめて体を合わせたのは、駅前のレンタルルームだった。

 わたしの部屋でしたがった彼に、でもあの部屋は見せられないと思った。

 母に支配されているわたしが具現化したようなあの地味な部屋を見られるのは、とてもじゃないが耐えられなかった。

 いつか彼を堂々と呼べる、そんな部屋に模様替えしよう。

 あの病院みたいなカーテンも地味な家具も全部捨てて。

 そうして雑誌に載っているみたいな可愛い部屋を作る。

 そこで彼と暮せたら、きっとわたしは最高に幸せだろう。

 カプセルホテル以上ラブホテル未満のレンタルルームの固いベッドで、彼の寝顔を見ながら思い描いた明るい未来が、まさかこんな事になるだなんて、あの時は考えもしなかった。



 脱脂綿をたっぷりのアルコールで湿らせ、突き出された尻の穴を念入りに拭く。

 さっきから鼻につくのは足の臭いだ。

 こっちも消毒してやりたいのだが、変な勘違いをされると困るので我慢する。

 股の間から手を入れ生暖かい睾丸を柔らかく揉みながら性器を愛撫する。

 全てはマニュアル通り。

 時間をかけ丁寧に前戯をするのは、料金内の時間をなるべく消費する為でしかない。

 お湯で解いたローションを突き出された尻に流しかけ、素性も知らない男の肛門に指を沈める。


 わたしが恋した男の子は風俗に勤めるスカウトだった。

 お水関係とは聞いていたが、それが性風俗に繋がるとは思ってもみなかった。

 馬鹿なわたしは彼の為にと働き始め、ついには大学も辞めてしまった。

 退学と同時に実家からの仕送りもなくなり、母が選んだあの地味で退屈なマンションは引き払い、今は店の寮で暮している。

 退去する際、母が選んだ家具はひとつ残らず処分した。

 寮の部屋には備え付けの家具があったからだが、本当はこんな状況で母が選んだ物に囲まれて暮すのが後ろめたくもあったのだ。

 読みもしていない手紙の束だけはでも捨てられなかった。


 店でのプレイの最中、わたしはたまにその手紙の事を思い出した。

 あれには何が書かれているのだろう。

 神経質で支配的な母から逃れてわたしは、いったい何を手に入れたのか。

 母の支配から逃れ、わたしは彼に支配される生き方を選んだ。

 選んだ?

 ほんとうにそうなの?

 決められた手順をこなしながら、どうしてこんな事を考えるのか分からない。

 考えたからといって手紙を実際に読む事もないのに。

 

 手紙の事を思い出す回数が増えてきた頃、わたしは彼と別れる決心をした。

 クリスマスを目前に控えた師走の夜。

 店にも出ず部屋でグズグズしていたわたしを迎えにきた彼に、店を辞めたい、別れたいと告げた。

 そんなわたしを彼が殴り、いつもだったら泣いて縋って元通りなのだが、この時ばかりは違っていた。

 何度殴られても蹴られても涙はひと粒だって出てこない。

 プレイの最中と同じだと思った。

 何も考えない。決められた時間が過ぎるのをただ待つだけ。

 口の中が切れて血の味がしたけれど、アルコールとローションの味よりずっといい。

 掴まれた髪が痛かったが、心はちっとも痛まない。

 早く、一秒でも早くこの時間が終る事だけを考えた。


 寮の部屋の片付けは簡単だった。

 貰ってきた使い回しのダンボールに全部を詰めて、あとは捨ててもらうだけでいいのだから。

 化粧品も、店で着ていた派手な下着も彼から貰った安っぽいアクセサリーも全部。

 ひとつだって惜しくない。

 今日までの自分は、何ひとついらない。

 でもやっぱり、手紙だけは捨てられなかった。

 蓋を閉じてガムテープで封をして、わたしは煙草に火をつける。

 灰皿も箱詰めしてしまったから床に吸殻を押し付け外を見れば、もう夜明けが近い。

 わたしは母の手紙の束だけ持って部屋を後にする。

 数多ある飲食店の生ゴミ、酔客の吐しゃ物、その他諸々が入り混じり鼻につく。

 享楽の残骸が気だるい雰囲気となり漂っている臭い。

 あてなどなかった。

 乾燥機を回しながら泣いたコインランドリーを横目に大通りに出ると冷たい風が強く吹いていた。

 「誘惑の多い町ね」

 いつかの母の口調を真似て、それから少し笑った。

 殴られた傷が痛んだが、それすらもやけにおかしくて笑い続けた。

 もうすぐ始発の時間だ。

 


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手紙 たいらやすし @yukusaki

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